2015年3月24日火曜日

マタイ受難曲 Part 2 ストーリー

今日は、壮大な「マタイ受難曲」の中身について、自分の知識の整理してみたいと思います。

当時流行っていた自由詩からなるオラトリオ受難曲ではなく、聖句をふんだんに用いた古臭くなっていた受難オラトリオと呼ばれる形式です。

まずはストーリーをおさえておきましょう。とは言っても、たいていの方が知っている、イエスがエルサレムに入ってから、処刑されるまでの一連のエピソード。

詳しくは新約聖書を読めば・・・って、いや、なかなか大変ですから、遠藤習作や三浦綾子の小説がありますので、詳しく知りたい方は、こちらの方がいいかもしれません。

冒頭合唱
聖書の言葉が順番に出てくるのが当たり前だった時に、バッハの受難曲は古めかしい受難オラトリオだとしても、聴衆をはっとさせる大胆な導入が物語をよりダイナミックにする力に溢れています。ヨハネ受難曲でも、不安をあおる不協和音から、「主よ」と叫び入る形はなかなかのものでした。

ここでは、バッハは旧約聖書の雅歌の形式を利用して「シオンの娘たち」と「信じる者たち」との対話形式により、ソロモン王とイエスを重ね合わせ、これから起こるイエスの受難を歌う。

第一部

イエスが、弟子たちの前で自らの運命を預言します。これに対してヨハネ受難曲でも使われたコラールが挿入されます。司祭たちは過越祭りが終わったら、イエスを何とかしようと策略します。また罪の女の香油をたらす行為を批判する弟子たちを、イエスは逆に批判します。この後アルトのアリア「悔悛と悔恨」は、その美しい旋律に耳をうばわれます。

香油についての話を受け入れられなかったユダは、イエスを裏切る約束の代わりに祭司長から報酬を受け取るのでした。このあとのソプラノのアリア(第8曲)も素晴らしい。

そして、いよいよ最後の晩餐が執り行われます。イエスは弟子たちに、「一人が私を裏切る」と語り、ユダが去っていきます。イエスはパンを分け与え、「これは私の肉体」、そしてブドウ酒を注ぎ、「これは私の血」と話します。

その後一同はオリーブ山に登りり、イエスは受難を預言し、この受難曲のテーマソングとでもいうべき受難コラール「おお、血と傷にまみれた御頭よ」が登場します。さらにペテロに対して、「夜明けまで3度、私を知らないというだろう」ということになります。

次に、ゲツセマネの園についた一行は祈り、イエスは自らの今後に苦悩します。それをよそに弟子たちは眠りこけてしまうのでした。

そこへユダが官憲を引き連れて再登場し、イエスに口づけをし、それを合図にイエスは捕縛されます。その後にシオンの娘の嘆きやなどがあり、捕まったイエスはいろいろな罪を問われても黙秘をするのでした。大司祭は「お前は神の子、キリストなのか」と聞くと、イエスは「その通りだ」と答え、大司祭は、その答えを神への冒涜として死刑に値するとしたのです。

ここで、受難曲の演奏は一時休憩になります。礼拝は、司祭の説教の時間となります。

第二部

ペテロの最初の否認から始まります。3度、イエスを知らないと答えた直後に鶏が鳴き夜が明けます。そのあとの、アルトによるアリア「憐れんでください、神よ」はバイオリンの奏でる伴奏にのって、数あるアリアの中でも最も美しい旋律を聞かせてくれます。

イエスは総督ピラトのもとに引き渡されます。 ユダは祭司長のもとをおとずれ、報酬の銀貨を投げ返し、裏切ったことを深く後悔したのち首を吊ります。「私のイエスを返してくれ」という、バスのアリアが始まり印象を強めます。

ピラトのもとでイエスのさばきが始まります。ピラトはイエスに「お前はユダヤの王なのか」と問いますが、イエスは「その通り」と答えます。イエスの「その通り」という答えはルター派の考え方の特徴で、普通は「それはあなたが言ったことだ」というような解釈が一般的です。

ピラトはイエスを助けようとして、民衆に凶悪犯のバラバとイエスのどちらかを恩赦できると民衆に云いますが、民衆はバラバを選択し、イエスを十字架に架けろと叫びます。イエスの善行が語られたのち、ソプラノのアリアが「愛の御心から」を歌います。

しかし、煽動された民衆は納得せず、さらに十字架に架けろと叫ぶ。ピラトはあきらめて、イエスの死には自分は責任がない、お前たちがきめたことだと言います。イエスは鞭で打たれ、侮辱され、十字架に架けられけるべくゴルゴタの丘に向かって行進するのでした。

第58曲で十字架に架けられたイエスに対して、集まった人々は「自分を救ってみろ」、「神の子ならなんとかしろ」などと罵ります。イエスは、「神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と大声で叫びます。これが「十字架上の七つの言葉」として有名な場面。そして第61曲で、イエスが息を引き取ったことが語られます。

追悼のコラールに続いて、地震が起き神殿の幕が引裂けます。見張りをしていたものは、恐れおののいて、イエスは本当に神の子だったのだと考えます。弟子のヨセフはピラトに願い出て、イエスの死骸を貰い受け埋葬し、最後のアリア「私の心よ、おのれを清めよ」が歌われます。

大司祭らはピラトを訪ね、イエスが生前3日目に復活すると予言していたので見張りを立てるように願い出ます。しかし、受難曲は最後のコラールで、イエスの復活への期待を込めてここで終了します。