2017年12月26日火曜日

日本書紀 (5) 乙巳の変

史上初の女帝となった推古天皇は、厩戸皇太子が621年に亡くなったため、新たな皇太子を定めずに628年に亡くなり、蘇我蝦夷(そがのえみし)が推す舒明(じょめい)天皇が即位しました。

舒明天皇は、敏達天皇の子である 押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのみこ)が父親です。異母弟の茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘、宝皇女(たからのひめこ)を皇后に迎えます。二人は、後に天智天皇となる葛城皇子(かつらぎのみこ、中大兄皇子)、孝徳天皇皇后となる間人皇女(はしひとのひめみこ)、天武天皇となる大海皇子(おおしあまのみこ)の3人の子をもうけます。

舒明天皇崩御により、642年に第35代の皇極天皇が即位し、蘇我蝦夷を大臣とします。実に、この人は舒明天皇の皇后、宝皇女でした。こどもはまた10代前半ですが、ほぼ間髪入れずの即位は、他に周囲にいる皇子の排除が狙いのようです。

蘇我蝦夷は、子の蘇我入鹿(そがのいるか)に実権を任せ、自分と入鹿のために、天皇と同格の墓を作らせます。さらに、自分の冠位を入鹿に譲渡し引退します。これらの行為は、本来天皇の特権であり、私益優先の行為はエスカレートしていきました。

そして643年、蘇我入鹿は、厩戸皇子の息子である山背大兄皇子を攻め殺します。さすがに、この行為には父親蝦夷は、やり過ぎで自らの身を亡ぼすと怒りました。

これらの目に余る入鹿の横暴に憤慨していた中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、皇極天皇の弟、軽皇子(かるのみこ)に近づき信用を得ます。さらに中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と親しくなり、倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)の娘との結婚を仲介し、少しずつ打倒蘇我氏の計画が進行しました。不穏な雰囲気を察知したのか、蘇我親子は要塞のような大邸宅を造り、外出に際にも多くの兵を帯同させるようになります。

645年6月12日、朝廷に三韓からの貢ぎ物を天皇列席のもと納めることになり、入鹿も嫌々剣を持ったまま出席しました。ただし、これは罠で、実際に朝貢があるわけではありません。中臣鎌足は、入鹿の剣を理由をつけて外させます。

石川麻呂が三韓朝貢の儀式の開始を告げると、中大兄皇子と中臣鎌足は宮殿の門を閉じさせ、佐伯連子麻呂(さっせきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を渡し「一気に斬れ」と送り出します。

しかし子麻呂は緊張からは嘔吐してしまい、石川麻呂はなかなか刺客が来ないため、汗がしたたり声がかすれ、手が震えていました。入鹿はその様子を不審がりますが、石川麻呂は「天皇のおそばで緊張します」と説明しました。

二人の刺客がまごまごしているので、中大兄皇子は剣をとり、入鹿の前に進み出て真っ先に斬りつけました。入鹿は「どうして何の罪もない私が襲われるのですか。どうかを助けて下さい」と天皇に願いますが、天皇は中大兄皇子に「何事です」と問います。中大兄皇子の「入鹿は天皇に就こうとしているため成敗しました」という返答を背中に受けて、天皇は宮殿の奥に戻ってしまいました。子麻呂と網田が止めを刺し、入鹿の屍は折からの雨に打たれるままでした。

いやはや、何ともリアルな記述です。映画のシーンを見ているような話し。ここで重要なことは、入鹿が襲撃された直後に天皇に向かって話すというところ。つまり、入鹿はとっさにこれが皇極天皇の命によるものと悟ったのでしょうし、天皇がさっと退出するところも、いかにも知っていましたと云わんばかり。そもそも天皇が承知していないと、偽の朝貢の儀式が開催できるわけがない。

つまり、黒幕は天皇で、息子の中大兄皇子の邪魔になる入鹿を抹殺することが目的であったことは明らかです。ただ、天皇の誤算は、暗殺実行のため飛び込んできたのが息子だったこと。何事かという問いは、後方にいるはずだったのに、どうして危険な場面に飛び込んできたのかということだったのではないでしょうか。

入鹿討たれるの報はすぐさま蝦夷に伝えられ、一派は臨戦態勢に入りました。ほとんど者は中大兄皇子に従い、法興寺(飛鳥寺)に立てこもります。そこで、蝦夷に使者を送り、「天地開闢以来、君と臣は別のものであり、無益に命を粗末することはよくない」と伝えます。蝦夷一派は自ら武装解除して解散し、蝦夷は宮殿に火を放ち自害しました。

この時、厩戸皇子と蝦夷によって編纂された天皇記、国記は蝦夷邸の中に保管されていたため焼失、国記の一部だけが中大兄皇子の手元に残りました。蝦夷・入鹿親子の遺体はすぐさま埋葬されました。

これが世に言う「乙巳の変」であり、権勢を欲しいままにしてきた奢る蘇我氏滅亡の顛末です。昭和の時代の歴史教育では、ここから「大化の改新」が始まるのですが、現在は一種のクーデターである、この事件はきっかけとして独立しています。「大化の改新」は、この後に続く政治改革についてのみに使うことになっています。

天皇は事の責任を取り退位しますが、異母兄の古人大兄皇子は仏門から天皇を助けると言い出家してしまいます。そこで、軽皇子が第36代の孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(非公式の参謀)に就いたのです。最近は、今上天皇の生前譲位が何かと話題になりますが、ここにすでに事情は違いますが前例があるんですね。