2013年1月4日金曜日

黒澤明 「天国と地獄」 (1963)

以前にも、少しだけこの映画については書いたことがあるのですが、どうも好きなタイトルばかりに目がいってしまいます。

黒澤映画の現代物の中では一二を争う白眉の出来と思います。「野良犬」で開拓した刑事ドラマというジャンルを、黒澤自身が完成させたものです。

テーマは誘拐。今と当時では、誘拐事件に対する罪の大きさが違います。営利誘拐は本人または家族を脅迫しないかぎり成立しなかったので、他人のこどもを使って脅迫しても、最高で5年程度の刑にしかならなかったのです。

黒澤は、誘拐という卑劣なな犯罪を徹底的に糾弾していきます。「野良犬」では、犯罪の裏にある人生のドラマも取り込んでいましたが、ここでは犯人に対しては同情の余地を残しません。

いきなり最後のシーンの話に飛ぶのは恐縮ですが、犯人と被害者が拘置所で金網越しに対面します。平静を装いつつも取り乱していく犯人と冷静に見つめる被害者の間に、シャッターがおりてきて、いきなり「終」となるところは印象的です。

両者の間の関係を断ち切り、犯人に対してシャッターはギロチンによる断首刑のような効果を出しているように思います。黒澤の「このような犯罪を絶対に許してはいけない」という気持ちが何よりも強く表現されたものです。

時代は東京オリンピックに向けて、日本が高度経済成長の真っ只中に突入した頃。貧富の格差が、確実に出来上がっていた時代です。「三丁目の夕日」のように、貧しくてもお互いに助け合う気持ちが市中には残っていたにもかかわらず、孤立を深めていく日本人も確実に生まれていたのです。

「野良犬」では、復員してカバンを盗まれ、善と悪に枝分かれしていく二つのタイプの人間が対比されていました。それから15年たって、対比する対象は、貧しさの中から誠実に仕事を積み重ねて地位と富を手に入れた者と、単に富を手にした者へいわれのない憎悪を深めていく犯人とに変わりました。

権藤(=三船敏郎)は、誠実な仕事を続けるために会社の実権を掌握するために全財産をかけて金を用意します。まさに、その金を使おうとしたときに事件が発生するのです。


間違えて住み込み運転手の息子が誘拐された権藤は、犯人から「間違えでもあんたは金をだすよ。こどもを見殺しにする度胸はないさ」と言われます。権藤は「奴はただ私を苦しめて楽しみたいだけだ」と言いますが、実はまさにそれがすべてでした。

金を払えば会社からは追い出され、無一文になってしまう権藤の苦悩は権藤邸のリビングでの室内劇として、黒澤得意のマルチカメラによる撮影により張り詰めた緊張の中で繰り広げられます。

はじめは「絶対に払わない」と怒りにまかせて大声を出していた権藤が、他人とはいえこどもの生命を優先する決断をするシーンは、黙って銀行に電話をすることで現します。ここで、観客の権藤への感情移入はピークに達し、犯人を許してはいけない状況を作り出すのです。

続いて金の受け渡しになりますが、東海道の特急列車を借り切って酒匂川までの約一時間で、やり直しのきかない一発勝負で撮影された状況は映画の中でのサスペンスとしては最高の出来映えです。

先頭車両から最後尾まで8台のカメラを用意して、キャスト・スタッフがリアルタイムに映像を作り上げたものです。特に酒匂川で鉄橋の前後で、こどもを確認しすぐさま金の入った鞄を洗面所の狭い窓から投げ捨てるまでの数十秒のシーンの緊迫感はすさまじい。

ここからは刑事(=仲代達哉)を中心に、捜査の流れを追っていくわけですが、観客には本当の警察活動と思わせるようなリアリティを感じさせます。一つ一つの可能性を確かめていき、少しずつ犯人に迫っていく様子には、思わず応援したくなるのは黒澤の術策にはまった証拠です。

犯人(=山崎努)を確定することにつながる、煙突からのピンクの煙はあまりにも有名なシーン。白黒シネマスコープサイズのこの映画の中で、ここだけがカラーとなりピンク色が鮮烈な印象を与えるのです。のちに「踊る大捜査線」で、オマージュとして使用されたりもしました。

警察がそのまま誘拐犯として捕まえず、共犯者に対する殺人で検挙するためにさらに泳がすというのは、実際はどうか思いますが、観客はもはやそうでなければ納得しないところまで気持ちが入っている。

偶然に権藤をみかけた犯人が、近寄ってタバコの火をもらう。刑事に「あいつは本当の畜生だ」といわせることで、観客の感情はピークに達するのです。そして最後のシーンへとつながっていき、黒澤の怒りは観客の怒りとなるのです。

この映画をヒントに、実際には「吉展ちゃん事件」が発生したりして逆の効果も生み出したことは黒澤の誤算でしたが、その後誘拐事件に対する量刑が改正されたりするきっかけになったことは特筆すべき事でしょう。