2017年12月29日金曜日

ちょっとだけ中国・朝鮮半島の古代を勉強する


朝鮮半島および中国の歴史は、日本古代史のみならず、現代日本との関連でも重要なファクターです。それは特に神武以前の人の渡来、以後の戦乱に大きくかかわってくるわけで、話が複雑になってしまうので、できれば国内史だけに限定したいところ。しかし、時代が進むほど避けては理解できなくなります。

最低限、どの時代にどんな国名があって、日本との友好、あるいは敵対関係がどうだったのかくらいは整理しておく必要がありそうです。重い腰を上げて、少しだけ首を突っ込んでみます。

紀元前のずっとずっと古い時代の朝鮮半島は、古朝鮮と呼ばれます。檀君(だんくん)朝鮮、箕子(きし)朝鮮、衛氏(えいし)朝鮮が伝説的にありますが、考古学的に確認できるのは紀元前2世紀が最も古いらしい。

この頃、朝鮮半島の南端部には、それまでと違う、いわゆる弥生土器が作られ始めでいるので、日本からの渡来が盛んになったと考えられています。

中国では、日本の弥生時代半ば、始皇帝が紀元前246年に即位し国がまとまり始めます。(前)漢が成立するのが紀元前202年です。紀元前141年に武帝が即位し、衛氏朝鮮を滅ぼします。8年に新が成立しますが、25年には光武帝により(後)漢が建国されました。

3世紀になると、朝鮮半島の北部では高句麗、西部に馬韓(百済)、東部に辰韓(新羅)、南部に弁韓(任那)が成立します。このあたりが、時期的に邪馬台国との絡みもあって重要なところ。ところが、日本書紀を素直に受け取れば、神功皇后の三韓征伐は200年のことで、すでにヤマト王権が成立していることになります。

中国ではまさに「三国志」の時代になり、208年の赤壁の戦いで曹操かせ破れ、220年に曹丕が魏、221年に劉備が蜀、222年に孫権が呉を建てることになります。神功皇后は238年に魏へ使者を送り、240年には魏から使者が来朝しています。

朝鮮半島の馬韓、辰韓、弁韓が、それぞれ百済、新羅、任那と呼ばれるようになるのは4世紀半ば以降。ヤマト王権と百済とは比較的友好関係が続いていますが、新羅とは狸のばかし合いみたいな感じ。新羅は中国寄りの高句麗との関係を重視していたようで、対抗上、百済はヤマト寄りの立場を取っていたようです。

500年前後には、半島南西部を中心にヤマト式の前方後円墳が作られるようになり、高句麗以外の地域では、日本の糸魚川でしか採取できない翡翠を用いた勾玉も見つかっています。任那の地域を中心に、ヤマト王権が、直接的あるいは間接的に実効支配していた可能性が考えられています。

三国時代以後、中国ではしばらくいろいろな国が群雄割拠しますが、再び統一され隋が建国されるのが581年のこと。日本では、この辺で登場するのが、初の女帝となる推古天皇。そして618年に古代中国最強国家である唐が登場し、10世紀初めまでは近隣周辺へ大きな影響を及ぼしました。

唐は建国後ただちに朝鮮半島への支配権拡大をもくろみ、7世紀半ばまでに高句麗、百済を滅ぼします。特に663年、百済の救援要請を受けたヤマト王権は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しました。

新羅は唐に協力していましたが、676年にいきなり裏切り半島全体を統一しました。しかし、北部にできた高麗の勢力がしだいに強くなり、10世紀には新羅は滅び高麗により半島は統一されます。

もう本当の最低限ですが、これが日本と密接な関係がある朝鮮半島・中国の歴史の一部です。このくらいを掴んでおくと、日本の古代史を勉強するのに、イメージが作りやすくなりそう。いろいろと、各国の政治的な思惑もあるようで、あまり深入りするのも問題があるようです。歴史学者ではないので、概略に留めておいた方が無難ですね。