2018年1月23日火曜日

初雪が大雪


昨日は、昼から雪が降り始め、帰宅の頃には大雪・・・って予報でしたけど、実際のところ横浜市北部は朝からパラパラ降ってきた。

午前中には本降りです。昼過ぎには、写真のような有様。

さて、帰りはいいとして、問題は今朝ですよ。

う~ん、出勤できるか・・・

雪は、どう見ても20cm以上積もっている感じです。

うちの周りは住宅街。バスが走る一番近い所を通る交通量の多い道路まで、数百mはあります。

とりあえず、がんばります。

2018年1月22日月曜日

続日本紀 (4) 平城京の盧舎那仏


奈良と言えば、現代人が真っ先に思いつくのは大仏です。釈迦の身長が一丈六尺(略して丈六、4.85m)という伝説により、立像でも坐像でも、それ以上の高さがあるものを大仏と呼びます。

各地に大仏と呼ばれる大きな仏像がありますが、ほとんどが高さが丈六に満たないか、20世紀に作られ歴史的な意義は希薄なものばかりです。江戸時代までに作られたもので、現存する大仏というと、大きいものとしてはやはり奈良と鎌倉で、より大きいものもありましたが倒壊、焼失しています。

奈良の大仏と呼んでいるのは、東大寺金堂(大仏殿)に鎮座する銅で鋳造され、高さが16mある盧舎那仏坐像のことです。中世に二度火災により再建されていますが、創建当時の部分も一部に残しています。これを作ろうと言い出したのが、何かとお騒がせの聖武天皇でした。

740年、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺(11世紀に消滅)で、聖武天皇は盧舎那仏像に感激したのがきっかけとされています。翌年、恭仁宮で政府直轄の国分寺・国分尼寺建立の詔を出しています。

その中身は、「自分の不徳により、天下泰平ではなくてゴメンね。去年は、諸国に丈六仏像を造り、大般若経を書き写すように指令したら今年は順調だよ。だから、幸せのために、もっと仏教を広めよう。国の華となる、四天王に国を守護してもらう国分寺、仏により罪を許し守ってもらえる国分尼寺を各地に作りなさい」というものでした。

いろいろと小心者で優柔不断、人民に苦労をかける悪者扱いの聖武天皇ですが、この中で「虚らかな場所に建立しなければならないが、人々が行きにくい場所はだめ」と、ちよっと優しい所が見え隠れしています。

そして743年、紫香楽宮にて大仏造立の詔を出しました。今度は、「徳が少ないけど頑張ってるよ。でもまだ足りないので、盧舎那仏金銅像を作ろう。天下の富は全部自分のものだから、国中の銅を使い尽くしても作るぞ。でも、作っただけじゃだめで、難しいけど心をこめること」と言っています。

ここでも、「自発的に仏像製作に参加したいものは誰でも歓迎。役人は、このことで人民を苦しめちゃだめ。増税とかもってのほか」とし、天皇自身としては、けっこう人民を気遣う気持ちはあったようです。

翌年、紫香楽宮近くの甲賀寺で作業が始まりましたが、745年に平城京に還都したため、平城東山の山金里で改めて作ることになりました。この場所が、都の東側の外縁だったため東の大寺で東大寺と呼ばれることになりましたが、実はこのあたりは藤原氏勢力圏なんですよね。しかし、この頃から聖武天皇は体調を崩してしまいます。

さて、大仏作りは大事業ですから、作業は遅々として進まない。地方からの寄付は集まってきてはいましたが、特に金メッキに使用したい金の調達のめどがつかないのも困りものでした。ところが、749年に陸奥国で黄金が初めて産出され献上され、何とかなりそうになってきたのですが、前年に元正太上天皇が亡くなり、聖武天皇はしだいに体力・気力を無くしていき自分と光明皇后の娘で初の女性皇太子であった未婚の阿倍内親王に譲位し、第46代の孝謙天皇が即位しました。

そして752年、ついに大仏の完成、開眼供養の法会が行われることになりました。これは欽明紀の552年に、百済より仏教が初めて伝来して200年目の記念すべき年であり、釈迦の誕生日である4月8日が当初予定されました・・・が、しかし、実はまだこの時点では、大仏殿は完成していませんし、像そのものもやっと形になった程度で、完成と呼ぶにはほど遠い状態だつたらしい。

東大寺の記録では4月9日に聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が列席し、印度の僧、菩提僊那が筆を持ち眼に墨を入れたとされています。しかし続日本紀には、この大事な会への皇族の出席にはまったく触れられていないし、大事な4月8日を延期したのも聖武太上天皇の様態がよくないためとも言われ、実際には孝謙天皇だけが出席していた可能性が高いようです。

この日、式が終わった孝謙天皇は宮ではなく、大納言藤原仲麻呂の邸宅に帰っしまい、以後そこを住まいとしたということです。まぁ、30代半ばの独身ですから・・・いろいろなことがあるんでしょうけど、このことがこの後の騒乱の伏線になってしまいます。756年、多くの加持祈祷の効も無く、聖武太上天皇は亡くなりました。

2018年1月21日日曜日

大寒


二十四節気は馬鹿にできない。

というのも、いよいよ一年の中で寒さのピークとなる大寒を迎えたわけですが、天気予報では「今シーズン最大の寒波がきます」としきりに説明しています。

異常気象という言葉が普通に使われて驚かなくなってきましたが、確かに突発的に起こることや、平均以上に熱かったり寒かったりすることが増えたということ。

平成最後の年でも、生活に必要な知識が詰まった「暦」の通りに、一年の気候の変化が進んでいきそうです。

そういう意味で、昔のものを馬鹿にしちゃいけないということ。

しかし、大寒が最も寒い時期ということは、ここを過ぎれば「三寒四温」で、しだいに春に向かっていくわけですから、もうしばらくの辛抱です。

2018年1月20日土曜日

続日本紀 (3) 平城京に渦巻く謀略


元正天皇の世は、仏教が勢いを増した時代でした。これは、一つには数年間続く水害・干害により、飢饉が広がっていたとも関係あるかもしれません。さらに頭が痛いことに、九州の隼人、東北の蝦夷らが朝廷に抵抗し反乱を起こします。隼人の鎮圧に向かった将軍は大伴旅人で、ちなみにその子が大伴家持です。

長屋王は、藤原不比等死後、実質的な政権運営を担当していましたが、724年に元正天皇が退位し、首皇子が24歳で皇位を継ぐことになると、状況は一変します。ちなみに元正退位のきっかけは、またもや亀。今度は白い亀が見つかったことです。

首皇子は第45代聖武天皇となり、3年後に男子の基王が誕生します。すると生後一カ月であわただしく皇太子としました。皇位継承権を持つ長屋王の一族へ牽制のために、藤原四家からの意向が強く反映されたものと思われます。ところが、1歳を目前に基王が急死してしまいました。

これは、長屋王が呪い殺したという噂が広がります。そして729年、さらに密かに妖術を用いて国家転覆を狙っているという密告があり、自宅を囲まれ詰問された長屋王は、妃の吉備内親王、子の膳夫王らと共に自殺に追い込まれてしまいました。これを「長屋王の変」と呼んでいます。

事件が収束して、またまた亀です。今度は背に「天王貴平知百年(天皇は貴く平和に百年を知ろしめす)」と書かれていたそうで、これをきっかけに元号を奈良時代の代名詞ともいえる「天平」と改めました。

長屋王を排除することに成功し、藤原四家は順調に力を増していきます。しかし、その数年後に九州から始まった天然痘の流行は平城京にも拡大してきました。737年4月から8月にかけて、藤原四家が全員相次いで天然痘により亡くなり、長屋王のたたりと噂されました。南家は藤原仲麻呂、式家は藤原広嗣が継ぎ、さらに藤原の血統が入る阿倍内親王が皇太子となりました。

さて、そこでやりすぎちゃったのが藤原広嗣です。もともと直情径行型の切れやすい性格らしく、父の宇合からもうとまれていたらしい。その性格から、738年に大宰府に飛ばされましたが、740年に「僧の玄昉と吉備真備が天地災難の根源なので排除すべき」という意見を送り付けてきます。

玄昉は聖武天皇の信が厚くちょっと威張り気味の坊さんで、吉備真備は遣唐使として中国から多くの書物を持ち帰り朝廷の知恵袋になっていた人物。右大臣だった皇親派の橘諸兄は、藤原氏に対抗してこの二人の後ろ盾になっていました。

業を煮やした広嗣は、急場拵えの軍を引き連れ挙兵してしまいます。聖武天皇は何を恐れたのか、伊勢へ避難してしまいます。しかし、広嗣軍の組織力は皆無に等しく、官軍に情報がダダ洩れで、簡単に捕らえられ処刑されました。

事件が決着したのに聖武天皇は平城京に戻らず、数か月の間、まるで壬申の乱の時の天武天皇の行程をなぞるように行幸を続けました。年末に平城京に近い恭仁の地(京都府木津川市)に戻ってくると、いきなり恭仁に遷都を行います。藤原氏色の強い平城京を捨て、皇親勢力を強化するために橘諸兄が計画したものと言われています。

聖武天皇は強引な恭仁京遷都からわずか4年で、さらに難波京(大阪府大阪市)に宮を遷します。この年に天皇の残された唯一の皇子だった安積親王が、原因不明の脚の病により17歳で急死し、またもや藤原氏の陰謀が囁かれました。

天皇は、主だった臣下を難波に残し、自分は紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に移動し、またもや事実上の遷都を行います。しかし、紫香楽宮近辺の山火事(放火?)や地震被害を受けて、最終的に翌745年、平城京に還都したのです。

この6年間の相次ぐ遷都は、連れまわされた元正太上天皇はだいぶおかんむりだったらしい。もともとは聖武天皇が藤原広嗣が攻めてくるのを怖がったからかもしれませんが、とにかく世情が安定しないのは自分の不徳として悩んだ末とも言われています。明解な理由は示されていませんが、聖武天皇はけっこう小心者で何かとくよくよするタイプの性格だったのかもしれません。

いずれにしても、朝廷の財政は困窮し、貴族たちは天皇と皇親派と藤原氏との間のパワーバランスを読み右往左往させられ、民衆も相当疲弊し潜在的な不満がかなり高まったことが想像できます。平城京に戻ったことで、本拠にしていた藤原仲麻呂、その妹である光明皇后の力は急速に増大したことは街がありませんでした。

2018年1月19日金曜日

続日本紀 (2) 平城京と女帝たち


藤原京は、唐と肩を並べたいという天武天皇の悲願であり、だからこそ持統天皇は、亡き夫の意志を完成させることを重視したはずです。それは、長期にわたって天皇の威光を天下に知らしめる、かつてない大規模な恒久的な都であるはずでした。

ところが、藤原京は、694年に開いてわずか10年で廃棄されることが決定してしまうのです。708年に遷都の詔がだされますが、「急がないけど、皆が遷りたいと言うし、あっちは四禽の配置が良く、占いでも吉だから」というよくわからない理由。四禽とは、古来中国の風水から来ている地相で、土地の4つの方角を四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が守るという考え方です。

詔ではさらに、「民に苦労掛けちゃだめだよ。しっかり準備して、後でごたごたにならないようにね」ということで、必ずしもテンションは高くないのが不思議なところです。

どっちにしても、天武後に唐の都である長安をつぶさに見てきた遣唐使らの報告から、藤原京がだいぶ劣るようだということがわかっちゃったようです。大国である唐に負けたくない、あるいはその上をいきたいがために、当時の天皇を中心にした朝廷は、ソフトウェアとしての律令国家を成立させ、ハードウェアとしての都を作りたいと心底願っていたということです。

日本史の時代区分としては、短命だった藤原京までが飛鳥時代で、平城京遷都によって奈良時代が幕開けます。さて、話を元明天皇に戻します。

姉であり、夫・草壁皇子の母親である持統天皇は、草壁の死によって、孫の文武が即位できるまで自分が天皇についたわけです。元明天皇も、息子の文武が亡くなり、その子・首皇子を天皇にすることが、最大の生きがいだったのかもしれません。しかし、藤原宮の建物を解体・運搬するという難作業が進み710年に平城遷都が行われると、関連した様々な激務が元明天皇の心身の疲労はピークに達します。

714年に首皇子が14歳で元服し皇太子となり、ちょうど世にも珍しいめでたい霊亀(左眼が白、右眼が赤、背中に北斗七星などなど)が見つかったというきっかけで天皇をやめると宣言しました。退位の詔で、「気力は衰え、年も取ったし、もう疲れちゃった」と述べています。

平成天皇が生前譲位したいというのは、80歳を超えての話で無理もない。ところが、この時の元明天皇は55歳です。相当、天皇をやっているのが嫌になっちやったんでしょうね。そこで、譲位したのが首皇太子・・・なら話はわかりやすいのですが、何と氷高内親王(ひだかないしんのう)に譲ってしまい、第44代の元正天皇が誕生します。

氷高内親王は、草壁皇子の長女、首皇太子の姉で、35歳、未婚の美女。皇后が天皇に即位することは前例があり、元明天皇の場合の母親が即位するのは異例でしたが、天武天皇の孫でかつ自分の娘とはいえ元正天皇の即位は、その上の上をいく異例中の異例です。この時、元明は理由として「孫である皇太子がまだ若いから」という持統天皇即位と同じ理由を挙げていますが、文武天皇が即位したのは15歳、この時の首皇太子の年齢も15歳ですから納得はできません。

実は文武天皇の后は藤原不比等の長女の宮子で、首皇太子の妃はやはり不比等の三女の光明子ですから、首皇太子はどっぷり藤原一族に浸かった人物です。しかも、父親は皇太子だったとはいえ、天皇にはなっていない人物です。いくら元明が皇位を譲りたいと思っても、相当な抵抗があったものと想像されますし、もしかしたら元明天皇自身による藤原氏に対する抵抗だったかもしれません。

元正天皇、文武天皇の妹である吉備内親王は、天武天皇の高市皇子の子供である長屋王の妃となっていました。元明、元正は長屋王を親王待遇に格上げし、不比等に対抗しうる大納言として政治に参加させました。

720年、藤原不比等が、さらに721年に元明太上天皇が亡くなり、長屋王は政権の中で、天皇に次いで最も力を持つことになりました。一方、藤原氏は4人の子が継ぎ、武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の四家となり、権力の再掌握を虎視眈々と狙っていたのです。

2018年1月18日木曜日

続日本紀 (1) 藤原京の刹那


続日本紀は、持統天皇の孫、軽皇子が天皇位を生前譲位され15歳にして第42代文武(もんむ)天皇として即位したところから始まります。ただし、持統天皇は太上(だいじょう)天皇として、実質的な政務を続けました。

697年8月17日、即位の宣言が行われます。場所は、天武天皇の構想に始まり、中国の宮を強く意識した藤原京、その中心である持統天皇が完成させた藤原宮の大極殿の前の庭です。

「朝廷」という言葉は、もともとは「朝庭」で、宮の前の庭に臣下が毎朝集められ天皇の詔を承ったり、いろいろな訓辞を受けたことが語源だそうです。

歴代の天皇は、即位すると首都である宮をそれぞれ好きなところに作っていたので、それぞれが大都会として発展はしませんでした。しかし、藤原京は日本で初めて、広大な土地を都市計画の元に恒久的に発展させる目的で作られた都です。一辺5kmくらいの正方形の土地を碁盤の目のように区画整理し、中心にある宮は1km四方の大きさだったと言われています。

701年に国家の基本法典である大宝律令が発効し、聖徳太子に始まる百年間に渡る律令国家への模索が一定の完成を見ました。太上天皇は、夫の夢だった日本国の完成を、その亡き後に引き継ぎ完成させたわけですが、その翌年体調を崩し、いろいろな祈祷も効果なく亡くなりました。

大宝律令では、注目したいのは僧尼令です。すでに仏教は広まり政権も受容していましたが、あくまでも国家を鎮め護るためのものであり、民衆に広がり独自の勢力となることを恐れていたことがわかります。僧尼令では、寺は人を惑わす魔除け、まじないを禁じ、寺の外での布教活動を厳しく制限しました。

また、税制、徴兵制度(防人)についても、細かい規定が設けられていたものの、諸国の元豪族を「地方長官」として国造に任用し、一定の地位を保証したため、権力の二重構造が生じ、完全な中央集権制度にはなりませんでした。

707年、藤原京はまだ全体の完成には至っていませんでしたが、突然遷都の話が出てきます。その年、病に伏していた文武天皇が25歳で亡くなり、母親の阿閇皇女(あえのひめみこ)が元明天皇として即位しました。

またまた、話がややこしいのですが、阿閇皇女は天智天皇の娘で、持統天皇の異母妹です。また、持統天皇の息子、草壁皇子の妃でもあり、その息子の文武天皇の母ということ。

今までの女帝は、皇后が天皇位についたものばかりで、妃がピンチヒッター的な即位とはいえ、天皇になるのは初めてのことで、これには相当な根回しや強権が必要だったと想像します。ここで、力を発揮したのが藤原不比等でした。

不比等(ふひと)は、鎌足の次男で、文武紀に不比等直系のみが藤原姓を名乗り太政官として政権中枢に入り、他は元々の中臣姓とし祭祀のみの担当とされました。不比等は娘を文武天皇に嫁がせ、大宝律令の最終の詰めを行い、さらにこの後に登場する養老律令は不比等が編んだものと考えられています。世の実権は、急速に天皇家から藤原家に移っていくことになります。

2018年1月17日水曜日

記紀より新しい古代


古事記は、神代の話から仁賢天皇まで、つまりオケ・ヲケ兄弟の話までが書かれていて、これは5世紀末までの話でした。日本書紀はもう少し長く、7世紀末の持統天皇まで書かれていました。

記紀の記述は、歴史として全面的に信用するわけにはいかないのですが、最低限日本書紀のみの記述になる6~7世紀については、登場人物の実在性への疑いはだいぶ希薄になったと言えます。歴史的事項についても、それなりに信用できて、現在使われている西暦を当てはめることが可能になりました。

そもそも日本の古代史を勉強しなおしてみようと思ったのは、神社で祀っている「神様」とは何ぞや? という疑問から始まったことで、そのテキストとして始まった記紀読破でした。ところが、読めば読むほど謎が深まる世界でした。それが新しい興味を呼び起こして、過去の限定された話のはずなのに底がまったく見えない事態に陥っています。

日本史の中で古代と呼んでいる時代は、政治的には天皇支配の平安時代までで、武家政治による鎌倉幕府成立(1192年)からは中世となります。ただし、支配者が誰かという実情を考慮して、1100年頃の荘園公領制度の確立をもってして実質的な古代の終焉とするのが、現在の一般的な考え方のようです。

となると、古代史を知るためには、まだ8~11世紀の400年間分、おおよそ奈良時代と平安時代までを勉強しなおさないといけないことになるんですが、奈良・平安になると、今度は仏教史も勉強しなくちゃいけないので、到底きりがない。だけど、持統天皇の後の日本はどうなったんだろうという疑問も湧いてくる。

もう少し新しい時代まで首を突っ込んでみようかと思うのですが、そうなると新しいテキストが必要です。当然、選択されるのは「続日本紀」という書物ということになります。

政府公認「日本の成り立ち昔話」として作られたのが古事記で、公式国史として編纂されたのが日本書紀です。いずれも、だいたい過去のことについていろいろな資料をまとめ上げたレトロスペクティブなもの。ここからは、今からすれば歴史書ですが、当時はリアルタイムに記述された「日記」みたいなもので、記紀に比べると内容の信憑性は格段と高まります。

続日本紀は、だいたい8世紀の百年間のことが書かれています。そして、それに続くのが日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録と続き9世紀までのことを記述した、全部で6つの書物を六国史(りっこくし)と呼びます。

古事記に関する一般書物の量を10とすると、日本書紀に関するものはだぶ少なくなって5くらい。それでも記紀は諸説紛糾する歴史書であると同時に、謎が謎を呼ぶロマンの香り高い文学書としての価値も見いだされています。ところが、それ以後になると、とても読むにはハードルが高すぎる専門歴史書を除くと、一般向け解説本は極端に少なくなります。続日本紀で1くらい、それ以後の物については皆無に近い。

ですから、少なくとも続日本紀を、原典に沿って読み進むみたいな形は到底無理ですけど、ちょうど奈良時代がすっぽり収まるあらすじだけでも追いかけてみようと思います。そこで、探して選んだのが「平城京全史解読 - 正史・続日本紀が語る意外な史実(大角修・著、学研新書、2009年)」というもの。続日本紀の記述の順に沿って、大小の事件を解説していく「あらすじ本」で、新書で量も少ないので読みやすそうです。

日本書紀は通常の読みは「にほんしょき」ですが、続日本紀は当時の読み方に倣って「しょくにほんぎ」と読みます。編年体で全40巻あり、記紀に比べて一つ一つが詳細であることが想像できます。最終的に完成したのは平安時代の797年(延暦16年)で、公卿の菅野真道らによって編纂され、第42代の文武天皇から第50代の桓武天皇までの95年間が記載されました。

もちろん、記紀に比べて詳しくなったとはいえ、続日本紀の時代には知られていなかったこと、意図的に書かれなかったこと、間違って記載されたことなどは多々指摘されています。少なくとも、記紀のように創作して書き加えることはほとんど無いらしいので、そのつもりで多少の資料を加えながら探りを入れてみたいと思っています。

2018年1月16日火曜日

古代豪族考 (4) 有力氏族 其之二


引き続き、力のあった豪族と呼ばれる古代氏族をピックアップしていきます。

6. 三輪氏
奈良県桜井市、奈良盆地の東南にある三輪山は、大国主神の分身である大物主神が鎮座する大神神社のご神体そのものの神聖な山である。五穀豊穣の農業神と病気を鎮める祟り神の性格を併せ持ち、三輪氏はその神宮家として栄えた。一部に、邪馬台国の卑弥呼の鬼道に起源を求める説がある。祟神紀に、疫病が流行り、大物主神は意富多泥古(おほたたねこ)を探し自分を祀るように天皇に伝えた。探し出された意富多泥古を始祖とし大神神社の祭祀権を獲得し、一定の力を保持し続けた。持統天皇の度重なる吉野行に対して、中納言であった三輪朝臣高市麻呂は、収穫を妨げ農民を疲弊させるとして思いとどまるよう進言し対立した。

7. 巨勢氏
奈良県高市郡を本拠とし、6~7世紀に大臣を多数輩出し外交外征で活躍した氏族で、武内宿禰の後裔氏族の一つだが、系図的には不明な点が多い。農業的な不利な地域だが、大和・紀伊・吉野を結ぶ交通要所であったことが力を持った要因とされる。律令制のもとでは武人から文人に転換したが平安時代になると次第に衰退していった。

8. 和珥氏(和邇氏)
孝昭天皇を始祖とする皇別氏族で、春日氏とも言い、奈良盆地東部の天理市和爾町付近を本拠とする。もともとは海人族系とされ、埴輪などの祭祀土器製作、墓の管理などを行っていた。天皇家に妃を出した人数は多いが、それらから天皇は輩出していない。武人として江戸時代まで続いていたようで、詳しいことはわからないが、ある程度の力を維持していた氏族。派生氏族は多く、柿本人麿の柿本氏、小野妹子や小野小町の小野氏、山上憶良の山上氏などは有名。

9. 秦氏
中国の秦国の始皇帝の後裔とされる功満君が仲哀紀に渡来したのが始まりとされ、その子である弓月君が応神紀に数千人(?)を率いて渡来し帰化した。記紀の中では、あまり目立った活躍は無い。しかし、奈良時代以降は経済的には力を持っていたようで、平安京を作る際にはかなり関わったといわれ、太秦(うずまさ)を本拠地としていた。

10. 紀氏
武内宿禰の子である紀角を始祖とし、奈良県生駒郡平群町を本拠とした。姓は初め臣であったが、天武紀に朝臣へ改められた。主として武人として、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したが、政権内での位にはもともとは比較的無縁。奈良時代にしだいに朝廷内に地位が上がり、姻戚関係の光仁天皇が即位してから繁栄したが応天門の変以後衰退する。歌人としては貫之が有名。

他にも豪族と呼ばれる氏族はたくさんありますので、挙げていたらきりがない。最低限として、このくらいの有名処はおさえておきたい、というほどのものですが、最後にもう一つ、記紀における最大の謎をはらんだ豪族を忘れてはいけません。それが、物部氏です。

11. 物部氏
日本書紀には、「饒速日命こそが物部氏の祖先である」と明記されています。しかも、この饒速日命は天孫であり、一般的に「天孫降臨」で地上に降り立つ邇邇芸命よりも先に近畿の地を制圧・統治していたことになります。このあたりの事情については、記紀ではまったく触れられておらず、何かの配慮が働いて書かないわけにはいかないが、できることならもみ消したいという意図がくみ取れます。

物部氏末裔は自分の祖先について、記紀の記載には満足できないため、あらため自分たちの出自を主張するために記録したのが「先代旧事本紀」と呼ばれる書で、饒速日命の降臨事情についてはより詳細に書かれています。この書は、学問的には「偽書」の扱いをされていますが、全面的に取り上げている先生もいるし、そうではないとしても部分的には信じられるとする傾向があるようです。

饒速日命については、いずれ整理する必要があると思っていますので、ここではもうしばらく横に置いておき、物部氏についての概略だけノートしておきたいと思います。

物部氏は、天皇家以外で最も長大な系譜を有し、天孫である饒速日命を祖とし、祭祀関係氏族として大王家の伝承を伝える、いろいろな宝物の管理などに携わっていたと考えられ、天理市を本拠として石神神社を管理していた。5世紀末くらいから力を増し、初期ヤマト王権の重責を担うようになった。仏教に対しては排仏派の立場をとり、用明紀の大連となった物部守屋が、蘇我馬子と皇位継承問題で対立し滅ぼされたため以後衰退した。

2018年1月15日月曜日

古代豪族考 (3) 有力氏族 其之一


豪族の中で神別とされる種々の神を祖とするグループについては、「天孫降臨」の話で、天照大御神の孫にあたる邇邇芸命と一緒に天下ったたくさんの天つ神がいたことを思い出します。それぞれの名と同時に、地上に降り立った後何の祖先であったかが明記されています。

天児屋命(あまこやねのみこと) 中臣連らの祖
布刀玉命(ふとだまのみこと) 忌部首らの祖
天宇受売命(あめのうずめのみこと) 猿女君らの祖
伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと) 鏡作連らの祖
玉祖命(たまのおやのみこと) 玉祖連らの祖
常世思金神(とこよのおもいかねのかみ) 神の祭事・政事
手力男神(たぢからおのかみ) 佐那々県に鎮座
天石門別神(あめのいわとわけのかみ) 御門の神
天忍日命(あめのおしひのみこと) 大伴連らの祖
天津無久米無命(あまつくめのみこと) 久米直らの祖

このあたりが、ほとんどファンタジー色の濃い神代の話と世俗との最初の接点になっています。天下った神以外からもたくさんの氏族が派生してくるのですが、これらの系譜は混乱し過ぎてわけがわかりません。

当然、少しでも自分の立場を有利にしたいわけですら、それぞれの氏族は系図を作るときに、自分の出自を高貴なものとしたいという潜在的な希望が働くのは当然です。また記紀編集時のヤマト朝廷内の力関係も配慮されるはずです。

平安時代に作られた「新撰姓氏録」に掲載された氏族一覧は、 群馬県立女子大学北川研究室HP(http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji.html)にて閲覧できます。この労作データの中を子細に見て行けば、どんな氏族がいてその始祖が何かは朧気に見えてくる・・・はずなんですが、なかなか簡単ではありません。

有名無名を問わず、多くが似たような所に出自があるようで、もう頭が痛くなるだけで、自分専用ノートのようなこのブログで、簡単にまとめるということは到底できない相談という感じです。そこで、記紀で頻出する氏族についてのみ、概略だけ列挙してみたいと思います。

1. 葛城氏
実在が確認されている氏族としては最も古いものの一つ。武内宿禰のこどもの一人に葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)という人物がいて、神功皇后、応神天皇の治世に朝鮮半島に度々出兵して活躍した。朝鮮側の記録にもそれらしい人物が登場している。娘の磐之媛は仁徳天皇皇后となり、その後も多くの大王家との姻戚関係を結び、かなりの力を持つようになった。安康天皇が眉輪王により暗殺された時に、眉輪王が逃げ込んだのが葛城氏系の円大臣の宅であったため、雄略天皇により焼き殺され葛城氏は滅亡した。

2. 中臣氏
天児屋命の後裔で姓は連(むらじ)だったが、天武紀に朝臣(あそみ)に格上げ。東大阪付近から本拠としていたようで、垂仁・仲哀紀から登場する。ヤマト王権が拡大していく中で取り込まれ、神と人の間をとりもつ祭祀を担当した。そのため仏教に対しては否定的で、親仏派の蘇我氏と対立し一時衰退するも、皇極紀に登場した中臣鎌足が、後の天智天皇と組んで蘇我氏を滅亡させ、その後の大化の改新の重要ブレーンとして活躍する。鎌足は無くなる直前に「藤原」の氏と大臣の位を賜り、以後藤原氏と呼ばれたが、律令制の下では次第に影を薄くしていった。

3. 忌部氏(斎部氏)
布刀玉命を祖とし、神事を司る氏族。主として各社祭祀に必要な物品を各地から収集・献上していた。天智紀以後、中臣氏が力を増してきたため祭祀権を中臣に独占されるようになり衰退する。平城紀に、末裔である斎部広成が、「古語拾遺」の中で天皇に中臣優遇を見直すように訴えたのが有名。

4. 蘇我氏
蘇我氏は、古代史上、最大の悪役スター一家かもしれません。天皇の名前は知らなくても蘇我入鹿を知らない人はいない。欽明紀の蘇我稲目から頭角を現し、馬子、蝦夷、入鹿までの四代が有名。それ以前は不明な点が多いが、葛城氏との関係があるらしい。本家とは別の傍流も多い。律令制が導入される前に、天皇も凌駕する勢いを持った最後の豪族と言える。早くから親仏の姿勢を見せ、馬子は厩戸皇子と共同で朝廷を牛耳っていた。有名な石舞台古墳は馬子の墓と言わりている。入鹿の目に余る横暴振りは反感を買い、ついに乙巳の変を引き起こし、蝦夷共々蘇我氏は突然消えてしまう。

5. 大伴氏
雄略紀、おそらく5世紀半ばから 大王直属の軍の指揮官として登場する。特に目立つ活躍は、天皇家の血統が途切れる危機の時に、各地を探し回って継体天皇を即位させた立役者が大伴金村連。蘇我氏全盛期には格下げにあったが、その後再び力をつけ、奈良時代には名門貴族に復権し、中には万葉集編纂に大きく関わる大伴家持のような文人も輩出した。平安時代になって、応天門の変で事件の黒幕として流罪になり、大伴氏は消滅した。

2018年1月14日日曜日

完璧な満月


完璧な満月というのは、なかなか巡り合えるものじゃない。

天体は絶えず動いているわけで、月の満ち欠けも刻一刻と変化しています。それぞれの様相は一瞬の物ですから、どんなに満月ぽく見えても、写真で見ればどこかが欠けている。

ところが、この月は・・・たぶんパーフェクトなフルムーン。全周のどこも欠けているところはないはずです。

何でかというと、人工の月だから。NASA等が発表している月のデータを基に、忠実に作られた3Dモデルです。

この数年、話題になることが増えてきた3Dプリンターによって作られたもので、中にLED照明が組み込まれています。3Dプリンターの力はなかなかあなどれない。

わざと背景を入れましたけど、背景を真っ黒にしてしまえば、誰もが本物の月の写真だと思うんじゃないでしょうか。

amazonで探すと、こんなのがゴロゴロ出てきます。だいたい中国製のようですが、それほど高額ではありません。

実用的な明るさはありませんが、インテリア照明としてはちょっとオシャレな感じでいいんじゃないかと思います。

2018年1月13日土曜日

古代豪族考 (2) 武内宿禰


武内宿禰(たけうちのすくね)は、記紀の中での謎多い・・・というより謎そのものみたいな存在。系図的には混乱していて、古事記と日本書紀での記載がいろいろ。また、登場する各天皇紀によっても、ばらばらだったりします。ここでは、日本書紀の登場シーンを中心に武内宿禰の役割を再確認してみます。

まず、最初に登場するのは、孝元天皇7年の記述で、第2夫人との間に彦太忍信命(ひこふちおしのまことのみこと)がいて、武内宿禰の祖父であると書かれています。つまり武内宿禰は孝元天皇の曾孫ということらしい。

次に、景行天皇3年のこと。天皇が紀伊国に行き神を祀ろうと思ったが、占いが不吉だったために、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を代わりに派遣します。屋主忍男武雄心命は彦太忍信命のこどもで、そのまま留まり現地で結婚し、生まれたのが武内宿禰であると書かれています。

日本書紀の書かれたままを素直に信じると、屋主忍男武雄心命が生まれるのは紀元前200年頃で、武内宿禰が生まれたのは紀元後70年くらいになってしまい、祖父と孫が300歳近く年が離れているということになってしまいます。

さて景行天皇は主として九州の制圧に乗り出すのですが、景行紀25年に、武内宿禰を北陸・東北の偵察に派遣しました。帰ってきた宿禰は「蝦夷(えみし)という連中が支配しているが、とても肥えた場所なので攻め取った方がいい」とレポートしています。

これがきっかけで、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に旅立たされることになります。景行紀51年に武内宿禰は棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)に就任しました。棟梁は建物の重要な部分で、棟梁之臣というのは政権の中で重要な位置にあることを示しています。ちなみに棟梁が頭領(とうりょう)となり、かしらとか親方という意味になりました。

ほとんど記載のない成務天皇紀ですが、3年の記述に武内宿禰を大臣にしたみとが書かれ、天皇と武内宿禰は生年月日が一緒でとても仲良しとあります。仲哀天皇が急死した際には、神功皇后と武内宿禰が相談して、天皇崩御を隠蔽する作戦を立てます。天皇の遺体は武内宿禰が密かに持ち帰り、偽りの帰還部隊を別に編制しています。武内宿禰は、琴を奏でてあげたり、活躍を祈祷したりと神功皇后と仲良しです。

三韓征伐成功後、神功皇后の水軍は戻って来たのですが、忍熊王の謀反軍が待ち受けていたため、武内宿禰と作戦を練って謀反軍を撃退しました。その後の朝鮮半島との外交問題の時にも、皇后は天照大御神に伺いを立てると、「武内宿禰に決めてもらえば間違いない」と言われたりしています。

その後の応神天皇紀、仁徳天皇紀にも少しずつ登場しますが、仁徳紀50年に天皇と歌を詠みあうのを最後に武内宿禰は記紀から消えてしまいます。これは紀元360年頃ということになるので、少なくとも武内宿禰の寿命はほぼ300歳・・・って、いやいや、そりゃいくらなんでも盛り過ぎです。

ですから、当然一人の人物ではなく、歴代の政権の重要な補佐役だった何人かを取りまとめた代名詞が「武内宿禰」であり、理想の大臣像として描かれたものと考えられています。重要なことは、武内宿禰は皇族の出身であり、また多くの中央系豪族の始祖とされている点です。

武内宿禰の系図は古事記の方が詳しいのですが、それによれば波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏などの有力豪族が後世に連なってきます。その時々の「武内宿禰」は存在していたかもしれませんが、継続的な実在性そのものが疑問視されていますので、これらの系図的なものについても作為の疑いが濃厚ではありますが、力をつけてきた豪族を天皇家の下に置くために、「褒めて落とす」作戦が見え隠れしているというところでしょうか。

2018年1月12日金曜日

古代豪族考 (1) 基本事項


記紀を勉強してみると、これは天皇家を中心とした歴史だということに気がつきます。ところが、その中に「~は、××氏の祖先」みたいな記述がよく出てくる。その××というのが、有力氏族であり、豪族ということになる。しかも、時代が進むほど、そり力は馬鹿にならないものになって、天皇家とも複雑に絡み合ってきます。

もともといきなり天皇家が日本を支配したわけではなく、群雄割拠する多種多様な勢力が凌ぎを削って、4~5世紀にかけてヤマト王権という形に統一されてきたことが、これまでの勉強でわかりました。言ってみれば、天皇家も元をたどれば豪族の一つということも言えると思います。

6世紀になるとヤマト王権の力は盤石の物になり、それぞれの地方を支配していた勢力は、しだいにヤマト王権に取り込まれ始めます。邪馬台国も、その中の一つだった、あるいはそのままヤマト王権に移行したのかもしれません。

ヤマト王権は、これらの豪族を武力制圧、あるいは同盟によって、当初は傘下に置いた形でした。そのために用意した飴と鞭は周到に準備され、記紀の中にそれぞれの豪族がどこから始まるかを書き込むことで彼らのプライドを守ったと言えます。

また、それぞれの豪族が信仰していた神々も、祀っていた古代神社も吸収し、記紀の中に取り込むことで、記紀が豪族の信仰の対象になり、それが天皇崇拝にもつながっていきます。豪族の独自の神は、吸収する過程で職業的スペシャリストとして特徴づけるようにしました。

ですから、朝廷内での序列決定に際しても、血筋というものに対してはたいへん重視し、豪族自らも正当な由緒ある系図を大切にしました。その上で、支配権を維持するために天皇家の系譜をより高いレベルで維持することは最重要課題の一つだったということです。

しかし、天智・天武天皇以後、律令制度が少しずつ形になっていく中で、豪族の実質的な既得権理は少しずつそぎ落とされ、次第に支配体制を強化することで臣下に変えていき「豪族」と呼ばれるものは消滅し多のです。

ヤマト王権の関係性から、豪族は中央系(大和系)、地方系、渡来系の三種類に分けられます。中央系は、畿内で早くから天皇家との協力関係があったもので、物部(もののべ)氏、蘇我(そが)氏、大伴(おおとも)氏など、三輪(みわ)氏、巨勢(こせ)氏などが含まれます。地方系は紀(きの)、吉備(きび)氏、忌部(いんべ)氏、出雲(いずも)氏などで、中国・朝鮮から移住してきた渡来系は和爾(わに)氏、秦(はた)氏など。

平安時代に作られた「新撰姓氏録」では、全1182氏族を皇別、神別、諸藩に分類して区別しました。皇別(335氏)は、天皇との血縁関係がある、またはその子孫から派生したものです。神別(404氏)は、記紀に登場する種々の神を祖先神とするもので、諸藩(326氏)は渡来系のもの。残り117氏は未定雑姓とされました。

記紀ではほとんど記述が無く、実績がよくわかっていない成務天皇は地本行政制度を整備したことはわかっていて、その中で氏姓制度が始まります。実際に制度化したのは允恭天皇と言われています。その理由というのが、「昔は名前を間違えることは無かったのに、最近は忘れちゃう奴や、高貴な素性を騙る奴が多くてやりにくい」というものでした。

そこで、氏族の名前に姓(かばね)を付与して、天皇家との関係を明確にしました。古くから天皇家と関わりがある氏族は「臣(おみ)」、職業のトップは「連(むらじ)」、天皇の血筋で地方に派遣されたものは「君(きみ)」、ヤマト王権の軍門に下ったものは「直(あたえ)」、渡来人は「造(みやつこ)」などと呼びます。

臣と連がエリートで、しかもその中のトップが大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)です。臣を与えられたのは中央では葛城、巨勢、蘇我、地方では吉備、出雲、連を与えられたのは大伴、物部、中臣などです。

後に天武天皇は、「八色(やくさ)の姓」を制定し、真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣、連、稲置(いなぎ)という序列とし、豪族出身は皇族の下に置いて、上下をはっきりさせました。

2018年1月11日木曜日

魏志倭人伝 (3) 卑弥呼


魏志倭人伝の最後に書かれているのが支配者、卑弥呼に関する話です。天皇の名前は知らなくても、誰もが「卑弥呼」は聞いたことがあるもので、日本古代史最大のスターと言えるかもしれません。

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元々は男の王が、80年くらいは続いていたが、倭国が乱れ、国同士が互いに戦乱を起こしていた。そこで、共同で女性の王を立てておちついた。女王の名は卑弥呼といい、鬼神を祀る者で、人々を掌握する力を持っていた。すでに高齢で、独身だった。弟がいて、国を治めるのを手伝っていた。

王になってから、姿を見たものはほとんどいない。千人の侍女が世話をしていて、食事を運んだり言葉を伝えるのに男性が一人宮殿に出入りしていた。宮殿は城壁、木の柵で囲み、警備も厳重だった。

景初2年(西暦239年)6月に卑弥呼は帯方郡に使いを派遣し、魏の天子との面会を要望した。12月に魏の皇帝は詔書を下し「遠路はるばる朝貢しにきたことはご苦労であった。卑弥呼を親魏倭王と認め、金印と紫綬を送る。合わせて、金、刀、真珠、銅鏡百枚なども送る」とした。正始元年(西暦240年)にこれらは倭国にもたらされた。

正始8年(西暦247年)、卑弥呼は狗奴国の卑弥弓呼(ひみくこ)とは以前から不仲で、しばしば争いが起こっていた。この年、卑弥呼は亡くなり直径が百余歩もある大きな墓が作られ、百人ほどの奴隷が殉死された。

後継者に男の王が立てられたが、人々は服従せず、国内は不穏な状態が続いたため、卑弥呼の13歳の宗女(娘?)、台与が女王に就いたところ鎮まった。

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以上が、卑弥呼に関する記述のほぼすべてです。魏志倭人伝と呼んでいる、魏国の使者による倭国レポートはこれで終了。全部で漢字二千字程度で、見たこと聞いたことを淡々と報告しているので、文字数の割には内容は濃いように思います。

まず、最初のポイントは卑弥呼が女王に即位する前に「倭国大乱」と呼ばれる、国土の広い範囲に戦争が継続していたというところ。実は最新の研究で、植物の年輪に含まれる成分の研究から、西暦120年ごろから数十年間の間、極度の天候不順が続いていたことがわかっています。

これは、作物の凶作を引き起こし、戦争の引き金になったものと考えられています。卑弥呼が王位に就く3世紀頃には、気候は安定してきているので、卑弥呼のお陰なのか、あるいはたまたまたそういう時期だったのかわかりませんが、世の中は平和を取り戻すことになったと思われます。

もう一点は、魏の年月がかかれていることです。これによって、卑弥呼の亡くなった年がはっきりしているのです。日本書紀の年号を信用するなら、卑弥呼の活躍していた時代は神功皇后の治世とほぼ一致していて、亡くなったと思われる年は数十年以内の違いとなります。

当時国内では青銅器の使用が中心で、まだ鉄を鋳造する技術はありませんでした。邪馬台国は中国から鉄製品を手に入れることで、より文化的にも優位性を保っていたと考えられています。

魏から送られた親魏倭王の金印は発見されていませんが、見つかれば邪馬台国所在地論争を終わらせる決定的証拠になるといわれています。また銅鏡百枚は、いわゆる三角縁神獣鏡と呼ばれているものと考えられ、微妙な研磨の結果、反射した光に模様が映し出されて、卑弥呼の「鬼道」の一つになっていたと言われています。

それにしても、高齢で独身だったというのに、13歳の娘がいたというのは・・・不思議な感じですけどね。年齢的には、台与が神功皇后だと考える説もあるようです。

2018年1月10日水曜日

魏志倭人伝 (2) 人々の生活


邪馬台国への行程に続いて出てくるのが、人々の生活、つまり古代日本人、特に弥生時代末期の人々の生活についての記述です。これも興味深いことがたくさんあります。

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邪馬台国では、男性は年に関わりなく顔や体に入れ墨をしている。海に入り魚や貝を捕っていたが、入れ墨が魔除けになっているようだ。出身や地位により、入れ墨はそれぞれ異なっていた。

風紀は乱れず、男性は木綿の布を頭に巻き、衣服は横幅のある布を巻いて縫ってはいない。女性は髪を結い大きな布の真ん中に穴を開け、そこから頭を出すようにして着ている。みんな裸足である。

稲、麻を栽培し、蚕を飼育して糸、織物を作っている。家畜は飼っていない。武器としては、矛、楯、木の弓を用いている。矢じりには鉄、または骨を使用している。

気候は温暖で、冬・夏には生野菜を食べている。飲食には縦長の杯を用いて、手で食べている。住居は部屋があり、父母兄弟で分かれて就寝する。朱丹を体に塗っている。

人が死んだときは、棺桶に入れ土を積み上げて塚を作っている。10日余り葬儀が続き、終わると家族全員が水浴して洗い清める。

山々には、楠、クヌギ、かし、楓、竹などが育っている。生姜、橘、山椒、茗荷もあるが食用にはしていない。

何か問題があると、骨を焼いて占っているが、我々の亀の甲羅のひびを使う占いと似ている。皆酒好きでね目上の者に対しては膝まづいたりはせず拍手をする。返事をするときは「噫(あい)と答えている。」

全体的に長寿で、100歳も珍しくはない。一夫多妻制だが、妻たちは互いに嫉妬したりはしない。犯罪はなく、もめごともあまり無いが、きまりを破るものは妻子、場合によっては一族を取り上げられてしまう。

税制度があり、集めたものを貯めておく倉庫がある。周りの国との間で、お互いに足りないものを交換する市がある。北側には検問所があり監視している。

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実際は、前後の脈絡なく、思いつくままにばらばらに書かれているようなところがあるので、多少順序を変えてある場所があります。また、簡単には理解しかねるところは、一部省略しました。それでも、当時の生活様式がかなり詳細に書かれていて、大変貴重な記録だろうと思います。

入れ墨は一族、部族などを見分けるために重要な意味があったのでしょう。ただ、邪馬台国がそのままヤマト王権につながると考える場合は、入れ墨の風習が無くなったのはどういう訳なのか不明ですね。

国内の人々の生活は草食主体で、規律正しい健康的な生活だったようです。税制度があり、経済も始まっていて、多少治安活動もあって、基本的な社会制度はすでに備わっていたと思われます。

長寿ということについては俄かに信用はできませんが、人々は今の数え方とは違う年齢のカウントをしていたのかもしれませんね。だったら、初期の天皇が皆、驚異的な年齢であるのも本当にそうだと思っていたのかもしれません。

2018年1月9日火曜日

魏志倭人伝 (1) 邪馬台国はどこ


日本古代史の中で、記紀だけではどうにもならない無視できないのが「邪馬台国」の存在。唯一の記録がある、通称「魏志倭人伝」は、一度は目を通しておかないとしょうがないので読んでみます。

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倭人は帯方郡の東南、海に囲まれた山や島に百以上の国を造り、漢の時代から30国程度が使者を送ってきている。

帯方郡から海外に沿って船で南、そして東に7千里ほどで狗邪韓国に達する。ここで海を渡り千里ほどで対馬国、さらに南へ千里で一支(いき)国、また千里で末廬(まつろ)国に至る。

陸行で東南に五百里で伊都(いと)国、さらに東南に百里で奴(な)国、東に百里で不彌(ふみ)国に至る。ここから南へ水行20日で投馬(とうま)国、そして水行10日、陸行なら1カ月で女王が都としている邪馬臺国(あるいは邪馬壹国)に到着する。

周囲に二十あまりの国が従属するが、南にある狗奴(くな)国は男性の王がいて独立している。帯方郡から女王国までは、合わせて1万2千里ほどである。

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記紀にまったく触れられていないために、かえって日本古代史の最大の謎といえるのが邪馬台国の話です。先に、魏志倭人伝の概略については書きましたので繰り返しませんが、記紀で記述されない3~4世紀の倭国にあった邪馬台国については、中国の三国志にしか記録がありません。

となると、三国志の中で、邪馬台国について書かれた部分、つまり魏志倭人伝を読んでみたいと思うのは自然の流れ。上に載せたのが、冒頭部分の概略で、もちろん原文は漢字です。

まず最初は、朝鮮半島西部の帯方郡から邪馬台国までの行き方の説明。これだけのことですが、これが長きに渡って続く、邪馬台国論争の火種になっているところ。邪馬台国は日本のどこにあるのか、いまだに決着がついていません。

何しろ、日本全国でここが邪馬台国のあった場所ですと名乗りを上げている場所が、実は500か所くらいあるらしい。場合によっては、候補地が外国にもあったりします。

とは言っても、基本的には畿内説と北九州説の2つが有力候補地として、それぞれその根拠を列挙しています。特に、畿内説では纏向遺跡・箸墓古墳、北九州では吉野ケ里遺跡が邪馬台国の宮跡として、それぞれを主張する学者の拠り所になっています。

邪馬台国が九州の場合は、その後に成立するヤマト王権とは別の地方の王国の一つということになります。ヤマト王権が強大化していく過程で、征服され滅ぼされたか、吸収されたかしたと考えるわけです。ただし、邪馬台国が北九州にあって、後に東遷して奈良でヤマト王権を作ったという考え方もある。

畿内説を取ると、邪馬台国はシームレスにヤマト王権につながるわけですが、その場合は記紀に記載がまったく無いことは説明しにくくなる感じがします。

対馬国は今でも対馬と呼んでいる島であり、一支国は壱岐島、そして九州に上陸して末蘆国は、佐賀県唐津市松浦の付近であることは、特に異論はないようです。

東南に行って伊都国は福岡県糸島市、さらに東南で奴国は福岡県春日市まではあまり問題ないのですが、次に出てくる東にある不彌国あたりから怪しくなってきます。

不彌国は筑前国糟屋郡の宇美(博多湾岸)と言われていましたが、現在は方向と距離から福岡県飯塚市の立岩遺跡の付近が有力とされています。

投馬国が南へ水行20日というのが、九州内なのか中国地方吉備付近とするのか大きく分かれています。どっちにしても、これまでの動き方からすれば、真面目に南に船で行くと台湾を超えてしまうし、中国地方とするなら方向が違うわけで、元々の記述に何らかの勘違いか間違いがあることになります。

九州説を取る意見では、南にある対立勢力である狗奴国は熊襲(くまそ)の呼び名が転じたものだと主張します。畿内説を取る学者は邪馬台国がやまたい国、やまと国、倭国であると言いますが、実は伝わる倭人伝の複写本によっては邪馬臺(台)国ではなく邪馬壹(一)国と書かれているので、本当のところどっちが正解かはわかっていません。

他にも、様々な意見が噴出していますが、いずれにしても決定的な証拠となるものは現状では無く、どう主張しても仮説の域は出ません。そこが又、ロマンを掻き立てるところなんですけど、もしも確定できる何かが発見されれば、日本古代史における「謎の四世紀」はかなりの部分が明らかになり、記紀の読み方もかなり変わるのかもしれません。

2018年1月8日月曜日

記紀から知る成人


1999年までは、「成人の日」は1月15日に固定されていましたが、現在は1月の第2月曜日です。新成人に、大人になったことを自覚してもらい、かつそれをお祝いするための祝日とされています。

元々は、皇室で行われていた大人として認める通過儀礼の一つで、元服の儀と呼ばれていたものが1月15日に行われていたもの。「元服」は、頭(元)に冠を被る(服)という意味です。

ですから元服は、「加冠の儀」とも呼ばれ、制度化したのは奈良時代以後。男子が冠、女子が釵子と呼ばれる装飾具を頭部に着して成人の装束を完全に身にまとうことで、一人前になったことを披露することになりました。

一般に広がるのは室町時代以後らしく、記紀の対象の中心である古墳時代ではあまり明確な記述は見つけにくいようです。

天武紀11年(682年)に続けざまに身なりについて詔した記載が見られます。その中で、髪をきちんと結い上げて冠を被るという形が出来上がりました。

古くは、ヤマトタケルが最初に父・景行天皇から熊襲成敗を命じられた時に、こどもの髪形を額に結い上げて大人の髪形にしたと古事記に記載があります。日本書紀によれば、この時のヤマトタケルの年齢は16歳です。

大人として認めたから、それに見合った髪形の変化が記載されているのでしょうが、そのとたんに単独で戦争してこいという命令ですから、ずいぶんと酷な話です。

後に聖徳太子と呼ばれた厩戸皇子は、蘇我馬子の物部守屋討伐軍に参加していますが、この時は14歳くらい。まだこども扱いで、束髪於額(ひさごはな)と呼ばれるこどもの髪形で軍の後方にいました。推古天皇の皇太子になるのは5年後のことで、次期皇位継承者にふさわしい大人として扱われています。

舒明紀の最後、天皇崩御の記事に、後の天智天皇(ここでのみ東宮開別皇子と呼ばれている)が16歳で誄(しのびごと、今で言う弔辞)をしたとあります。少なくとも大人としての扱いだろうと考えられます。

何歳から大人として扱うのかは、時代による変遷がありますが、記紀の中心である古墳時代は15歳くらいということなんでしょうね。髪形を変えることで大人であることを表し、天武朝で加冠制度が始まり、大宝・養老律令で法制化されたということのようです。

最近は、大多数の若者はちゃんとしているのはわかりますが、成人の日の式典で大騒ぎする一部の新成人のニュースが毎年流れます。彼らは、「成人の自覚が無く、祝ってもらうところを自ら祝っている」わけです。もう、メディアで取り上げてわざわざ話題にするのはやめてもらいたい感じがします。

2018年1月7日日曜日

記紀の「謎」は謎のまま


古事記、日本書紀をあらまし読み飛ばしてみましたが、日本の古代史という観点からは、かなり偏った書物であるということは間違いない。何故なら、記紀に記述されている内容は、古来からの口頭による伝承が中心で、その中には意図的で無いにしろ創作・改変が多く混在しています。

また、あくまでも、7世紀後半の支配者であるヤマト朝廷が、勝者の歴史として、自らの正当性を明らかにすることを最大の目的として編纂されていますので、記紀は天皇家の歴史書と呼ぶことはできますが、日本という国全体の歴史についてはあまりに欠落が多い。

日本全体の歴史の真実を確定することは、記紀だけでは結局困難を通り越して不可能な話で、地域の様々な伝承、諸外国の記述、地道な考古学的な調査などにより、少しずつ外堀を埋めていくしかありません。

それでも、最終的な正解に達することはほぼ無理な話で、「記紀の謎」という表現の著作は山ほどありますが、その謎が真に解明されることはありえない。「謎が解けた」と主張しているものほとんどは、眉唾物と考える方が無難で、証明されていない仮説を前提にした仮々説の域を出るものではありません。

これらの仮設に対して多くの批判がされていますが、その批判の根拠にしているものも、所詮、仮設を前提にしているので、真実というよりは信念に近い話で、いつまでたっても白黒がつくようなものではありません。

ですから、あくまでもフィクション的に、記紀のストーリーの理解に徹するという読み方があってもいいと思います。また、巷にあふれる諸説については、推理小説の犯人捜し、あるいは難解なパズルを解くような「正解の可能性の一つ」として楽しむくらいが無難というところでしょうか。

とりあえず、一通り読んでみて、自分なりに「謎」として、可能なら正解を知りたいと思った点を列挙してみます。神代の話は、謎と言い出したらきりがないので、あまり突っ込んでもしょうがないかと思いますが、どうしても気になる存在がいくつかあります。

古事記冒頭、いきなり登場する天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)はどうやって生まれたのか、そしてどういう存在なのか。最初に出てきてそれきりですから、物語としての存在理由がはっきりしません。

伊邪那岐から最後に生まれる、右眼からの天照大御神、左眼からの月読命、鼻からの建速須佐之男命の三貴子についてですが、左右、太陽と月というペアとしての整合性で考えると天照大御神と月読命が主役というのが順当。なのに、月読命は、ほとんど活躍の場がなく退場してしまいます。むしろ、追加で生まれたかのような須佐之男にまつわる話がたくさん登場し、その量は天照大御神よりも多いくらいです。

出雲関連では、大国主神を助けて国造りに功績をあげる少名毘古那神も不思議。神産巣日神のこどもと説明されていますが、唐突に海の向こうからやってきて、そしてまた突然海の向こうに去っていきます。

また、大国主神が国譲りをするのも簡単過ぎる。自分のこども二人が歯が立たないからと、すぐに明け渡すようでは国のトップとしては如何なものかという感じです。これと似たような話だなと思ったのは、神功皇后の三韓征伐の話。天照大御神と神功皇后のイメージが重なり、戦わずして三韓は自ら降伏してしまいます。

勝者の天皇家からすれば、敗者である大国主神が、その後は天皇家を守護する立場として祀られるというのも納得しにくい話です。国譲りでは日和見をきめこんだ息子の事代主神が、壬申の乱の中に登場して天武天皇を助けるというのも違和感があります。

天孫降臨で、最初に地上に降り立った邇邇芸命が、なんで初代天皇にカウントされないのか。まだ国家統一というレベルではないというなら、初代天皇である神武だって、せいぜい九州地方、中国地方、近畿地方が活動範囲で、全国制覇というには寂しくないか。

神武天皇を正当な邇邇芸命からつながる最初の支配者とするなら、そもそも神武より先に近畿を支配していた饒速日命とはいったい何者なんでしょうか。饒速日も、間違いなく邇邇芸命と同じく降臨した天孫だと認められています。だったら、初代天皇と呼ばれる資格がありそうなものです。

神武以後、とにかく歴代の天皇の長命は、当然不自然過ぎる。欠史八代と呼ばれるくらい、記録もほとんどありません。存在そのものの疑問が出るのは当然で、どうせならもっと天皇の数を増やして、実時間軸との整合性をもたせられなかったのか。実在したのなら、意図的に存命期間を延長して、時代を遡らせた理由もまた不明です。

とにかく、何処まで来たら実在した天皇なのか、なかなか確信が持てません。5世紀までは、あまりに謎が多すぎて、信用できる話が少なすぎると言わざるをえない。

武内宿禰という人物も、謎の程度では最大級です。景行天皇から仁徳天皇までに参謀格のように登場してきますが、時系列を素直に信用するなら寿命が400年近いことになってしまう。皇室の血筋から生まれた人物ので、後に多くの豪族の祖先とされていますので、何世代かをまとめているんでしょうか。

他にも不思議なこと、納得できないことは、いくらでもあるんですが、挙げていたらきりがありません。また、いろいろ考えてみても、結局は答えはありません。さらに、勉強を続けてみるしかないようです。

2018年1月6日土曜日

小寒


二十四節気は、小寒(しょうかん)に入りました。

一年の中で一番寒い時期だということなんで、小寒に入ったことを「寒の入り」といい、この後に来る大寒と合わせた約30日を「寒の内」と呼んだりします。

正月三ヶ日が過ぎると、年明けのお目出度は一気にトーンダウン。七日で七草粥を味わい、松が取れると、完全に御屠蘇気分は消え去ります。

雪が降るかもと天気予報で言うものなら、いつからか「えっ~、困るなぁ。勘弁してよ」と思うようになりました。そこで一句。

独楽回し 忘れて届かぬ 雪便り

童心に帰って、素直に「わ~い、雪だぁ」と喜びたいものですが、大人になるとそうもいきません。

さぁて、今年の寒の内はどんな寒さなんでしょうか。

2018年1月5日金曜日

仕事初め


今日から、クリニックは通常診療です。

クリニックを休診にすると、通院中の患者さんたちだけでなく、急に体調を悪くした方にも、いろいろと迷惑をかけるかもしれない。

・・・のですが、正直、休みがいくらあっても、十分ということはない。

休み中にやりたかったことは山ほどあるのに、結局できずに終わってしまうんです。

所詮、怠け者の性根があるんでしょうか。

休みは休んじゃうばかりで、せっかくの時間を生産的に使うつもりが口先だけだったりするんですね。

その分、休養にはなったのかもしれません。

さすがに、年々、体力的には自信が無くなってきているので、それはそれでいいのかもと、自分を納得させるわけです。

とにかく、平成30年の仕事初めです。

食べすぎ飲みすぎで、ちょっと体が重たい感じですが、頑張っていきます。

今年も、よろしくお願いします。


2018年1月4日木曜日

日本書紀 (10) 高天原への回帰


推古朝で厩戸皇子が主導して始まった律令体制は、天智・天武の兄弟天皇により、より強固なものに拡張整備され国家基盤は盤石なものになりました。しかし、その陰では、相変わらず皇位継承を巡る骨肉の争いが続いていました。

天武天皇の皇后は、父親が天智天皇で、母親は乙巳の変以後に右大臣を務めた蘇我倉山田石川麻呂の娘です。元の名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。

ですから、祖父(石川麻呂)は父親(天智天皇)に攻め込まれ自害しています。天智天皇の皇后は倭姫王(やまとひめのおおきみ)といい、子には恵まれませんでした。驚くことに、同母姉の太田皇女、異母姉妹の新田部皇女、大江皇女も天武天皇の妃となっているんですね。

鸕野讃良皇女の同母弟である建皇子は幼くして亡くなり、祖母である斉明天皇を深く嘆かせました。天武天皇を裏切り天智天皇が皇位継承しようとしてし、結局壬申の乱で自害に追い込まれた大友皇子は異母兄弟です。

なんか複雑すぎて、気が遠くなりそうなところですが、とにかく古代史には天皇家の系譜の理解が不可欠。ほとんどが一夫多妻の近親婚であることが、話をややこしくしています。

天武天皇と鸕野讃良皇女の間に生まれたのは草壁皇子。天武天皇には、他に大津皇子(母は太田皇女)、高市皇子、忍壁皇子らがいて、天智天皇の遺児である河嶋(川島)皇子、芝基(志貴)皇子を加えた六皇子が、吉野の盟約に呼ばれお互いに協力することを誓わされました。

686年9月に天武天皇が亡くなると、一月も経たないうちに大津皇子の「謀反」が発覚します。もともと、大津皇子は人物としては高評価だったようですが、最初の皇后であった母親が早世し、鸕野讃良皇女が新たに皇后になったため、その立場はかなり難しい状況にありました。天武の生前に草壁皇子が後継者と決まっていましたが、大津皇子を推す勢力もあったようです。

当時は、伊勢神宮はすでに皇祖天照大御神を祀り、天皇直轄の神宮としては入れるのは天皇のみでした。大津皇子は天武天皇崩御後ただちに密かに伊勢に向かったのでした。これは神宮に入って天皇の資格を得るという「謀反」と解釈され、捕らえられ翌日には処刑されます。

当時、伊勢神宮をきりもりする斎宮に就いていたのは、実の姉である大伯皇女でした。姉への思いからの行動とか、草壁皇子との関係も政敵というだけでなく恋敵でもあったとか、河嶋皇子が草壁皇子に取り入るために密告したとか、いろいろな説があります。いずれにしても、大津皇子に何らかの野望はあったのでしょうし、大津抹殺の陰には鸕野讃良皇女の意思が少なからず働いていた可能性は否定できません。

鸕野讃良皇女は称制をひき、実質的な政治運営を開始。最初の仕事は、天武天皇の葬礼でしたが、これは2年以上の長期に及び、草壁皇子を先頭に立て皇太子として後継者の地位を作るようにしていました。また天武天皇の意志を引き継いだ、飛鳥浄御原令を発布しています。ところが、何と草壁皇子は即位しないうち689年に病死してしまいます。

草壁の息子である軽皇子が、まだ幼児であったため、690年元旦についに皇后であった鸕野讃良皇女は自ら即位し、第41代持統天皇が誕生しました。最大の補佐役、太政大臣には高市皇子を起用します。天武天皇の希望だった藤原京の造営工事が開始され、694年に遷都しました。

持統天皇は、天武体制の完成のために、事あるごとに臣下の忠誠を披歴させ、飴と鞭をうまく使い分けていたようです。また、異常なほど多い吉野への行幸記事が目立つのは、天武への強い想いの現れなのかもしれません。また宮廷詩人として柿本人麻呂を庇護し、後に万葉集にも多く収載される自分を含む天皇を讃える歌を詠ませています。

696年に天皇を支えていた高市皇子が亡くなり、軽皇子を皇太子にに指名。697年には体調を崩し、軽皇子に天皇位を禅譲した記事を最後に日本書紀全30巻は終結します。

持統天皇は702年に亡くなり、天皇としては初めて火葬にふされ天武天皇陵に合葬されました。720年、神代から始まる日本書紀が完成した際に送られた諡号は高天原広野姫天皇でした。

2018年1月3日水曜日

日本書紀 (9) 天皇と日本の誕生


歴史は勝者が作るものというのは、古今東西、真理といわれています。ですから、勝者は自らの正当性を強く前に出した史書を作成するものであり、敗者は悪となるか、無視されてしまう場合が多い。

古事記にしても、日本書紀にしても、取りまとめを指示したのは壬申の乱で勝利した天武天皇であることは間違いないとされています。これらの国史に記載された内容は、天皇家の正当性を明確にする目的があることは異論はありませんが、特に天武天皇の英雄性・偉人像を作り上げることを念頭に置いて編集されたことも否定できません。

古代史の真実を明らかにするためには、記紀だけに頼っていたら、完全に見誤ってしまいます。様々な古文書に伝わる伝承や中国・朝鮮半島の歴史との整合性を確認しないと、信用はされません。そういう作業を文献史学と呼ぶわけですが、さらに物理的な証拠を探究するのが考古学であって、両者の一致を見て初めて事実と認定されます。

とにもかくにも、日本書紀も大詰め。ついに、第40代天武天皇にたどり着きました。天武天皇は、父親は第34代舒明天皇で、その皇后、後の第35代皇極天皇(および第37代斉明天皇)が母親。兄は第38代天智天皇で、皇后は天智天皇の娘、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)です。

天武天皇は即位後、ただちに法整備に着手し、有力豪族との協調体制である「大王(おおきみ)制」から脱却し、律令国家の完成を目指します。このことが意味することは、「天皇制」の確立に他なりません。

便宜上、これまでも××天皇という呼称を用いてきましたが、これは漢風諡号(しごう)と呼ばれ、生前の功績を讃えて死後につけられるもの。そもそも「天皇」という用語が初めて確認されているのは6世紀後半。また、聖徳太子と蘇我蝦夷が編纂した記紀のもととなる史料の名前に「天皇記」という名称が使われています(現物はなし)。

天武天皇は「天皇」の呼称で呼ばれた最初の天皇とされていて、その後701年の大宝律令で初めて用語としての明文化がなされています。これらの漢風諡号は、8世紀半ばから見られるようですが、760年代になってそれまでの「天皇」に対して、淡海三船が一括して選定したものといわれています。

また国号としての「日本」を最初に使用したのも天武天皇の仕事とされています。最初の統一国家としての呼称は「倭(やまと)」ですが、国外から「倭(わ)」として確認されるのは3世紀に成立した後漢書の中が最初で、隋の時代まで続きます。唐が周に変わる頃の史書には初めて「日本」が登場します。

国内では、天武天皇のアイデアで法制化が着手されますが、亡くなった後に飛鳥浄御原令を経て、やはり大宝律令で確定したと考えられています。いずれにしても、中国に対する優位性を意識して「日が昇る方向の国」という意味が込められているわけです。

天武天皇は次から次へと、様々な詔を出して、実質的には能力のある者を重用しながらも、自らを神格化し皇子を要職に就けつつも専制政治を行います。政治改革を強行的に進める上で、身分の高い低いにかかわらず、多くの臣下を処罰し、またそのための法も作っています。

経済政策では貨幣制度の確立を行い、国家を担保する史書(記紀)の編纂を命じます。また伊勢の神宮との関係を深め、天照大御神を皇祖神と位置づける神祗大系を創り出しました。

天皇は自らもそうであったように、皇位継承に親族内の内紛が生じることを恐れ、皇后と伴に自分の息子である草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、天智天皇の遺児である河嶋皇子、芝基皇子を連れて吉野の地で「千年の後まで争わない」誓いを立てさせました。

草壁皇子が率先して「我々は同母、異母、年齢に関わりなく、助け合うことを誓い、裏切ったら身が滅び子孫が絶えるものです」と言い、他の皇子も同意しました。これを吉野の盟約と言います。

686年5月より天武天皇は体調を崩し、9月に亡くなりました。しかし、吉野の盟約は直後に破られることになるのでした。

2018年1月2日火曜日

日本書紀 (8) 壬申の乱


茜指す 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

紫の匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも
むらさきの におへるいもを にくくあらば ひとづまゆえに わがこいひめやも

突然ですが、万葉集です。古事記・日本書紀にも、たくさんの歌謡が登場していて、時には本文で伝えきれない、あるいは書くわけにはいかない微妙な心情を表現していたりするので、なかなかあなどれない。万葉集にも、歴史の傍証となりうる内容がかなりあるらしく、古代史を紐解く上では、重要な文献の一つという扱いです。

上は、万葉歌人として特に有名な額田王が詠んだもの。額田王といっても女性ですし、しかも大海人皇子の奥さんとだというから興味が湧いてきます。でもって、あくまでも噂話の域を脱しませんが、額田王を巡って天智天皇と弟の大海人皇子は三角関係だったかもという話しがあります。

天智天皇が、横恋慕して大海人皇子に有無を言わさず、自分の妃に取り上げたということらしい。大海人皇子は、天智天皇の冷酷に政敵を亡き者にしてきた手腕を知っていますから、泣き寝入りしたのですが、それでも額田王のことを忘れられずに、最初の歌に返事をしたというのが二番目のもの。

宴席で、額田王は「狩遊びの途中で、あなたが恋しい素振りをすると、警備の者に見られてしまいます」と歌い、大海人皇子が「だって、今は兄の嫁さんだけど恋しい気持ちはかわらない」と返歌したわけ。天智天皇もその場にいたかもしれないので、けっこう際どいお戯れだったというところ。

他にも、大海人皇子は、天智天皇の前で舞を見せた時、槍を床に本気で刺して怒らせたという話もあります。もともとは仲の良い兄弟だったようですが、二人の仲が決定的に崩れるきっかけになったのが、大海人皇子が次期天皇というのが既定路線だったのに、天智天皇は自分の息子可愛さに大友皇子を太政大臣に任命し、事実上の後継者として指名したことでしょう。

身の危険を感じた大海人皇子は、さっさと出家して吉野に籠りますが、その2ヶ月後に天智天皇は近江の宮で亡くなりました。近江ではただちに大友皇子が即位して第39代の弘文天皇になったらしいのですが、日本書紀でははっきりした扱いは無く、天皇としてはリストから欠落しています。歴代の天皇に数えられるようになったのは、何と明治時代になってからで、この点については未だに異論があるようです。

年明けて672年、大海人皇子は挙兵し、近江方との間で内乱が発生し甥である大友皇子を討ち取りました。これが、世に言う壬申の乱で、日本初の本格的なクーデターです。日本書紀は、天皇ごとに即位前の状況を簡単に記述する「前紀」で始まり、その後から元年として経時的記録をして一巻を構成するというものです。ところが、天智天皇の次の巻は、丸々壬申の乱に関する記述のみという異例の扱いをしていて、その内容は次のような感じ。

春が過ぎ、近江朝廷が天智天皇陵を作るという理由で人夫を集めているが、それぞれに武器も持たせている、そして近江から飛鳥の間に見張りを配置し、物資の吉野への搬入を制限しているという情報が大海人皇子のもとに寄せられます。

これを受けて大海人皇子は、6月22日、各地に挙兵の知らせを送るとともに、ただちに一族郎党を引き連れて吉野を脱出し、近江にいた高市皇子とも合流。しだいに付き従う軍勢を増しながら6月26日に桑名に到着しました。近江方は大海人挙兵の知らせに動揺し、各地に加勢を依頼しますがことごとく失敗します。

大海人軍はさらに北進し、6月27日に美濃国の不破(徳川家康の関ケ原の戦いで有名!!)に仮の宮を設置し、高市皇子が自ら軍の先頭に立ち指揮すると申し出ました。大海人軍は自軍を判別するために、赤色の目印をつけ、不破から近江と伊勢から飛鳥の2方面から進軍、初めは近江方の勝利もあったものの、その後は敗戦が続き、ついに7月22日琵琶湖南端の瀬田の地で最終決戦を迎えます。

瀬田川の橋を挟んで対峙した両陣営は数万人で、後方は見えないくらいでした。物凄い砂ぼこりの中で、旗・幟が野を覆いつくし、鉦・鼓の音が鳴り響き、放たれた矢はまるで雨のように降り注いだということです。そして、大海人軍は橋を強行突破し敵陣に踊り込み、近江方は一気に総崩れとなりました。大友皇子は7月23日に西の山前の地に逃げ延びますが、これまでと覚悟を決めて首を括って自害してしまいました。

・・・ちょっと、あれれというのが、大海人皇子自身は全く戦いの場にはいないんですよね。不破の宮にじっとして、ただ勝利を待っていただけみたいなんですよね。日本書紀の記述からすると、何かひたすら祈って神の力を引き出していたみたいなことなんでしょうか。

それはともかくとして、ここに乱は終結し、大海人皇子のクーデターは成功し、翌673年2月についに第40代、天武天皇として即位したのでした。

2018年1月1日月曜日

謹賀新年2018



あけまして おめでとうございます

どうか 皆様方には 今年が良い年でありますように
心よりお祈り申し上げます

本年も どうかよろしくお願いいたします

平成30年 元旦