2017年12月21日木曜日

日本書紀 (2) 影の薄い六世紀


第26代の継体天皇以後は、第27代に安閑(あんかん)天皇、第28代に宣化(せんか)天皇、第29代に欽明(きんめい)天皇、第30代敏達(びたつ)天皇、第31代に用明(ようめい)天皇、第32代に崇峻(すしゅん)天皇と続きます。これがだいたい6世紀の100年間。

100年間で7人ですから、各天皇の在位期間は長くなく、継体25年、欽明32年、敏達14年で、あとは数年ずつです。そのせいか、日本書紀の記述は少なく、存在感の少ない天皇が多い。

継体天皇の正妻のこどもが欽明天皇ですが、先に生まれていた安閑、宣化の二人の異母兄が先につなぎで即位したとされています。この三人の中では、皇位継承争いがあり一時はどちらも天皇を名乗る二朝並立の内乱もあったのではという説もあったりします。

安閑・宣化の項では、ほとんど外交問題のことばかり。継体以来の朝鮮半島情勢に介入して勢力拡張策が続きます。またそのために国力の強化・整備が必要だったので、屯倉(みくら)と呼ばれる、政府直轄の田畑および収穫を備蓄する倉庫などを含むシステムを増やしています。

ですから、本当に理解するためには、中国・朝鮮の歴史と合わせて多元的な勉強が必要なんですが、さすがにそこまで資料を漁るのはしんどいものがあります。ここでは、ばっさりと捨てて、横に置いておきます。

欽明朝になっても、朝鮮半島の百済、任那、新羅などとのやり取りがひたすら続きます。歴史的には、この頃に仏教が入ってくるというのが大事なポイント。また、実務方には継体天皇以来の大伴、物部にくわえて蘇我を加え、後に大伴失脚により物部・蘇我の二極体制ができます。

実は、豪族というものがどんどん力をつけているところがある。記紀では神の系図、天皇の系図の解説が重要なのですが、登場する氏族の祖先がどこから始まったかもしっかりと書かれています。

つまり天皇の「万世一系」を重視するのと同じように、天皇家以外の氏族にもその出自を重視するところが、少なくとも記紀編纂の7世紀後半にはあったわけです。ここまで、天皇以外の古代氏族に立ち入るのは複雑で避けてきたところがあるのですが、そろそろ有力氏族の動向を無視しては読み解けない感じになってきました。

この後に続く、敏達、用明、崇峻、そして第33代の推古(すいこ)天皇の4人はいずれも欽明天皇のこどもたちです。

敏達天皇は仏教には慎重な姿勢を示し、反対派の物部・中臣氏と推進派の蘇我氏との間での争いがしだいに激化していきます。蘇我が寺を作ったから疫病が流行ったとして仏教禁止令を出しています。

続く用明天皇は、蘇我氏の血筋でもあったため親仏教派でした。用明天皇で、記憶に留めておかないといけない一番重要なことは聖徳太子(厩戸皇子)のお父さんということくらいでしょうか。

崇峻天皇も蘇我系で、物部が推す穴穂部皇子を蘇我馬子が抹殺したことで即位します。物部氏は没落し、仏教が一気に広がることになりました。しかし、実権を掌握していた蘇我馬子の警戒心から、なんと日本の歴史上、唯一の部下による天皇暗殺事件に発展します。

重大事件が発生した割には、国内のみならず、国外でも特段の動揺が見られず、また蘇我馬子の力もそのまま続くところから、最初から入念に計画された一種のクーデターと考えられ、また蘇我氏の力が天皇をも上回っていたことがわかります。