2017年12月4日月曜日

古語拾遺 ~ 広成さんのぼやき


昔々、まだ文字が無かった頃は、身分の高低や年寄り・若者の区別なく、すべての人が古い時代の話を語り継いで、誰もそれを忘れることはありませんでした。

文字が使われるようになってからは、口頭伝承をしなくなり、表面的に飾り立てる文章がもてはやされるようになり、昔のことを語る老人(やその内容)を嘲笑うようになりました。今では、人々の興味は新しいものばかりに走り、昔から伝わることなど忘れ去られています。

・・・というのは、自分が言っているわけではなく、斎部広成(いんべのひろなり)さんの意見。広成さんは80歳を超えたご老人で、今のご時世をひどく憂いて嘆いています。

そこで、これだけは後世にも遺しておきたいことを、書きとどめた文章の始まりがこういうことだったというわけ。広成老人が、これを書いたのは大同2年・・・って、西暦807年のこと。

これは「古語拾遺(こごしゅうい)」と呼ぶもので、日本古代史に関連した重要な古文書の一つとして記紀を勉強して行く上で欠かすことができない資料の一つです。

第50代の桓武天皇が806年に亡くなり、第51代の平城天皇が即位した時に、朝廷祭祀に関しての意見を斎部広成に求めたことに対する返信として漢文で書かれました。

古事記・日本書紀が成立してから、すでに100年近くが経過していて、藤原一族の中臣氏の圧倒的な力の前に、もともと祭祀の重要な役割を分担してきた斎部氏(忌部氏)は徐々に隅に追いやられている状況でした。

そこで氏族の長老であった広成翁は、主として日本書紀の記述を踏まえ数々の不満をぶちまけて、祭祀の役職を担当する正当な権利を主張するという、ある意味痛快な一巻を記したというわけです。

この始まりの文は、そのまま現代にも通用される内容で、年寄りの繰り言、ただのぼやきと言ってしまえばそれまでですが、昔からの言い伝えの重要性は忘れてはいけないということを強調しています。

前半は、記紀により伝わる神代の概略を説明し、いろいろな氏族の祖神を明らかにしていきます。斎部氏は天太玉命(アメノフトダマノミコト、記紀では布刀玉命あるいは太玉命)を始まりとし、天岩戸事件の解決や天孫降臨に関わり、中臣氏の祖先である天児屋命(アメノコヤネノミコト)と伴に、ニニギの最初のお伴の五柱神に選ばれています。

後半では、主として伊勢神宮における朝廷祭祀の役どころの由来を列挙し、平安の世における問題点11項目を列挙しています。これらの文の中から、記紀だけでは見えてこない、つまり記紀編纂時は採用されなかった伝承の一部が見え隠れしてきます。例えば、記紀では天孫降臨以後、ヤマトタケルの東征で急に伊勢神宮から草薙剣が再登場しますが、何故伊勢に剣があったのかの理由は古語拾遺で明らかになります。

広成はあとがきで、「神代の伝説は荒唐無稽でそのまま信じることはできないが、現在行われている行事などの起源として無視はできない」、そして「昔からの伝承をないがしろにすると、未来の人々は現代(平安時代)を、自分たちが古代を見るような気持ちで見ることになる」と、非常に率直な気持ちを語っています。

もっとも、広成は、記紀を含め文字に記録されたことが、様々な思惑が入り込んで真実を伝えていないことを批判したように、古語拾遺も斎部氏の重要性を強調するあまりに、同様の思い込みがあることは否定できません。

とにかく、広成さんはとても素直ないい人で、正直、勤勉な人生を送ってきた方なんだろうと思います。だんだん肩身の狭い地位に追いやられていく状況に我慢を我慢を重ねてきましたが、天皇より許可が出て、ついに胸の内に長年貯めていたもやもやを一気に爆発させてしまったんだろうなと思います。