2008年1月27日日曜日

つきを呼ぶ医者

自分が医者になったばかりの時には、卒業した大学の夜間の救急は小さな夜間専用外来があって、入院が必要なときには各科の病棟に入院することになっていました。救急専門の医者はいないので、看護士さんが何となく当直を呼んでいたんですかね。

2年目のときに、全国でも早い救命救急センターが完成し、救急専任の医者とローテーションで回る研修医が配属されるようになりました。守備範囲は神奈川県西半分全部と伊豆半島の東側までを含む広い範囲で、当初より絶対に救急車を断らないことが徹底していたのです。おかげで、すさまじい野戦病院状態となりましたが、医者は育ちました。自分で判断できることは、さっさと決めて行動に移さないと、どんどん仕事がたまってしまいます。

自分は2年目の最後のローテーションで救命センターに行きました。整形外科以外に、一般外科、放射線科、麻酔科などをやりましたのでけっこう実働できたと思います。この時に直接胸の中に手を突っ込んで、心臓を直接マッサージするなんてことも経験しました。ローテーションが終了して3年目からは希望していた各科の専属となりますが、当然整形外科は外傷のからみで救急とは縁が切れるはずもなく、ほぼ毎日のように救命救急センターに日参していました。

基本的には1カ所しか骨折が無いようなヒトは運ばれてきません。頭やお腹のケガは当たり前。「今日は細かいのもいれると34カ所骨折していた」とか、「珍しく3カ所しか骨折してなかったよ」という会話が普通にかわされます。そうなると、全部をこなしている余裕はありません。開腹手術が始まる横で、邪魔にならないようにさっさと後からでも何とかできるような程度に処置をします。骨折のけがの治療の方が後々まで時間がかかるのは当然なので、初期の応急処置をちゃんとしておかないと困るのは自分です。

救急のスタッフからは「整形に入らず救急にはいったんか?」と言われ、脳外科の先輩には「また、お前か!」とあきれられ、外科の先生からも「君が当直だとろくなことがない」というありさまでした。4年目と5年目は外の病院にいましたが、6年目に大学に戻ってくると、またもや同じ状況で、ピーポーピーポーという救急車の音はセーケーセーケーとまじ聞こえるわけです。さすがにリウマチセンターに移ってからは救急は基本的にないわけです。15年間救急車が当たり前の生活をしてきたので、最初は落ち着かない気分でした。

そして開業して、当然救急とは縁を切ったようなつもりでしたが、医師会の関係で救急関係の仕事が入ります。そして、生活のために当直をするようになると、またしても患者さん急変という場面に遭遇するようになりました。とはいっても、いわゆる「老人病院」での当直なので、救急車はそんなにひどいのは連れてきません。

むしろ、病棟が大変。ご家族と主治医の間で病状の納得ができていて、無理に延命処置をしないケースが多いので、急変時には家族の到着まで何とかするのが一番の仕事になります。しかし、お年寄りはそんな話ができていないうちに急変することはしばしば。こういうときはあせりますよね。心肺蘇生全開モードになるわけですが、こちらも普段を知っているわけではないので、状況把握はほとんど不可能なわけです。家族の方に責められたこともありますが、できるだけするしかありません。

そんなことが重なって、当直に行って病棟に顔を出すと、またあんたかと言われるようになってしまいました。実は、今朝もいきなり心停止で起こされました。救急講習会を成果を見せなければ、というわけではないのですが、幸い心拍再開できたものの、意識が戻らず呼吸が無理なので、ご家族の希望で人工呼吸器をセットすることになりました。

こんなことはそうそう無い病院で、着実にそんな目に遭遇している自分はラッキー or アンラッキー?

(答え:ラッキーだと思っています。おかげで医者としてのカンがにぶらずにすんでいる・・・と思う。たぶん。)

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