2008年4月15日火曜日

さらば母校

大学の助手になって、2年間は大学、次の4年間は外の病院で医長、大学に戻ってまた2年間をすごし、そしてまた外の病院に医長で出向。いつの間にか医者になって13年間が過ぎ、14年目になっていました。がむしゃらに突き進んできたという表現がぴったりでした。

整形外科ですと、やはり外傷が中心になってしまいますので、いわゆるCold Diseaseと呼ばれる「病気」に対する時間が少なかったという思いがありました。

特に大学で腫瘍をやっていると、抗ガン剤としてメソトレキセートという薬を使用するわけで、この人を簡単に死なすことができる劇薬が、リウマチにも効果があるといわれていたため、リウマチに対する興味がだんだんふくらんできたのです。

とはいっても、このころは痛み止めを処方するような感覚で、抗リウマチ薬を処方していました。血液検査も最初にしたっきり、その後は半年くらい平気でした。どうしてもうまくいかなければ、手術すればいいという安易な考えがあったことは否定できません。それは大多数の一般的な整形外科医のリウマチ診療のスタイルだったと思います(もちろん、ちゃんと診療をしていた整形外科医もいたわけですが)。

さて、今度の病院は遠い。すでに横浜市青葉区民となっていたので、東名高速で厚木までいきます。そこから海に向かって、毎日片道50km弱のドライブ。最初に出向した病院の時は、逆に本厚木に住んでいたので、厚木から横浜インターまで毎日東名高速を利用していました。

今回の長距離ドライブはさすがに疲れます。腰が痛くなります。しかも、医長とは言っても病院長が同じ医局の先輩で、いろいろあーしろこーしろとうるさい。特に院長ともなれば、営業一本槍でして、ずいぶんと意に反した入院がありました。まぁ、立場が違いますからしょうがない。

しかし、下に二人いる後輩はなかなかがんばりやが揃っていました。手分けして仕事をこなすことができたので、ずいぶんと仕事ははかどりました。また、ここに何年かいるのかなぁ、と思っていたところが、大学の教授から呼び出し。教授は入局したときの先生は退官していて、数年前からあたらしい教授になっていました。

さて何だろうと思って出かけていくと、「T助教授が今度女子医科大学のリウマチセンターの教授になって転出することになった。ついては、手の外科をするものがいないので、君、いかないかね」という話。リウマチに興味を持っていたところなので、これは願ったり叶ったりの話でした。

さらに「大学を移るのだから、こっちは退職してくれていいよ」という。これには、正直ショックでしたよ。これは、別の言い方をすれば、こっちの大学ではいらないよ、と言われたようなものです。これまで、自分的には随分がんばってきたつもりですし、それなりの貢献もしてきている気になっていたところですから、なかなか落ち込みました。

しかし、やはり前向きに考えることが大切なんだと思い、自分を必要としているところでがんばることが一番いいことだと考えるようにしました。現在の教授、当時の助教授が送別の飲み会で、まさか退職してしまうとは聞いていなかった、退職すると聞いていれば反対したのに、と言ってくれたのは嬉しかったですよね。

まぁ、決めたことは戻れません。新しいボスともいろいろ話をして、とにかく5年間はできるだけお手伝いさせていただき、そしたら開業しようと決心したわけです。そして14年間医者として育ててくれた母校とお別れすることになりました。ちなみに退職金はおおよそ100万円でした。

卒業した大学ですから、学生時代から数えれば20年間お世話になったわけです。学生の時に母が膝が痛いといって受診させたことがありました。研修医の賞をいただいたこともありました。父が倒れて夜中に東名高速で大学病院に運びましたが、数日後に亡くなったのもこの病院でした。同窓会の役員をやったのも、この頃から用務員さんの素質があったのかもしれません。

さぁ、これからは自分のことなど知らない人たちのところで新しい一歩です。そう思うと、何かいろいろと楽しい感じがしてしまうのでした。