2008年3月23日日曜日

昔の研修医

この際だから、あざみ野棒屋先生のように、ブログで自分史をまとめておくのもいいじゃないというわけで、今までにも幼稚園の話、小学校の話など断片的に書いているわけです。今回は医者になってからの話。

自分が卒業したころ(昭和61年)の東海大学医学部は、大学に残ると各科教室に入局する研修医になります。とはいっても、実際の所属は病院であって、研修医は医学部長・病院長の下に年雇いで入っていたらしい。月給は基本給5万円+住宅手当2万5千円-源泉徴収7500円。当直は何回やっても0円。

実質的には、各教室がめんどうを見るわけですが、この間は各医局と自分の希望によって、いろいろな科を3ヶ月単位でローテーションします。整形外科の場合は、救命センター、一般外科、麻酔科は必修、リハビリテーション科と形成外科のどちらかを選択。残りの1年間が、整形外科で、そのうち3ヶ月は本院ではなく大磯病院でした。

自分はリハビリと形成外科はどうせ必要に迫られて勉強するだろうと思い、どうしても内科的なものを勉強したかったので選択できる一枠についてはわがままを言わせてもらいました。内科は呼吸器、循環器など種類が細かく分かれていたので、診断学全体を勉強するならと思い放射線科にしました。

これは今でも大正解と思っています。胸部レントゲン、腹部レントゲン、いろいろな造影検査など体中多岐にわたって見ることができましたし、なにしろ上部消化管(食道~胃~十二指腸)や下部消化管(直腸~大腸)の造影検査なんて整形外科医でやったことあるヒトなんてそうはいません。とはいえ、そういう技術そのものは現在必要ではありませんが、整形外科に絶対必要なレントゲンの基礎的な知識や扱い方についてはおおいに勉強になったわけです。

医師免許をもらって最初の半年は本院整形外科で、のんびり修行。11月から大磯病院整形外科、そして2月から放射線科。ちなみに4月から2年目になって基本給が7万5千円になりました。5月は外科で、続いて麻酔科という流れは絶妙でしたね。診断学を勉強して、実践する。さらに手術に必要な麻酔の勉強ということで、知識がどんどん上乗せされていけるように順番を組んでくれた当時の医局長に感謝です。

11月と12月は久しぶりに整形外科に戻りました。そして2年間の前期研修医の最後が救命センター。ローテーションの最後になるのでそうとう「使える」研修医だったと思います。内科系の研修医と外科系の研修医はどこで見分けるか? 血だらけのヒトが運ばれてきた時は一歩前に出る、そして意識の無いヒトが運ばれてきた時は一歩下がるのが外科系です。内科系は逆。

4月になると、今度は後期研修医3年間のスタートです。基本給は、やっと人並みの14万円。そして当直料が1回5千円つくようになります(でも2万円くらいが限度だったように思います)。ここからは、ずーっと整形外科の医局にいて、いわゆる医局人事に従って動きます。自分はそのまま本院にいたので、事実上そのまま救命センター所属のような状態でした。

4年目は静岡に出向して扱いは地方公務員。救急を含む一般整形外科にどっぷり浸かっていました。5年目は箱根の病院で国家公務員。ここは脊髄損傷患者さんのリハビリテーション目的の病院で、慢性期の管理が中心。手術も褥瘡(とこずれ)ばかりでしたが、ここで選択しなかったリハビリテーションと形成外科的な勉強がたっぷりできました。これで後期研修医も終了となり、ついに試験を受けて東海大学の正式社員になります。

つまりここまではパート職員と一緒だったわけです。一度退職願を出した覚えがあります。まぁ、修行時代ですから、文句もいわずに安月給でがんばったもんだと思いますが、結局自分の医者としての下地をここまでに作られたわけですから、ある意味めぐまれた5年間だったと思いますね。