2008年4月6日日曜日

大学助手生活 1回目

さてさて、3月の後半で昔話のシリーズとして自分の研修医時代(80年代)を振り返りましたが、その後はどうなったの? という質問はどこからもきません。来ませんが、勝手に話を進めることにします。

5年間の研修医が終わると、いったん退職し改めて助手採用試験を受けます。助手というのは大学の教職員の最低ランクの役職ですが、正職員であることがパート労働者の研修医とは根本的に違います。各教室の教授の直接の配下に入るところも、病院長の配下であった研修医とは違うところです。

まぁ、あまり形式はどうでもいいのですが、医学部というところと他の学部との大きな違いを説明しましょう。医学部には通常付属病院があって、ここでの診療を通して直接収益が出るのです。一般的には利益が出るお店を持っている学部・教室というのはありません。つまり。普通は大学の教室は研究と教育という二つの柱があるわけですが、医学部職員の場合はさらに診療という、ある意味もっと大きな柱が加わるのです。

基本的には診療が時間を制約する一番大きなポイントで、通常の勤務時間は診療だけでほとんど占められ、研究はそれ以外の時間を使うしかありません。教育は、当然診療時間の中から、何とか絞り出したところで行うことになります。

医学の情報量は前後に数百倍になっていると言われていますが、特にその増加のスピードは加速度的に増えているので、一人の人間がすべてをこなしていくことは基本的に無理になっています。専門的な部分で深く追求するか、全体的な部分を浅く広くこなしていくかという二つの選択肢が用意されていくことは必然といえるでしょう。

ちょっと説明が長くなってしまいましたが、当時の東海大の整形外科教授の基本方針は、「何でもこなせる整形外科医」になることでした。これは東海大学医学部の教育の基本方針である「名医より良医を」にも通じるところです。

ですから、助手になって、研修医を数人単位であずかってチームを作り入院してくる患者さんの主治医になっていきました。基本的にはチームの患者数が平均化するように振り分けされていたので、内容はいろいろ。

脊椎(首や腰)や骨盤、肩・肘・手といった上肢、股・膝・足といった下肢、なんでもありです。おかげで手術もなんでもやることができました。三次元的なセンスが要求される整形外科手術では、一度でも中を見たことがあるかないかは大変重要なポイントになります。

とはいっても、やはり大学にいるからにはある程度の専門性というものも無視はできません。たまたま症例が多かったので腫瘍についてだいぶ勉強することが多くなりましたが、それと同時に手の手術をすることが次第に増えてきました。

ただし、教授が専門性より広域性を重視している以上「自分は××が専門です」と表明するわけにはいきません。なんとなく手が多い、というような雰囲気のまま毎日をこなしていたのです。

ごく一般的な生活は、だいたい7時半くらいに病院に到着、病棟に行って自分の担当の患者さんを回診、チームで打ち合わせをしておきます。9時からは外来または病棟全体回診、あるいは手術ということになります。午後はたいてい手術室で過ごすことがほとんどで、週に1回くらいは自分のことをすることができます。夕方からはカンファレンスなどが無いときは回診して終了。当直でなければ7時くらいには帰れます。

他にもいろいろ雑用がありましたけど、標準的にはそんな生活。助手になって2年目に週に1日バイトで行っていた病院から常勤の整形外科医を出して欲しいという依頼があって、助手としての大学生活は2年間でいったん終了することになりました。

さて出向ということで、出向いていった病院とは? 話は次回へ続きます。