2017年11月4日土曜日

古事記(10) 火照命者爲海佐知毘古、火遠理命者爲山佐知毘古


葦原中国を治めるために高天原から降臨したニニギは、サクヤヒメとの間に3人のこどもをもうけました。長男は火照命(ホテリノミコト)で、またの名を海幸彦(海佐知毘古)といいます。次男は火須勢理命(ホスセリノミコト)、そして三男は火遠理命(ホオリマミコト)で、またの名を山幸彦(山佐知毘古)といいます。

弟の山幸彦が、ある日兄の海幸彦にお互いの道具を交換してみようともちかけます。山幸彦は兄から借りた釣針を使ってみますか、魚は釣れないどころか、釣針を海に落としてしまいました。

山幸彦は謝って、自分の剣からたくさんの釣針を作って償いますが、海幸彦は許さず「元の釣針を返せ」と責め立てます。

山幸彦が浜辺で泣いているとも塩椎神(シオツチノカミ)が現れ、竹籠のの小舟を作り、この船に乗って行けば美しい綿津見宮殿(わたつみのきゅうでん)に着くからそこで相談するとよいと教えてくれます。

このくだりは、すぐに思い起こすのは浦島太郎の話。竜宮城に行ったきり楽しくて時が経つのも忘れた浦島の話は、確かにこのくだりがヒントになっていることは間違いありません。

綿津見宮に到着した山幸彦は海神の綿津見神(ワタツミノカミ)の娘、豊玉毘売(トヨタマヒメ)とお互いに一目惚れ・・・さすがに古事記のこのパターンには、もう驚きません。そうなると思っていましたとも。

トヨタマヒメと結婚して楽しく過ごしていた山幸彦は、3年経って急にここに来た目的を思い出しました。海神が魚を集めて調査するとすぐに失くした釣針が見つかり、兄より優位にたつ方法を教えて遊馬幸彦を葦原中国に返します。

海神の言うように兄は次第に貧しくなり、攻めてきましたが海神にもらった潮の満ち引きを操れる珠を使って降参させ、以後海幸彦は山幸彦の護衛として仕えることになりました。

でも、よく考えると、本来使うべきではない道具をねだったのは山幸彦。その大事な兄の道具を失くしたのも山幸彦。それなのに、基本的に何も悪くはない兄を虐めて降参させたのも山幸彦・・・って、何か理不尽じゃない? 所詮、勝者が正義という理屈なんですかね。

そうこうしていると、トヨタマヒメがこどもができたと言って山幸彦の元にやってきます。ここで、またしても繰り返される「絶対見てはいけない」パターン。

出産するところを見てはいけないと言われたのに山幸彦は覗いてしまい、トヨタマヒメが鮫の姿をしていたことに驚きます。トヨタマヒメは見られたからにはここにはいられないと言って、玉依毘売(たまよりひめ)に後を託して子を置いて海に帰ってしまいました。

ニニギ以降寿命ができたはずなんですが、山幸彦のホオリノミコトは高千穂の宮で580年の生涯を閉じたそうです。トヨタマヒメの間に産まれた子は鵜葺草葺不合命(ウガヤブキアエズノミコト)で、タマヨリヒメと結婚し、そして二人の間に神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)が誕生します。

このカムヤマトイワレビコノミコトこそが、初代天皇である神武天皇その人なのです。ここに古事記の上巻(かみつまき)、いわゆる神代(かみよ)編が閉じられます。

山神の娘と結婚したニニギ、海神の娘と結婚したホオリとウガヤフキアエズを日向三代と呼び、山と海を全て支配できる理由付けが完了したと考えられていて、その子であるイワレビコの権力の正当性を明らかにしたということ。

宮崎・鹿児島近辺にその関連する場所が見つけられます。霧島神宮鹿児島神宮鵜戸神宮などには、日向三代の話の登場人物が数多く祀られています。ただし、綿津見宮の旧跡と言われる和多都美神社は長崎県対馬にあります。

宮崎県の西都原古墳(さいとばるこふん)は、日本最大級の史跡で、3~7世紀のものと推定されています。何らかの関係性が考えられていますが、まだはっきりしたことはわかっていません。少なくとも、相当大きな勢力が存在していたことは間違いないようです。