2012年10月19日金曜日

報道の不自由

ハシモト知事の過去・・・といっても、本人ではなく祖先のことなどを暴くというタイトルのもとに、家系などの問題点から本人を批判するという記事が問題になっています。

報道の使命として、世の中のことをつまびらかに明らかにするということがあります。当然のこと、言論の自由は憲法で保証された基本的な権利であり、メディアはことあるごとに「報道の自由」ということを叫びます。

また、時代は物事を包み隠さずにすることが正義としています。当事者以外も「知る権利」という言葉があるように、自分たちの医療の業界でも情報のオープン化はどんどん進みました。

その一方で、個人情報の守秘という点についても求められるわけで、隠してはいけないことと隠さなければいけないことの二極化が進んでいます。しかし、それぞれの分岐点についてはやや曖昧で、いろいろな現場で何らかの混乱は避けられません。

ハシモト知事問題は、まさにその分岐点の上にある話。知事という公人であるからには、知事としてふさわしい人材であることを積極的に公にしていくことはある程度義務としてあるはずです。また、本人もそれを報道によって明らかにされることは覚悟しているはずです。

しかし、それはあくまでも本人についてであって、家族を含む周囲の人々まで巻き込んでという話はいきすぎでしょう。まして、すでに亡くなっている祖先まで遡って、本人の「DNA批判」をするというのは、とても一般の支持を得られるものではないように思います。

さらに、大新聞社の週刊誌媒体で、今は100%出資の子会社からの発行であるという理由で親は知らん顔というのは社会通念上は通用はしないでしょう。編集の独立性はあっても、新聞社は連帯する責任を回避することはできません。

何にしても、いろいろな制約をつくってそれを守ることが社会を構成する基本ルールであるからには、大事なのは報道の不自由ではないでしょうか。メディアは自由を正当化する前に、まず襟を正して不自由を明確化することが求められるのだと思います。