クリニックの2017年夏季休診のお知らせ

① 8月14日(月) ~ 8月16日(水)

② 9月21日(木) ~ 9月25日(月)

2回に分けて休診いたします。ご注意ください。

2010年8月31日火曜日

リウマチ勉強会 くすりの飲み方

本日は恒例となっています関節リウマチの症例をお互いに勉強したり、いろいろな情報交換をする会でした。参加メンバーはいつも通りで、各クリニックを順番に訪れています。今回はうちのクリニックが会場としいうことで、とにかく気楽にいろいろな相談もできる楽しくてためになる有意義な会なのです。

まぁ、その話はともかくとして、薬の使い方というのはしばしば問題になります。毎日必ず毎食後に飲むような薬は間違えにくい。ところが抗リウマチ薬で現在最も使用されているメソトレキセート(リウマトレックス)は、ちょっとかわった服用の仕方をするわけです。

1週間のうち服用する曜日を決めて、例えば週に3カプセルならば、月曜日の朝1カプセル、夕方に1カプセル、火曜日の朝に1カプセルという具合。これは血液中の薬の濃度を早くに高めて効果をだしたいということ。

ところが長く体の中に薬が残ってしまうと、副作用の問題がほぼ必ず出てきてしまいます。市販されてから最初の10年間で、副作用によると思われる死亡事例が300件以上あることは事実です。

実際亡くなった方の大部分はリスクの高い大変高齢の方とかが多いですし、特に問題なのは服用の仕方を間違えている場合です。ですから、服用を薦める側としても、一番気を使うところなのです。

今週の分の最初の1回目の服用を忘れたら・・・そのまま今週の分としては抜いてもいいと説明しています。中途半端にどこかでまとめて飲んだり、別の日に飲んだりしないでください。もちろん、ちょっとのことでは何も起きないかもしれません。でも、それくらい注意して損は無い薬だと思っています。

ゆっくり利いてくる薬なので、1カプセルくらいが抜けたからといって、大きな影響はありません。もしも、ずらして飲むなら、そのまま翌日から内服を開始していただいてもいいのですが、翌週からも同じ曜日で飲んでください。

まぁ、いろいろ気を使う薬では有りますが、今のリウマチ治療の中ではアンカードラッグと呼ばれ、これ無しでは始まらない薬であるわけですから、正しく使って最大の効果を引き出したいものです。

2010年8月30日月曜日

24時間テレビのマラソン

昨日は日本テレビの24時間テレビというやつで、土曜日の夜からずーっとチャリティの番組を放送していましたね。

なんか思い出されるのは萩本欽一さんが司会をしていた時。それって、最初の数回だけなんですって。今年は33回目だって言うから、どっへぇ~30年以上前のことだっていうから驚き。

自分の人生の中では30年前といえば、浪人していた頃か、やっと医学部に入学してホクホクしていたころでしょうか。1日の中で普通じゃ集まらないような募金を集めたことにびっくりしたものです。

でも翌年からは募金が減っていって、「世の中こんなもんか」と冷めた気持ちをもったこともありました。でも、医療の仕事をしていると、24時間テレビから寄付されたいろいろな医療用・介護用の特殊車両などを目にすることが、しだいに多くなりました。

着実に社会に貢献している部分がふえているということをどこかで知るようになると、それが当たり前のものと思うようになってくるものです。

いつの間にか24時間テレビの売りは「マラソン」になっていましたね。番組的な意図的な構成は否定できないものの、毎年のランナーになったタレントが本気でちゃんと走っていることは十分に伝わってきます。

今年は、はるな愛。まぁ、特に好きなタレントでもないし、基本的にニューハーフというのは理解できないのですが、やはり単純にゴールできてよかったとおもいます。実際、自分がやろうと思っても無理でしょうね。

化粧ボロボロですっぴん状態のタレント。こうことに照れずに感動できる気持ちというのは、やはり大切なことかと思ってしまうのでした。

2010年8月29日日曜日

関節リウマチ 次の10年に向かって

関節リウマチ治療の21世紀の治療戦略はどんどん進歩しており、われわれ専門にしている医者も日々この変化についていくのも本当に大変なのです。まぁ、そんなことは、いつも書いていていまさらぼやいてもしょうがないのですが。

もちろん、その大きな原因は生物学的製剤が使われるようになったことであることは間違いありません。20世紀までの中心的な薬剤は免疫力を調節するような内服薬が治療の主役でした。しかし、日本でも2003年から使えるようになった生物学的製剤は、関節の中で直接病気を起こしている部分をブロックするため、内服薬より劇的な効果が期待できるわけです。

最初の数年間は、この新しい薬が実際の臨床の場でどのくらい効果をだすものかということに、医者も患者も興味が集中していました。市販されるまでには治験という調査が嫌っと言うほど行われているのですが、実際に使ってみないと結局のところ本当の薬の力は見えてこないものです。

最初に発売されたインフリキシマブという薬は、そのあまりの劇的な効果に医者も患者も驚愕したという表現は、けして大げさではありません。2時間くらいかけて点滴で投与するのですが、点滴を行っている最中に患者さんがどんどん楽になってきたと言う事もありました。

次に出てきたエタネルセプトも同じような効果があり、皮下注射で投与できるため患者さんの負担もだいぶ減ってきました。その後に点滴のトリツシマブ、皮下注射のアダリムマブが揃って、状況によっての選択肢が広がってきたことは喜ばしいことです。

長い人ではすでに7年目に入っているわけですが、さすがに使えば効くのはよくわかりました。単独での使用よりも、ある程度の内服薬を併用したほうがいいということもわかってきました。こういう場合には副作用を注意しなければいけないというようなこともデータが揃ってきています。

そうなると、当然次に知りたいことは「いつやめられるのか?」、あるいは「どうなったら減量できるのか?」ということです。一体この注射薬の治療をいつまで続けることになるのか。患者さんも医者も誰もが知りたいことなのです。

実際、大変値段の高い薬なので患者さんの経済的負担はばかになりません。内服薬での治療ならは平均して月に数千円ですが、生物学的製剤を使用すると月に数万円かかってしまいます。一生続けなければならないとしたら、かなり大変なことでしょう。

現実にはまだ使われだしてから10年もたっていないわけですから、長期的な部分については誰にもわかっていないわけです。数年前からは、そのあたりの話もばらばらに出始めていますが、どちらかというと効果が少なくなってきたときにどうやってブーストするかというような話が多いかも。

うちのクリニックでは、ある程度良好な状態を維持できている患者さんは少しずつ注射を使う間隔を伸ばしています。はじめは週に2回の皮下注射をしていたような場合で、今は2週間に一回でも大丈夫というような患者も出ています。

今はそれぞれの医者が患者さんと協力して、手さぐりでいろいろ試しているという状態ですが、ある程度まっとまったデータとして、整理されて使い方のノウハウが早く充実していくことが期待されています。

最新のトレンドでは、発症から6ヶ月以内に「治癒」にもっていきたいということになっています。これは根本的な病因がまだわかっていない関節リウマチという病気にとっては、かなり高いハードルであると言えます。

それでも、このような目標を真剣に議論しようという下地ができてきたことはまちがいない。専門医としては、ますます気が抜けない次の10年間になることでしょう。

2010年8月28日土曜日

真似っこ萬歳豆屋の小僧

・・・豆ができたらくださいな。

とは、ずいぶんとこどもの頃によく使ったフレーズ。これも今使うと「いじめ」言葉のひとつになったしまうのでしょうか。

そんなわけで、今週は横浜市都筑区毎日ブログを必死に書く変な4人の医者・・・まぁ、そんな大袈裟なものでもないのですが、集まって飲み会をして多いに盛り上がったわけです。

そのなかで、それぞれのブログのスタイルというのが話題になりました。

あざみ野棒屋先
生は、淡々と日々の生活・・・例えば床屋さんにいったとか、昼に何をたべたとかの記録をしているのですが、興味の対象としてのネット利用については際立っている。ツイッターに真っ先に飛びつき、遊んでいる様子はなかなかほほえましい。

そうかと思うと、泌尿器科という専門にからんで、けっこうきわどい生殖器関係の話や絵が飛び出してきたりして、なんとなく後ろを気にしながら見てしまうことも少なくない。

Dr.Mは自費診療の美容をやっている関係もあり、ブログを含めてインターネットを積極的に情報発信のツールとして活用しています。とにかく熱く熱くバリバリの仕事ぶりが伝わってくるハードボイルド型。

しかし、その一方でかなりはじけた話題も少なくなく、時にはこちらが「忙しすぎて壊れちゃったのか?」と心配したくなるような内容もけっこうあります。

Dr.Flickerは、冷静沈着にたんたんと思い出を語っているかと思うと、一転社会に対して猛然と怒りを発散する熱血振りが真夏の気温をさらに上昇させています。

ただし自分の場合と一緒で、ちょっと「なりふりかまわず」という感じではなく、よそ行きの雰囲気があるという。はじけたいけどはじけられないみたいなところがあるというのが、他の先生方の評価。

なるほど、それじゃ実際、3人のブログの雰囲気を確認するために真似をしてみようと思い立ち書いてみたのがこの数日間。

確かに自分が似ているといわれたDr.Flickerのスタイルは一番書きやすい。短めに改行して読むリズムのテンポの良さはさすがに真似できませんでしたが、自分でも比較的すんなりとかけてしまいました。

ハイテンションを全面に出していくDr.Mのスタイルは一番難しい。自分で書いていて恥ずかしくなってしまい、とてもとてもDr.Mのワールドにし近づけそうもありません。

あざみ野棒屋先生のスタイルも意外に難しい。けっこう凄いことを書いていても、さらっと読ませてしまうところがとても真似できません。また毎日いろいろなことをいろいろな場所でやっているから「日記風」が成立するわけで、あらためて行動力に感服しました。

そんなわけで、人の振り見て我が身を直す、じゃありませんが、あらためてそれぞれの個性の違いがよくわかりました。自分のスタイルというのも完全にできあがってしまったように思いますので、いまさらあまり変えようはありませんが、これからもあきれずお付き合いください。

2010年8月27日金曜日

蛍光灯 1000円/本 院長のぼやき


今週も暑い日が続いて、午後からは患者さんは少なめ。こういう時は、こんなことをして遊ぶのもいいですね。とりあえず、自分の場合は多少院内の整備などにも気を配ったりする時間ができたということで、それはそればよしとすることに。

うちのクリニックは待合室を中心に、デザイナーの意図により間接照明が多いのです。その分、見た目の良さはかなりのものですが、現実はそんな簡単な話ではありません。

間接照明で蛍光灯が隠れていてそのままだと暗いため、直接に比べて本数が多い。しかも、隠してある分熱を持ちやすいのか痛みが早い。特に最近は次から次へとダメになっていくのです。

高い場所で隠してあるので、これを交換するのも一苦労。蛍光灯の値段もバカになりませんから、けっこう維持費としてはきついものがあります。開業を考えている方は、こういうハードの部分についても知っておいた方がいいですよね。

関節リウマチの話や高齢者の腰痛や膝痛の話を書くと、自分のホームページに元気玉を送ることになるわけで、もっと患者さん向けの話を書きたいところですが、一度に書くと今後のブログネタに困りそうなので、また次の機会にしたいと思います。

昨日は木曜日で診療は午前中だけ。昼から近くの病院に入院してもらった患者さんの状態を確認しにでかけて、途中でヤマダ電機で買い物。
赤田西公園のル・ブルのあとはセブンイレブン。回りを全部駐車場にして、かなり余裕の作りになっています。8月31日オープンで、「オープンセール」と書いてあるのですが、コンビニのセールって何をするんでしょうか。

あざみ野のモスバーガーでハンバーガーを買って、家で昼食にありつきました。これから午後は剣山スポーツガーデンでテニスを3セットといきたいところですが、いかんせんインドアの自分は家で書類整理。

そのあと、「美しき姫君~発見されたダ・ヴィンチの真作」を読了。夜はVS嵐。

2010年8月26日木曜日

木曜日外来 (横浜市 都筑区 あすなろ整形外科)

木曜日は休みにしているクリニックが多く、勤務医をやっているイケイケ医師の頃には、「なんで開業医はみんな木曜日は休みなんだよ」とあきれていたものです。いざ、自分が開業医になってみると、この辺の事情というのがなんとなくわかってきました。何でも全部自分がやらないといけない開業医は、週の真ん中あたりで休みをとりたいという気持ちになります。それに今やそういう開業医を対象とした勉強会やさまざまのイベントが木曜日に多く企画され、診療以外のいろいろな雑用は木曜日に集中的にこなすというスタイルが出来上がっているようです。

うちの場合は、開業当初から木曜日は午前中はクリニックの診療を行っていますし、午後は大学の外来や近く一般病院の外来をこなし、のんびりとしていると思われたら心外です。何しろ全国有数のクリニック激戦区でやっていくからには、他のクリニックと同じ事をしていては生き延びることはできません。だったら、午後もクリニックをやればいいじゃないかと言われそうですが、大学との関係を維持していることが知識のアップデートに役に立つし、クリニックにとっても大学の大看板を利用するというメリットもあるわけです。

一般病院との関係は、より近いだけにさらに重要です。先週はビル内で転倒して、骨折で痛がってありえないような大声を出している患者さんが運ばれてきました。こういうときに、すぐに入院先を確保するというのは、今のご時勢ではけっこう時間と労力がかかる。救急車も転院先が決まっていないとすんなり来てくれません。こういうときに内部の人間のように無理がきくのも外来をやっているから。昨日も同じようなことがあり、何とかベッドを作ってもらいましたが、本当に助かります。

というわけで、木曜日は半日だけですが、それなりに凝縮したアドレナリン一杯の怒涛の外来をこなしていきたいと思っている(センター南駅前の)Dr.Mでした。今日の気分は、こんなところでしょうか。

2010年8月25日水曜日

塩化ナトリウム

こんだけ暑いと
本当に水分が体から
足りなくなります

年を取っていると
体の水は減っているので
よけいに脱水になりやすい

屋内で日に当たっていないからと
安心してはいけません
誰でもどこでも気をつけて

暑さ寒さも・・・と言いますが
今年は当てはまりません
体育の日まで続くかも

もうひとつ忘れてはいけないのが
塩化ナトリウム
塩です

汗をかいて
多くの塩が失われている
ナトリウムは大事

多すぎると
血圧が上がって
頭の血管がきれたりします

汗には最大で0.5%の塩が混ざっています
ですから汗を一杯かいたら
塩の補給は必要です

昔戦争で南の島では
やむを得ず海水を点滴したと
軍隊上がりの先生から聞いたことがあります

もちろん助かるわけがありませんが
他にどうしようもなかった
少しは生き延びたということでしょう

今の時代は幸せです
適切なミネラルを含んだ
スポーツ飲料が簡単に手に入る

とにかく今年の夏は
体調を崩さないように
水と塩の補給を忘れずに

2010年8月24日火曜日

ブロ友会 in 梵 @ センター南

おっと、梵と言えばよくお世話になっている近くのお店じゃないですか。今回はブログを毎日せっせと書く都筑区開業医仲間の恒例の会でお世話になりました。
あざみ野棒屋先生には、この梵のスターターセットの写真は使いまわしかと言われてしまいましたが、毎回新しい写真ですよ。

いつも、気楽に言いたいことを喋る会なので、本当にストレス発散にもつながり楽しいものです。ちなみにこの店でいただくお酒はこれ。もともとビール党なので、他の酒はほとんど飲むことはありません。

日本酒で有名な八海山が作ったビール。通称「はち生」です。ちよっとにごっていて、フルーティで甘い香りの強いビールです。

もしお立ち寄りの際には、是非どうぞ。今夜は酔っているので短めで失礼。

2010年8月23日月曜日

解剖学者の夢

では、ベサリウス以後の解剖学の歴史はどうだったか。昨日からのつづきを考えてみます。

16世紀のなかばにベサリウスによって、自らが解剖をして、見えた物、観察できた物をそのまま受け入れるという環境が整備されました。さらに1628年にハーヴェイの血液循環説が発表され、体中の体液の流れが解明されたのです。医学は、ガレヌスからの長い呪縛からやっと解放されました。

解剖図譜の出版もいろいろ行われていましたが、ベサリウスが使ったような絵画的な手法が使われ続けていました。屍体は様々なポーズを取り、生きていて生活をしているかのようなものが多い。

その中で、見えたままに図を書いたものも多く採用し、傑出した解剖学書を発行したのがビドロー(1649-1713)です。その姿勢は(養老先生も指摘していましたが)、なんと屍体に止まっているハエまでも書き込んでしまうというところに現れています。

ビドローの人体解剖図は評判になり、多くの海賊版を生み出すことになりました。日本人としてはちょっとショックだったのは、日本の医学の礎となった杉田玄白の「解体新書(1774)」もじつはそういう海賊版のひとつであるということです。

もっとも解体新書が西洋の知見を翻訳し紹介するものであったわけですから、当然と言えば当然なのですが、なんとなく寂しい気分になってしまいます。

1830年に画期的な発明があり、ここまでの解剖学に変革をせまることになります。カメラの発明です。さらに19世紀後半になるとフィルムが開発され、「見たまま」を美しい図としてのこすことは写真に取って代わられることになっていくわけです。

さらに同じ頃にホルマリンが一般に使えるようになったことが、解剖学を大きくかえることになります。つまり屍体の保存が可能になったということです。腐敗との戦いから解放され、研究材料としての屍体を手に入れやすくなったと言うことです。

マクロスコーピックな人体解剖学はここにきて完成したといえるでしょう。絵画的表現や見たままの表現は必要なくなり、理解を深めるための図式的表現が主流となっていきます。1858年に発表されたグレイの解剖学図譜は現在も版を重ねる原題解剖学と原点と言えるかも知れません。

19世紀末にレントゲン写真が開発され、人体の解明は生体に向かっていきます。一方、16世紀に発明された顕微鏡でしたが、フックによってコルクの観察から「細胞」と言う言葉が使われたのが1665年。

それから、植物も動物もすべて生物の基本単位が細胞であることが確立したのは1858年。ミクロの世界の解剖学の始まりとなりました。顕微鏡発明から時間がかかっているのは、結局腐敗の問題があったからではないでしょうか。

今や、人間の最後の秘境といえる遺伝子すら全解明が終わろうとしているという時代です。19世紀半ばから発達してきた分子生物学は、いまや医学研究の主流であり、今世紀の早いうちに人体探求という知的プロジェクトは完全に終了するでしょう。

そのあと研究者の興味はどこに行くのでしょうか。

2010年8月22日日曜日

Leonaldo DaVinci as Anatomist

医学の歴史というのは、たぶん掘り出し始めたらとことん深みにはまっていきそうなジャンル。一般の歴史書に比べると資料も多くはありませんし、なかなか調べるのも大変。ですから、興味は当然あるものの、探求はその中のごく限られた部分だけにしておいた方がよさそうです。

そこで特に絞り込んだテーマが解剖学というわけで、その中でも骨学・筋肉学というのは体表から近いために古くから注目されてきた部分です。となると、整形外科を専門にしている医者としても興味を持たないわけにはいきません。

近代医学の分岐点として金字塔的な解剖学書「ファブリカ」を著したベサリウス(1514-1564)については、先に書いてしまいました。そこで、今回はベサリウス以前についての話。

古代エジプトではイムホテフ、古代ギリシャではアポロンが医学のスターということになります。もとはといえば病気は神・悪魔の仕業と考えられていたわけで、そのため医学はまじないや占い、あるいは呪いの対象としてはじまりました。

それをヒポクラテス(BC460-BC375)が、魔術的要素を排除して経験科学としての医学を独立させたわけです。そしてガレヌス(130-200)は実験生理学を導入して、より科学的な確証を持った医学を完成させました。

しかし、人体の解剖が正式に行われるようになるのは12世紀に入ってからのことで、初めての解剖学書がルッチィによって発行されたのは14世紀のことでした。それから1500年ごろまでの間に、いくつかの解剖学書が作られているわけですが、いずれも本当の人体の構造を示していないのです。


図は平面的で、ちゃんと観察していたら間違いと気がつくような点が数多く書かれています。これは、ガレヌスの(今となっては)誤っていた考え方が1000年以上にわたって医学を支配していたことも多いに関係しています。

解剖学の教授はガレヌスの説を紹介することが仕事で、実際の人体解剖は助手がたまに行うだけでした。ガレヌスの説からつじつまの合わないことがあっても、それはたまたまその屍体がそうだったと考えていたのです。

しかし、現実の人体の構造を見てガレヌスに疑問を持ったのがベサリウスだったわけですが、実は彼よりも50年早く、積極的に人体解剖を行い精密な構造を解き明かそうとしていた人物がいたのです。

それが万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)でした。ダ・ヴィンチは基本的には画家ですが、完璧主義者で、完成された絵画はわずかに10数点しかありません。しかし、手稿と呼ばれる走り書き的なノートに、厖大な資料を残しています。


これは日記的なものから、発明の思いつき、創作活動の記録など多岐にわたる内容となっていますが、この中に大量の解剖の図譜が書き込まれています。完璧な人物画を書くためには、人体の構造を熟知する必要があるという発想から始まったものだったのです。

ですから、医学としての解剖学とは一線を画する物であることは否定できません。しかし、本来体表面の形だけ知っていれば、画家としては十分であるにもかかわらず、ダ・ヴィンチの絵の人体の奥深くまで入り込み、原題の知識で見てもその精巧さには舌を巻くしかありません。


これは、ダ・ヴィンチが自分で実際の解剖を行った、それも何度も何度も行ったことを意味しています。当然、法律すれすれ、あるいは時には逸脱していたことも容易に想像できることです。

ダ・ヴィンチの解剖図は、それまでの解剖図と比べて正確さが桁違いであるだけでなく、彼自身が完成させたさまざまな遠近法による描画技術によって、かなり立体的な奥行きを持ったものです。

当然、芸術家としての視点から書かれているわけですから、時には現実の形状を無視して、構造的美しさに重点を置いていることもしばしばあります。しかし、それが芸術としての素晴らしさとともに、かえって構造の理解をわかりやすくしていることもあるわけです。

中には現代のCT検査の発想につながる、人体の連続的な輪切りのスライスの図もあったりして、まさに驚きを禁じ得ません。もちろん、一部には誤りである記載もありますが、医学から入らなかっただけにガレヌスの呪縛に縛られなかったことが成果につながったのでしょう。

もしも、この図譜集が発表されていたら、天才ダ・ヴィンチは近代医学の父という代名詞をも手に入れていたかもしれません。しかし、実際は弟子によって死後も厳重に保管され、公になったのは100年以上たってからのことでした。

2010年8月21日土曜日

夏の終わり

ふぅ~・・・えーっと、何というか・・・
とにかく、一気に力が抜けてしまいました。

まぁ、港北ニュータウン優勝おめでとう!!
明日から優勝記念セールですか?

えっ? 何が?

うちのクリニックの入っているビルの後ろですよ。
ホームセンターがあるでしょう、コーナン。

そんなわけで、一つの夏が終わりましたね。結果はともかく、連日がんばった高校球児たちには、素直に拍手を送りたいと思います。

うちのブロック塀に、蝉の抜け殻を発見しました。今年は暑すぎるせいか、あまり蝉の鳴き声を聞きません。でも、ちゃんとこうやって脱皮しているところをみると、蝉はいるはずですよね。

まだまだ暑い日が続いていますが、季節は着実に秋を迎える準備に入っているんでしょう。

2010年8月20日金曜日

熱血!! 高校野球

今日は夏の甲子園大会、準決勝の2試合が行われました。島袋投手を擁する沖縄興南と一二三投手を擁する神奈川東海大相模が勝ち上がり明日の決勝にこまを進めました。

どちらの試合も、逆転勝利でハラハラドキドキの試合展開でした。選手たちもこの暑さの中で、連日の試合では疲れもだいぶたまっていることでしょう。

自分のように神奈川県民としては、春夏連覇を目指す興南との決勝戦は最高の舞台です。明日は、クリニックを休んで甲子園に・・・というわけにはいきませんから、できる範囲でテレビで応援をしたいと思います。

今大会で、最も注目を集める二人のエースの対決を見ずして、この夏は終われません。この際ですから、阪神も巨人も、そして中日も忘れましょう(ねっ!!)。

それにしても、ずーっと昔、高校生の頃を思い出しました。自分の出身高校は野球ではまったくたいしたことはなく、夏の大会の地方予選は出るだけで、全校からはまったく期待されていない状態でした。

確か高校2年のときでしたか、初戦に勝利してしまったのです。そこで、応援をしないといけないということになり、にわか応援団が結成されました。さらに、神宮第2球場に応援に行くと、体育の欠席がチャラになるということで、日頃あまり真面目に授業に出ないようなやつまでわんさか応援に繰り出すことになりました。

確か、2回か3回勝ち進んで、これに勝てば東東京でBEST8になるというところで負けてしまい、みんなの夏は終了したのです。

日頃バンドとかやって、長髪のどう見ても不良っぽい連中が応援するのですから、けっこうひんしゅくだったようです。自分たちのいるスタンドに近いところで守っている相手の選手を、無差別にやじり倒し、そのあまりにひどい応援姿勢はだいぶ問題になりました。

でも、ものすごく楽しい応援だったと思います。何かひとつの事に仲間全員で一致団結して向かっていったことは、忘れられない思い出になっています。

地方予選ですらそうなんですから、甲子園の決勝にまでいった両校の応援団の興奮といったら並大抵のことではないでしょう。許されるものなら、本当に休診にしたいくらいの感じです。
とにかく、明日は高校野球史に残るような接戦を期待しています。

2010年8月19日木曜日

あすなろ海水魚館 ~ 異変!

それまで見向きもしなかったカクレクマノミが、急にシライトイソギンチャクに入るようになったというのは、やはり異変だったのです。実は、前回ブログでこの話を書いた翌日から、カクレクマノミの体表面に白い点々が・・・

そうなんです。白点病です。白点病は白点虫という寄生虫によって一番多く発生する、やっかいな病気。魚の体表にくっついたり離れたりを繰り返しながら爆発的に増加、次第に鰓をふさいだりして呼吸を妨げてしまうのです。

カクレクマノミは体表に虫がついてかゆいので、しょうがなく好きではないイソギンチャクに入って、体をこすりつけているのでしょう。

これまでにも、最初の頃に何匹かに発生していましたが、その後は水そのものは落ち着いたのか出てしませんでした。今回、大リセットを行ったので、白点虫が元気になりやすい環境にもどってしまったということでしょうか。

マンジュウイチモチもやられてしまい、こちらは発病して1週間でダウン。さらに発病していなかったハタテハゼの水槽からの飛び出し事故もあり、現在残っている魚は、白点病のカクレクマノミとフレームエンゼルの2匹だけになってしまいました。

フレームだけが発病していないのが唯一の救いですが、それはそれで何で発病しないのかがよくわからない。カクレに比べれると、一般的には白点病には弱いように思うのですが。この辺が、まさに教科書通りにいかない海水魚飼育の難しいところ。

それより難しいのは、白点病り治療です。複数の水槽を使い分けて隔離治療をするのが本来なんでしょうが、なかなかそこまでのとをする時間も場所も道具もありません。

そこで、先週はひたすら水換えを行いました。ほぼ毎日、半分くらいの水を交換。これは白点虫の数を増やさない効果はあっても、焼け石に水。あとは魚の体力勝負という消極的な方法です。

今週は夏休みが終わって、診療を再開しているので、なかなかこまめに水槽の手入れがしずらい。そこで登場したのが新兵器、パラサイト・リムーバーという添加剤なのです。水槽内に混入するタイプは管理が簡単なのですが、白点虫へのダメージは水槽内のほかの生き物にもよくないわけで、とくにサンゴやイソギンチャクのような無脊椎動物には禁忌のものがほとんど。

その点、これは生物学的兵器みたいなもので、環境破壊は最小限ですむということで期待大なのです。ただし、海水のpHがさがってしまうので注意が必要なことと、プロテインスキマーで白点虫を外に追い出していくというのが大事。

スキマーはそれほど効果的なものを設置していないので、うちの場合はこまめに水換えをして対応するしかありません。しかし、確かに少しずつですが使い出してからカクレの白点が減ってきたように思います。

とにかく、次の週末が勝負でしょう。手入れができない日曜日をこえて週が明けたときに生き残っていれば、勝利を手にすることができるかもしれません。ふぅ~ぅ~・・・

2010年8月18日水曜日

Andreas Vesalius

医者の勉強の基本は・・・やはり、人体の構造をちゃんと知っていること。つまり、解剖学。

でも、人体の構造はいまだにすべてが解明されているとは言えません。肉眼的な、マクロのレベルでの解剖学はさすがに完成していますが、いまや遺伝子のレベルのミクロの世界の解明に力がそそがれ、そのかなりの部分がわかってきているわけです。

マクロの解剖学についても、その歴史は紆余曲折があり、解明が完了してのもそれほど昔のことではありません。

そもそも、約2000年前のヒポクラテスを医学の祖とするのが一般的ですが、それまでの祈祷師的な世界を体系づけて学問として成立させたことは画期的だったわけですが、人体の構造についての正しい認識はありませんでした。

次に医学の偉人となるのは2世紀のギリシャのガレヌスです。ガレヌスは動脈・静脈・神経の存在を確認していましたが、それぞれが独立した体液の流れをもっていると考えていました。当然、今の知識からすれば明らかな誤りです。

しかし、困ったことにガレヌスの影響があまりに大きく、医学はガレヌスを超えることができなくなってしまったのです。ガレヌスの学説がまずありきで、それに見合わないことは誤りであるとして切り捨てられてしまうようになったのです。

このような状態が、なんと驚くべきことに16世紀まで続くのです。16世紀の大学の医学の教授は、高いところからガレヌスらの著作を読み上げるだけで、実際に人体の解剖を行ったりはしませんでした。

このような閉鎖的な誤認だらけの人体解剖学に疑問を持ち、自ら人体の解剖を積極的に行い、ガレヌスの説の誤りを明文化して近代医学を切り開いたのがベサリウスなのです。

ベサリウスは、なんと22歳で解剖学の教授に就任しました。もちろん、今の大学教授とはだいぶイメージは違うようですが、ひとつのセクションを任されたこと違いありません。

解剖するのは死刑になった罪人の遺体が中心ですし、まだ当時はホルマリンによる防腐処理が開発されていない時代ですから、解剖できるチャンスは多くはありませんし、一度始めると時間との勝負です。

その中で、ベサリウスは徹底的に人間の構造を追及して、ガレヌス批判を恐れずに、28歳のときに「ファブリカ」と呼ばれる600ページを超える解剖学書を発行しました。それまでの解剖学の教科書とはまったく違う、綿密なスケッチを基にした、それでいて芸術的な解剖図は画期的なものだったのです。

ベサリウスでなくても、どこかで正しい人体の構造を誰かがいつかは発見したかもしれません。しかし、ガレヌスの「呪い」に支配されていた医学に正しく物を見る目を開かせたのは、ベサリウスだけの功績であり、現代の自分たちが医者をやっていられるのも「ファブリカ」がスタートにあることを改めて認識しなければいけません。

2010年8月17日火曜日

夏の甲子園

夏の高校野球も大会10日目も過ぎて、BEST8まで来ています。

うちの親類に東海大学付属相模高校の先生がいます。東海大相模といえば・・・ジャイアンツの原監督の出身校。いやいや、そんなのは古い話で、今は一二三です!!

今年の東海大相模は、今大会屈指の呼び声の高い一二三(ひふみ)投手を中心に、ここまで快進撃。でもってね、その親類の先生ですけど、大変です。県大会から、試合のたびに応援に行かないといけません。

勝つことはいいのですが、応援するほうも大変です。ましてや、いよいよ甲子園ともなると、ちょっとそこらというわけではありません。

新幹線に乗って関西まで・・・それもこの暑さの中では、ほんとに大変。選手の皆さん、試合をする方も大変ですが、応援するのも本当にご苦労様なことなのです。

まさに学校全体ががんばっているから、今の高校野球選手は輝けるということだと思います。もちろん、あまりいろいろな重荷を選手に負わせるのも可哀想ではありますけどね。

まぁ、とにかく応援がんばってください

2010年8月16日月曜日

日常

夏休みも終わって、今日から通常の診療を再開しました。これが、日常というものですかね。それにしても暑い。午前中は、患者さんも大勢来院されて、ほぼNON-STOP状態でしたが、午後は5時くらいまで閑で眠気を誘いました。そりゃ、そうでしょう。この暑さでは、昼間に街を歩く気にはなりません。

うちのクリニックビルでは、夏休みが終了して今日から診療を再開したのは、うち以外では内科と耳鼻科。泌尿器科と眼科と小児科は木曜日まで休みです。いいなぁ、丸々1週間休むなんて。でも、医者の仕事というのは、休めば休むほどたまっていき、休み明けに自分の首を〆ることになるのです。

もう20年近く前の話ですが、フランスはパリでの国際学会に行った時のこと。当時、大学病院のベッド管理の係りをしていたのですが、毎日いろいろな先生から出てくる入院予約をチェックして、状態によって入院ベッドを決めていく仕事ですから、ほぼ毎日の調整が必要でした。

国際学会に行くときは、学会1週間+遊び1週間というのが普通だったのですが、仕事の関係で2週間も大学を明けるわけにはいきません。まして、末期の悪性腫瘍の患者さんも抱えていたので、自分は学会だけで帰る事にしていました。

一緒に行ったほかの先生はフランスの後にスイスとイギリスに寄り道をしたのですが、学会が終わると自分は一人でドゴール空港に向かったのです。フランス人は母国語に誇りを持っているのか、英語はほとんど通用しません。もちろん、英語すらまともに話せるわけではありませんけどね。

何とか駅で切符を買って、空港に到着できたときはほっとしました。行きは成田からパリへの直行便だったのですが、帰りはモスクワ経由。真夜中のモスクワ空港に降り立って、飛行機から下ろされます。と、言っても空港から外に出るわけにはいきません。銃を肩にかけた軍人らしき人が警戒している中で、空港内のロビーで日本行きの出発まで待たされました。

というわけで、ほんの2時間弱ではありますが、当時のソビエト連邦に足を踏み入れた経験ができたことは、ちょっと面白い経験ではありました。でも、日本に戻ってからは、1週間の間にたまっていた入院予約と退院した患者さんをチェック、救急病棟の患者さんを引き取ったりと、怒涛の仕事が待っていました。

また、自分の担当していた入院患者さんに問題がなかったも重要です。あー、やっぱり、毎日仕事をこなしているほうがなんぼ楽なことかと、改めて思うわけです。要するに「日常」は一見退屈な感じがしますが、その日常をしっかりこなすことは意外と大変ですけど、基本として最も大切だということです。

日常をきちんと積み重ねていくことができて、初めて「非日常」があるんでしょうね。いまさら、そんなこと言っているのかとお叱りをうけそうですが、明日もしっかり日常をこなしたいものだと思います。

2010年8月15日日曜日

8月15日は日本では、最近65年間は終戦記念日と呼ばれています。歴史は勝者が作るもの、とよく言われますが、日本は第二次世界大戦では敗者であることは厳然たる事実。しかし、同時に唯一の核被爆国であることから、戦後の歴史にいろいろかかわってきました。

もちろん、まったくの戦後世代である自分が、このあたりの歴史に対してどうのこうのと意見を言うわけにはいきませんが、少なくとも毎年この日は厳粛に受け止めないといけないと思います。

人類の歴史まで掘り下げれば、そのほとんどは戦いの歴史であり、医学についても戦争の結果進歩してきたことは紛れも無い事実です。西欧史となれば、その戦いの歴史はほぼキリスト教の歴史と言い換えることもできる。

戦いの歴史はさらに突き詰めれば、火の歴史ということも可能かもしれません。生物の本能でしか人類が生存しなかった時代の次に、火の発見による欲を満たすための時代が来るわけで、それが生活を豊かにする第一歩。

肉を焼けばより美味しくなる、灯りとして使えば夜の暗さと恐怖から開放される。そのために火の取り合いが、戦いに拍車をかけ、さらにその火そのものが戦いの道具となっていくというのは皮肉な話しです。

その一方で、どういうわけは火は安らぎを与えてくれます。もちろん大きな火事とかは別ですが、炭火のようにゆっくりとゆらめく炎は、気持ちを落ち着かせてくれるものです。炎の振幅の具合が、ちょうど心のどこかにうまく共鳴するのでしょうか。

あまり難しいことを考えても疲れるだけですから、話は急に落ちますがとにかくこの炎の上で肉を焼いて美味しく食べることだけに専念しましょう。こればかりは、すごいホットプレートがいくら束になってかかってもかなわない。

夏の休暇は今日まで。明日から、また日常に戻ります。まだまだ休み足りない気分も無いわけではありませんが、まず働かないと休めませんからね。

2010年8月14日土曜日

川崎市北部市場 @ 川崎・清水台

東名高速川崎インターを下りて尻手黒川通りを百合丘方面へ、清水台の交差点にはマルエツがあります。右折すれば聖マリアンナ医科大学とか向ヶ丘遊園。ここを曲がらず、ちょっと過ぎたところの左手にあるのが川崎市北部市場です。

市場というくらいですから、魚や野菜は言うに及ばず、肉、菓子、包装用品、電化製品などなどいろいろなものが集まってくるわけです。一応、一般にも開放されていて業者でなくても入場することができるのです。

土曜日は朝市をやっているということで、こんな休みのときにしかいくことができません。せっかくだから、出かけてこようというわけで・・・

おーおー、魚の生臭い匂いも、こういう場所ではお似合いっていうもんです。なんか、やっぱし市場ってぇもんは、こんじゃなくっちゃね。あっちにも、こっちにも、いろいろ店が並んでいて楽しそうジャン。

さて、それじゃ何を買っていこうかな・・・ ・・・ ・・・って、えェ~、もうほとんど何も無いじゃん!! 11時じゃ、もう遅いんかい。あらららら。

皆さん、市場に行くときは早起きをしましょうね。

2010年8月13日金曜日

鰻御膳 @ 観光荘 in 岡谷

諏訪湖から天竜川沿いに下って行くと観光荘というこの界隈では有名な鰻の店。

十数年前に戸隠にスキーに行った時に、帰りに寄ったことがありました。大変美味しかったので、いつかもう一度行きたいと思っていたわけです。

この店の特徴は、鰻を蒸さずに炭火だけでじっくり焼いて食べさせてくれるところ。

鰻は柔らかいのに、皮はパリパリ。たれもほどほどの味で、実に旨い。

ワサビと細かく切ったネギをたれに混ぜると絶品です。お近くに言った際には、是非寄ってみることをお勧めします。水曜日は定休日ですから注意!!

2010年8月12日木曜日

なわて通り商店街 @ 松本市

松本市の中心、女鳥羽川に沿って、昭和の風情たっぷり残る街並みです。

一部は建て替えられてビルになっていますが、ほとんどが一間間口くらいの平屋作り。もともとは、「縄手」と書きまっすぐ道、縄道から由来するそうです。

和を意識した店舗が続き、見て歩くだけでもけっこう楽しい。レトロな道具がいっぱい並んだ店では懐かしさも手伝って飽きません。

2010年8月11日水曜日

松本城 @ 松本市


お城もブームの時代です。

長野県松本市テです。ベートーヴェンが、生まれるちょっと前にできた城があります。国宝です。お城で国宝の扱いは貴重です。

天守閣は6階建て構造で、中を一周するのに二時間近くかかりました。特に4階から5階に上がる階段は段の高さがけっこうある上に斜度が60度ときつくなっていて、上がるのはけっこう怖い感じです。

疲れたあ〜

それにしても、ずっとみんなは暑くても我慢して並んで見学しているのに、どんどん前に入り込んでいく連中がいました。しかしそれ以上に本当にがっかりなのは、

何と400年前の建材が落書きだらけです。中には相当深く掘り込んでいるものもありました。

かっこ悪いぜ、日本人!!

2010年8月10日火曜日

明日から夏休み

明日(8月11日)から当院は夏休みに入ります。来週月曜日(8月16日)からは、また通常の診療を再開しますので、いろいろとご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。

こどもの頃は、「明日から夏休み」というと、当然その日は学校の終業式という日になるわけです。これはなかなか楽しいことを前にして、必ず通り抜けなければならない大きな関門という感じですよね。

なにしろ終業式には、通信簿というものを渡されるわけで、そこには1学期の成績がしっかりと刻まれているわけです。しかも、それを親に渡してひたすら怒られなければならないというのが通例となっていました。

小学校のときは、図工とか音楽は5だったのですが、肝腎の算数とか理科とかはいい成績をとったためしがありません。中学以降も、英語はしばしば赤点(まさに赤いペンで点数が書かれていました)で、ほめられた記憶がありません。

でも、大学では医学部6年間を通じて、数回の追試験というのはありましたが、大きな失点をせずになんとか切り抜けてきました。これは浪人をした分、大学で遊んでいる余裕はないという切羽詰った気持ちが持続できたおかげかもしれません。

今は、夏休みと言っても、1ヶ月間まるまるなんてことはありません。1週間まるごと休む勇気もありません。休みは直接減収につながるわけですし、休むと患者さんが来なくなるという強迫観念から逃れることができないでいるのです。

なんにしても、うちのクリニックは明日から夏休みです。繰り返しますが、8月11日から休ませてもらい、診療再開は8月16日です。どあうかくれぐれも、お間違いないようにお願いいたします。

2010年8月9日月曜日

お休みのお知らせ

世の中の診療所は、だいたい年末年始とお盆の時期にまとまって休みを取ることが普通です。これだけまとまって休んでしまうと、この間に調子を悪くした方にはさぞかし病院探しで大変だろうと思うわけです。

じゃぁ、休まずに診療を続けろという声が聞こえてきそうですが、うちもご他聞にもれず、今週の水曜日(8月11日)から休みに入ります。診療再開は来週の月曜日(8月16日)からですので、5日間の連休を取らせていただくことになります。

診療所は基本は医者が一人なので、誰かに変わってもらってということができません。休みを取るためには診療所を休診にするしかありません。自分も、ある程度休息をとるために、少しはどこかで休みたいという気持ちがあるわけです。

それに、スタッフの方々には家族もいて、やはり夏休みというのは必要なので、自分だけやるやると言って休みなしと騒いでもしょうがない。まぁ、そんなわけで、いろいろと迷惑をおかけすることは重々承知のことですが、何卒ご理解賜りたく思うわけです。

じゃぁ、それで休んで何をするのかというと、実際のところ特別な計画はないという寂しい現状なのです。こどもも大きくなって、それぞれにいろいろな用事がありますから、家族そろってというのはもうほとんど無理。とにかく、これから何をするか考えましょう(って、遅すぎだろ!!)。

7月に1日だけ夏休みの先取りをさせてもらったのですが、このときは来られた方が隣のクリニックに言って怒ってったそうなんです。隣の責任ではないので、どうかそれだけはご勘弁ください。

6月の半ばごろから、院内のあちこちに張り紙をして、ホームページにも掲載して、一人ひとりに休みの案内を渡し、できるだけ声もかけるようにしていますが、なかなか100%伝えられるということがありません。

もしも、休診期間中に来院してしまったという方には、とにかく申し訳ありませんと謝るしかありません。休みが明けたら、今まで以上に頑張りますので、どかお許しくださいますようお願いいたします。

2010年8月8日日曜日

あすなろ水族館 ~ 異変?

まず、1年間のあいだ何事も起きずに平穏を保っていた淡水魚館に異変が起きました。3匹のラスボラのうち1匹の姿が2週間ほど前に消えてしまいました。水槽の中を掃除しながらくまなく探索したのですが、まったく痕跡も見つかりませんでした。う~む・・・

さらに数日前に、トランスルーセントグラスキャットの一匹が水槽の外に飛び出して完全に干物と化していました。さすがに水温が高くなってきて、暑さの余りちょっとの隙間から飛び出したのでしょうか。

ここにきて全部で6匹から4匹に減ってしまい、さすがに寂しい感じ。久しぶりに、というか初めて淡水魚(つまり熱帯魚)の補充をしようかと考えています。

さて、先月大リセットとなった海水魚館の方はと言うと・・・やはり、10匹くらいの魚を一気に入れたところ、順当にというかなんというか最初の1週間で次々と☆になっていきました。

魚には申し訳ないと思いますが、弱肉強食・自然淘汰の海の世界ですから、これもまたいたしかたない。しかし、魚によっての個性はやはりあるわけで、だめかなと思ったのが平気で、こいつは普通は丈夫というのが生き残っていたりと予想はなかなかできません。

しかし、それ以降は比較的落ち着いたのか、縄張りの均整が取れたのか、何となくいい感じが続いている約1ヶ月が経過しました。生き残ったのはカクレクマノミ、フレームエンジェル、ハタテハゼ、マンジュウイシモチの2匹。

60cm水槽を泳ぐ魚の数としては順当な数字かもしれません。これにユビワサンゴヤドカリやエメラルドグリーンクラブなどの居候も合わせると、まぁまぁいい感じの水槽になったような気がします。

ただ、カクレクマノミがもとからの生き残りのシライトイソギンチャクに入らないのが悩みでした。もともと相性としてはあまりよくはなく、1週間、長くても2週間以内に入らなければまず入らないと言われていますので、なかばあきらめていました。

ところが昨日、急にイソギンチャクの中でスリスリ、ルンルンしているではないですか。こいつは驚いた。どんな気まぐれか。何かまた良くないことが起こる前兆ではないかとか勘ぐってしまいます。

とにかく、なんとかこのまま平和な世界の実現に向けて突き進んでもらいたい物だと、切実に希望するしだいなのであります、ハイ。

2010年8月7日土曜日

診察券 第3世代

クリニックでは患者さんの整理の都合上、診察券というものを作っています。そして、患者番号というのが一人に一つふってあるわけですが、当院では10000から始めて、当然最初は自分ということになります。

実際は、患者さんには10100番から番号をふりはじめで、写真の左のカードを配りました。それが、昨年の2月に最初の3000枚が無くなり、新しいデザインに変更(真ん中)にりました。ここまで3年3ヶ月かかったわけです。

2番目のカードも結局3000枚作ったのですが、今週ついに終了。一昨日からはついに右の三代目のカードを使うようになりました。新しいカードは中心の色を空のイメージで水色にしましたが、大きなデザインの変更はありません。

今回は1年半で3000枚使ったわけですから、その前と比べて倍のペースだったことになります。その分、新患の数が増えたと言うことで、当然クリニックの院長としては喜ぶべきことであるのは間違いありません。

夏休みに入ってから、初診の患者さんが増えているのは、この暑さを考えるとありがたいことです。7月には都筑区内に新しい整形外科クリニックが開院しているので、ますます努力が必要な状況になっているわけで、次にカードを新調できるのはいつのことかまったくわかりません。

前にも書いたと思いますが、まったくの新患も大事ですが、新患できた方が次に何か困ったときにまた自分のクリニックを選んで来てくれることがもっと重要だと思っています。そういうクリニックになれるように、とにかくがんばるしかありません。

2010年8月6日金曜日

手術着

手術のとき着る手術着、病院によっていろいろですが、自分の母校では木綿の丸首タイプで、緑色でした。学生用は同じデザインで水色。最初に使ったのがこれだったので、自分としてはスタンダードのイメージが出来上がってしまいました。

ズボンは縫い付けられた紐がベルト代わりでしばるのが一般的。シャツインにするかシャツアウトにするかは個人の自由ですが、上をひらひらさせていると不潔になりそうなので、自分はシャツインであることが多い。

病院によっては、Vネックになっているものもしばしばありますが、正直言って胸毛がちらちら見えたりするので、あまり好きではありません。また、生地もポリエステルとかが入っているものも、妙に硬い感じで嫌でした。

当直のときなどは、手術室に行って手術着に着替えて一晩過ごすというのが一般的でしたが、手術着が不足するということで禁止になってしまいました。ゆったりとした手術着は当直着としては大変便利だったんですけどね。

実は、今だから言えるのですが、家で着るのにも大変都合がいいので、数着持って帰っていたんです。いゃあ、どうもすみません。でも、開業してから当直バイトをするのに大変役に立っていました。

ところが、さすがに5年使っていて、だいぶ布地がいたんできまして、そろそろやばいかなぁ、と思っていました。そして、ついこの前、ちょっと膝を曲げたとたんに、ついにビリつと膝頭が横に裂けてしまいました。

これは悲しい。とりあえず、セロハンテープで応急処置をしてなんとかしましたが、もう生地が薄くなっていて縫おうと思ってもかなり厳しい。ワッペンをかぶせてごまかすというわけにはいきません。

5年間のうち、ほぼ丸々1年間分はこの手術着を着て当直していたわけで、愛着もそれなりにあるわけです。勝手に持ち帰っておいて言うのもなんですが、本当に役に立ってくれました。しょうがないので、似たような手術着をアスクルとかで探そうかと思っています。当面は、作務衣のズボンとかで我慢しようかな・・・

2010年8月5日木曜日

消える百歳

こりゃ、どうしたことでしょうか。日本全国で百歳を超える高齢者の行方不明が続々と発覚。平成のミステリー状態で、日を追うごとに、その数はますます増えているわけです。

まったくの天涯孤独ならともかく、こどもがいて親の居所を知らないなんてことがあるでしょうか。姥捨て山は現代にも存在するというのでしょうか。

実際のところ、百歳を過ぎてから行方不明になるわけではないでしょう。百歳を過ぎた方が、自分で勝手にどこかに行ってしまうということは、ちょっと考えにくいですよね。

やはり、70歳、せいぜい80歳くらいまでに自分の意思で行方不明になって・・・理由はいろいろでしょうけど・・・そのままになっているということだと思います。

最も、今の日本ではちゃんとした身元がわからないで暮らしていくというのは困難でしょう。山の中とか、人里離れてひっそりと隠遁生活するならともかく、ふつうはどこかにその人の生活の跡というものが残るものだと思います。

病院には、ときどき身元不明の人が運ばれてきたりすることがあります。なんとか家族に連絡がつくことが普通ではありますが、時に身寄り便りがまったくないというようなことがあるわけです。

こういう場合、本人の言うことを信用するしかないわけで、とりあえず生活保護などの福祉制度を利用したりしてその場をしのぐように手配をすることがあるのです。

もちろん、まったく身元が判明しないままに亡くなって、無縁仏となってしまうこともあるわけです。こういうときには、本来の戸籍はずっと存在するわけです。「死ぬ」ことが無い無限の命・・・とでも言いましょうか。

しかし、もしも家族がいれば、行方がわからなくなった時点で、普通は何らかのアクションをするのが普通ですよね。日本は高度成長の中で「隣は何をする人ぞ」という風潮が強まってきました。しかし、いまや「家の中すら何をする人ぞ」なんでしょうかね。

2010年8月4日水曜日

夏の思い出 Part 3

夏になると、小学校では臨海学校と林間学校というのがありました。平仮名で書けば「りんか」までは一緒ですが、海と山と正反対の場所に行きます・・・ってそんなことは当たり前ですよね。

臨海学校は千葉県の富山に行きましたね。でも、今でもけっこうトラウマ的な事件がありました。というのは、くらげです。

普通はお盆前ならくらげはあまりいないといわれていますが、その年は異常だったのかもしれません。海に入っていると、右腕にするどい痛みがありました。

腕を海から出してみると肘の上にくらげがへばりついているのです。触手が皮膚に触って強い痛みがあり、くらげのふにゃふにゃの体にびっくりです。思わず、うわぁ~っとびっくりして、振り払おうとしたのが失敗でした。

くらげは、そのまま腕をすべって飛んでいったのですが、おかげで肘の上から指までがまんべんなくくらげにさされた状態になってしまいました。アンモニア水(?)らしきものをかけてもらいましたが、右腕全体は腫れてひりひり。

これは怖かったですよ。以来、海に行くとくらげの恐怖が頭をかすめるようになってしまいました。それに比べると林間学校は何事も無く平穏に終わったと思います。

林間学校は日光に行きました。お決まりの東照宮、華厳の滝などの観光と、戦場ヶ原のハイキングというものだったと思います。なぜか、そのころはテンガロンハットが流行っていて、カウボーイでもないのに、自分を含めて男の子はほとんどがテンガロンハットをかぶっていたように思います。

親と一緒の家族旅行もいいですが、ともだちと一緒のこういう行事も大変楽しかったです。何となく開放感にひたって、夜も枕投げなどをして遊んだものでした。

2010年8月3日火曜日

夏の思い出 Part 2

自分が卒業した渋谷区立渋谷小学校は、明治通りと青山通りと表参道に囲まれた三角地帯のほぼ真ん中にあつて、明治時代から「美竹の丘の学び舎」として歴史を刻んできた学校でした。

しかし、こどもが減ったことで渋谷区は簡単に廃校を決め、もう数十年前に消滅してしまいました。校庭は狭くて、確かトラックは60mくらいが精一杯。自分が在学していたときでも、一学年2クラス、1クラスに児童は30人ですから、消えるのはしょうがないかもしれませんが、今となっては大変残念な気持ちです。

夏になると、当然たのしみはプール。縦25mのプールがあったのです。渋谷の小学校にはプールの無い小学校もあって、うちの学校にはよその生徒がプールを使いにくることがありました。そんなときは、ちょっと自慢げな気持ちになったものです。

学校で独自の水泳の級をくれたのですが、一番簡単なのは7級。これは浮かべばOKという簡単なもの。ちょっとでも泳げれば6級。横12.5mを泳ぐと5級。縦25mまでいければ4級だったように思います。

ここからは潜水が入ってきて、横12.5m潜水で3級だったと思います。自分はここまでいったのですが、そこからは未知の世界。ですから、2級と1級がどれだけ泳げれば取れたのか覚えていない、というよりも知らないのです。

昭和40年代の東京の水は大量の塩素が混ざっていましたが、プールの水はそこにさらに追加された塩素で目がぴりぴりしたものです。でも夏のこどもにはそんなことは関係ありません。目を真っ赤にして泳ぎまくった日々は、本当に楽しい思い出です。

2010年8月2日月曜日

夏の思い出

夏が来れば思い出す、遥かな尾瀬遠い空。

学生のときは夏と言えば合宿でした。熱血硬式庭球部は毎年軽井沢で合宿をしていました。今みたいに、有料道路が整備されていなかったので、関越でとりあえず藤岡まで行って、それからはひたすら一般道を進みます。

峠の釜飯の荻野家で休憩してから碓氷峠を登っていくのが定番でした。軽井沢に着くと、そこは避暑地の別世界・・・というのは幻想で、日差しから隠れることのできないテニス・コートで地獄のような1週間をすごすのです。

超まじめな体育会系運動部でしたから、ロブ追い、振り回しは当たり前。とにかく、ひーひー言うようなことをひたすらやって、そのかわり夜は毎晩どんちゃん騒ぎます。それが作法というものでした。

帰りはオプションで、藤岡から素直には東京方面には帰らず、尾瀬の方角に寄り道をしたりします。もっとも、水芭蕉をたのしもうなんて風流な気持ちはありませんから、あまりまじめな観光客とはいえません。

当時は自分をはじめ大多数は車の運転免許は持っていませんでしたので、数少ない免許あり車あり(それって学生の分際でけっこうボンボンということ?)の部員におんぶにだっこでした。もっとも、お陰で楽しい合宿にいけたわけですから感謝しないといけません。

今だからいえますが、フェアレディZに乗っていた先輩は関越道に入ると時速180km/hで一気にきえてしまったものです。自分ののせてもらった同級生の車は、もう車内カラオケ大会状態だったりして、THIS IS 青春!! とはこのことか。

東京もだいぶちかくなった高坂SAで、一度集合して「無事」を確認したら解散。あとは好き勝手に帰るという、けっこういい加減な計画でした。少なくとも自分が知っている限りは、事故も無く警察に捕まるようなことはありませんでした。

夏とともだちだった、あの頃に一瞬くらいは戻ってみたいような気がする今日この頃です。本当に、若さは大切にしたいものです。

2010年8月1日日曜日

Mikalojus Konstantinas Čiurlionis

今日から8月、まだまだ今年は暑い日が続きそうで、汗っかきの自分は憂鬱です。

さて、歴史上の人物で自分が尊敬に値すると思っているのは、レオナルド・ダヴィンチ。何故かというと、医学にも関連してあらゆるジャンルにマルチなタレントを発揮したからということです。

最近、もう一人マルチな人物を知りました。それがミカロユス・チュルリョーニスです。ちょっと舌をかみそうな名前ですが、リトアニアの国民的芸術家だそうです。リトアニアはもともとソビエト連邦の一部でしたが、ソビエト崩壊の中で最初の方に独立を勝ち取った国。
もっとも、チュルリョーニスの時代は1875年から1911年という、大変短い期間です。当時のロシアは困窮し、皇帝の暗殺、日露戦争による疲弊、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの反乱など、一気にロシア革命になだれ込んでいこうという激動の時代でした。

そんな中で、チョルリョーニスは300の絵画を描き200もの曲を作曲したマルチな芸術家なのです。絵画については生前から、幻想的な画風が注目されていました。しかし、音楽については注目されるようになってきたのはここ10年くらいのことらしいです。さて、いつものHMVで、最近彼のピアノ曲全集の発売のアナウンスがありました。というわけで、まだまったく試聴すらしたことがないわけですが、人物的にも大変興味があるので、予約をすることにしました。

インターネットでの情報量は少なくて、なかなか人物像を知ることが難しい。しかし、一つだけしっかりと紹介しているサイトを見つけました。主要な絵画については、小さい画像ですがだいたいここで見ることができます。
一つのことなら努力で大成することき可能でしょうが、別々のことで成功するためには努力だけでは難しい。そこが「天才」と呼べるポイントなのではないかと思います。