2017年12月2日土曜日

日本書記の研究史 (超大掴み)


日本書紀の研究は、成立後から比較的断続的に行われていたようです。その流れを、ごくごく簡単に・・・というか、ほとんど5秒間スポットCM的にまとめておきます。 

日本書紀は、平安時代までは朝廷内で広く読まれ、関係者は国の成り立ちと漢詩を勉強する教科書として、講義を受けていました。紫式部も、時の皇后の先生役をしていたそうです。

鎌倉時代になると、神事の祭祀を行う役職に会った卜部(うらべ)氏が、主として日本書紀の研究を一手に行うようになり、現在も卜部系本と呼ばれるいくつかの写本が日本書紀の定本として利用されています。

また、いろいろな注釈本も出ていて、中には神仏習合の影響により寺の僧侶たちによる写本・研究も登場するようになり、神道の原典として重要性が増していきます。ですから、この時期から、主として重視されたのは神代の二巻と神武天皇の巻でした、

元禄時代になり国学が台頭してくると、次第にそれまでほとんど忘れられていた古事記を見直す動きがでてきます。そのリーダーたる本居宣長は、漢文の日本書紀は、日本語から外国語に翻訳されたもので内容が変化していると考えました。

ここから、ほとんど忘れられていた古事記が復権し、江戸時代は日本書紀の方が肩身の狭い思いをさせられたようです。

近世になり、本初期の皇室の基礎として再度重視されるようになり、いわゆる紀元節に代表される日本書紀の内容を、愛国教育の一環として神聖視して広めるようになりました。

大正になり早稲田大学の津田左右吉による、天皇支配の正当化のための創作・脚色であるという記紀批判は画期的なものでしたが、当然皇室を侮辱したものとして不敬罪に問われることになります。

終戦後は、それまでの反動もあり津田学説は大いに歓迎され、戦後古代史の歴史学的な規範として最重要視されるようになりました。その結果、天皇家の「万世一系」に疑問が投げかけられたり、神武~欠史八代のような天皇の存在が疑われような学説も登場し、現在でも通説として認められている所です。

現代では、逆にそれらを批判する勢力も数多くあり、考古学的な発見により、記紀の記載の正しさが証明される事例も少なからずあります。いずれにしても、何しろ古代のことは、ほとんどが事実であると確認不可能で、推論の域を脱するものは稀です。

さらに主観のみであまりに想像の世界だけの話、精神論的な話、さらには独特な宗教観に基ずく話などが、たくさんの怪しげな説が混在して語られているというのが現状です。

素人からすると、大変に混沌とした状況になっていると言えます。とにかく、少しでも客観性の高い論説を見極めないと、何が何だかわからないことになりますね。