2010年1月2日土曜日

正月の思い出

自分の場合は、比較的保守的な家庭で育ったと思うので、元旦はあまりびっくりするようなことはありませんでした。朝、家族で食卓に着くと、無理矢理旨くないお屠蘇を飲まされて、いわゆるおせちをいただくわけです。それからお年玉をもらって・・・

お年玉は親戚の数が物を言うわけで、うちのように珍しい名前で親戚も少ないとなかなか稼ぐことはできませんでした。

うちに、しばしば出入りしていた父親の知人があるときお年玉をくれました。その頃は、たいてい千円か二千円くらいが相場だったと思います。その知人はもちろん他人ですから、そう多くは望めないわけですが、こども心にちょっと期待してしまいます。

ポチ袋を開けてみると・・・中から出てきたのは板垣退助。むむむ、いくらなんでもこれにはがっかり。贅沢はいってはいけないのですが、けちなおじさんだなぁと思いました。

自分よりだいぶ年長の従兄弟が就職して、毎日ちょっとずつ貯めたという5円玉のたばをくれたことがありました。まぁ、この場合は額については二の次でしたが、とにかく重たいしどこでどうやって使うかで多いに悩んだものです。

なんか、このあたりは去年も書いてしまいました。きがついたら、同じ話で申し訳ありません。

すでに空は電線の網の目で、とてもたこを揚げて遊ぶと言うことはできませんでした。ですから、正月の遊びというと、家の中でカルタか双六、外に出て独楽回しか羽子板というのが一般的。今では、どれも見かけなくなりました。

実際、もうこの10年くらいは元旦に仕事をしていない年はないので、元旦に家にいるということがありません。開業前にいた大学は薄給で有名なところで、正月の割高の当直バイトは絶対不可欠だったのです。千葉の方にでかけて、東関道を走っていて初日の出を拝んだなんてこともありました。

開業してからも、結局毎年当直バイトは続いているわけで、実際父親がいない元旦というのもいかがなものかと思ってはいるのです。

まぁ、父親の威厳とか権威なんてものを見せようと思っているわけではありませんが、日本人として正月の季節感というものは大切にしたいし、こどもたちにも伝えていきたいとは思っています。