2014年12月15日月曜日

バッハは嫌な奴

ヨハン・セバスチャン・バッハについて、いろいろと本を読んだり、ネットを検索したり、そして音楽を聴きこんだりしていくと、この天才音楽家の人間としての興味が尽きません。

あまり多いとは言えない、いろいろな残されたエピソードは、バッハという人物像についてあまりいい印象は与えません。

まぁ、はっきり言って、頑固で扱いにくい、上司に持っても部下に持っても面倒くさい人だったのではないかと思います。周囲からの干渉を嫌い、一人で自分のやりたいように黙々と仕事をこなすような職人というところなんでしょうか。

バッハがアルンシュタットの教会オルガン奏者として、事実上プロの音楽家としてスタートしたのは、1703年わずか18歳のとき。

1706年に聖職会議に召喚された時の記録が残っていて、そのときの模様をわかりやすくするとこんな感じ。

議長「バッハ君、本日、君を呼び出しの他でもない、ずいぶんと長いこと仕事をほったらかして旅行してたことを説明してもらい」

バッハ「自分の芸術性を高めるための旅行をしてました。ちゃんと教区監督にOK貰っている」

教区監督「彼が願い出たのは4週間です。ところが、帰ってきたのは4ヶ月もたってからです」

バッハ「だって、仕事のオルガン演奏は代理のものがちゃんとやったはずでしょう。私が怒られる筋合いじゃない」

議長「バッハ君、君はこれまでにも今までとずいぶんと違ったオルガン演奏をして、会衆者を困らせているそうじゃないか。それに周囲との合奏をしないようだが、やる気がないなら他の者を雇うので、その点もはっきりしたまえ」

バッハ「教区監督がまともなら、合奏だって何だってしますよ」

生徒「バッハさんは教区監督殿に演奏が長いと言われたら、次の日から極端に短い演奏をするようになりました」

議長「とにかく8日以内に、辞めるのか続けるのかはっきりさせたまえ」

こりゃまた、ずいぶんと不遜な態度と言わざるをえません。自分の身勝手を棚に上げて、公の場で上司を批判しているわけですから。

そもそも代理が仕事をやったからいいじゃないかというのは、自分でなくてもいいと自ら認めているようなものです。

バッハはこのとき、リューベックに赴いたのですが、その目的はすでに高名であったブクステフーデに会うためでした。ブクステフーデからは、バッハのオルガン演奏は大変気にいられ、場合によっては自分の後釜に座らないかという話まで出たのです。

それで、ついつい長居をして、本来の仕事を顧みなかったのですが、この話にはオチがあります。自分の地位を譲る代わりに、ブクステフーデの婚期を逃した娘と結婚して欲しいという条件が出されて、バッハはほうほうの態で逃げ帰ってきました。

同じ聖職会議の議事録には、 こんなのもあります。

議長「バッハ君、君は生徒たちとうまくやっていないそうだね。一人に下手くそなファゴット吹きといって侮辱したそうだね」

バッハ「生徒たちの演奏能力が低いんですよ。彼は広場で私に襲いかかって来ました。しかたがないので、剣で応戦しましたけどね」

議長「みんな欠点があるのだから、それを認めてうまくやってくれないと困る」

生徒たちがバッハの音楽を演奏するのにはレベルが低いわけですが、だからといって彼らを教育する気はなく、オルガン主体の音楽に専念していたらしい。それにしても、教会のオルガン奏者がふだんから剣を持ち歩いているというのも驚きです。

ライプツィヒで、市当局との折り合いがだんだん悪くなった頃、従弟もヨハン・エリアスに宛てた手紙というのも面白い。

贈り物のブドウ酒に対する「お礼」の内容ですが、お礼よりも運搬されてくる途中でほとんどが破損してしまい、配達人に対する手間賃などを払い、税金も取られたのでずいぶん高くついたことを書き残しています。

こんな話ばかり見つけると、ずいぶんと嫌な奴だったんだなぁという感じなのですが、芸術家として考えれば、自分の音楽に対して妥協のない一貫した態度が、数々の傑作を産む土壤になっていたと、善意に解釈するしかありませんよね。