2011年5月31日火曜日

親と子

5月晦日で、いつもながら、時の経つのは早いもの。毎日精一杯働いてますか~?
今年もいろいろありましけど、もうすぐクリスマス。そして除夜の鐘も、もうじきです。

って、そんなに先走って、どうすんだ。

まぁ、この調子では、本当に年末まで、あっと言う間のことだと思いますよ。次から次へといろいろなことがありますが、気がつくとどんどん過ぎ去っていくわけで、いつの間にか年だけを取っていくのでしょうか。

ときどき、自分の父親が、今の自分と同じ年の頃、何を考えていたのかと思うのですが、もちろん時代違うし、いろいろ立場も違うから本当のところはわかりません。

自分の父は、医者になって数年で、九州からまったく知り合いのいない東京に出てきて開業しました。自宅での開業で、ずーっと家にいる窮屈感からか、夜になると必ずと言っていいほど毎晩どこかにでかけていました。

その頃は、医者は社会的にもずいぶんと優遇されていて、当然自分の子供も医者にしたいと思ったことでしょう。ところが、息子には医者なんて嫌だといわれ続け、さぞかし面白くなかったのではないでしょうか。

高校の成績もたいしてよくもなく、ぎりぎりのところで医学部をめざすことになったものの、浪人生活を繰り返しても、何一つ文句を言いませんでした。実際、父親に怒鳴られたり、もちろん殴られたりもしたことが無いように思います。

じっと、耐えることばかりだったのかなぁ。息子が医者になると、たかが新米のくせに、偉そうに新しい知識でばかにするようなことを言われて・・・実際、いろいろ勉強していたはずなんですよね。

新しいことも、しっかり勉強していないと、この仕事は続けていられないことは、今の自分が嫌というほどわかっているのです。単に、息子が自分と同じフィールドに入ってきて、先輩としての余裕で受け流していたのかもしれません。

できることならば、こどもは親を乗り越えることが目標。今だったら、父親ともゆっくりと酒を飲みながら、いろいろなことを話すことができると思うのですが、とっくに父は亡くなっています。

自分は、まだまだ父親を超えてはいないと思いますし、死なれてしまうともう超えることはできないという気持ちがどこかにあるものです。自分のこどもたちにも、いつかは親を超える、それがどんなことでもいいのですけど、そういう気持ちを持ってもらえるようにと思います。

2011年5月30日月曜日

MRI

MRI検査というのは、ずいぶんと普通の検査になったものです。MRIというのは、Magnetic Resonance Imagingの略。そのまま直訳すると、磁気共鳴画像ということなんですが、もともとはNMRと言っていて、頭にNuclear、つまり「核」という言葉がついていたんです。

正確には核磁気共鳴と言って、時期の影響で分子の核が励起状態となり、戻るときの放出エネルギーに外から別の周波数の磁場をかけて共鳴状態をつくり・・・

う~ん、正直に言ってその原理をよく理解していません。学生の頃にはこの検査は無かったので、授業で教わったことが無いんです。医者になった年に、大学で日本で何台目かの検査機器を導入したんです。

研修医で放射線科をローテーションで回ったときに、チーフの先生から「君は整形外科だから、MRIを知っておかないといけない」と言われ、英語の教科書をわたされ、訳して他の研修医に説明するようにいわれて真っ青!!

当然、まだ日本語の本なんて、まったく無い時期です。今まで聞いたことも無いような、しかも、ほとんど物理学(ひぇ~)の本を訳して来いなんて、無慈悲にもほどがあるってもんです。

まぁ、おかげで、多少はわかったような気になって・・・所詮、あくまでも勘違いですけどね。確かに、整形外科は早くからMRIの恩恵を受けた科でしたから、今となってはMRI無しなんて考えられないような状況ですからね。

整形外科が偉いところは、自分で言うのもなんですが、MRIという新しい「武器」を手に入れたことで、古い検査法を処分したことです。世の中には、新しい検査が出てきても、検査が増えるだけで、患者さんの負担だけが増えるということは珍しくありません。

関節造影と脊髄造影という、それまで整形外科にとって最も重要な検査法が、ほぼMRIにとってかわられるようになりました。今ではよほどのことがないかぎり・・・つまり何らかの理由でMRI検査ができないような場合を除いて、することはありません。

医者になって5年目くらいまでは、必死こいてやっていた検査ですが、たぶん90年代半ばくらいを最後にやった記憶がありません。とにかく、現在では単純レントゲンとMRIがあれば、整形外科の画像診断はほぼ9割がた足りてしまいます。あと、ごく一部でCT検査と超音波ということになるでしょうか。

時代の進歩というのは、いろいろな方法論を刷新していくわけで、医者としてそれについていくというのはけっこうなエネルギーを必要とします。自分も年を取ってきたので、この先大きな変革があったらついていけるか心配になってきました。

2011年5月29日日曜日

完全休養日


本日は、1ヶ月ぶりくらいの、丸々1日休み。完全休養日。
天気のせいもあって、なにもせず1日ぼけーっと過ごしました。

ブログも何を書くか、まったく考えることをやめて、休みにしたいと思います。
あしからず。

2011年5月28日土曜日

ヘルパー研修会講師

今週の木曜日のイベント。ヘルパー2級講習で講師をしました。

過去ブログを探してみると、最初が2008年5月、その後年に2回、5月と11月にやっていて、今回で7回目ということでしょうか。毎回、このことを話題にする時は、「3時間も喋るのは大変だぁ~」と同じ事を書いています。

実際、かなり疲れることは事実ですが、こういうのが根が嫌いではない性分なので、ふだんの外来診療ばかりの気分転換としては悪くはありません。

こうやって数年続いていると、新型インフルエンザ騒動や今回のような地震に関連した災害医療の話など、いつもの話以外にもネタがあるもので、けっこう3時間はあっという間に過ぎてしまうものです。

これもいつも感じることですが、聴講する方々の熱心さ。大学のレギュラーの講義のような、どうでもいいんです的な雰囲気はありません。目的がはっきりしている勉強と言うのは、それだけ身が入るということですね。

思い出してみても、自分も大学生での講義、特に基礎科目での不真面目さは相当だったんじゃないかと。完全にさぼって、遊びに行くのはまだいいとして、中途半端に教室で内職しているほうが、よほど先生に失礼だったのかもしれません。

2011年5月27日金曜日

第2回田園都市リウマチフォーラム

今週の水曜日は、あざみ野メロンディアで第2回田園都市リウマチフォーラム。これは、毎月自分(都筑区)とひろた内科(青葉区)とあゆみクリニック(緑区)でやっている関節リウマチを中心とした勉強会の拡大版。

勉強会を始めたのが2009年8月。1年間たって、これは是非同じ志の先生方をもっと集めてやりたいものだと相談して、昨年11月に第1回を開催することができました。

第2回は3月に予定していたのですが、震災の関係で中止。今週やっと第2回の開催にこぎつけたというわけです。

今回は、2月に関節リウマチ治療のアンカードラック(最も鍵となる薬)と位置づけられているメソトレキセートの増量が認可されたことをうけて、何かと最新の生物学的製剤に目が行くのですが、もう一度メソトレキセートの使い方を再確認することが目的。

何しろ生物学的製剤は薬の値段が高いので、使いたくても誰でも簡単に手を出すことができないことが少なくない。比較的安く使える内服薬をうまく使いこなすということは、生物学的製剤を使うにしても、前段階として必須のことです。

メサトレキセートは商品名としてはリウマトレックスという名前で使用していますが、以前は日本の保険医療の枠の中では、週に8mg、4カプセルというのが最大使用量でした。自分も、定められた用量を超えた使用は副作用のリスクを増やす可能性があると今まで説明してきました。

しかし、実際、日本人に使用するとしても外国の通常の使用量の1/2程度の量ではコントロールがつくものもつかないということは以前からよく言われていました。現実には、副作用は少なくても出る人には出ていますし、増量したからと言ってそれほど頻度は変わらないことがわかってきました。

多くの人でリウマトレックスがリウマチの病気の勢いを抑制し、日常生活を維持していく上で多くの恩恵を期待できるのです。しかし、どうしても、不十分な効果の場合に、高価な生物学的製剤の前に増量という選択肢が増えたことは歓迎すべきことでしょう。

自分たちのような処方する側は、メソトレキセートを増量するのか、あるいは生物学的製剤を勧めるべきなのか、より的確な判断をしなければいけません。増量するのであれば、より副作用のモニタリングなどには注意を払うし、また生物学的製剤を選んだ場合も感染症のリスクを十二分に把握しておかなければいけません。

いずれにしても、よりタイトなコントロールが要求されるようになってきた関節リウマチ診療では、できるだけ早期の診断確定と治療開始、そして早期の寛解(事実上治癒した状態)を目標にするという高いハードルを課せられているわけです。

2011年5月26日木曜日

バンド小僧の野望

どうも、最近bloggerが不安定。先日も投稿やコメントが消えてしまい、全面復旧には至っていません。今日も、投稿の画面にLoginできない状態があって、今まで使っていない別のブラウザで何とか入れました。う~ん、引越しとか考えないといけないのかなぁ。

閑話休題。

自分が高校生の頃・・・いゃ~、きもい、という声が聞こえてきそうですが、長髪でなければ高校生ではないという雰囲気でした。

自分も肩まで髪の毛を伸ばし、10cmくらいありそうなヒールをはいてベルボトムジーンズでその靴をすっぽりと隠して・・・というようなファッションで決めていたつもりでした。

まさに60年代アメリカ(ベトナム戦争で病みだした頃)のファッションをそのまま輸入したかのような、70年代日本の若者の典型的な装いだったのではないかと思うわけです。

そして、実力なんて関係なく、誰でも彼でも何かしら楽器を持ってバンドを結成し、目指すは文化祭の舞台で演奏すること。何しろ男子高だったので、文化祭となると付近の女子高からわんさか女の子が見物に来るわけです。

そりゃ、色気づき始める高校生ですから、このまたとない機会を逃すわけには行きません。とにかく、かっこよくきめてもてたいというのは、全バンド小僧の切ない願望であったわけです。

実際のところ、やはり完璧にギターのアドリブとかをコピー出来るくらいのテクのあるバンドに人気が集中するわけで、結局自分は日の目を見ることはなかったかなぁ・・・

まぁ、それはそれで、青春だったということで。はははっ・・・

2011年5月25日水曜日

ラッパ小僧の夢想

マイルス・デイビス・・・いゃ~、偉大なるジャズ・トランペッター。かっこいいんですよね。あこがれますよね。特に自分が高校生の頃、70年代前半、マイルスが長い雲隠れ生活に入る直前、電気楽器を大胆に取り入れ、もうほとんどロックに近い演奏で、75年の日本公演はアガルタ、パンゲアという2組のライブに凝縮されています。

こうなると、そろそろジャズに傾き始めていた高校生としてはトランペットなるものを吹いてみたいと思うわけです。ところが、ここでも、やっぱり問題がいろいろでてくるわけです。

ギターとかに比べて、とにかく楽器の値段が高い。ふつうにパーパー吹く機会があるわけもなく、そんな高い物を買うわけにはいかない。その頃にラッツ&スターがデヴューしていればよかったかもしれませんが、当時は谷啓はトロンボーンだったし、ぎりぎりタモリはまだいなかった。

もちろん音の大きさもかなりのもので、思いっきり吹ききったときのトランペットの音たるやすさまじい物です。当然、家のなが好きなだけ練習というわけにはいきません。近所に河原とかあれば、多少恥ずかしいのを我慢して外で練習ということもできますがね。

そんなところに、高校生の同級生でサックスを吹く奴がいて、トランペットも持っているという。けっこう金持ちなんでしょうかね。しかも、トランペットはもういらないから、ほしい奴がいたら譲るというのです。

確か1万円で、思わず買い取りました。とはいっても、1万円というのはふだん小遣いではなかなか出せる物ではなく、虎の子のお年玉を放出したと思います。それはともかく、なんでも10万円くらいするらしい(?)トランペットを手に入れたのはいいのですが、まったく音の出し方がわからない。

なんとなく、マウスピースに向かって息を吹き込んでみても、唾液が漏れ出てくるばかり。しかし、ある時開眼したんです。唇を震わすとか、小難しいことを考えずに「ブゥ~」と言えばいいんです。ブゥと言えば、バァと鳴る。ブゥ~と言えば、バァ~と響く。

なるほど、そういうことかと。それじゃドレミにいこうと思って、またもや困惑した。だって、トランペットのピストンは3つしかない。進軍ラッパにはピストンすらない。どうやって音階を出すんだろう。

しょうがないので、トランペットの基本みたいな本を買ってきて、いろいろなピストンの押し方の組み合わせで、いろいろな音階が出せることがわかって練習をはじめたんですが、ちょっとやるとすぐに親からうるさいと怒られ、いっこうに進歩しない。

で、結局、さらに欲しいという奴が見つかったのでドレミもできないままに、1万円で売り払い、結局プラマイゼロということで、めでたくチャンチャンということになったわけです。

2011年5月24日火曜日

ピアノ小僧の挫折

けっこう、小さいときにピアノを習ったという人は多いでしょう。これは、昭和の時代に情操教育というのが流行ったからで、社会が戦後のゆとりが出てきた一つの証みたいなもの。最近は、英語とか体操とか情操教育の内容もシフトして、あまりピアノという単独の楽器を習うというのは減ったように思います。

自分の場合も、幼稚園の頃にYAMAHAのオルガン教室、小学校にはいってからは近所のピアノ教室に通った覚えがあります。でも、すぐにやめてしまって、鍵盤を触っていた期間というとせいぜい2年間程度でしょうか。

あー、あの時もっとちゃんと弾けるようになっていればよかった、と思ったのは高校生の頃。バンドを始めた頃でしょうか。それでも、まぁなんとなく過ぎ去って、社会人になってからあらためてピアノが弾けるといいなぁと思い返すことしかり。

今ではピアノの白鍵だけしかわかりません。つまり白鍵だけでドレミファソラシドを弾けるハ長調なら何とかできますが、調が変わって黒鍵が出てくるとお手上げ。さらに楽譜をちゃんと読む力が無いので、当然譜面通り弾きこなすなんてことは夢のまた夢。

とりあえず、ハ長調の基本コードのドミソ(C)とドファラ(F)とシレソ(G)の指の押さえ方は知っているとしましょう。ここで、コードは3音を右手の母指・中指・小指でいっぺんに弾いちゃいましょう。

左手は1オクターブ下の根音を母指で、2オクターブ下の根音を小指で、右手の和音と一緒に弾きます。根音とは和音のベースになる音で、Cならド、Fならファ、Gならソです。

こうやって一度に両手で5つの音をだすと、どうです、なかなかいい響きでしょう。この作戦をうまく利用していくと、とりあえず簡単な歌の伴奏くらいはなんとかなりそうです。

ビートルズの「Let It Be」の伴奏や、ちょっとがんばれば、「冬のソナタ」のテーマ曲くらいなら、雰囲気だすことはできるでしょう。

まぁ、でも、そこまで。時にはオーケストラにも匹敵すると言われているピアノという楽器を使いこなすには、こんな程度ではあまりに寂しい話で、やはりそれなりの知識と練習をしないとどうしようもない。

無理をしてもしょうがないので、ほんのさわりだけは知っていることで多少は深みのあるリスナー専門になるほうが無難という物です。

2011年5月23日月曜日

ドラム小僧の葛藤

ピアノはけっこう小さいときにやっていた人が多い。ギターは中高生になると、値段的にも手を出しやすい。

ところが、ドラムとなると問題です。メロディ楽器ではないので、リズム感さえあればなんとかなりそうですが、まず第1に楽器の値段がはるので、中高生が簡単に用意することができない。

そして、次に問題なのは大きさ。普通のセットを広げると、最低でも畳2畳分くらいのスペースは必要。当然、持ち運びも容易ではありません。さらに問題なのは、音の大きさ。とにかくでかい。まじめに叩くと、かなりの騒音となるわけです。

今でこそ、電子ドラムとかいう、静に楽しめる道具がありますが、昔はそうはいかない。茶碗を箸で叩いてもうるさいわけですから、普通の家庭ではドラムを置いて練習なんてことは不可能と言って良い。

スタジオを借りたときは、そこに備え付けのドラムを使うことになり、結局普段はスティックで机を叩くだけということになってしまいます。

とりあえず、目の前にはドラムセットがあることを想像しましょう。目の前、一番手前には、一番基本リズムを叩くためのスネアドラムをセットします。そして、その左側にもう一つの基本道具であるハイハットシンバルを置きましょう。

ハイハットは2枚の小さめのシンバルを合わせたもので、足踏みペダルによって2枚を開閉してぱしゃぱしゃと当てることが出来ます。最低、これでそれらしい音になる。

基本は4拍子。右手でハイハットを4回叩き、3拍目に左手でスネアを1回叩くと「チチトチ」という1小節のリズムができあがり。これを繰り返して基本のリズムを維持しましょう。ハイハットは左足でペダルを踏んだままにして閉じたままにしておきましょう。

さて、そしたら次はスネアの向こうにバスドラムをセットします。これは大きめの低音の音を出すわけですが、やはり足踏みペタルがついているので、これを踏んでドンドンと音をだします。

それでは、さっきの基本の4拍子の1拍目にバスドラムを踏んでみましょう。「チチトチ・チチトチ」だったのが、「ドチトチ・ドチトチ」になりました。さらに、1拍目と2拍目に続けてバスドラムを踏むと「ドドトチ・ドドトチ」、ほぉら、かっこよくなってきたでしょう。

そろそろ、おかずをいれたくなってきましたね。それじゃ、大きめの1枚シンバルをバスドラムのちょっと右側におきましょうか。いきなり叩くとびっくりしますから、ドトトチを4回叩いた次のドトトチの最初の1拍目だけハイハットのかわりにトップシンバルをたたきます。

ドチトチ・ドドトチ・ドチトチ・ドドトチ・ジャンチトチ・・・

しびれますね。さらにバスドラムの上にトコトコと叩くタムをセット。これはスネアが小太鼓なら中太鼓にあたります。そして最後にドコドコと叩く大太鼓のバスタムを一番右にセットすれば、ドラムセットができあがりです。

ドチトチ・ドドトチ・ドチトチ・ドドトチ・ジャンチトチ・ドドトチ・ドチトチ・ドドトチ・トコトコトコトコドコドコドコドコ・ジャ~ン(最後のジャ~ンと一緒にバスドラムも踏むのがポイント)

2011年5月22日日曜日

ギター小僧の誕生

クラシックでは楽典という、きちっとした英語の文法書みたいなものがあって、ちゃんと勉強していないと基本ダメということになっています。

それに比べて、ポップス系はけっこういい加減で、感性だけでなんとかしている部分も少なくない。もちろん、ちゃんとしたミュージシャンはちゃんと楽典を知っているとは思いますが・・・

実際、ギターなどで伴奏するときの基本はコード進行。つまり和音をリズミックに出すことで、それなりになってしまう。

基本はI度とIV度とV度の3つの和音で、例えばハ長調(ピアノだったらドレミを弾くのに黒鍵がいらない)の場合には、I度はドミソ、IV度はドファラ、V度はシレソとなって、それでれコード名で言うと、CとFとGです。

楽しい感じの長調の曲ではそれでいいのですが、悲しい感じの短調の場合にはAmとDmとEmが基本の和音。多くの演歌はこの3つだけ知っていれば、なんとかなってしまうわけです。

だいたいギターを始めると、最初に覚えるのが、この6つのコードの押さえ方。とりあえずかっこいい響きを求めなければ、たいていはなんとかなるものです。

そうこうしていると、ただジャ~ンとコードを弾きっぱなしではつまらなくなってくる。そこで、次に覚えたくなるのがアルペジオ。つまり、和音を1音ずつばらして「つま弾く」感じにしたくなる。

一番典型的なつま弾き方が3フィンガーピッキングというやつ。これができると「ジャーン」から「テンテケテケテン」となって、「結婚しようよ」とか「あの素晴らしい愛をもう一度」などの昔のフォークソングがきまるわけです。

ところが、ユーミンという人が出てきて、なんかコード進行がモダンになった。ちょっと、ロマンチックな響きが聞こえてきて、6つの和音だけではどうも雰囲気が出ない。コード進行を見ると、メジャー・セブンスという見たことが無い和音が多用されている。

これは、例えばI度の和音であるド(I)・ミ(III)・ソ(V)にシ(VII)を加えた物。少し不協和音になるのですが、そこのところがなんとも味のある深い響きになるわけです。ギターでの左手の押さえ方も簡単で、ここまで覚えれば怖い物無しでバンド結成というのがおきまりのコース。

あとは、本物のギターソロなどを、一生懸命耳コピ(耳で聞いてメロディを探り出すこと)をして練習する努力を惜しまなければ、学園祭で人気者になれるし、場合によってはプロのミュージシャンになってしまう奴も出てきたりする。

2011年5月21日土曜日

院長の仕事

今朝、お隣のあざみ野棒屋先生に、クリニックの床のモップがけをしているところを声をかけられました。「クリニックの清掃はスタッフの仕事ではないのですか」という質問だったのですが、うちでは朝の床の清掃は院長の仕事なんです。

もちろんスタッフも出勤してきて、朝の一番の仕事は院内清掃ですが、一応床だけは院長の責任としています。これは、たいして重みのないクリニックの歴史から説明しないといけない。

最初、開院の時は清掃業者に週に1度入ってもらい、床の清掃をしていたんです。ところが、いよいよクリニックが潰れるんじゃないかというところまで追い込まれ、自分で出来ることは自分でするしかなくなったわけです。

当然、掃除は自分で出来ることの筆頭みたいなものですから、昔の小学校の掃除当番のようなモップとモップ搾り器を用意したわけです。

これは、けっこう大変なことで、なにしろうちのクリニックは無駄に広い。一生懸命モップ掃除をすると、それなりの運動量になるのです。ただでさえ運動不足の院長としては、健康のためにもいまだに自分の仕事にしているというわけです。

とは言っても、モップで水拭きをするのは週に1回、他の日は科学モップです。ほとんどの汚れは、水拭きで何とかなるのですが、やはりそうはいかない汚れという物がだんだん増えてきます。

前回の年末大掃除では、うちのこどもをバイトにやとって、床を「激落ちくん」で直接磨くという作業をしました。スリッパを用意して、靴を脱いで上がってもらうというやり方もありますが、それはそれで大変でしょう。

まぁ、多少なりとも院長も下働きをするというのは、悪いことではないと思うので、特にこのやり方を変えるつもりはありません。なにしろ、自分のクリニックですからね。

2011年5月20日金曜日

開業医ならでは

開業医を始めて、まだ5年とちょっと。開業医とは、なんて偉そうなことを言える立場ではないことはわかっています。でも、開業医としての楽しみというか、哀しさというか、大学病院の勤務医をしていては味わえなかったことがある。

それは、時間がたっているということ。それだけでは、何のことかわからないと思いますが、例えば5年経つと小学生も高校生になっている。小さかったこどもが、身長が伸びて大人っぽくなっていたりするわけです。

一方、お年寄りでかなりよたよたしていた方が、いつのまにか来院しなくなり、正直亡くなったのではないかと思って寂しい気持ちになったりもします。

うちのクリニックが開院して間もないころから、1年位前まで継続的にいらしていた高齢の患者さんがいます。1年前にだいぶ体力が落ちて、歩くのもおぼつかない感じになり、床に伏せることが多くなりました。床ずれができたり、こりゃもう寝たきりになってしまうかと思いました。

先日、その患者さんが1年ぶりに自分で歩いて来院されました。けっこう表情もしっかりしていて、「どう、死んだと思ったでしょう?」と先に聞かれてしまい、びっくりするやら嬉しいやら。

そりゃ、まぁ、人間ですからいつかは死ぬわけですが、ぎりぎりのところまで行って戻ってこれたことには敬服するしかありません。

こういう、患者さんと一緒に喜んだり悲しんだりするというのは、より患者さんの日常に密接に関わる開業医ならではのことなんだろうと思うわけです。

医者としての専門性は大事であることには変わりありませんが、何でも相談してもらえるような役割もおろそかにしてはいけないということでしょうか。

2011年5月19日木曜日

司馬遼太郎 / 木曜島の夜会

司馬遼太郎というと、なんかNHK大河ドラマになりそうな日本の壮大な歴史絵巻みたいな小説ばかりを書いているというイメージ。

「源義経」とか「国盗り物語」とか読みましたが、「坂の上の雲」は読んでいない。小説も長いし、けっこう読み出すのに勇気がいる・・・と思っている方。あるんです、短編も。

それが、これ。「木曜島の夜会」。

オーストラリアとニューギニアの間に、ちっちゃい島がいくつもあって、火曜島とか水曜島とかあるんです。

その中で、あえて木曜島。司馬遼太郎がわざわざ行って、実際に取材した。明治から多くの日本人が、一攫千金を狙って出かけていったんだそうです。

ここの海で採れる貝が、ヨーロッパで装飾品として高い値が付く。けっこう、危険な仕事で命を落とす人も少なくなかった。司馬遼太郎が、そういう日本人を描いていく話。

もし、よかったら、読んでみてください。アマゾンの古本なら1円からありますし・・・

2011年5月18日水曜日

うぇどねすでい

こんなタイトル、なんのこっちゃですが、自分のように中学生の時に(今でもですが)英語が苦手だった者には、けっこうピンとくる言葉だと思います。

要するに英語のWednesday、つまり水曜日という意味の単語を無理矢理ローマ字風に読むと「うぇどねすでい」になるわけです。スペルを覚えるのに必死で、正しい発音なんてなんのその。

ところが、自分の場合英語の先生がこれを教えてくれたことにすべての間違いの出発点があった!! って、中学1年生の時の最初の英語の教師がひどかった。先生のせいにしちゃいけないと思いたいけど、やっぱりひどかった。

だって、どっちという意味のwhichという単語がありますが、これをまさに「ほいっち」という発音で教わったんですよ。これはめげるでしょう。疑問詞なんて、「ほぉあっと」「ほぉうぇあ~」ですから。もうどうしようもない。

「うぇどねすでい」も当然のように教わり、1週間はもうめちゃくちゃです。もんでい、ちゅーえすでい、うぇどねすでい、すーるすでい、ふりでい、さっつるでい、すんでい・・・ってどこの宇宙人の言葉かよって感じです。

そんなわけで、英語の学習には手こずった。成績がわるかったのは・・・いやいや、人のせいにしゃいかん。

2011年5月17日火曜日

歌謡曲

最近はJPOP(Japanese Pops)と呼ぶんですね。

POPSというのはポピュラーソングのことで、もともと主としてアメリカを中心にした外国の大衆音楽。Popularというのは「人気がある」という意味ですから、大衆に迎合して娯楽に供する、とまでは言わないにしても、少なくともクラシック音楽や一部の人だけが好むようなものは含まれない。

ですからROCK音楽やSOUL音楽でさえも、昔はPOPSには含まれず、別個に扱われていました。しかし、このあたりの垣根もだいぶ曖昧になってきた感がありますね。それだけROCKやSOULが大衆に浸透したというか、当時の若者が大人になったことで聴く側の年齢層が広がったということでしょう。

日本の大衆曲としては、たぶん昭和の頃には歌謡曲と演歌という2種類のジャンルがあって、JPOPという言葉いわれている最近の歌とはなにかが違う。演歌はJPOPとは別の存在として、今も細々と歌われているように思うのですが、歌謡曲が単純にJPOPに進化したわけではない。

自分の知っている範囲では、天地真理・小柳ルミ子・南沙織のところまでは間違いなく歌謡曲。もしかしたら、山口百恵・桜田淳子・森昌子も歌謡曲といって差し支えない。キャンディーズ・ピンクレディあたりは微妙。何がと言われると、なかなか説明できない。

松田聖子からは、間違いなく歌謡曲とは言いにくい。中森明菜以降も当然違う。昔も当然アイドルはいたわけで、小川知子・伊東ゆかり・黛じゅん・奥村チヨ・森山加代子・・・きっと、あげだしたらきりがない。

もう、雰囲気としかいいようがないのですが、とにかく今のJPOPは歌謡曲の何かを積み残したというか、切り落としてしまったのだろうと思います。それが、いいのか悪いのか。とにかく昔を懐かしむ昭和人としては、どこか寂しい気持ちが残ります。

2011年5月16日月曜日

Monday満ちる

マンデイ・ミチルさん・・・と、言っても知っている人なんてそうそういないんじゃないかと。

日本の戦後ジャズ復興の大きな力となり、渡米して自身のビッグ・バンドを率いてアメリカ中、いや世界中でも有数のミュージシャンとして成功した、そうあの秋吉俊子さんのお嬢さんなんです。

もともとチャーリー・マリアーノというサックス奏者と結婚して生まれたのがミチルで、秋吉俊子はその後ルー・タバキンと再婚。タバキンとの関係の方が、より有名ですから、たぶん実施的にミチルもお父さんというのはタバキンかもしれません。

トシコ=タバキン・ビッグバンドの''Insight"というアルバムのなかに「墨絵」という曲があって、これは水俣病の悲惨さを織り込んだ和風テイストの曲。出だしから女の子が、童謡のような、遊び歌のようなメロディで歌います。

村あり その名を 水俣という・・・

和楽器なども登場し、レコード(当時)の片面全部を使って、切々と水俣の光景を歌い上げていく。これはなかなかの聴き応えのある曲で、これから秋吉俊子が好きになったかもしれません。

この歌を歌っていたのが、当時まだ小学生だったミチルで、伸びやかな声が曲の雰囲気をうまく作り出す決定的な要素になっていました。

結局、ミチルはジャズ歌手になって、それなりに知る人ぞ知るという感じで活躍を続けているわけで、実際それほど聴いたことがあるわけではないのですが、忘れられない名前の一つとしていまだに記憶にとどめているのです。

2011年5月15日日曜日

ビューティフル・サンデー

今日はとびっきりの快晴で、さぞかしピクニック日和・・・にしては、ちょっと風が強すぎましたね。でも、まぁ過ごしやすい気候で、一年中こんな天気だと心も体も丸くなるというものです。

ビューティフル・サンデーというのは、もはや外国の歌の懐メロの一つ。1976年に田中星児の歌でヒットしたわけですが、たまたま朝のテレビ番組の中の旅の紹介コーナーで使われて有名になった。

テレビで使われたのはご本家のほうで、まったくと言ってもいいくらい知られていなかった。そんな、ほとんどお蔵入り状態の数年前の曲を引っ張り出してきた番組スタッフの力もたいしたものかもしれません。

実際のところ、カバーして日本語版を大ヒットさせた田中星児の方がインパクトがあって、長髪で若者全員ヘヴィメタみたいな時代に、坊ちゃん刈りで妙にさわやかな風情が逆に受けたのかもしれません。

もっとも、NHKの「おかあさんといっしょ」の初代うたのおにいさんですから、さわやかでなかったら困りますからね。

他にも日曜日の関係した歌というと、個人的に思い出すのは天地真理で「ふたりの日曜日」くらいか。う~ん、考えても意外と思いつかないものです。

2011年5月14日土曜日

サタディ・ナイト

昔は・・・昔はということ自体、自分が年を取ったということですけど。まぁ、気を取り直して、あえて昔はという書き出しに戻りますが・・・昔は、土曜日というと「花の土曜日」だったわけで、明日は休みという開放感が何かわくわくする感じだったんですね。

サタディ・ナイト・フィーバー。もう死語になった1977年の映画タイトル。1週間がんばって働いて、週末になるとはめをはずすというのは、毎日頑張っていく中での大きな楽しみだったわけで、そのあたりを、ほとんどの人が共通の価値観として認識していたんですよね。

特に「半ドン」という言葉もありましが、嘘か本当かオランダ語の休日の意味の「ドンタク」の半分という意味が語源・・・って本当かしら。なんにしても、土曜日だから、仕事は半分で終わりというのも、もう過去のことですね。

いつの間にか、土曜日は休みという人が増えて、金曜日の夜のほうがはじけやすくなったみたい。でも、アラベスクのフライデイ・ナイトというヒット曲は1978年ですから、そのころから金曜日のほうが遊べる人もいたわけです。

ドリカムの「決戦は金曜日」は1992年。バブルはじけた後は、確実に土曜日は1日休み。日本人が、働くなったのもこの頃からなんでしょうかね。いまでは、いろいろなライフ・スタイルがあって、もう別に何曜日が休みでもいいような状況ですからね。

まぁ、こんなことを書いていても、なかなか好きな時に休みを取れない仕事をしている人間のぼやきというだけのことなんですけどね。

2011年5月13日金曜日

13日の金曜日

5/12の分が投稿・コメントもすべて消えてしまいました。bloggerではこんなことは初めて。
まぁ、たいしたことは書いていないので・・・

ただ、毎日書くというところが邪魔されたみたい。ちょっと、残念。とりあえず、キャッシュから本文は復活しましたが。

閑話休題。

ところで13日の金曜日。まぁ、仏教徒、それも不真面目なうわべだけの信者である自分にとってはあまり関係ない。

ところが、本来厳粛にうけとめるべきキリスト教徒でも、ジェイソン君が登場して以来、13日の金曜日はエンタテイメントになってしまいました。

第一作は1980年ですから、もう30年以上前の話。さすがに、あまりに直接的な怖がらせ方を、ここまで積極的に映画に持ち込んだものは、過去に無かったように思います。

そういう意味で、度肝を抜かれたといってもいいかもしれませんが、これも結局アメリカの「ベトナム症候群」みたいなところから出で来たのかもしれません。

さすがに、もういい加減にしたらというくらい続編が作られ、もうジェイソンは寅さん状態。とにかく画面に血が飛び散るだけの映画で、見る価値もなくなっています。

昭和40年代に、TBSのドラマに「キーハンター」というのがありました。千葉真一、野際陽子などのアクション物で、ずいぶんとかっこよかったものです。

そのなかで、ときどき怪談物があったんです。13日の金曜日に合わせていたわけではありませんが、小学生としてはとにかく怖くて怖くてまともに見られない。でも、見たい。

そこで、布団をかぶって、隙間からそーっと見ていた記憶があります。そういう意味では、平和なホラーだったんでしょうね。そんなところも古きよき時代みたいなところでしょうか。

2011年5月12日木曜日

読書

さむっ。一昨日、夏日とかだったでしょ。どうも、こういう季節の変わり目というのは、体調を保つのが大変。かぜをひいたり、お腹をくだしたり・・・

閑話休題。

と、なにげなく書いたりしますが、これは「かんわきゅうだい」と書いて、「それはさておき」と読む。

高校生の頃に読んだ本は、星新一のショートショート、北杜夫のどくとるマンボウ、そして遠藤周作。

北杜夫は医者。船医だった経験を生かした「どくとるマンボウ航海記」や、自伝的な小説の「楡家の人々」は面白かった。

星新一は、とにかく原稿用紙数枚の中に凝縮した世界にはまりまくりました。たぶん、ほとんどすべてを読んだかもしれません。特に「ノックの音がした・・・」から始まるシリーズはわくわくしました。

遠藤周作の体表作というと「海と毒薬」でして、もちろん真面目な純文学です。一方、弧裡庵先生という呼び名も定着していて、かなりくだけたエッセイが楽しかったわけです。

そういうエッセイの中で、しばしば登場していたのが「閑話休題」だったわけで、学校の勉強よりも、読みたくて読んだ本から自然と学ぶことの方が多かったかもしれないですね。

2011年5月11日水曜日

暇なときの過ごし方

台風なんだそうで・・・この時期に日本にプレッシャーをかけてくるとは、並々ならぬやつかもしれません。

台風は12月31日でカウントがリセットされるので、1号というのは、今年になって最初の発生ということです。最初から、日本に来るようではこれからが心配。

そんなわけで、天気が大荒れですから、1日中患者さんの足は鈍り続け、クリニックとしてはかなり暇な1日となってしまいました。

こんな日きインターネットとか見て過ごすしかないかと・・・ところが、朝のうちから急にネットに接続不能状態になってしまいました。

こりゃ、どうしたことか。いろいろ調べてみたら、なんと無線ルーターが動いていない。他のACアダプターを使ったら、LEDが点灯。ACアダプターがいきなりダウンというのは、ちょっとびっくり。

ところが、なんでかわからないのですが、ルーターが再起動したあとはどうやっても、ネットに出て行くことが出来なくなってしまいました。

なんども、パソコンの設定や、ルーターや、大元のルターなどリセットしまくってみましたが、どうにもならない。結局、ACアダプターが飛んだときに、過電流となったかとて、本体もいかれてしまったのではないかと結論に達しました。

しかたがないので、昼に新しい無線ルーターを買ってきて、午後からは接続できるようになったのですが、患者さんが少なくて暇な時間を「有効」に活用することができたことは、まぁよしとしましょう。

あ~、また、余計な出費をしてしまった・・・・

2011年5月10日火曜日

リウマチ勉強会

近隣の先生と関節リウマチの勉強会を始めて、ずいぶんとたちましたが、今日の会場はうちのクリニック。日頃、診断に困っていること、診療をしていて疑問に思うこと、珍しい話で他の先生も興味をもちそうなことなど、いろいろな話題で盛り上がります。

この会は診療所同士でお互いの得意不得意のカバーをすることにもつながり、いろいろと役に立つ有意義な時間をすごせます。とはいっても、内科的な知識の少ない整形外科医の自分は、他の内科の先生の話になかなかついていけずに四苦八苦しているわけです。

今夜は、自分は診断で悩んでいる患者さんの例を相談しました。単純にリウマチと診断できないようなとき・・・もっとも、単純なリウマチなんて無いのですが、他の先生の意見は大変貴重です。

一方、別の先生からレントゲンを見せてもらいましたが、普通の加齢性変化とは違う点を指摘することができました。このあたりは、整形外科医のほうが得意なところで、多少は自分も役に立っているかと思えるところです。

こういう意義のある会を、少しでも拡大して診診連携(クリニック同士)から病診連携(病院とクリニック間)へつなげていきたいという思いから、去年の11月に第一回の田園都市リウマチフォーラムを行いました。

聖マリアンナ医科大学の山田先生(膠原病リウマチ内科 教授)に協力していただき、今年の3月には第2回を行うことになっていたのです。しかし、震災の影響で中止にせざるをえなかったので、今月あらためて第2回を行うことになりました。

リウマチを本気で、しっかりと診療していきたいと思っている医者だけの勉強会として、しっかりと根付かせたいと思っていますが、なにしろ自分たちだけで盛り上がっていてはしょうがない。

是非近隣の先生方に参加していただいて、少しずつでも発展させていきたいものです。そのためには、ただ勉強になるというだけでなく、専門医の資格を継続するための単位取得もできるような形も必要だと思っています。

なんにしても、ずっと勉強を続けることが多いのが医者という職業。どうせするなら、楽しく役に立つ勉強をしたいと思わずにはいられません。

2011年5月9日月曜日

箱根町

箱根の山は天下の険、と歌われた峠の方まではいきません。小田原から箱根に入っていくと、その入り口に当たるのが箱根湯本。箱根を観光で訪れる人々にとっては玄関口となる場所です。箱根湯本の駅前を国道1号を少し、東京よりに戻ったところに風祭というところがあります。

東名高速道路の厚木インターから小田原厚木道路、通称小田厚に入って終点。降りてすぐのところには、蒲鉾で有名な鈴廣があり、そのすぐ横に箱根病院という古びた病院があります。

ここが、浜岡の近代的な病院の次に大学からの出向で赴任したところ。何しろ戦争中に作られた病院で、当時ですでに50年近くたっているわけで、その古色蒼然とした歴史的な風合いといったら相当な物でした。

もともと脊髄損傷の専門病院として始まったのですが、それ以外に神経難病の患者さんも入院していました。脊髄損傷の患者さんは、大学病院などで急性期治療が終わるとリハビリテーションの目的で転院してきます。

そろそろ、この先一生続く半身不随という状態に対する精神的なショックから立ち直りかけてきた若者が多いので、整形外科病棟は比較的明るい雰囲気でしたが、内科病棟は違いました。ほとんどの患者さんは、少しずつ筋肉が動かなくなって、しだいに呼吸もできなくなり、間違いなく死を待つことになる。患者さんも、それを知っているわけですから・・・

一番の特徴は、いわゆる傷痍軍人の方が入院しているということ。とは、いっても戦後ずいぶんと立ちますから、当時残っている元軍人の方はわすがに3人程度。家族と一緒に離れの西病棟というところに「住んで」いたわけです。

本棟から山道のようなところを5分ほど歩いて西病棟に到着し、毎日ご機嫌を伺うというのが自分たちの日課です。晴れている時はちょっとした森林浴みたいなもので気分転換にもいいのですが、雨が降るとぬかるんだ道を向かうのは気が重い。

病院の廊下には売店があって、普通に病院にありそうなもの以外に、野菜とか漬け物とかも売っていました。さて、そこへやってくるギャングがいたのです。裏山から猿がやってきては、売店の売り物をかっさらっては逃げていくということが日常的に見られました。

もう一人、一緒に出向した後輩がミリタリーマニアだったので、いろいろなエアガンを所持していました。彼は、それを持ってきて、売店のおばさんの悲鳴が聞こえると、ロッカーからエアガンを取り出して、脱兎のごとく猿を追跡。しばらくすると、息を荒げながら「取り逃がしました」と戻ってきたりします。

整形外科の回診というと、ほぼすべてが脊髄損傷の患者さんですから、一番毎日気にして見て回るのがお尻。つまり床ずれ、褥瘡(じょくそう)ができていないかチェックすることが大事な仕事の一つでした。

手術も当然、床ずれの手術ばかり。簡単な物は、洗って一部を切除して縫合するだけですが、中には皮弁や筋肉皮弁と行った形成外科的なテクニックを要する物もけっこうあって、けっこう勉強になりました。

最初はなかなか違和感があったのが、麻酔をしないでいきなり手術が始まるということです。つまり、脊髄損傷の患者さんはお尻はたいてい痛みの感覚が無くなっているので、麻酔の必要がないわけです。

さらに驚いたのは、患者さんの夕食の時間。午後4時からというのは、そうとう早い。これじゃ、リハビリに精を出した若い患者さんは、夜お腹が減ってしょうがない。実は、この病院は国立病院で、一般職員は5時には仕事を終えなければならなかったため夕食時間が早まっていたのです。

公務員は数年で移動していくので、何かを改善しようとしても、結局予算がつくのは来年で、その結果が出るときには転勤となってしまう。ですから、よけいなことは極力したくないという雰囲気がありありとあって、随分とやりにくい思いをしました。

前の年が地方公務員で、この年は国家公務員を経験し、また他の病院では絶対にお目にかかれない患者さんばかりを診療できたことは、今の自分の基礎を形成する一部になっていることは間違いないわけです。

最後の西病棟の回診の後に、かなり年老いた婦長さんから一本の折りたたみ傘を記念いただきました。この傘は、だいぶ痛んできましたが最近まで現役で使わせてもらっていました。

おそらく、もう傷痍軍人さんもみなさん亡くなっていることでしょう。二度と経験することができない、ずいぶんと得した一年だったと思い返せます。

2011年5月8日日曜日

浜岡町

鰻の寝床のように東西に長く伸びた静岡県のほぼ真ん中、御前崎のすぐ西に浜岡町があります。静岡市と浜松市の中間にあるから「浜岡」なんだそうです。東名高速道路からは菊川インターを降りて、ぶんぶん南下して1時間ほど。

浜岡砂丘というのが有名で、また宮城まり子さんのねむの木学園でも知られています。

20年ちょっと前のことですが、自分は医者になって4年目、初めての出向先がこの浜岡でした。人口はわずかに2万人ほどと聞いていましたが、さして大きくもない田舎の海辺の町に、たいそう立派なモダンな町立病院ができてまだ数年。

着任して、これまた病院敷地内にある立派な宿舎に住むことになりました。先輩が、最初に教えてくれたのは食事をするところ。毎晩、いろいろな店に連れて行ってもらいましたが、1週間もすると主なところはおしまいで、最初に行った店に行きました。

町には鉄道が通っていないので、町の中心というのがよくわからない。なんとなく、家が並んでいるという感じでした。そんな町に、飲み屋だけはやたらとたくさんあって、200軒以上あると先輩に教えてもらいました。

なんでかというと、浜岡には原子力発電所があるというのです。そんなことも、まったく知らずに出向いたわけですが、その原子力発電所で働いている中部電力や工事関係の人々がたくさんいるので、飲み屋はいくらあっても大丈夫というわけです。

ちょうど、この年の途中で結婚したので、宿舎から出て、一戸建ての宿舎に移りたかったのですが、今は空きがないということで、すぐ近くの平屋の一軒家に移ることにしました。

驚いたのは、昼間人がいないような家では、電気代がかからないどころか、むしろプラスになったりするということです。これは原発があるため、中部電力から電気代が戻ってくるというわけなんです。

隣に住んでいたご夫婦はとても良い方で、ご主人は原発の工事に携わっているとのことでした。浜岡は冬になると遠州灘からの、ものすごい強風が毎日のように吹き荒れます。土台にコンクリートブロックを使った洗濯干しも風で倒れてしまうほどです。

ある時、住んでいるところの地面に、くねくねと土が盛り上がったようなあとが出来ていて、なんだろうと思ったら、どうももぐらが通った跡だというのにはびっくりしました。

交通事故といっても、たいしたものはなく、農道の交差点で軽自動車同士が出会い頭に衝突。両方とも時速20キロくらいだったので打撲程度というようなかわいらしいものがありました。

町議会議員、というと町の名士ですが、事故の加害者らしいのですが、町の病院なんだから被害者のケガは無かったことにしろみたいなことを言い出すこともあったりしました。

飛び降り自殺があったのですが、たいしたケガもしなかった。なんでかというと、一番高い建物でも3階建てだったので、という笑うに笑えない話もあります。

また、今までの生涯でたった一度お年玉年賀はがきの一等賞が当たったのも浜岡にいたときでした。29インチのテレビをもらい、町の郵便局で、町の広報に載せるという記念写真をとられた記憶があります。

そんな断片的な思い出がたくさんあるのですが、あれから随分と時がたって、町の様子もだいぶ変わっているのでしょう。今、日本中から注目を集める場所の一つになっているわけですが、少なくとも自分にとっては短い期間でしたが、一生忘れることのない土地になっているのです。

2011年5月7日土曜日

危機管理

震災後、国内で最も日本中の注目を集めているニュースは・・・焼き肉チェーン店での集団食中毒でしょうか。連休中のニュースというと、こればかりでした。

はじめは逆ギレとも取れるような態度で記者会見をしていたチェーン店社長でしたが、日に日に憔悴しているのが誰の目にも明かです。最も責任がある立場であることを考えると同情するわけにはいきませんが、だんだん記者たちの矛先も鈍っているような印象があります。

食の安全ということが、あらためて叫ばれるようになってきましたが、そのまま医療の安全という言葉に置き換えることもできるわけで、あらためて危機管理ということを考えないわけにはいきません。

危機管理というのは、現代社会では大変重要と言われていますが、その本質をちょっと間違えると、「言い逃れ」とか「責任転嫁」ということにもなりかねません。

突然の首相の浜岡原子力発電所停止要請も、もし立て続けに東海地震が発生し浜岡原発が事故を起こしたら日本は経済的に破綻することになるという危機感からだと思います。実際、浜岡原発の安全についても確約される物はおそらく何もありません。

しかし、実際そうなったときに「だからあの時停止しておけ」と言ったでしょうみたいな、自己保身的な伏線と考えることもできなくはない。

現政府が、現在進行形の日本の危機に対して全責任を負うのは当然ですが、前与党も批判ばかりしていないで、今の原子力推進路線を作ってきた張本人としての行動をしていただきたいものです。

一方、世界に目を向けてみると、最も衝撃的だったのはアメリカによるビン・ラディン殺害のニュース。オバマ大統領ははっきりと「殺害した」と述べていますから、これは国家による「犯罪」と言えなくもない。

実際、当事国のパキスタンには許可どころか事前通告もせずに、いきなり複数のヘリコプターで強襲しているわけですから、戦争の中で人が死ぬということとは一線を画すものであって、それは「殺人」です。

殺人をアメリカの正義とするなら、こんな恐ろしいことはありません。確かに、生きて身柄を確保したとしても、どうやってアメリカに連れ帰るかとか、裁判をどうするかとか、困難な問題が山積みになるだけでしょうから、殺害は現実的な決定なのかもしれません。

ここにも、超法規的な危機管理の考え方が見て取れます。いずれにしても、これで2001年の呪縛から解放されるわけではなく、あらたな危機の連鎖を始めてしまったのではないでしょうか。

とにかく、身の回りの小さいところから、地球規模での大きなところまで、ありとあらゆる危機がいたるところに存在するのが現代社会だということを、今更のように再確認するわけです。

2011年5月6日金曜日

Perenyi + Schiff / Beethoven Cello Sonatas

さて、ちょっと古いものを前回紹介しましたが、じゃあ、新しいところだったらどうなのよ。そういう疑問が出るのは当然・・・でもないかもしれませんが、勝手に答えを考えた。

ハンガリーの名手というとミクローシュ・ペレーニ。もちろん新進気鋭というわけではなく、もう大ベテランでして、かなり前にベートーヴェンのチェロソナタ全集をすでに出している。

そのペレーニが21世紀になってから、新たに同じハンガリー出身の名ピアニスト、アンドラーシュ・シフと組んで録音したセットがあります。これが、すごくいいわけです。

ヘレーニの音色は慈愛に満ちているというか、とにかくやさしい。モダン・チェロを使用しているのでしょうが、響きのよい古楽器でも使っているかのようです。そして、何しろ音色がぶれずに、かつきっちりとした音程を維持するところはさすがです。

チェロ・ソナタとは言っても、ベートーヴェンのものはチェロとピアノのからみがポイントで、ピアノがただの伴奏になっていないところがすごい。

ですから、シフは同郷の大先輩に対して、しっかりと尊敬の念をもって接しているわけで、引くところはしっかりと引き、出るところは堂々と出てくるあたりのバランスが絶妙です。

ところで、このCDを出したのはECM。ECMと聞くと、普通はジャズのレーベルであることが思い出され、昔から大変クリアな音色の録音には定評があります。また、ジャズと一緒でクラシックに進出してからも、比較的モダンなアンサンブルを中心に独特なムードを持っている。

シフはもともとデッカと専属契約していて、クラシックの王道を行く録音を多数残してきました。そのシフがECMと契約して今回のような、古典的クラシックを作るというのは、ECMにとってはある意味相当な覚悟があるんでしょう。

やはり、キース・ジャレットのなんとも中途半端なバッハのシリーズではダメと思ったのかもしれません。シフはこれ以外にも、すでにバッハ、シューマン、そしてベートーヴェンのソナタ全集も製作しており、過去以上に注目作を立て続けにリリースしており、なかなか目が離せません。

2011年5月5日木曜日

Leslie Howard / Liszt Complete Piano Works

クラシックピアノを語る上で、どうしても避けては通れないという作曲家が何人かいます。J.S.バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの有名どころは当然ですが、おそらく近代ピアノのムードを確立したことでショパンとリストの二人ははずすことができません。

もともと甘いショパンはあまり好きではなかったのですが、最近は多少は聴くようにはしています。それより、ピアノ界の鉄人、リストの方がなんとなく昔から好んでいる。

そんなわけで、なんとかリストの曲をそろえたいと思うわけですが、なんとも底が深くて全容が見えてこない。ショパンなら、作品は整理されていて、今時のCDだったら15枚前後で完全な全集ができあがる。

実際、そういうショパンの企画は山ほどあるわけですが、ことリストとなると単発のアルバムは数え切れないのに、まとまった集大成されたものはほとんど見かけません。これというのも、あまりに膨大な数の作品があって、学者の方にも何が何だかわかっていないというこらしい。

そこで、手始めに有名なリスト集成というとボレットがいいんじゃないかと。シフラの集成も有名で、だいたいどちらかを手に入れれば、通常知っておきたい曲は基本的にそろうことになります。

ただ、多少聞き込んでくると、第3番とついている曲があれば、第1番や第2番も聴きたくなってくるわけです。そこで今年の新年早々に発売されたのがクリダの「全集」になります。もともと70年代に、この全集が作られたときにはだいたいこれで全部と思われていたわけです。

ところがとっこい、そのあとにレスリー・ハワードというとんでもないピアニストが現れました。そもそも音楽学者ということもあって、リストの作品を拾い集めだしていろいろと考証し、時には自ら補筆完成させるという。

有名曲の初稿や、別バージョンなんかも山ほど発掘し、リストが何気なくほぼ即興的に書いた、他人の曲の編曲物や大量のオペラのピアノ独奏版なんかもほじくりだした。

正規の作品として取り上げるかどうかは、価値判断がわかれるところでしょうが、とにかくこつこつと録音を重ねてなんと全60巻CD99枚

一番最初が録音されたのは1985年で、2010年に最後の巻が発売され、四半世紀をかけて完成したことになり、その演奏時間のトータルは7320分26秒というから、もう驚きを超えてあきれるばかりです。

ショパンマニアという言葉は使われませんが、リストマニアというのはよく聞くわけで、もうまさにマニアによるマニアのための大全集というわけです。こんなキチガイ沙汰の企画なんて、もう誰も作ろうとは思わないでしょう。資料的な価値も高く、偉業と言わざるをえません。

ただ、一枚物で2000円くらい、2枚組なら4000円という値段は最近のCDの値段としてはけっこう高めの設定です。レコード会社もそうは売れないと思っていたのでしょうか。全部そろえるとなると20万円ちかくかかってしまうのではないでしょうか。

さすがに、自分も興味深い物だけ数点買っていますが、とても全部そろえる気持ちにはなりません。第一、全集を完成させるために、けっこうやっつけ仕事的な側面があることは否定できません。そもそも、楽譜があるからといって、聴くほどのないようなものまで含まれていますから、演奏技術的にも演奏芸術的にも疑問が残るようなところもけっこうある。

ところが、ところがですね、今年はリストの生誕200年。完成したばかりの全集がいきなりボックス化されて発売されたのです。しかも、値段はHMVで25000円弱という、もとの値段を考えると破格の値段。

とはいえ、内容的なこともありますし、驚異の価格破壊とはいえ、1万円を超えるようなボックスセットなんて、めったにあるわじゃない。さすがに購入するには、そうとうの勇気がいります。

そこで、じっと待つこと3ヶ月。ついに実売値段が下がるセールが4月はじめにあったわけです。いつもの購入値段に合わせてのポイントだと、ポイントは大量に付きますが出ていくお金はけっこうなもの。値下げセールで20000円ちょっとになったところで、貯まっていたポイントを一気にはき出してしまいました。

と、いうわけでお金を使わずポイントだけで、この高価なセットを手に入れてしまいました。あ~、99枚聴き終わるのはいつのことになるのやら。おそらく、聴き返すものは数枚(それも、すでに持っている)くらいかもしれませんが、マニアの所有欲を満たすにはあまりあるものだというわけです。

2011年5月4日水曜日

Maisky + Argerich / Beethoven Cello Sonatas

日頃クラシックピアノの話題が多くなっていますが、弦楽器も嫌いではありません。特にチェロはむしろピアノよりも以前から聞く耳を持っていた楽器で、低音の暖かい響きが心を和ませるわけです。

ヴァイオリンに比べると、名曲・名人・名盤の数は少ないのはしょうがありませんが、その割には演奏者の中に巨匠と呼べるような方がいる割合は高いように思います。

ベートーヴェンのチェロ・ソナタは、バッハの無伴奏組曲と並んでチェロの定番曲の一つで、もう古今幾多の録音があって、どれを選択して聴くかは大いに悩みどころです。

カザルス+ゼルキン、ロストロポーヴィチ+リヒテル、ビルスマ+インマゼール、ヨー・ヨー・マ+アックス、鈴木秀美+小島芳子、デュ・プレ+バレンボイムなど探したらどんどん興味深い組み合わせの演奏が出てきます。

フルニエにいたっては、シュナーベル、ケンプ、そしてグルダと名ピアニストとの競演がたくさんあったりします。いずれにしても、弦楽器のソナタは独奏者と伴奏ピアニストのバランスが重要。

そんな中で、今回取り上げるのはマイスキー+アルゲリッチ盤です。ヴァイオリンのクレメールと共に、古くからの盟友で、いくつもの競演盤があり気心の知れた間柄。

クレメールとアルゲリッチの競演するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全集は、アルゲリッチの過激とも言える攻撃的な伴奏が、クレメールをいっそう刺激して火の出るようなかけひきを展開する名盤とされています。

マイスキーとの競演でも、アルゲリッチは遠慮なしにチェロを煽るように終始攻め立てています。さすがに両者とも手の内を知り尽くした関係ですから、そのあたりの押し引きはなかなか素晴らしい。

演奏者にとって一人で自由にできる独奏曲とは別の意味で、合奏することの楽しさみたいなものが全編にあふれています。Sonata for Cello and Pianoというより、Sonata for Cello versus Pianoという方が合っているような演奏です。

一方で、ヴァイオリンに比べて低音域の楽器であるチェロの場合、しばしばアルゲリッチの強烈なピアノに隠れてしまう瞬間が少なくありません。マイスキー自身のテクニカルな問題なのかもしれませんが、時にはPiano Sonata with Celloと間違えそうなところが見受けられるのが残念。

実際、これだけの組み合わせによる演奏にしては、あまり名盤として取り上げられることが少ないように思うのも、このあたりが理由にあるのかもしれません。

2011年5月3日火曜日

年寄りの繰り言

ゆとり教育は失敗だったというような結論が出たとか出ないとか、巷では時々ニュースになったりする今日この頃です。

だったら、国民全体もやたらと増やした休日を減らして、もっと働いた方がいいんとちゃうか。日本人はずいぶんと休み好きになってしもうたような気がします。大人が休んでばかりでは、こどもにもしめしがつかないでしょうが。

休みを増やして、遊びや買い物に金を使いなさいという、いつごろからかの政府の方針かどうかはわかりませんが、遊ぶためにはまず働かないとね。順番が違う気がします。

そんな、半分ぼやき調子でGWに突入している自分ではありますが、今日は天気も下り坂でいまいち気分が盛り上がらない。

さて、気を取り直して、こういう時に自分の周りを再点検して、今後に役立つように考えてみようと思い立ちました。

医院経営者という立場にある、クリニック院長兼医療法人社団理事長ですから、当然赤字経営になるようでは失格です。医療は特殊な商品ですから、保険医療のもとで経営しているからには、保険診療を遵守して患者さんの数を増やすことが黒字を目指す正当な方法論ということになります。

なんか難しいことを書いていますが、ようするに良識を持って病気やケガの治療にあたればいいわけですが・・・いかんせん、ただ漠然とやっていてはなかなかプラスマイナスゼロみたいな世界なので、なんらかの工夫が必要なんですね。

ある医者は、患者さんをいかに何度もこさせるかで勝負しているかもしれません。また、ある医者は、一度の来院であれもこれもとやれるだけやって一度の売り上げを増やすことにやっきになっているかもしれません。

でも、結局、何度も通院しても直らないのでは患者さんは離れてしまいますし、またやたらと高い医療費がかかるようでは二度と来院してくれません。

ですから、学問的な根拠の元で、必要最低限の検査や治療でできるだけ早く直すことが最も大切で、その結果として次に何か困ったときにリピーターになってもらえることが基本理念であることは疑いの余地がないところです。

しかし、学問的な根拠というのもなかなか決定的なことが多くはないので、絶えず知識を整理して新しいものにしていくことはかなりの労力が必要です。ですから、自分の知っていることや出来ることをちゃんと整理しておくことが大切なんでしょう。

患者さんの満足度というのも様々ですから、できるだけ患者さん一人一人に合わせてオーダーメイドのような医療を提供できることが望ましい。ところが、これもまた大変に難しいことです。

どうしても、自分の医療のスタイルというのはある一定のパターンに入ってしまうので、そうそうガラっと変えることはできません。ですから、できるだけ努力はしているつもりですが、患者さんの方でも医者をうまく選択することができる環境が必要ということになります。

クリニックを選ぶ理由の第一位は、たいてい「家や職場に近いから」ということに相場は決まっています。しかし、自分の開業している横浜市都筑区は大変クリニックの多い場所ですから、ある程度患者さんも近いところの中で選択する自由がある場所です(その分、こっちは大変ですが)。

そうなると、原則として広告活動が法律的に制限されている医療機関ではありますが、少しでも何らかの情報を発信していかないといけない。

最も強力な情報伝達は、結局良くも悪くも口コミです。悪い噂が広まるのはとても早いのですが、良い話というのはなかなか伝わっていきません。しかし、クリニックに満足してくれた患者さんの口コミは、大変少しずつですが、一度伝われば強力な武器になります。

そして、ネットを利用したホームページやブログなどもうまく活用することは、現状では当たり前のことになっています。

そして、どんな情報を発信していくのか、ということはより重要なことです。発信する情報がなければどうしようもないので、やはり何かセールスポイントを持たないことにはどうしようもない。

どんな問題にも相談に乗れて解決はできなくても、一定の道筋をつけることができます、というのがホームドクターという名のセールスポイントです。これは主として内科の先生にまかせることにして、うちのような整形外科の場合には、何か専門性を打ち出すことは必須と言えます。

自分の場合には、それが関節リウマチ診療ということになりますし、ことリウマチに関してはそれなりの努力を惜しみません。もちろん、一般整形外科もないがしろにしているわけではありませんが、少なくとも手術治療という大きな柱を直接持っていない開業医としては、一定レベルまでを維持していることが求められます。

専門的な部分で患者さんを集めることができれば、収益的な部分でもある程度のゆとりができるので、一般整形外科の部分で無理をしないでもすむようになります。うちの場合には、平均的な整形外科クリニックよりもかなり少ない患者数ですが、なんとか成り立っているのはここに理由があると自己分析しています。

こんな話を書いているときりがないのですが、実は先日、大学の後輩が開業するにあたって見学にきたんです。それで、いろいろ開業医についての話をしていて、その中で多少は先輩としてアドバイスできるポイントを整理してみたという訳なのです。

とにかく、開業前にどれだけの準備をして、どれだけの自信をつけたとしても、実際には簡単にはいかないのがこの世界。コンサルタントはいくらでも甘い話をしてきますが、彼らは開業させるまでが仕事。開業してからクリニックをうまく運営していくのは自分です。

なんとかなりそうと思えるのに3年。やっと基礎が固まったと言えるのに5年。うちの場合は、やっと正規のスタートラインについたばかりという話を最後にしましたが、どうでしょうか。夢見る若者には、どれだけ話が通じたものやら。

2011年5月2日月曜日

TZK48

連休の狭間・・・今日はそんな日です。朝から、街を走る車の数も少なめ。例年、レジャーに行く人も多く、クリニックは閑散・・・と思いきや、今年はだいぶ違いました。朝から激混みというわけではないにしても、途切れることなく患者さんが来院。

終わってみると、うちのクリニックでは珍しい「大台」に乗りました。まぁ、普通に流行っている整形外科クリニックなら、「そんな数で喜んでいるのかい」と笑われそうなものですけど。

連休中で、今日に患者さんが集中したというところでしょうか。まぁ、さすがに50歳をこえるとしんどいところもありますが、まだまだがんばらないと、っていうところでしょうか。

話は変わりますが、AKBは秋葉原。あきばのAとKとBですね。こんど新しく出来たのがHKT48ですって。Hは「は」Kは「か」そしてTは「た」というわけで、博多のこと。

ちなみに名古屋のグループはSKE48。なんで名古屋なのにSKEなのかと不思議に思っていたのですが、なんと栄のさ・か・えだったんですね。なるほど、秋元康もやるもんです。

だったら次はTZK48もやってもらいたい。もちろんツヅキのこと。AOB48(アオバ)でもいいんですけど。なんか今日は疲れてしまい、そんな、どうでもいいことを考えてしまうのでした。

2011年5月1日日曜日

辛いもの好き


けして自分が特に辛いものが好きというわけではありません。自分の好みの程度は、あくまでも常識の範囲内だと思っています。

××倍カレーなどというのは挑戦したことはありませんし、蕎麦にかける七味唐辛子も数振り程度。辛味噌ラーメンは好きですが、スープの表面が真っ赤になるくらいのものは避けてしまいます。

この前、久しぶりに近所の焼き鳥大吉にいったら、新メニューでタコスがあった。焼き鳥屋でタコスというのも、どういうものかと思わないわけではありませんが、とりあえず味的にはOKということでした。

でもって、店の主人が一緒に出したのが誰もが知っている辛味ソースのタバスコ。メキシカンでは定番の味ですから、タコスとの相性には問題ありません。ただ、これが業務用ででかい。普通の家では、これ一本でゆうに1年以上もってしまいそうです。

さらに、お馴染みさん用には「もういっちょ、これを試したら」というわけで出してきたのが、なんと''Sudden Death''という名前のソース。名前からして怪しい。どうみたって、一撃で死ぬぞと言わんばかりです。

さて、試してみたら・・・いや、ほんと、指先にちょっとだけ、一滴もつけていませんが、舐めてみたら・・・カーッ、アヒヒヒヒ、フォ~、ビール、ビールちょうだい!!
と、いう感じです。いやもう、辛いなんてもんじゃない。しばらく舌がしびれた感じが続いて、いやいや、もうけっこうです。

辛さはタバスコを1とすると、辛いので有名なハバネロが2、そしてこのSudden Deathソースは23だそうです。こりゃもう、旨いとか言っているレベルではありません。とにかく、なんでもチャレンジしたい方は是非おためしください。

ちなみに近所の大吉は住宅街の真ん中にあって、地震以来特に影響はないということでした。停電しない地域ということもあるのでしょうが、駅前の寂れ具合に比べると雲泥の差のようです。