2007年8月28日火曜日

commonsense

常識というのは、ある特定のグループ内でしか通用しません。しかも、そのグループは同じ価値観を持っていないと、常識は成立しないのです。別の言い方をすると、一定のグループ内で共通に認識される知識が常識と呼べる物になります。
糖尿病を研究している人々の中では、DMといえば糖尿病。膠原病を勉強しているとDMは皮膚筋炎という病気になります。でも、街を歩いている一般の人々の中ではDMといえばダイレクト・メールとなります。IT企業ではデジタル・メディアかもしれません。駄目なモーむすでもOK。
さらに、やっかいなことは、常識は時代の変化につれて変わってしまうということ。日本の戦前と戦後のような大転換は珍しいかもしれませんが、普通は徐々に変わって行き、そのまっただなかにいる人は、常識が変わったことに気が付いていないかもしれません。外から見ていたヒト、あるいは時間が止まっていたヒトは非常識としていわれてしまうのです。
「今時の若者は・・・」というセリフは年寄りの決めゼリフの定番ですが、そう言うヒトも昔は、その前の世代に同じ事を言われていたはず。個々の時間の経過で常識が変わっていったことを、自ら証明しているのかもしれません。
医者と患者、経営者と労働者、国民と政治家のように立場が違うと、当然常識は違います。昔は強い側の理論が正当化され、弱い側はグループが違うのに強者の価値観を押し付けられていました。しかし、現代では多数の理論が優先され、ほとんどの場合多数を占める弱者が勝者になりつつあるようです。どちらがいいとか悪いとか決めることは難しい。悪は滅び、善が残るとは限りません。しかし、強者だけ、あるいは弱者だけでは社会は成立しないので、必ず両方のグループが共存することが必須になる。
異なるグループでは、当然異なる常識を持ちます。お互いに常識を共有する努力が、共存のためには必要です。どちらかから一方的に努力した場合は、妥協であり、また時には無視であるかもしれません。そこにはグループ間の優位性が依然として存在し続けます。平等という言葉は美しいですが、違うグループを同等に扱うだけでは公平性は獲得できません。両者が互いの価値観の違いを認め、常識を共有し尊重する、その上でお互いの差を認めて初めて公平であり、本当の平等になるのではないかと思います。

なんか、難しい話になりましたが、今日はちよっと考えさせられることがいくつかありまして、あえて「今日は高級すき焼き」の話は明日に順延します。自分の考えは、特にすごい結論があるわけではありません。当然ある一定のグループの価値観の話ですから、いろいろ批判もうけるかと思います。たまには、ちょっとまじめに議論してみるのもいいてすよね。