2017年12月30日土曜日

日本書紀 (7) 白村江の戦い


皇極天皇、改め斉明天皇が日本初の天皇重祚したのは655年のこと。中大兄皇子は、ここでも陰の実権を握り着々と国家体制の確立を図ります。

まずは治水工事として、都の周囲に長く大きな溝を作ります。また、石垣の建築も行います。おそらく、風雲急を呼ぶ唐との戦乱の可能性を考えていた可能性があります。しかし、それらの使役に動員された民衆からは、当然不満が鬱積することになります。

そうこうしていると、中大兄皇子の長男である建王(たけるのみこ)が8歳で亡くなります。孫が可愛くてしょうがなかった天皇は、大いに嘆き悲し、「自分が死んだら孫と一緒の墓に入りたい」と言いました。

蘇我馬子の孫、乙巳の乱で中大兄皇子側に加担した倉山田石川麻呂の兄弟である蘇我赤兄(そがのあかえ)が、孝徳天皇の息子である有間皇子に謀反を持ちかけます。赤兄の「天皇は無駄な倉、溝、石垣を造り民衆の怒りを買った」という言葉にのせられ、有間皇子は「挙兵する好機」とその気になってしまいました。しかし、赤兄は天皇側に密告したため、有間皇子は捕らえられ処刑されました。

この頃、外交的にも大きな問題が勃発しています。唐は新羅と共闘して、友好国である百済に攻め込みます。百済は、天候不順により凶作が続くも、百済王は対策をとらず、私欲に溺れた生活を続けていたため人心が離れ、唐につけ入る隙を見せていました。天皇は、唐に使者を出しますが、唐は朝鮮半島を支配するつもりだったので、使者を抑留します。

ついに百済は唐・新羅連合軍によってほぼ壊滅し、唐は続けて一番の目的である高句麗に進軍し制圧しました。百済残党の福信らは、倭国と百済の同盟を担保する人質として以前より倭国に滞在していた王族の豊璋(ほうしょう)を担ぎ上げるため、豊璋の返還と救援要請をします。

それを受けて天皇はついに派兵を決断します。天皇自ら軍の指揮をするため宮を九州に移しましたが、661年出兵する前に急死してしまいます。このタイミングでの天皇急死は、何か裏がありそうな感じがしますが、詳細は不明です。中大兄皇子は、母の死を悲しみますが、天皇に即位はせず称制という形で、実質的な支配を継続しました。

年明けて、再び主力部隊の派兵が再開され、旧百済・倭国連合軍は新羅軍を押し戻しつつ、一進一退の戦いを続けていましたが、実権を握る福信が豊璋により殺害され百済復興軍は一気に弱体化してしまいます。そして、ついに663年8月、白村江(はくすきのえ)において両者の雌雄を決する時を迎えました。

推定で唐・新羅連合軍は、20万人近かったのではないかと言われており、水軍は170隻でした。対する倭国側は数万人の兵と、千隻の艦隊でした。あまり作戦らしい作戦も無く突っ込むだけの倭国に対して、唐・新羅連合軍は、陸上では圧倒的な兵力で圧倒します。海上でも、焼いた石を投げ飛ばすことで半分近い倭船が炎上し、倭国は完敗しました。

この戦いは、唐の東アジアにおける優位性を確立し、倭国も支配下におかれる危機を招きました。中大兄皇子は防衛強化と唐との関係の正常化に努め、またより強固な国家体制を作ります。対馬・壱岐・筑紫には防人(さきもり)と烽火(のろし)を備え、周辺に新たな築城を行いました。また、冠位制度を改定し官僚制度をより強化し、防衛拠点として有利な近江へ都を移したことで、やっと国内情勢の安定が得られてきます。

中大兄皇子は668年、ついに第38代の天智天皇として即位したのです。しかし、その翌年、長年にわたって参謀として絶大な信頼を寄せていた中臣鎌足が亡くなりました。天皇は、その後も国家を整備し、息子の大友皇子を太政大臣とし後継の道筋をつけました。

しかし、これらの制度改革の中で、民衆や豪族の不満は増大しており、日本書紀には暗に政策を批判するための噂話や不思議な現象が頻繁に記述されています。何故なら、記紀編纂に強くかかわったのが、孝徳天皇死去後に兄弟の亀裂を深めていた弟の大海人皇子、後の天武天皇だからです。

671年10月、病床にいた天皇は大海人皇子を呼び「後事を託したい」と言います。それが天皇の本心ではないことを十分に承知していた皇子は、「天皇の回復を願うため出家します」と言い吉野に向かいました。これは、実は「虎に翼を着けて放つ」ことだったのです。

12月に統一国家としての基盤を作り続けた天智天皇は崩御し、再び大きな内乱の幕開けとなるのでした。