2014年5月3日土曜日

憲法

欲望は人の本能であり、それが様々な争いの原因になる。欲望をコントロールして、社会の秩序を保つためのものが法である。なんて、かなり真面目くさったことを昨日は書いてしまいました。

今日はその続きみたいな話なんですが、何しろ憲法記念日ですから、年に1度くらい堅い事を書いてもばちは当たらないだろうと。

憲法は、その国の最も根幹をなす基本的なものであり、国の在り方を明らかにする最重要法律であることは、今更言うまでも無いことです。

日本国憲法は、第二次世界大戦の敗北後、アメリカ主導の下に作られたものであり、70年弱にわたって日本人の生活に深く入り込んでいます。

冒頭の第一条では、天皇は日本国の象徴と規定して、天皇の行うことは内閣が責任を持つが、天皇自ら政治を行うことはないとしています。

これは、それまでの国家元首としての天皇が、戦争の責任を取って今後は国政に口出しをしないということでしょう。実質的な権限が無い中で、現在も国民の代表として、国民から尊敬される立場を維持している皇室の方々はさぞかしご苦労が多いことでしょう。

そのあとに続く、第九条が日本国憲法の特徴が色濃く出た部分であり、最も世界的にも有名なところ。つまり戦争の放棄です。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この文章を単純読むと、内容についてはそれほど難しいことではないと思います。ところが、書いていないことについては規定が無いという考え方があって、抜け道的な解釈というみのが、政治的な動きの中で次から次へと出てきた。

そもそも自衛隊そのものの存在からして、「その他」の中に当然入りそうなものです。国内の災害救援隊のような活動ばかりだった頃は、現実の行動は武力の行使とはかけ離れていたので、まぁいいかとなっていた。

ところが、国際社会の一員として、海外での活動が増えるにしたがって、国外に対して武力を使用する可能性が高まり、直接ではないにしても、他国の戦争の援助を通して間接的な戦争参加を実際行うようになってきました。

おそらく、そのようないろいろな世界情勢の中で、憲法改正問題がいろいろと言われるようになってきたわけですが、大きく分けると三つの考え方があるようです。

最初は、一切憲法をいじることには賛成しないというもの。そして、第二に、現代の情勢にあわせて、現実的な改定を行うというもの。そして、第三が憲法は変更しないが、解釈の仕方によって現実との整合性を取ろうというもの。

正直言って、難しいことはわかりません。何がいいのか、簡単に決められることではないことは自明のことです。ただ、国家の最も基本をなすものですから、裏表のない明解なものであることが重要であろうと思います。

つまり、解釈の仕方を変えて、都合のいいように運用できるのであれば、法としての価値はかなり下がってしまうと言わざるをえません。解釈の仕方をいろいろに変更するというのは、実用的なところがあるかもしれませんが、少なくとも憲法に対して行われるべきことではないのではと考えます。

敗戦から時間がずいぶんとたっていますが、日本に限らず世界中の情勢は刻々と変化しているわけで、その変化にきちんと対応していく部分は少なからず必要でしょう。

ですから、変えるところと変えないところをはっきりさせた上で、しっかりとした議論がなされて、現代に即した改定というものはあってもいいと思いますし、それはあくまで国民主導で行われるべきことではないでしょうか。