2018年1月31日水曜日

柿の種 わさび


柿の種と言えば、間違いなく浪花屋製菓。何しろ元祖ですから、何が出てきても、基本の味・・・なんですが、定番の味ということでは亀田製菓も忘れてはいけません。

♪亀田のあられ、おせんべい・・・というフレーズは、全国的になじみがあると思います。

ただし、通常の柿の種については、浪花屋の味にはかなわない。むしろ、亀田が頑張っているのは「変わり種シリーズ」でしょう。

変わり種の元祖は「柿ピー」。一緒にピーナッツを入れたら美味しかった、というのが亀田の功績という説もあります。

チョコレートでコーティングしたものは、人気商品で定番化したものですが、自分の中で変わり種の定番中の定番と言えるのが「わさび」です。

もはや、通常の味は滅多に買うことはなく、柿の種と言えばわさび味と言いたくなるほど♡。

セブンイレブン独自のものも実は亀田製で、亀田ブランドよりもピーナッツが多めなのかな。それはそれで美味しいのですが、まずはこの緑の袋です。

ツーんとくる味が癖になりまくりです。我が家の常備品と言っても過言ではありません。

2018年1月30日火曜日

遅れがちな雪準備


先週の雪から、寒い日が続いています。

降った量の割には、翌日はけっこう溶けてくれたのですが、そこから毎朝の氷点下の冷え込みで、路面は凍結した状態がまだまだ続いています。

雪だまりもまだまだあって、ところどころで道幅が狭くなっていますから注意が必要です。

雪慣れしている地域でも、今回はかなりの大雪で大変のようですが、自分のテリトリーは、滅多にない降雪に対しては日常的な対策はほとんどありません。

そもそも雪かきの道具だって、降ってからあわててホームセンターに買いに行く始末ですから、そりゃ売り切れで手に入れることもできないことも珍しくありません。

仕方がなく、去年使って割れているもので我慢。雪かきスコップは軽量化のため、プラスチック製がほとんどなので、数回使うと壊れてしまうことが多い。

明後日あたりには、またもや関東平野でも雪の予報が出ています。今日、明日のうちに準備は万端にしておきたいものです。

2018年1月29日月曜日

長屋王の平城京の暮らし


奈良時代、平城京の住人はどのような生活をしていたのかは、国史たる続日本紀では多くは語られていません。当時の人々の息遣いに実際に触れることができるのが、実は木簡(もっかん)です。

文字を書くために使用するものとしては、紙は高級品でしたから、とっときの場合にしか使わず、日常的な連絡とか、メモ、荷札、あるいは文字を書く練習などには木の札が用いられていたのです。木の札は一度用が済んでしまえば、表面を削ってリサイクルできたので、また新たに文字を書いて使用することができました。

古くなった使用済みの木簡は廃棄されるのですが、一定のゴミ捨て場所が決まっていたらしく、一度見つかるとつるべ式に発見されることが多く、貴重な歴史を紐解く一次資料として有用性が高いとされています。

もともと正倉院の宝物に荷札として数十点の木簡が使用されていたことは知られていましたが、本格的に注目されるようになったのは1960年代の平城京から出土した数十点からで、特に1989年に平城宮のすぐ南東から偶然発見された大量の木簡により、その場所が非業の死を遂げた長屋王の住居であったことが判明し、その数は3万5千点にも及びました。

現在までに発見された木簡の数は40万点近くもありますが、その多くは細かい断片であったり、削った薄い破片だったりで、もちろん書かれた文字の解読が不可能であったり、読めても一定の意味づけができないものです。しかし、それらの中にも、見る人が見れば宝の山のような情報が詰まっているものです。

もう一度、長屋王について整理してみましょう。長屋王は天武天皇の孫、高市皇子の息子です。妃は吉備内親王で、同じく天武天皇の草壁皇子と天智天皇の阿閇皇女の間に生まれました。つまり、阿閇皇女は後の元明天皇であり、兄は文武天皇、姉は元正天皇です。天武系の主流は皇太子だった草壁皇子の系譜ですが、皇位継承権利者としては十分すぎる血筋を引いていました。

朝廷内では異例の速さで大納言に昇進し、太政大臣・藤原不比等に次ぐ地位を得ます。政治家としては、実務的な才覚はあったようで、不比等も目をかけていました。720年に不比等が死去すると、藤原一族を抑えて朝廷のトップになり、実質的に長屋王政権が誕生します。

724年、藤原家との関係が深い聖武天皇が即位すると、長屋王は対立姿勢が明らかになり、729年に藤原一族の陰謀により天皇が許可した兵に私邸を囲まれ、妻子ともども自決しました(長屋王の変)。

そんなわけで、長屋王は、当時の貴族の中でも、抜きんでた貴族であったことは間違いありません。出土した木簡には、全国から天皇並みの扱いで贈答された品々の札が見つかったりしています。また、魚介、獣肉、果実、野菜などもふんだんに記載されていて、まさに「奈良時代のグルメ王」とでも言えそうな食生活が想像されます。

近隣地域からは、毎朝新鮮な野菜がふんだんに運び込まれていたようで、そのための菜園をいくつも用意していたらしい。また、いくつかの野菜は粕漬けか、または醤油漬けの漬物になっていたこともわかっています。氷の貯蔵庫があり、夏には氷を運ばせていますし、牛乳なんかも仕入れています。

また主の長屋王と、奥方の吉備内親王にはそれぞれ別の付き人がいて、日常をかいがいしくお世話をしていました。こどもの一人が飼っていた犬のために、餌を仕入れた木簡も見つかっています。また、鶴も少なくとも2羽はいたらしい。邸内には、多くの専門職人を抱え、たいていのことは邸内で解決していたようです。

当然、天皇も含めて、他にもたくさんの貴族と呼べる人たちがいたわけですから、彼らも長屋王と似たような生活をしていたことは容易に想像できます。一般庶民は一汁一菜が基本だったことを考えれば、相当贅沢な暮らしぶりが浮かび上がってくるのも木簡の存在があるからです。

でも、そんな暮らしをしていても、基本的にはサラリーマンですから、毎朝家を出て、真っすぐ北上して徒歩10分程度のお役所へ通勤していたんでしょう。家は近いから、昼ご飯時は家に戻っていたのかもしれませんが、きっと奥さんには、いろいろな仕事の愚痴を言っていたのに違いありません。

2018年1月28日日曜日

日本古代史と文字


古事記にしろ、日本書紀にしても文字で書かれたものですが、編纂されたのは7~8世紀のこと。舞台となる紀元前から、ずっと文字が存在していたわけではありません。

斎部広成の「古語拾遺」の冒頭には、「上代には文字がなかった」と記されていて、少なくとも神話世界(神代)、または、もしかしたらヤマト王権が成立する頃までは、日本には文字は無かったと考えられています。

ただし、例えば亀の甲羅を使った占いなどでは、一定の模様などが特定の意味を持つものとされていたわけで、記号としての文字様のものは存在したはずです。しかし、文字として成立するためには、その記号と話言葉とのリンクがあり、誰もが読んで書ける必要があります。

世界に目を向けてみると、紀元前3000年より前のシュメールが最古とされています。エジプトでも、同じ頃にピラミッド内に文字が発見されています。その頃は、日本でも何らかの文字があったことは否定はできませんが、学術的には4世紀以後、大陸側からの漢字の伝来がスタートとされています。

日本の古代文字として、いくつもの神代文字と呼ばれているものが存在はしていますが、信憑性という点からは疑問があり、取り上げ始めたら古代史の迷宮はよりいっそう混迷の度合いを深めてしまいます。歴史素人の立場からは深入りせず、現状で定説、通説となっている範囲を逸脱することはできるだけ避けた方が無難と思います。

当時のヤマト言葉に、中国の漢字の読みの音と似たものを当てはめていったわけで、天皇家の「偉大な」歴史を民に周知させることを目的とした日本最古の文字資料である古事記では、基本的に話し言葉を漢字だけで記載したものとして成立しています。

一方、日本書紀は、対外的に日本の威厳を示すため、漢文でかかれています。どちらも書かれているのは漢字だけですが、古事記は当時の唐の人が読んでも理解できなかったことでしよう。日本最古の和歌集として有名な万葉集も、実はヤマト言葉による漢字だけで書かれています。

いくつもの漢字が、漢字本来の意味を無視して、あくまでも読んだ時の音だけをその時々に応じて採用するという原始日本独特の使用法は「万葉仮名」と呼ばれます。

逆に中国側では、日本で聞いた言葉に漢字の音を適当に当てはめることもされていて、「邪馬台国」や「卑弥呼」が代表的。もしかしたら魏の人は「ヤマト」、「ヒメコ」と耳で聞いたのかもしれませんし、当時の日本で文字が使われていたら「倭」、「姫」を使うことを教えたはずで、わざわざ卑下したような邪や卑の文字は使われなかったはずです。

その後、奈良時代になると、「多」を「タ」のように使用する漢字の一部だけを省略して使用することが始まります。ヤマト言葉を表すのに使用する漢字が統一されていく過程で、平安時代には仮名文字が出来上がっていきました。

紀貫之の土佐日記(935年)では平仮名が使用されています。12世紀の今昔物語あたりからは漢字と仮名が混在するスタイルが出来上がってきました。平仮名と、片仮名(主として外来語向け)を使い分けるのは第2次世界大戦後で、歴史上は最近のことです。

日本古代史を知るうえで、文字史料の存在は多くの確定的な事実を伝える可能性がありますが、逆に嘘もあることに注意が必要です。現実には、7世紀以前のものは極めて少なく、千葉県稲荷台古墳から見つかった「賜王」の文字がある鉄剣は、5世紀頃の倭国最古のものとされ貴重な史料とされています。

奈良時代以後は、急速に文字の使用は拡大します。木の平たい面に文字が書かれたものを、木簡(もっかん)と呼び、平城京跡から20世紀後半に大量に出土したことで、当時の実態の解明が飛躍的に進みました。

歴史の時代区分で、古代の次は中世です。この境界は、支配体制や社会経済体制を基にされているわけですが、日本では11世紀の荘園制度形成を区切りとしています。文字を中心に考えると、独自の文字を持たなかったのが古墳時代までで、実用的な文字の使用が始まるのが飛鳥時代、日本独自の文字が考案されだすのが奈良時代、完成し普及するのが平安時代前半ですから、そこまでが不確定要素が多い「古代」だという考え方もあっていいのかもしれません。

2018年1月27日土曜日

寒いっ!!


さすがに、寒いです。平成最低気温を各地で更新、なんて話が出ています。自分のいる横浜市北部でも、この数日は日の出前の温度計は摂氏−5゚cです。

これはなかなか見たことが無い表示で、先日の雪が溶けきれないアスファルトの道路は、毎朝、はっきりと凍結した状態が続きます。

この付近は、住宅地として出来上がってから数十年以上たった区域なので、住民は高齢者と呼べる年代が多くを占めています。

当然、雪が降ったからといって、せっせと雪かきができない家もたくさんあって、道路に残って氷塊になった残雪も少なくありません。

そういえば、雪が降ると転倒事故が増えるのですが、今年はクリニックに来る滑って怪我した人が多いように思います。

今までにあまり経験した記憶が無いことの一つに、自動車の室内側が凍っています。外側が凍りつくのは、この時期普通のことですが、内側もというのは・・・

外はがりがり削って、比較的早くに何とかできますが、中はデフォーカーで溶けるのを待つしかありません。朝の始動時間がかなり必要です。

足元の残雪を車内に持ち込んでしまうせいで、湿気が多くなっているせいだと思いますが、車内にいると冷たい風か来るので寒くてしょうがないので、むしろ外に出て待っている方がましだったりします。

節分まであと1週間。立春が待ち遠しいです。

2018年1月26日金曜日

続日本紀 (7) 平城京から長岡へ


770年に称徳天皇が亡くなり、皇太子になった白壁王は、道鏡一派の処分が終了して、その年のうちに第49代の光仁天皇として即位しました。ここに、奈良時代に継続した天武系から、天智系の天皇への復帰が実現しました。ただ、光仁天皇は、この時すでに60才を超えていましたが、吹き荒れた粛清の嵐の中で、酒に溺れて皇位など興味がない振りをして、何とか逃れてきたらしいです。

もちろん天武系を推す勢力もあったようですが、白壁王の妃は聖武天皇皇女である井上内親王であり、天武系と天智系の鍔迫り合いの妥協点が光仁天皇を誕生させたようです。その調整役として頑張った右大臣吉備真備は、ほとほとお疲れだったようで、天皇即位を見届けて現役引退してしまいました。天皇は、翌年には息子の他戸親王を皇太子に立てています。そして、政権の両輪だったもう一方の左大臣藤原永手が亡くなり、舵取りを失った朝廷は再び不安定な状況に陥ります。

天智対天武の縮図は、天皇と皇后の間にも存在していたようで、二人の仲は一気に冷え込みました。772年に、突然皇后が「以前に、呪術を使って謀反を企んだ」という、よくわからない理由で皇后の地位を廃されました。さらに皇太子も連帯責任で廃されてしまいます。

翌年に山部親王を新たな皇太子とします。ただ、山部親王の母親は、百済から渡来した氏族の出身で、身分が低く力が無いので不安が残ります。そこで、井上内親王と他戸皇子を幽閉してしまうのですが、3年後に「二人揃って亡くなる」という記述があり、どう考えても自殺か暗殺と思わ、ここに天武系排除は完了しました。

光仁天皇はピンチヒッター的な即位で、年も取っていたので、天武系皇位継承者と道教の影響を整理整頓したくらいで、あまり目立った仕事は残せていませんが、気苦労はいろいろあったのかもしれません。781年に体調を崩したため山部皇太子に譲位しますが、年の瀬に亡くなりました。

皇太子は即位して第50代桓武天皇となり、弟の早良親王が光仁天皇の勧めにより新たに皇太子となりましたが、翌年には、まだまだ続く皇統のいざこざです。称徳天皇と道鏡にって土佐に流刑となっていた塩焼王の妻子、不破内親王と氷上川継は光仁天皇により復権したのですが、川継のクーデター計画が発覚したため、二人は再度流刑に処されました。

天武系天皇の時代はバブル景気で、どんどんお金を使ってたので、財政は厳しい状況に陥っていました。桓武天皇は「冗官整理の詔」を宣じ、その中で「官民共々、バブルはじけて疲れちゃった。とりあえず、生活はできるんだから、宮殿造りはやめ、役人も整理して倹約しよう」とのこと。ところが、口で言うことと、実際することはだいぶ差があった。

まったく理由はわからないのですが、ここで長岡への遷都の計画が浮上してくるわけです。また光仁時代から東北では蝦夷が度々反乱を起こしており、これの制圧にも多大な人費を要しました。

784年、工事開始から半年ほどで長岡京に遷都を敢行しますが、当然まだ実質的な都としての完成にはほど遠い。翌年、天皇が留守にしている間に、長岡京の造営監督をしていた藤原種継が、反遷都派の大伴継人により暗殺されます。大伴継人とともに捕まったのは、何と皇太子の早良親王だったのです。主犯連中は即処刑され、早良親王は流刑になります。ところが、早良親王はハンガーストライキの末絶命し、桓武天皇にとってはいつまでも恐れる「呪い」を残したのです。実は、息子の安殿親王を皇太子にするための桓武天皇の作戦だったらしい。

こうして、相変わらず血で血を洗うどろどろの皇位継承争いが延々の続き、道鏡のようなババ札も登場し、天平文化の華が咲く奈良時代はいよいよ終焉を迎えようとしています。
このあとのことは、日本後紀、さらに続日本後紀に記述されていくのですが、さらに一般向けの解説書は少ななく、続きはまさに歴史授業のように勉強するしかなさそうです。

とりあえず、「古代」と呼ばれ時代は、概ね知ることはできたかもしれません。もちろん、国史中心ですから庶民の生活とかには触れいませんので、まだまだ知りたいことはたくさんありますので、いろいろなテーマをさらに模索することは続きます。

2018年1月25日木曜日

続日本紀 (6) 平城京の野心の顛末


誰かの地位をあらわす言葉を「官位」と呼び、その中で仕事の種類によって上下をつけたものが「官職」、貴賤の差をつけたものが「位階」です。天皇はもちろん王として別格で、その下に、政策を造り実行する今の内閣にあたるのが太政官、神事を司る神祀官の二つが奈良時代の政権実務の両輪と言えます。

太政官のトップが太政大臣で、その下に就くのが左大臣、右大臣。さらにその下が大納言、少納言です。位階では太政大臣は正一位、従一位、左右大臣は正二位、従二位、大納言は正三位でした。道鏡は、これらの位階を一気に飛び越し、765年に太政大臣と同格とする太政大臣禅師の地位を得るというのは、孝謙太上天皇から重祚した称徳天皇の寵愛があるとはいえ、相当な軋轢を生じたことは疑いようがありません。

766年には、隅寺の毘沙門天像の中から仏舎利(仏陀の遺骨の一部)が出てきたということで、だいたい的な式典をした上で、天皇は道鏡を法王とすると言い出し、天皇と同格扱いにまでしてしまいます。道鏡の一族もたくさん官位を得るのですが、特に768年、道鏡の弟、弓削御浄清人は大納言に取り立てられました。

像から仏舎利を発見したのは基真という僧で、その功績により道鏡と共に出世したのですが、威張りまくって好き勝手を始めます。もちろん、仏舎利発見というのはありえない話なので、基真が最初から像にそれらしいものを埋め込んでおいたものだったようです。当然、そもそもは道鏡の指図だった可能性が高い話なんですが、仏舎利の偽りがばれたらしく、すべては悪行の多くなった基真の責任にして流刑にしてしまいます。

769年、本来天皇が使う場所で、新年の祝辞を宣じたのは道鏡でした。この年、皇位継承に関わりそうな、恵美押勝と共に殺された塩焼王の妻と子を土佐に流刑します。そうこうしていると、大宰府の神官からは、「道鏡を天皇にすれば天下泰平」と宇佐八幡神のお告げがあったという知らせが来ました。天皇は和気清麻呂を使いに出し、真偽を確かめることにしました。

出発の間際に道鏡は「わかってるよね。君も出世したいよね」と言って、ぽんぼんと肩を叩いたらしい。ところが、真っすぐな清麻呂は、帰ってくると「臣下を君主にすることはかつて無い。天皇の位は皇室が守るべきもので、無道の者は排除すべし」と、神託を報告したのです。

天皇は怒った。清麻呂の姓をとりあげ、名を穢麻呂(きたなまろ)と変えさせ流刑に処しました。当然、道鏡も怒った。そもそも神託を出させたのも、道鏡が裏で手配していたもの。流刑される清麻呂に刺客を送りますが、悪天候のため失敗したらしい。

それでもめげない二人は、今度は道鏡の故郷である河内国弓削郷(大阪市八尾市)にあった行宮を平城宮と同格にすることにしました。しかし、天皇は体調を崩し770年に亡くなってしまいます。左大臣藤原永手と右大臣吉備真備が協議して白壁王(天智天皇の志貴皇子のこども)を、空位になっていた皇太子に立てます。天皇は天武から聖武に引き継がれる皇統を重視していましたが、ここに天智系が回復することになりました。

後ろ盾を失った道鏡は、天から地に一気に足元が崩れ去るわけで、天皇崩御より3週間もたたないうちに、皇太子により「長きにわたって悪だくみを重ねてきた。本来は極刑にすべきところであるが、亡き天皇が手厚くしてきた経緯があるので、下野国薬師寺に左遷とする」ということになります。朝廷内の道鏡一族もことごとく流刑とし、和気清麻呂は名誉回復で都に呼び戻されました。数年後に、銅鏡は下野国で、いっかいの僧として亡くなりました。

2018年1月24日水曜日

続日本紀 (5) 平城京の貴僧と怪僧


急速に仏教を推進・拡大したため、何と困ったことに僧が不足することになりました。何しろ大仏開眼供養では、発見された名簿から1万人の僧が出席したというのですから大変です。そこで、唐から戒律をちゃんと教え広める先生を招聘しようということになり、754年に井上靖の小説「天平の甍」で有名な鑑真(がんじん)が来日することになりました。

揚州にいた鑑真は、請われて10年間に5回も日本に向けて出発するが、ことごとく阻止され失敗していたのです。しかし、6回目にしてやっと成功し、平城京で僧を管轄する役所のトップとして戒律の普及、伝来した経典の校訂作業などに努めました。政変とは関係ありませんが、日本の仏教にとっては最重要人物の一人として記憶に留めておきたいと思います。

この辺りの話からは、この当時の皇室の系図がわからないと、もう何が何だかわからないことになります。かなり複雑ですが、無理して列挙しておきます。

まずは、天武天皇(40)の主なこどもたち。
持統天皇との間に生まれたのが、草壁皇子のみ。その子が、元正天皇(44)文武天皇(42)吉備内親王
その他の妃との間に生まれる皇子は、
高市皇子。その子は長屋王鈴鹿王。長屋王と吉備内親王との間にできた子が、色膳夫王、桑田王、葛木王で、異母兄弟が黄文王、安宿王、山背王。
舎人親王。その子が、船王池田王三原王大炊王(淳仁天皇)。三原王の息子が和気王。
長親王。その子が、来栖王智奴王川内王
穂積親王。その子が境部王
新田部親王。その子が、塩焼王道祖王
さらに、大津皇子忍壁皇子磯城皇子弓削皇子がいます。

次は天智天皇(40)の主なこどもたち。皇后との間には子はいません。
天武天皇の妃になった皇女が、大田皇女持統天皇(41)新田部皇女大江皇女の4人。もう一人大事な皇女が元明天皇(43)
皇子は、建皇子志貴皇子(光仁天皇の父)、大友皇子(弘文天皇39)、川島皇子

天武系と天智系は、天武と持統の結婚、草壁と元明の結婚で直結します。他にも多くの皇子と皇女が結婚しています。ちなみに藤原不比等の娘、宮子と文武は結婚し、その息子の聖武天皇(45)はもう一人の不比等の娘、光明子と結婚し、生まれるこどもが基王孝謙天皇(46)です。

文字で見ていてもわかりにくいのですが、系図にしてみても近親婚の嵐で、ぐしゃぐしゃです。Wikipediaは最小限の系譜が収載されていますが、たぶん一番詳しい系図は「皇室・公家・武家・社家の系図 http://www.geocities.jp/keizujp2011/」が参考になると思います。

さて、756年、聖武太上天皇は、道祖王(ふなどおう)を孝謙天皇の皇太子にするよう遺言しました。しかし孝謙天皇は、翌年、太上天皇の喪に服すべきところ、道祖王は行いが淫らで注意しても正さないという理由で皇太子から降ろしてしまいます。代わりは、塩焼王、池田王を推す声があったが、結局、藤原仲麻呂が自宅で養育していた大炊王に決定します。

藤原仲麻呂は、さらに力を持ち軍も掌握できる地位に就きます。反藤原のトップは橘諸兄が亡くなり、息子の橘奈良麻呂になっていました。奈良麻呂は大伴古麻呂、塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王と共謀して、田村邸を強襲するクーデター計画を立てますが、密告され仲麻呂に知られてしまいます。仲麻呂も奈良麻呂も皇太后からすると甥なので、穏便に叱って終わりにしようとしますが、仲麻呂は厳しい拷問を行い、塩焼王と安宿王は流刑、他は獄死させました。

758年、孝謙天皇は大炊皇太子へ皇位を譲位し、第47代淳仁天皇として即位しました。当然仲麻呂は朝廷の事実上のトップである右大臣、さらに太政大臣に昇進し、恵美押勝の名を与えられました。760年光明皇太后が亡くなり、歯止めが無くなった仲麻呂と孝謙太上天皇との関係は崩れ始めます。

翌759年、淳仁天皇は仲麻呂と縁がある近江保良宮に行幸し。どんちゃん騒ぎのあげく「ここを都にする」と言い出します。しかし、皮肉なことに、この行幸の時に体調を崩した孝謙太上天皇の治療のためということで、怪僧道鏡が朝廷へ出入りし始めるのでした。

翌年、平城京に戻り、太上天皇は男子が入れない尼寺の法華寺に住むようになり、ここから天皇に断りなく様々な勅を出し始めました。そして、ついに762年「天皇は仲麻呂にそそのかされ、私を軽んじた。自分の不徳の責任をとって私は出家したので、天皇には事実上皇位を降りてもらう」と宣言し、政権を奪還するのでした。763年には道鏡が少僧都に任じられ、太上天皇の寵愛を深めていきました。

年々、立場が悪化していた仲麻呂は、764年に太上天皇の命により畿内の軍隊の訓練を任されますが、それを反乱の準備とされ、朝廷側と戦闘に入らざるをえない状況に追い込まれました。かつて流刑にした塩焼王を天皇にしてやると言って仲間に引き入れますが、形勢不利な仲麻呂は近江に逃げ、琵琶湖のほとりで妻子、塩焼王ともども斬り殺されました。

直後に、道鏡は太政大臣禅師の位につき実質的な政務を任され、淳仁天皇は共謀の罪により廃帝され淡路へ、淳仁廃帝の兄弟の船王、池田王もそれぞれ隠岐、土佐に事実上流刑になります。そして孝謙太上天皇は重祚し第48代称徳天皇として再び即位しました。しかし、天武系の皇子をほぼすべて粛清したので、皇太子にできる人材がいなくなってしまい、ますます道鏡に頼るようになりました。淳仁廃帝を復位させようという勢力もあったようで、廃帝は翌年に淡路を脱出しますが、捕らえられ・・・翌日に亡くなりました。

2018年1月23日火曜日

初雪が大雪


昨日は、昼から雪が降り始め、帰宅の頃には大雪・・・って予報でしたけど、実際のところ横浜市北部は朝からパラパラ降ってきた。

午前中には本降りです。昼過ぎには、写真のような有様。

さて、帰りはいいとして、問題は今朝ですよ。

う~ん、出勤できるか・・・

雪は、どう見ても20cm以上積もっている感じです。

うちの周りは住宅街。バスが走る一番近い所を通る交通量の多い道路まで、数百mはあります。

とりあえず、がんばります。

2018年1月22日月曜日

続日本紀 (4) 平城京の盧舎那仏


奈良と言えば、現代人が真っ先に思いつくのは大仏です。釈迦の身長が一丈六尺(略して丈六、4.85m)という伝説により、立像でも坐像でも、それ以上の高さがあるものを大仏と呼びます。

各地に大仏と呼ばれる大きな仏像がありますが、ほとんどが高さが丈六に満たないか、20世紀に作られ歴史的な意義は希薄なものばかりです。江戸時代までに作られたもので、現存する大仏というと、大きいものとしてはやはり奈良と鎌倉で、より大きいものもありましたが倒壊、焼失しています。

奈良の大仏と呼んでいるのは、東大寺金堂(大仏殿)に鎮座する銅で鋳造され、高さが16mある盧舎那仏坐像のことです。中世に二度火災により再建されていますが、創建当時の部分も一部に残しています。これを作ろうと言い出したのが、何かとお騒がせの聖武天皇でした。

740年、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺(11世紀に消滅)で、聖武天皇は盧舎那仏像に感激したのがきっかけとされています。翌年、恭仁宮で政府直轄の国分寺・国分尼寺建立の詔を出しています。

その中身は、「自分の不徳により、天下泰平ではなくてゴメンね。去年は、諸国に丈六仏像を造り、大般若経を書き写すように指令したら今年は順調だよ。だから、幸せのために、もっと仏教を広めよう。国の華となる、四天王に国を守護してもらう国分寺、仏により罪を許し守ってもらえる国分尼寺を各地に作りなさい」というものでした。

いろいろと小心者で優柔不断、人民に苦労をかける悪者扱いの聖武天皇ですが、この中で「虚らかな場所に建立しなければならないが、人々が行きにくい場所はだめ」と、ちよっと優しい所が見え隠れしています。

そして743年、紫香楽宮にて大仏造立の詔を出しました。今度は、「徳が少ないけど頑張ってるよ。でもまだ足りないので、盧舎那仏金銅像を作ろう。天下の富は全部自分のものだから、国中の銅を使い尽くしても作るぞ。でも、作っただけじゃだめで、難しいけど心をこめること」と言っています。

ここでも、「自発的に仏像製作に参加したいものは誰でも歓迎。役人は、このことで人民を苦しめちゃだめ。増税とかもってのほか」とし、天皇自身としては、けっこう人民を気遣う気持ちはあったようです。

翌年、紫香楽宮近くの甲賀寺で作業が始まりましたが、745年に平城京に還都したため、平城東山の山金里で改めて作ることになりました。この場所が、都の東側の外縁だったため東の大寺で東大寺と呼ばれることになりましたが、実はこのあたりは藤原氏勢力圏なんですよね。しかし、この頃から聖武天皇は体調を崩してしまいます。

さて、大仏作りは大事業ですから、作業は遅々として進まない。地方からの寄付は集まってきてはいましたが、特に金メッキに使用したい金の調達のめどがつかないのも困りものでした。ところが、749年に陸奥国で黄金が初めて産出され献上され、何とかなりそうになってきたのですが、前年に元正太上天皇が亡くなり、聖武天皇はしだいに体力・気力を無くしていき自分と光明皇后の娘で初の女性皇太子であった未婚の阿倍内親王に譲位し、第46代の孝謙天皇が即位しました。

そして752年、ついに大仏の完成、開眼供養の法会が行われることになりました。これは欽明紀の552年に、百済より仏教が初めて伝来して200年目の記念すべき年であり、釈迦の誕生日である4月8日が当初予定されました・・・が、しかし、実はまだこの時点では、大仏殿は完成していませんし、像そのものもやっと形になった程度で、完成と呼ぶにはほど遠い状態だつたらしい。

東大寺の記録では4月9日に聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が列席し、印度の僧、菩提僊那が筆を持ち眼に墨を入れたとされています。しかし続日本紀には、この大事な会への皇族の出席にはまったく触れられていないし、大事な4月8日を延期したのも聖武太上天皇の様態がよくないためとも言われ、実際には孝謙天皇だけが出席していた可能性が高いようです。

この日、式が終わった孝謙天皇は宮ではなく、大納言藤原仲麻呂の邸宅に帰っしまい、以後そこを住まいとしたということです。まぁ、30代半ばの独身ですから・・・いろいろなことがあるんでしょうけど、このことがこの後の騒乱の伏線になってしまいます。756年、多くの加持祈祷の効も無く、聖武太上天皇は亡くなりました。

2018年1月21日日曜日

大寒


二十四節気は馬鹿にできない。

というのも、いよいよ一年の中で寒さのピークとなる大寒を迎えたわけですが、天気予報では「今シーズン最大の寒波がきます」としきりに説明しています。

異常気象という言葉が普通に使われて驚かなくなってきましたが、確かに突発的に起こることや、平均以上に熱かったり寒かったりすることが増えたということ。

平成最後の年でも、生活に必要な知識が詰まった「暦」の通りに、一年の気候の変化が進んでいきそうです。

そういう意味で、昔のものを馬鹿にしちゃいけないということ。

しかし、大寒が最も寒い時期ということは、ここを過ぎれば「三寒四温」で、しだいに春に向かっていくわけですから、もうしばらくの辛抱です。

2018年1月20日土曜日

続日本紀 (3) 平城京に渦巻く謀略


元正天皇の世は、仏教が勢いを増した時代でした。これは、一つには数年間続く水害・干害により、飢饉が広がっていたとも関係あるかもしれません。さらに頭が痛いことに、九州の隼人、東北の蝦夷らが朝廷に抵抗し反乱を起こします。隼人の鎮圧に向かった将軍は大伴旅人で、ちなみにその子が大伴家持です。

長屋王は、藤原不比等死後、実質的な政権運営を担当していましたが、724年に元正天皇が退位し、首皇子が24歳で皇位を継ぐことになると、状況は一変します。ちなみに元正退位のきっかけは、またもや亀。今度は白い亀が見つかったことです。

首皇子は第45代聖武天皇となり、3年後に男子の基王が誕生します。すると生後一カ月であわただしく皇太子としました。皇位継承権を持つ長屋王の一族へ牽制のために、藤原四家からの意向が強く反映されたものと思われます。ところが、1歳を目前に基王が急死してしまいました。

これは、長屋王が呪い殺したという噂が広がります。そして729年、さらに密かに妖術を用いて国家転覆を狙っているという密告があり、自宅を囲まれ詰問された長屋王は、妃の吉備内親王、子の膳夫王らと共に自殺に追い込まれてしまいました。これを「長屋王の変」と呼んでいます。

事件が収束して、またまた亀です。今度は背に「天王貴平知百年(天皇は貴く平和に百年を知ろしめす)」と書かれていたそうで、これをきっかけに元号を奈良時代の代名詞ともいえる「天平」と改めました。

長屋王を排除することに成功し、藤原四家は順調に力を増していきます。しかし、その数年後に九州から始まった天然痘の流行は平城京にも拡大してきました。737年4月から8月にかけて、藤原四家が全員相次いで天然痘により亡くなり、長屋王のたたりと噂されました。南家は藤原仲麻呂、式家は藤原広嗣が継ぎ、さらに藤原の血統が入る阿倍内親王が皇太子となりました。

さて、そこでやりすぎちゃったのが藤原広嗣です。もともと直情径行型の切れやすい性格らしく、父の宇合からもうとまれていたらしい。その性格から、738年に大宰府に飛ばされましたが、740年に「僧の玄昉と吉備真備が天地災難の根源なので排除すべき」という意見を送り付けてきます。

玄昉は聖武天皇の信が厚くちょっと威張り気味の坊さんで、吉備真備は遣唐使として中国から多くの書物を持ち帰り朝廷の知恵袋になっていた人物。右大臣だった皇親派の橘諸兄は、藤原氏に対抗してこの二人の後ろ盾になっていました。

業を煮やした広嗣は、急場拵えの軍を引き連れ挙兵してしまいます。聖武天皇は何を恐れたのか、伊勢へ避難してしまいます。しかし、広嗣軍の組織力は皆無に等しく、官軍に情報がダダ洩れで、簡単に捕らえられ処刑されました。

事件が決着したのに聖武天皇は平城京に戻らず、数か月の間、まるで壬申の乱の時の天武天皇の行程をなぞるように行幸を続けました。年末に平城京に近い恭仁の地(京都府木津川市)に戻ってくると、いきなり恭仁に遷都を行います。藤原氏色の強い平城京を捨て、皇親勢力を強化するために橘諸兄が計画したものと言われています。

聖武天皇は強引な恭仁京遷都からわずか4年で、さらに難波京(大阪府大阪市)に宮を遷します。この年に天皇の残された唯一の皇子だった安積親王が、原因不明の脚の病により17歳で急死し、またもや藤原氏の陰謀が囁かれました。

天皇は、主だった臣下を難波に残し、自分は紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に移動し、またもや事実上の遷都を行います。しかし、紫香楽宮近辺の山火事(放火?)や地震被害を受けて、最終的に翌745年、平城京に還都したのです。

この6年間の相次ぐ遷都は、連れまわされた元正太上天皇はだいぶおかんむりだったらしい。もともとは聖武天皇が藤原広嗣が攻めてくるのを怖がったからかもしれませんが、とにかく世情が安定しないのは自分の不徳として悩んだ末とも言われています。明解な理由は示されていませんが、聖武天皇はけっこう小心者で何かとくよくよするタイプの性格だったのかもしれません。

いずれにしても、朝廷の財政は困窮し、貴族たちは天皇と皇親派と藤原氏との間のパワーバランスを読み右往左往させられ、民衆も相当疲弊し潜在的な不満がかなり高まったことが想像できます。平城京に戻ったことで、本拠にしていた藤原仲麻呂、その妹である光明皇后の力は急速に増大したことは街がありませんでした。

2018年1月19日金曜日

続日本紀 (2) 平城京と女帝たち


藤原京は、唐と肩を並べたいという天武天皇の悲願であり、だからこそ持統天皇は、亡き夫の意志を完成させることを重視したはずです。それは、長期にわたって天皇の威光を天下に知らしめる、かつてない大規模な恒久的な都であるはずでした。

ところが、藤原京は、694年に開いてわずか10年で廃棄されることが決定してしまうのです。708年に遷都の詔がだされますが、「急がないけど、皆が遷りたいと言うし、あっちは四禽の配置が良く、占いでも吉だから」というよくわからない理由。四禽とは、古来中国の風水から来ている地相で、土地の4つの方角を四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が守るという考え方です。

詔ではさらに、「民に苦労掛けちゃだめだよ。しっかり準備して、後でごたごたにならないようにね」ということで、必ずしもテンションは高くないのが不思議なところです。

どっちにしても、天武後に唐の都である長安をつぶさに見てきた遣唐使らの報告から、藤原京がだいぶ劣るようだということがわかっちゃったようです。大国である唐に負けたくない、あるいはその上をいきたいがために、当時の天皇を中心にした朝廷は、ソフトウェアとしての律令国家を成立させ、ハードウェアとしての都を作りたいと心底願っていたということです。

日本史の時代区分としては、短命だった藤原京までが飛鳥時代で、平城京遷都によって奈良時代が幕開けます。さて、話を元明天皇に戻します。

姉であり、夫・草壁皇子の母親である持統天皇は、草壁の死によって、孫の文武が即位できるまで自分が天皇についたわけです。元明天皇も、息子の文武が亡くなり、その子・首皇子を天皇にすることが、最大の生きがいだったのかもしれません。しかし、藤原宮の建物を解体・運搬するという難作業が進み710年に平城遷都が行われると、関連した様々な激務が元明天皇の心身の疲労はピークに達します。

714年に首皇子が14歳で元服し皇太子となり、ちょうど世にも珍しいめでたい霊亀(左眼が白、右眼が赤、背中に北斗七星などなど)が見つかったというきっかけで天皇をやめると宣言しました。退位の詔で、「気力は衰え、年も取ったし、もう疲れちゃった」と述べています。

平成天皇が生前譲位したいというのは、80歳を超えての話で無理もない。ところが、この時の元明天皇は55歳です。相当、天皇をやっているのが嫌になっちやったんでしょうね。そこで、譲位したのが首皇太子・・・なら話はわかりやすいのですが、何と氷高内親王(ひだかないしんのう)に譲ってしまい、第44代の元正天皇が誕生します。

氷高内親王は、草壁皇子の長女、首皇太子の姉で、35歳、未婚の美女。皇后が天皇に即位することは前例があり、元明天皇の場合の母親が即位するのは異例でしたが、天武天皇の孫でかつ自分の娘とはいえ元正天皇の即位は、その上の上をいく異例中の異例です。この時、元明は理由として「孫である皇太子がまだ若いから」という持統天皇即位と同じ理由を挙げていますが、文武天皇が即位したのは15歳、この時の首皇太子の年齢も15歳ですから納得はできません。

実は文武天皇の后は藤原不比等の長女の宮子で、首皇太子の妃はやはり不比等の三女の光明子ですから、首皇太子はどっぷり藤原一族に浸かった人物です。しかも、父親は皇太子だったとはいえ、天皇にはなっていない人物です。いくら元明が皇位を譲りたいと思っても、相当な抵抗があったものと想像されますし、もしかしたら元明天皇自身による藤原氏に対する抵抗だったかもしれません。

元正天皇、文武天皇の妹である吉備内親王は、天武天皇の高市皇子の子供である長屋王の妃となっていました。元明、元正は長屋王を親王待遇に格上げし、不比等に対抗しうる大納言として政治に参加させました。

720年、藤原不比等が、さらに721年に元明太上天皇が亡くなり、長屋王は政権の中で、天皇に次いで最も力を持つことになりました。一方、藤原氏は4人の子が継ぎ、武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の四家となり、権力の再掌握を虎視眈々と狙っていたのです。

2018年1月18日木曜日

続日本紀 (1) 藤原京の刹那


続日本紀は、持統天皇の孫、軽皇子が天皇位を生前譲位され15歳にして第42代文武(もんむ)天皇として即位したところから始まります。ただし、持統天皇は太上(だいじょう)天皇として、実質的な政務を続けました。

697年8月17日、即位の宣言が行われます。場所は、天武天皇の構想に始まり、中国の宮を強く意識した藤原京、その中心である持統天皇が完成させた藤原宮の大極殿の前の庭です。

「朝廷」という言葉は、もともとは「朝庭」で、宮の前の庭に臣下が毎朝集められ天皇の詔を承ったり、いろいろな訓辞を受けたことが語源だそうです。

歴代の天皇は、即位すると首都である宮をそれぞれ好きなところに作っていたので、それぞれが大都会として発展はしませんでした。しかし、藤原京は日本で初めて、広大な土地を都市計画の元に恒久的に発展させる目的で作られた都です。一辺5kmくらいの正方形の土地を碁盤の目のように区画整理し、中心にある宮は1km四方の大きさだったと言われています。

701年に国家の基本法典である大宝律令が発効し、聖徳太子に始まる百年間に渡る律令国家への模索が一定の完成を見ました。太上天皇は、夫の夢だった日本国の完成を、その亡き後に引き継ぎ完成させたわけですが、その翌年体調を崩し、いろいろな祈祷も効果なく亡くなりました。

大宝律令では、注目したいのは僧尼令です。すでに仏教は広まり政権も受容していましたが、あくまでも国家を鎮め護るためのものであり、民衆に広がり独自の勢力となることを恐れていたことがわかります。僧尼令では、寺は人を惑わす魔除け、まじないを禁じ、寺の外での布教活動を厳しく制限しました。

また、税制、徴兵制度(防人)についても、細かい規定が設けられていたものの、諸国の元豪族を「地方長官」として国造に任用し、一定の地位を保証したため、権力の二重構造が生じ、完全な中央集権制度にはなりませんでした。

707年、藤原京はまだ全体の完成には至っていませんでしたが、突然遷都の話が出てきます。その年、病に伏していた文武天皇が25歳で亡くなり、母親の阿閇皇女(あえのひめみこ)が元明天皇として即位しました。

またまた、話がややこしいのですが、阿閇皇女は天智天皇の娘で、持統天皇の異母妹です。また、持統天皇の息子、草壁皇子の妃でもあり、その息子の文武天皇の母ということ。

今までの女帝は、皇后が天皇位についたものばかりで、妃がピンチヒッター的な即位とはいえ、天皇になるのは初めてのことで、これには相当な根回しや強権が必要だったと想像します。ここで、力を発揮したのが藤原不比等でした。

不比等(ふひと)は、鎌足の次男で、文武紀に不比等直系のみが藤原姓を名乗り太政官として政権中枢に入り、他は元々の中臣姓とし祭祀のみの担当とされました。不比等は娘を文武天皇に嫁がせ、大宝律令の最終の詰めを行い、さらにこの後に登場する養老律令は不比等が編んだものと考えられています。世の実権は、急速に天皇家から藤原家に移っていくことになります。

2018年1月17日水曜日

記紀より新しい古代


古事記は、神代の話から仁賢天皇まで、つまりオケ・ヲケ兄弟の話までが書かれていて、これは5世紀末までの話でした。日本書紀はもう少し長く、7世紀末の持統天皇まで書かれていました。

記紀の記述は、歴史として全面的に信用するわけにはいかないのですが、最低限日本書紀のみの記述になる6~7世紀については、登場人物の実在性への疑いはだいぶ希薄になったと言えます。歴史的事項についても、それなりに信用できて、現在使われている西暦を当てはめることが可能になりました。

そもそも日本の古代史を勉強しなおしてみようと思ったのは、神社で祀っている「神様」とは何ぞや? という疑問から始まったことで、そのテキストとして始まった記紀読破でした。ところが、読めば読むほど謎が深まる世界でした。それが新しい興味を呼び起こして、過去の限定された話のはずなのに底がまったく見えない事態に陥っています。

日本史の中で古代と呼んでいる時代は、政治的には天皇支配の平安時代までで、武家政治による鎌倉幕府成立(1192年)からは中世となります。ただし、支配者が誰かという実情を考慮して、1100年頃の荘園公領制度の確立をもってして実質的な古代の終焉とするのが、現在の一般的な考え方のようです。

となると、古代史を知るためには、まだ8~11世紀の400年間分、おおよそ奈良時代と平安時代までを勉強しなおさないといけないことになるんですが、奈良・平安になると、今度は仏教史も勉強しなくちゃいけないので、到底きりがない。だけど、持統天皇の後の日本はどうなったんだろうという疑問も湧いてくる。

もう少し新しい時代まで首を突っ込んでみようかと思うのですが、そうなると新しいテキストが必要です。当然、選択されるのは「続日本紀」という書物ということになります。

政府公認「日本の成り立ち昔話」として作られたのが古事記で、公式国史として編纂されたのが日本書紀です。いずれも、だいたい過去のことについていろいろな資料をまとめ上げたレトロスペクティブなもの。ここからは、今からすれば歴史書ですが、当時はリアルタイムに記述された「日記」みたいなもので、記紀に比べると内容の信憑性は格段と高まります。

続日本紀は、だいたい8世紀の百年間のことが書かれています。そして、それに続くのが日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録と続き9世紀までのことを記述した、全部で6つの書物を六国史(りっこくし)と呼びます。

古事記に関する一般書物の量を10とすると、日本書紀に関するものはだぶ少なくなって5くらい。それでも記紀は諸説紛糾する歴史書であると同時に、謎が謎を呼ぶロマンの香り高い文学書としての価値も見いだされています。ところが、それ以後になると、とても読むにはハードルが高すぎる専門歴史書を除くと、一般向け解説本は極端に少なくなります。続日本紀で1くらい、それ以後の物については皆無に近い。

ですから、少なくとも続日本紀を、原典に沿って読み進むみたいな形は到底無理ですけど、ちょうど奈良時代がすっぽり収まるあらすじだけでも追いかけてみようと思います。そこで、探して選んだのが「平城京全史解読 - 正史・続日本紀が語る意外な史実(大角修・著、学研新書、2009年)」というもの。続日本紀の記述の順に沿って、大小の事件を解説していく「あらすじ本」で、新書で量も少ないので読みやすそうです。

日本書紀は通常の読みは「にほんしょき」ですが、続日本紀は当時の読み方に倣って「しょくにほんぎ」と読みます。編年体で全40巻あり、記紀に比べて一つ一つが詳細であることが想像できます。最終的に完成したのは平安時代の797年(延暦16年)で、公卿の菅野真道らによって編纂され、第42代の文武天皇から第50代の桓武天皇までの95年間が記載されました。

もちろん、記紀に比べて詳しくなったとはいえ、続日本紀の時代には知られていなかったこと、意図的に書かれなかったこと、間違って記載されたことなどは多々指摘されています。少なくとも、記紀のように創作して書き加えることはほとんど無いらしいので、そのつもりで多少の資料を加えながら探りを入れてみたいと思っています。

2018年1月16日火曜日

古代豪族考 (4) 有力氏族 其之二


引き続き、力のあった豪族と呼ばれる古代氏族をピックアップしていきます。

6. 三輪氏
奈良県桜井市、奈良盆地の東南にある三輪山は、大国主神の分身である大物主神が鎮座する大神神社のご神体そのものの神聖な山である。五穀豊穣の農業神と病気を鎮める祟り神の性格を併せ持ち、三輪氏はその神宮家として栄えた。一部に、邪馬台国の卑弥呼の鬼道に起源を求める説がある。祟神紀に、疫病が流行り、大物主神は意富多泥古(おほたたねこ)を探し自分を祀るように天皇に伝えた。探し出された意富多泥古を始祖とし大神神社の祭祀権を獲得し、一定の力を保持し続けた。持統天皇の度重なる吉野行に対して、中納言であった三輪朝臣高市麻呂は、収穫を妨げ農民を疲弊させるとして思いとどまるよう進言し対立した。

7. 巨勢氏
奈良県高市郡を本拠とし、6~7世紀に大臣を多数輩出し外交外征で活躍した氏族で、武内宿禰の後裔氏族の一つだが、系図的には不明な点が多い。農業的な不利な地域だが、大和・紀伊・吉野を結ぶ交通要所であったことが力を持った要因とされる。律令制のもとでは武人から文人に転換したが平安時代になると次第に衰退していった。

8. 和珥氏(和邇氏)
孝昭天皇を始祖とする皇別氏族で、春日氏とも言い、奈良盆地東部の天理市和爾町付近を本拠とする。もともとは海人族系とされ、埴輪などの祭祀土器製作、墓の管理などを行っていた。天皇家に妃を出した人数は多いが、それらから天皇は輩出していない。武人として江戸時代まで続いていたようで、詳しいことはわからないが、ある程度の力を維持していた氏族。派生氏族は多く、柿本人麿の柿本氏、小野妹子や小野小町の小野氏、山上憶良の山上氏などは有名。

9. 秦氏
中国の秦国の始皇帝の後裔とされる功満君が仲哀紀に渡来したのが始まりとされ、その子である弓月君が応神紀に数千人(?)を率いて渡来し帰化した。記紀の中では、あまり目立った活躍は無い。しかし、奈良時代以降は経済的には力を持っていたようで、平安京を作る際にはかなり関わったといわれ、太秦(うずまさ)を本拠地としていた。

10. 紀氏
武内宿禰の子である紀角を始祖とし、奈良県生駒郡平群町を本拠とした。姓は初め臣であったが、天武紀に朝臣へ改められた。主として武人として、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したが、政権内での位にはもともとは比較的無縁。奈良時代にしだいに朝廷内に地位が上がり、姻戚関係の光仁天皇が即位してから繁栄したが応天門の変以後衰退する。歌人としては貫之が有名。

他にも豪族と呼ばれる氏族はたくさんありますので、挙げていたらきりがない。最低限として、このくらいの有名処はおさえておきたい、というほどのものですが、最後にもう一つ、記紀における最大の謎をはらんだ豪族を忘れてはいけません。それが、物部氏です。

11. 物部氏
日本書紀には、「饒速日命こそが物部氏の祖先である」と明記されています。しかも、この饒速日命は天孫であり、一般的に「天孫降臨」で地上に降り立つ邇邇芸命よりも先に近畿の地を制圧・統治していたことになります。このあたりの事情については、記紀ではまったく触れられておらず、何かの配慮が働いて書かないわけにはいかないが、できることならもみ消したいという意図がくみ取れます。

物部氏末裔は自分の祖先について、記紀の記載には満足できないため、あらため自分たちの出自を主張するために記録したのが「先代旧事本紀」と呼ばれる書で、饒速日命の降臨事情についてはより詳細に書かれています。この書は、学問的には「偽書」の扱いをされていますが、全面的に取り上げている先生もいるし、そうではないとしても部分的には信じられるとする傾向があるようです。

饒速日命については、いずれ整理する必要があると思っていますので、ここではもうしばらく横に置いておき、物部氏についての概略だけノートしておきたいと思います。

物部氏は、天皇家以外で最も長大な系譜を有し、天孫である饒速日命を祖とし、祭祀関係氏族として大王家の伝承を伝える、いろいろな宝物の管理などに携わっていたと考えられ、天理市を本拠として石神神社を管理していた。5世紀末くらいから力を増し、初期ヤマト王権の重責を担うようになった。仏教に対しては排仏派の立場をとり、用明紀の大連となった物部守屋が、蘇我馬子と皇位継承問題で対立し滅ぼされたため以後衰退した。

2018年1月15日月曜日

古代豪族考 (3) 有力氏族 其之一


豪族の中で神別とされる種々の神を祖とするグループについては、「天孫降臨」の話で、天照大御神の孫にあたる邇邇芸命と一緒に天下ったたくさんの天つ神がいたことを思い出します。それぞれの名と同時に、地上に降り立った後何の祖先であったかが明記されています。

天児屋命(あまこやねのみこと) 中臣連らの祖
布刀玉命(ふとだまのみこと) 忌部首らの祖
天宇受売命(あめのうずめのみこと) 猿女君らの祖
伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと) 鏡作連らの祖
玉祖命(たまのおやのみこと) 玉祖連らの祖
常世思金神(とこよのおもいかねのかみ) 神の祭事・政事
手力男神(たぢからおのかみ) 佐那々県に鎮座
天石門別神(あめのいわとわけのかみ) 御門の神
天忍日命(あめのおしひのみこと) 大伴連らの祖
天津無久米無命(あまつくめのみこと) 久米直らの祖

このあたりが、ほとんどファンタジー色の濃い神代の話と世俗との最初の接点になっています。天下った神以外からもたくさんの氏族が派生してくるのですが、これらの系譜は混乱し過ぎてわけがわかりません。

当然、少しでも自分の立場を有利にしたいわけですら、それぞれの氏族は系図を作るときに、自分の出自を高貴なものとしたいという潜在的な希望が働くのは当然です。また記紀編集時のヤマト朝廷内の力関係も配慮されるはずです。

平安時代に作られた「新撰姓氏録」に掲載された氏族一覧は、 群馬県立女子大学北川研究室HP(http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji.html)にて閲覧できます。この労作データの中を子細に見て行けば、どんな氏族がいてその始祖が何かは朧気に見えてくる・・・はずなんですが、なかなか簡単ではありません。

有名無名を問わず、多くが似たような所に出自があるようで、もう頭が痛くなるだけで、自分専用ノートのようなこのブログで、簡単にまとめるということは到底できない相談という感じです。そこで、記紀で頻出する氏族についてのみ、概略だけ列挙してみたいと思います。

1. 葛城氏
実在が確認されている氏族としては最も古いものの一つ。武内宿禰のこどもの一人に葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)という人物がいて、神功皇后、応神天皇の治世に朝鮮半島に度々出兵して活躍した。朝鮮側の記録にもそれらしい人物が登場している。娘の磐之媛は仁徳天皇皇后となり、その後も多くの大王家との姻戚関係を結び、かなりの力を持つようになった。安康天皇が眉輪王により暗殺された時に、眉輪王が逃げ込んだのが葛城氏系の円大臣の宅であったため、雄略天皇により焼き殺され葛城氏は滅亡した。

2. 中臣氏
天児屋命の後裔で姓は連(むらじ)だったが、天武紀に朝臣(あそみ)に格上げ。東大阪付近から本拠としていたようで、垂仁・仲哀紀から登場する。ヤマト王権が拡大していく中で取り込まれ、神と人の間をとりもつ祭祀を担当した。そのため仏教に対しては否定的で、親仏派の蘇我氏と対立し一時衰退するも、皇極紀に登場した中臣鎌足が、後の天智天皇と組んで蘇我氏を滅亡させ、その後の大化の改新の重要ブレーンとして活躍する。鎌足は無くなる直前に「藤原」の氏と大臣の位を賜り、以後藤原氏と呼ばれたが、律令制の下では次第に影を薄くしていった。

3. 忌部氏(斎部氏)
布刀玉命を祖とし、神事を司る氏族。主として各社祭祀に必要な物品を各地から収集・献上していた。天智紀以後、中臣氏が力を増してきたため祭祀権を中臣に独占されるようになり衰退する。平城紀に、末裔である斎部広成が、「古語拾遺」の中で天皇に中臣優遇を見直すように訴えたのが有名。

4. 蘇我氏
蘇我氏は、古代史上、最大の悪役スター一家かもしれません。天皇の名前は知らなくても蘇我入鹿を知らない人はいない。欽明紀の蘇我稲目から頭角を現し、馬子、蝦夷、入鹿までの四代が有名。それ以前は不明な点が多いが、葛城氏との関係があるらしい。本家とは別の傍流も多い。律令制が導入される前に、天皇も凌駕する勢いを持った最後の豪族と言える。早くから親仏の姿勢を見せ、馬子は厩戸皇子と共同で朝廷を牛耳っていた。有名な石舞台古墳は馬子の墓と言わりている。入鹿の目に余る横暴振りは反感を買い、ついに乙巳の変を引き起こし、蝦夷共々蘇我氏は突然消えてしまう。

5. 大伴氏
雄略紀、おそらく5世紀半ばから 大王直属の軍の指揮官として登場する。特に目立つ活躍は、天皇家の血統が途切れる危機の時に、各地を探し回って継体天皇を即位させた立役者が大伴金村連。蘇我氏全盛期には格下げにあったが、その後再び力をつけ、奈良時代には名門貴族に復権し、中には万葉集編纂に大きく関わる大伴家持のような文人も輩出した。平安時代になって、応天門の変で事件の黒幕として流罪になり、大伴氏は消滅した。

2018年1月14日日曜日

完璧な満月


完璧な満月というのは、なかなか巡り合えるものじゃない。

天体は絶えず動いているわけで、月の満ち欠けも刻一刻と変化しています。それぞれの様相は一瞬の物ですから、どんなに満月ぽく見えても、写真で見ればどこかが欠けている。

ところが、この月は・・・たぶんパーフェクトなフルムーン。全周のどこも欠けているところはないはずです。

何でかというと、人工の月だから。NASA等が発表している月のデータを基に、忠実に作られた3Dモデルです。

この数年、話題になることが増えてきた3Dプリンターによって作られたもので、中にLED照明が組み込まれています。3Dプリンターの力はなかなかあなどれない。

わざと背景を入れましたけど、背景を真っ黒にしてしまえば、誰もが本物の月の写真だと思うんじゃないでしょうか。

amazonで探すと、こんなのがゴロゴロ出てきます。だいたい中国製のようですが、それほど高額ではありません。

実用的な明るさはありませんが、インテリア照明としてはちょっとオシャレな感じでいいんじゃないかと思います。

2018年1月13日土曜日

古代豪族考 (2) 武内宿禰


武内宿禰(たけうちのすくね)は、記紀の中での謎多い・・・というより謎そのものみたいな存在。系図的には混乱していて、古事記と日本書紀での記載がいろいろ。また、登場する各天皇紀によっても、ばらばらだったりします。ここでは、日本書紀の登場シーンを中心に武内宿禰の役割を再確認してみます。

まず、最初に登場するのは、孝元天皇7年の記述で、第2夫人との間に彦太忍信命(ひこふちおしのまことのみこと)がいて、武内宿禰の祖父であると書かれています。つまり武内宿禰は孝元天皇の曾孫ということらしい。

次に、景行天皇3年のこと。天皇が紀伊国に行き神を祀ろうと思ったが、占いが不吉だったために、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を代わりに派遣します。屋主忍男武雄心命は彦太忍信命のこどもで、そのまま留まり現地で結婚し、生まれたのが武内宿禰であると書かれています。

日本書紀の書かれたままを素直に信じると、屋主忍男武雄心命が生まれるのは紀元前200年頃で、武内宿禰が生まれたのは紀元後70年くらいになってしまい、祖父と孫が300歳近く年が離れているということになってしまいます。

さて景行天皇は主として九州の制圧に乗り出すのですが、景行紀25年に、武内宿禰を北陸・東北の偵察に派遣しました。帰ってきた宿禰は「蝦夷(えみし)という連中が支配しているが、とても肥えた場所なので攻め取った方がいい」とレポートしています。

これがきっかけで、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に旅立たされることになります。景行紀51年に武内宿禰は棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)に就任しました。棟梁は建物の重要な部分で、棟梁之臣というのは政権の中で重要な位置にあることを示しています。ちなみに棟梁が頭領(とうりょう)となり、かしらとか親方という意味になりました。

ほとんど記載のない成務天皇紀ですが、3年の記述に武内宿禰を大臣にしたみとが書かれ、天皇と武内宿禰は生年月日が一緒でとても仲良しとあります。仲哀天皇が急死した際には、神功皇后と武内宿禰が相談して、天皇崩御を隠蔽する作戦を立てます。天皇の遺体は武内宿禰が密かに持ち帰り、偽りの帰還部隊を別に編制しています。武内宿禰は、琴を奏でてあげたり、活躍を祈祷したりと神功皇后と仲良しです。

三韓征伐成功後、神功皇后の水軍は戻って来たのですが、忍熊王の謀反軍が待ち受けていたため、武内宿禰と作戦を練って謀反軍を撃退しました。その後の朝鮮半島との外交問題の時にも、皇后は天照大御神に伺いを立てると、「武内宿禰に決めてもらえば間違いない」と言われたりしています。

その後の応神天皇紀、仁徳天皇紀にも少しずつ登場しますが、仁徳紀50年に天皇と歌を詠みあうのを最後に武内宿禰は記紀から消えてしまいます。これは紀元360年頃ということになるので、少なくとも武内宿禰の寿命はほぼ300歳・・・って、いやいや、そりゃいくらなんでも盛り過ぎです。

ですから、当然一人の人物ではなく、歴代の政権の重要な補佐役だった何人かを取りまとめた代名詞が「武内宿禰」であり、理想の大臣像として描かれたものと考えられています。重要なことは、武内宿禰は皇族の出身であり、また多くの中央系豪族の始祖とされている点です。

武内宿禰の系図は古事記の方が詳しいのですが、それによれば波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏などの有力豪族が後世に連なってきます。その時々の「武内宿禰」は存在していたかもしれませんが、継続的な実在性そのものが疑問視されていますので、これらの系図的なものについても作為の疑いが濃厚ではありますが、力をつけてきた豪族を天皇家の下に置くために、「褒めて落とす」作戦が見え隠れしているというところでしょうか。

2018年1月12日金曜日

古代豪族考 (1) 基本事項


記紀を勉強してみると、これは天皇家を中心とした歴史だということに気がつきます。ところが、その中に「~は、××氏の祖先」みたいな記述がよく出てくる。その××というのが、有力氏族であり、豪族ということになる。しかも、時代が進むほど、そり力は馬鹿にならないものになって、天皇家とも複雑に絡み合ってきます。

もともといきなり天皇家が日本を支配したわけではなく、群雄割拠する多種多様な勢力が凌ぎを削って、4~5世紀にかけてヤマト王権という形に統一されてきたことが、これまでの勉強でわかりました。言ってみれば、天皇家も元をたどれば豪族の一つということも言えると思います。

6世紀になるとヤマト王権の力は盤石の物になり、それぞれの地方を支配していた勢力は、しだいにヤマト王権に取り込まれ始めます。邪馬台国も、その中の一つだった、あるいはそのままヤマト王権に移行したのかもしれません。

ヤマト王権は、これらの豪族を武力制圧、あるいは同盟によって、当初は傘下に置いた形でした。そのために用意した飴と鞭は周到に準備され、記紀の中にそれぞれの豪族がどこから始まるかを書き込むことで彼らのプライドを守ったと言えます。

また、それぞれの豪族が信仰していた神々も、祀っていた古代神社も吸収し、記紀の中に取り込むことで、記紀が豪族の信仰の対象になり、それが天皇崇拝にもつながっていきます。豪族の独自の神は、吸収する過程で職業的スペシャリストとして特徴づけるようにしました。

ですから、朝廷内での序列決定に際しても、血筋というものに対してはたいへん重視し、豪族自らも正当な由緒ある系図を大切にしました。その上で、支配権を維持するために天皇家の系譜をより高いレベルで維持することは最重要課題の一つだったということです。

しかし、天智・天武天皇以後、律令制度が少しずつ形になっていく中で、豪族の実質的な既得権理は少しずつそぎ落とされ、次第に支配体制を強化することで臣下に変えていき「豪族」と呼ばれるものは消滅し多のです。

ヤマト王権の関係性から、豪族は中央系(大和系)、地方系、渡来系の三種類に分けられます。中央系は、畿内で早くから天皇家との協力関係があったもので、物部(もののべ)氏、蘇我(そが)氏、大伴(おおとも)氏など、三輪(みわ)氏、巨勢(こせ)氏などが含まれます。地方系は紀(きの)、吉備(きび)氏、忌部(いんべ)氏、出雲(いずも)氏などで、中国・朝鮮から移住してきた渡来系は和爾(わに)氏、秦(はた)氏など。

平安時代に作られた「新撰姓氏録」では、全1182氏族を皇別、神別、諸藩に分類して区別しました。皇別(335氏)は、天皇との血縁関係がある、またはその子孫から派生したものです。神別(404氏)は、記紀に登場する種々の神を祖先神とするもので、諸藩(326氏)は渡来系のもの。残り117氏は未定雑姓とされました。

記紀ではほとんど記述が無く、実績がよくわかっていない成務天皇は地本行政制度を整備したことはわかっていて、その中で氏姓制度が始まります。実際に制度化したのは允恭天皇と言われています。その理由というのが、「昔は名前を間違えることは無かったのに、最近は忘れちゃう奴や、高貴な素性を騙る奴が多くてやりにくい」というものでした。

そこで、氏族の名前に姓(かばね)を付与して、天皇家との関係を明確にしました。古くから天皇家と関わりがある氏族は「臣(おみ)」、職業のトップは「連(むらじ)」、天皇の血筋で地方に派遣されたものは「君(きみ)」、ヤマト王権の軍門に下ったものは「直(あたえ)」、渡来人は「造(みやつこ)」などと呼びます。

臣と連がエリートで、しかもその中のトップが大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)です。臣を与えられたのは中央では葛城、巨勢、蘇我、地方では吉備、出雲、連を与えられたのは大伴、物部、中臣などです。

後に天武天皇は、「八色(やくさ)の姓」を制定し、真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣、連、稲置(いなぎ)という序列とし、豪族出身は皇族の下に置いて、上下をはっきりさせました。

2018年1月11日木曜日

魏志倭人伝 (3) 卑弥呼


魏志倭人伝の最後に書かれているのが支配者、卑弥呼に関する話です。天皇の名前は知らなくても、誰もが「卑弥呼」は聞いたことがあるもので、日本古代史最大のスターと言えるかもしれません。

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元々は男の王が、80年くらいは続いていたが、倭国が乱れ、国同士が互いに戦乱を起こしていた。そこで、共同で女性の王を立てておちついた。女王の名は卑弥呼といい、鬼神を祀る者で、人々を掌握する力を持っていた。すでに高齢で、独身だった。弟がいて、国を治めるのを手伝っていた。

王になってから、姿を見たものはほとんどいない。千人の侍女が世話をしていて、食事を運んだり言葉を伝えるのに男性が一人宮殿に出入りしていた。宮殿は城壁、木の柵で囲み、警備も厳重だった。

景初2年(西暦239年)6月に卑弥呼は帯方郡に使いを派遣し、魏の天子との面会を要望した。12月に魏の皇帝は詔書を下し「遠路はるばる朝貢しにきたことはご苦労であった。卑弥呼を親魏倭王と認め、金印と紫綬を送る。合わせて、金、刀、真珠、銅鏡百枚なども送る」とした。正始元年(西暦240年)にこれらは倭国にもたらされた。

正始8年(西暦247年)、卑弥呼は狗奴国の卑弥弓呼(ひみくこ)とは以前から不仲で、しばしば争いが起こっていた。この年、卑弥呼は亡くなり直径が百余歩もある大きな墓が作られ、百人ほどの奴隷が殉死された。

後継者に男の王が立てられたが、人々は服従せず、国内は不穏な状態が続いたため、卑弥呼の13歳の宗女(娘?)、台与が女王に就いたところ鎮まった。

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以上が、卑弥呼に関する記述のほぼすべてです。魏志倭人伝と呼んでいる、魏国の使者による倭国レポートはこれで終了。全部で漢字二千字程度で、見たこと聞いたことを淡々と報告しているので、文字数の割には内容は濃いように思います。

まず、最初のポイントは卑弥呼が女王に即位する前に「倭国大乱」と呼ばれる、国土の広い範囲に戦争が継続していたというところ。実は最新の研究で、植物の年輪に含まれる成分の研究から、西暦120年ごろから数十年間の間、極度の天候不順が続いていたことがわかっています。

これは、作物の凶作を引き起こし、戦争の引き金になったものと考えられています。卑弥呼が王位に就く3世紀頃には、気候は安定してきているので、卑弥呼のお陰なのか、あるいはたまたまたそういう時期だったのかわかりませんが、世の中は平和を取り戻すことになったと思われます。

もう一点は、魏の年月がかかれていることです。これによって、卑弥呼の亡くなった年がはっきりしているのです。日本書紀の年号を信用するなら、卑弥呼の活躍していた時代は神功皇后の治世とほぼ一致していて、亡くなったと思われる年は数十年以内の違いとなります。

当時国内では青銅器の使用が中心で、まだ鉄を鋳造する技術はありませんでした。邪馬台国は中国から鉄製品を手に入れることで、より文化的にも優位性を保っていたと考えられています。

魏から送られた親魏倭王の金印は発見されていませんが、見つかれば邪馬台国所在地論争を終わらせる決定的証拠になるといわれています。また銅鏡百枚は、いわゆる三角縁神獣鏡と呼ばれているものと考えられ、微妙な研磨の結果、反射した光に模様が映し出されて、卑弥呼の「鬼道」の一つになっていたと言われています。

それにしても、高齢で独身だったというのに、13歳の娘がいたというのは・・・不思議な感じですけどね。年齢的には、台与が神功皇后だと考える説もあるようです。

2018年1月10日水曜日

魏志倭人伝 (2) 人々の生活


邪馬台国への行程に続いて出てくるのが、人々の生活、つまり古代日本人、特に弥生時代末期の人々の生活についての記述です。これも興味深いことがたくさんあります。

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邪馬台国では、男性は年に関わりなく顔や体に入れ墨をしている。海に入り魚や貝を捕っていたが、入れ墨が魔除けになっているようだ。出身や地位により、入れ墨はそれぞれ異なっていた。

風紀は乱れず、男性は木綿の布を頭に巻き、衣服は横幅のある布を巻いて縫ってはいない。女性は髪を結い大きな布の真ん中に穴を開け、そこから頭を出すようにして着ている。みんな裸足である。

稲、麻を栽培し、蚕を飼育して糸、織物を作っている。家畜は飼っていない。武器としては、矛、楯、木の弓を用いている。矢じりには鉄、または骨を使用している。

気候は温暖で、冬・夏には生野菜を食べている。飲食には縦長の杯を用いて、手で食べている。住居は部屋があり、父母兄弟で分かれて就寝する。朱丹を体に塗っている。

人が死んだときは、棺桶に入れ土を積み上げて塚を作っている。10日余り葬儀が続き、終わると家族全員が水浴して洗い清める。

山々には、楠、クヌギ、かし、楓、竹などが育っている。生姜、橘、山椒、茗荷もあるが食用にはしていない。

何か問題があると、骨を焼いて占っているが、我々の亀の甲羅のひびを使う占いと似ている。皆酒好きでね目上の者に対しては膝まづいたりはせず拍手をする。返事をするときは「噫(あい)と答えている。」

全体的に長寿で、100歳も珍しくはない。一夫多妻制だが、妻たちは互いに嫉妬したりはしない。犯罪はなく、もめごともあまり無いが、きまりを破るものは妻子、場合によっては一族を取り上げられてしまう。

税制度があり、集めたものを貯めておく倉庫がある。周りの国との間で、お互いに足りないものを交換する市がある。北側には検問所があり監視している。

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実際は、前後の脈絡なく、思いつくままにばらばらに書かれているようなところがあるので、多少順序を変えてある場所があります。また、簡単には理解しかねるところは、一部省略しました。それでも、当時の生活様式がかなり詳細に書かれていて、大変貴重な記録だろうと思います。

入れ墨は一族、部族などを見分けるために重要な意味があったのでしょう。ただ、邪馬台国がそのままヤマト王権につながると考える場合は、入れ墨の風習が無くなったのはどういう訳なのか不明ですね。

国内の人々の生活は草食主体で、規律正しい健康的な生活だったようです。税制度があり、経済も始まっていて、多少治安活動もあって、基本的な社会制度はすでに備わっていたと思われます。

長寿ということについては俄かに信用はできませんが、人々は今の数え方とは違う年齢のカウントをしていたのかもしれませんね。だったら、初期の天皇が皆、驚異的な年齢であるのも本当にそうだと思っていたのかもしれません。

2018年1月9日火曜日

魏志倭人伝 (1) 邪馬台国はどこ


日本古代史の中で、記紀だけではどうにもならない無視できないのが「邪馬台国」の存在。唯一の記録がある、通称「魏志倭人伝」は、一度は目を通しておかないとしょうがないので読んでみます。

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倭人は帯方郡の東南、海に囲まれた山や島に百以上の国を造り、漢の時代から30国程度が使者を送ってきている。

帯方郡から海外に沿って船で南、そして東に7千里ほどで狗邪韓国に達する。ここで海を渡り千里ほどで対馬国、さらに南へ千里で一支(いき)国、また千里で末廬(まつろ)国に至る。

陸行で東南に五百里で伊都(いと)国、さらに東南に百里で奴(な)国、東に百里で不彌(ふみ)国に至る。ここから南へ水行20日で投馬(とうま)国、そして水行10日、陸行なら1カ月で女王が都としている邪馬臺国(あるいは邪馬壹国)に到着する。

周囲に二十あまりの国が従属するが、南にある狗奴(くな)国は男性の王がいて独立している。帯方郡から女王国までは、合わせて1万2千里ほどである。

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記紀にまったく触れられていないために、かえって日本古代史の最大の謎といえるのが邪馬台国の話です。先に、魏志倭人伝の概略については書きましたので繰り返しませんが、記紀で記述されない3~4世紀の倭国にあった邪馬台国については、中国の三国志にしか記録がありません。

となると、三国志の中で、邪馬台国について書かれた部分、つまり魏志倭人伝を読んでみたいと思うのは自然の流れ。上に載せたのが、冒頭部分の概略で、もちろん原文は漢字です。

まず最初は、朝鮮半島西部の帯方郡から邪馬台国までの行き方の説明。これだけのことですが、これが長きに渡って続く、邪馬台国論争の火種になっているところ。邪馬台国は日本のどこにあるのか、いまだに決着がついていません。

何しろ、日本全国でここが邪馬台国のあった場所ですと名乗りを上げている場所が、実は500か所くらいあるらしい。場合によっては、候補地が外国にもあったりします。

とは言っても、基本的には畿内説と北九州説の2つが有力候補地として、それぞれその根拠を列挙しています。特に、畿内説では纏向遺跡・箸墓古墳、北九州では吉野ケ里遺跡が邪馬台国の宮跡として、それぞれを主張する学者の拠り所になっています。

邪馬台国が九州の場合は、その後に成立するヤマト王権とは別の地方の王国の一つということになります。ヤマト王権が強大化していく過程で、征服され滅ぼされたか、吸収されたかしたと考えるわけです。ただし、邪馬台国が北九州にあって、後に東遷して奈良でヤマト王権を作ったという考え方もある。

畿内説を取ると、邪馬台国はシームレスにヤマト王権につながるわけですが、その場合は記紀に記載がまったく無いことは説明しにくくなる感じがします。

対馬国は今でも対馬と呼んでいる島であり、一支国は壱岐島、そして九州に上陸して末蘆国は、佐賀県唐津市松浦の付近であることは、特に異論はないようです。

東南に行って伊都国は福岡県糸島市、さらに東南で奴国は福岡県春日市まではあまり問題ないのですが、次に出てくる東にある不彌国あたりから怪しくなってきます。

不彌国は筑前国糟屋郡の宇美(博多湾岸)と言われていましたが、現在は方向と距離から福岡県飯塚市の立岩遺跡の付近が有力とされています。

投馬国が南へ水行20日というのが、九州内なのか中国地方吉備付近とするのか大きく分かれています。どっちにしても、これまでの動き方からすれば、真面目に南に船で行くと台湾を超えてしまうし、中国地方とするなら方向が違うわけで、元々の記述に何らかの勘違いか間違いがあることになります。

九州説を取る意見では、南にある対立勢力である狗奴国は熊襲(くまそ)の呼び名が転じたものだと主張します。畿内説を取る学者は邪馬台国がやまたい国、やまと国、倭国であると言いますが、実は伝わる倭人伝の複写本によっては邪馬臺(台)国ではなく邪馬壹(一)国と書かれているので、本当のところどっちが正解かはわかっていません。

他にも、様々な意見が噴出していますが、いずれにしても決定的な証拠となるものは現状では無く、どう主張しても仮説の域は出ません。そこが又、ロマンを掻き立てるところなんですけど、もしも確定できる何かが発見されれば、日本古代史における「謎の四世紀」はかなりの部分が明らかになり、記紀の読み方もかなり変わるのかもしれません。

2018年1月8日月曜日

記紀から知る成人


1999年までは、「成人の日」は1月15日に固定されていましたが、現在は1月の第2月曜日です。新成人に、大人になったことを自覚してもらい、かつそれをお祝いするための祝日とされています。

元々は、皇室で行われていた大人として認める通過儀礼の一つで、元服の儀と呼ばれていたものが1月15日に行われていたもの。「元服」は、頭(元)に冠を被る(服)という意味です。

ですから元服は、「加冠の儀」とも呼ばれ、制度化したのは奈良時代以後。男子が冠、女子が釵子と呼ばれる装飾具を頭部に着して成人の装束を完全に身にまとうことで、一人前になったことを披露することになりました。

一般に広がるのは室町時代以後らしく、記紀の対象の中心である古墳時代ではあまり明確な記述は見つけにくいようです。

天武紀11年(682年)に続けざまに身なりについて詔した記載が見られます。その中で、髪をきちんと結い上げて冠を被るという形が出来上がりました。

古くは、ヤマトタケルが最初に父・景行天皇から熊襲成敗を命じられた時に、こどもの髪形を額に結い上げて大人の髪形にしたと古事記に記載があります。日本書紀によれば、この時のヤマトタケルの年齢は16歳です。

大人として認めたから、それに見合った髪形の変化が記載されているのでしょうが、そのとたんに単独で戦争してこいという命令ですから、ずいぶんと酷な話です。

後に聖徳太子と呼ばれた厩戸皇子は、蘇我馬子の物部守屋討伐軍に参加していますが、この時は14歳くらい。まだこども扱いで、束髪於額(ひさごはな)と呼ばれるこどもの髪形で軍の後方にいました。推古天皇の皇太子になるのは5年後のことで、次期皇位継承者にふさわしい大人として扱われています。

舒明紀の最後、天皇崩御の記事に、後の天智天皇(ここでのみ東宮開別皇子と呼ばれている)が16歳で誄(しのびごと、今で言う弔辞)をしたとあります。少なくとも大人としての扱いだろうと考えられます。

何歳から大人として扱うのかは、時代による変遷がありますが、記紀の中心である古墳時代は15歳くらいということなんでしょうね。髪形を変えることで大人であることを表し、天武朝で加冠制度が始まり、大宝・養老律令で法制化されたということのようです。

最近は、大多数の若者はちゃんとしているのはわかりますが、成人の日の式典で大騒ぎする一部の新成人のニュースが毎年流れます。彼らは、「成人の自覚が無く、祝ってもらうところを自ら祝っている」わけです。もう、メディアで取り上げてわざわざ話題にするのはやめてもらいたい感じがします。

2018年1月7日日曜日

記紀の「謎」は謎のまま


古事記、日本書紀をあらまし読み飛ばしてみましたが、日本の古代史という観点からは、かなり偏った書物であるということは間違いない。何故なら、記紀に記述されている内容は、古来からの口頭による伝承が中心で、その中には意図的で無いにしろ創作・改変が多く混在しています。

また、あくまでも、7世紀後半の支配者であるヤマト朝廷が、勝者の歴史として、自らの正当性を明らかにすることを最大の目的として編纂されていますので、記紀は天皇家の歴史書と呼ぶことはできますが、日本という国全体の歴史についてはあまりに欠落が多い。

日本全体の歴史の真実を確定することは、記紀だけでは結局困難を通り越して不可能な話で、地域の様々な伝承、諸外国の記述、地道な考古学的な調査などにより、少しずつ外堀を埋めていくしかありません。

それでも、最終的な正解に達することはほぼ無理な話で、「記紀の謎」という表現の著作は山ほどありますが、その謎が真に解明されることはありえない。「謎が解けた」と主張しているものほとんどは、眉唾物と考える方が無難で、証明されていない仮説を前提にした仮々説の域を出るものではありません。

これらの仮設に対して多くの批判がされていますが、その批判の根拠にしているものも、所詮、仮設を前提にしているので、真実というよりは信念に近い話で、いつまでたっても白黒がつくようなものではありません。

ですから、あくまでもフィクション的に、記紀のストーリーの理解に徹するという読み方があってもいいと思います。また、巷にあふれる諸説については、推理小説の犯人捜し、あるいは難解なパズルを解くような「正解の可能性の一つ」として楽しむくらいが無難というところでしょうか。

とりあえず、一通り読んでみて、自分なりに「謎」として、可能なら正解を知りたいと思った点を列挙してみます。神代の話は、謎と言い出したらきりがないので、あまり突っ込んでもしょうがないかと思いますが、どうしても気になる存在がいくつかあります。

古事記冒頭、いきなり登場する天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)はどうやって生まれたのか、そしてどういう存在なのか。最初に出てきてそれきりですから、物語としての存在理由がはっきりしません。

伊邪那岐から最後に生まれる、右眼からの天照大御神、左眼からの月読命、鼻からの建速須佐之男命の三貴子についてですが、左右、太陽と月というペアとしての整合性で考えると天照大御神と月読命が主役というのが順当。なのに、月読命は、ほとんど活躍の場がなく退場してしまいます。むしろ、追加で生まれたかのような須佐之男にまつわる話がたくさん登場し、その量は天照大御神よりも多いくらいです。

出雲関連では、大国主神を助けて国造りに功績をあげる少名毘古那神も不思議。神産巣日神のこどもと説明されていますが、唐突に海の向こうからやってきて、そしてまた突然海の向こうに去っていきます。

また、大国主神が国譲りをするのも簡単過ぎる。自分のこども二人が歯が立たないからと、すぐに明け渡すようでは国のトップとしては如何なものかという感じです。これと似たような話だなと思ったのは、神功皇后の三韓征伐の話。天照大御神と神功皇后のイメージが重なり、戦わずして三韓は自ら降伏してしまいます。

勝者の天皇家からすれば、敗者である大国主神が、その後は天皇家を守護する立場として祀られるというのも納得しにくい話です。国譲りでは日和見をきめこんだ息子の事代主神が、壬申の乱の中に登場して天武天皇を助けるというのも違和感があります。

天孫降臨で、最初に地上に降り立った邇邇芸命が、なんで初代天皇にカウントされないのか。まだ国家統一というレベルではないというなら、初代天皇である神武だって、せいぜい九州地方、中国地方、近畿地方が活動範囲で、全国制覇というには寂しくないか。

神武天皇を正当な邇邇芸命からつながる最初の支配者とするなら、そもそも神武より先に近畿を支配していた饒速日命とはいったい何者なんでしょうか。饒速日も、間違いなく邇邇芸命と同じく降臨した天孫だと認められています。だったら、初代天皇と呼ばれる資格がありそうなものです。

神武以後、とにかく歴代の天皇の長命は、当然不自然過ぎる。欠史八代と呼ばれるくらい、記録もほとんどありません。存在そのものの疑問が出るのは当然で、どうせならもっと天皇の数を増やして、実時間軸との整合性をもたせられなかったのか。実在したのなら、意図的に存命期間を延長して、時代を遡らせた理由もまた不明です。

とにかく、何処まで来たら実在した天皇なのか、なかなか確信が持てません。5世紀までは、あまりに謎が多すぎて、信用できる話が少なすぎると言わざるをえない。

武内宿禰という人物も、謎の程度では最大級です。景行天皇から仁徳天皇までに参謀格のように登場してきますが、時系列を素直に信用するなら寿命が400年近いことになってしまう。皇室の血筋から生まれた人物ので、後に多くの豪族の祖先とされていますので、何世代かをまとめているんでしょうか。

他にも不思議なこと、納得できないことは、いくらでもあるんですが、挙げていたらきりがありません。また、いろいろ考えてみても、結局は答えはありません。さらに、勉強を続けてみるしかないようです。

2018年1月6日土曜日

小寒


二十四節気は、小寒(しょうかん)に入りました。

一年の中で一番寒い時期だということなんで、小寒に入ったことを「寒の入り」といい、この後に来る大寒と合わせた約30日を「寒の内」と呼んだりします。

正月三ヶ日が過ぎると、年明けのお目出度は一気にトーンダウン。七日で七草粥を味わい、松が取れると、完全に御屠蘇気分は消え去ります。

雪が降るかもと天気予報で言うものなら、いつからか「えっ~、困るなぁ。勘弁してよ」と思うようになりました。そこで一句。

独楽回し 忘れて届かぬ 雪便り

童心に帰って、素直に「わ~い、雪だぁ」と喜びたいものですが、大人になるとそうもいきません。

さぁて、今年の寒の内はどんな寒さなんでしょうか。

2018年1月5日金曜日

仕事初め


今日から、クリニックは通常診療です。

クリニックを休診にすると、通院中の患者さんたちだけでなく、急に体調を悪くした方にも、いろいろと迷惑をかけるかもしれない。

・・・のですが、正直、休みがいくらあっても、十分ということはない。

休み中にやりたかったことは山ほどあるのに、結局できずに終わってしまうんです。

所詮、怠け者の性根があるんでしょうか。

休みは休んじゃうばかりで、せっかくの時間を生産的に使うつもりが口先だけだったりするんですね。

その分、休養にはなったのかもしれません。

さすがに、年々、体力的には自信が無くなってきているので、それはそれでいいのかもと、自分を納得させるわけです。

とにかく、平成30年の仕事初めです。

食べすぎ飲みすぎで、ちょっと体が重たい感じですが、頑張っていきます。

今年も、よろしくお願いします。


2018年1月4日木曜日

日本書紀 (10) 高天原への回帰


推古朝で厩戸皇子が主導して始まった律令体制は、天智・天武の兄弟天皇により、より強固なものに拡張整備され国家基盤は盤石なものになりました。しかし、その陰では、相変わらず皇位継承を巡る骨肉の争いが続いていました。

天武天皇の皇后は、父親が天智天皇で、母親は乙巳の変以後に右大臣を務めた蘇我倉山田石川麻呂の娘です。元の名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。

ですから、祖父(石川麻呂)は父親(天智天皇)に攻め込まれ自害しています。天智天皇の皇后は倭姫王(やまとひめのおおきみ)といい、子には恵まれませんでした。驚くことに、同母姉の太田皇女、異母姉妹の新田部皇女、大江皇女も天武天皇の妃となっているんですね。

鸕野讃良皇女の同母弟である建皇子は幼くして亡くなり、祖母である斉明天皇を深く嘆かせました。天武天皇を裏切り天智天皇が皇位継承しようとしてし、結局壬申の乱で自害に追い込まれた大友皇子は異母兄弟です。

なんか複雑すぎて、気が遠くなりそうなところですが、とにかく古代史には天皇家の系譜の理解が不可欠。ほとんどが一夫多妻の近親婚であることが、話をややこしくしています。

天武天皇と鸕野讃良皇女の間に生まれたのは草壁皇子。天武天皇には、他に大津皇子(母は太田皇女)、高市皇子、忍壁皇子らがいて、天智天皇の遺児である河嶋(川島)皇子、芝基(志貴)皇子を加えた六皇子が、吉野の盟約に呼ばれお互いに協力することを誓わされました。

686年9月に天武天皇が亡くなると、一月も経たないうちに大津皇子の「謀反」が発覚します。もともと、大津皇子は人物としては高評価だったようですが、最初の皇后であった母親が早世し、鸕野讃良皇女が新たに皇后になったため、その立場はかなり難しい状況にありました。天武の生前に草壁皇子が後継者と決まっていましたが、大津皇子を推す勢力もあったようです。

当時は、伊勢神宮はすでに皇祖天照大御神を祀り、天皇直轄の神宮としては入れるのは天皇のみでした。大津皇子は天武天皇崩御後ただちに密かに伊勢に向かったのでした。これは神宮に入って天皇の資格を得るという「謀反」と解釈され、捕らえられ翌日には処刑されます。

当時、伊勢神宮をきりもりする斎宮に就いていたのは、実の姉である大伯皇女でした。姉への思いからの行動とか、草壁皇子との関係も政敵というだけでなく恋敵でもあったとか、河嶋皇子が草壁皇子に取り入るために密告したとか、いろいろな説があります。いずれにしても、大津皇子に何らかの野望はあったのでしょうし、大津抹殺の陰には鸕野讃良皇女の意思が少なからず働いていた可能性は否定できません。

鸕野讃良皇女は称制をひき、実質的な政治運営を開始。最初の仕事は、天武天皇の葬礼でしたが、これは2年以上の長期に及び、草壁皇子を先頭に立て皇太子として後継者の地位を作るようにしていました。また天武天皇の意志を引き継いだ、飛鳥浄御原令を発布しています。ところが、何と草壁皇子は即位しないうち689年に病死してしまいます。

草壁の息子である軽皇子が、まだ幼児であったため、690年元旦についに皇后であった鸕野讃良皇女は自ら即位し、第41代持統天皇が誕生しました。最大の補佐役、太政大臣には高市皇子を起用します。天武天皇の希望だった藤原京の造営工事が開始され、694年に遷都しました。

持統天皇は、天武体制の完成のために、事あるごとに臣下の忠誠を披歴させ、飴と鞭をうまく使い分けていたようです。また、異常なほど多い吉野への行幸記事が目立つのは、天武への強い想いの現れなのかもしれません。また宮廷詩人として柿本人麻呂を庇護し、後に万葉集にも多く収載される自分を含む天皇を讃える歌を詠ませています。

696年に天皇を支えていた高市皇子が亡くなり、軽皇子を皇太子にに指名。697年には体調を崩し、軽皇子に天皇位を禅譲した記事を最後に日本書紀全30巻は終結します。

持統天皇は702年に亡くなり、天皇としては初めて火葬にふされ天武天皇陵に合葬されました。720年、神代から始まる日本書紀が完成した際に送られた諡号は高天原広野姫天皇でした。

2018年1月3日水曜日

日本書紀 (9) 天皇と日本の誕生


歴史は勝者が作るものというのは、古今東西、真理といわれています。ですから、勝者は自らの正当性を強く前に出した史書を作成するものであり、敗者は悪となるか、無視されてしまう場合が多い。

古事記にしても、日本書紀にしても、取りまとめを指示したのは壬申の乱で勝利した天武天皇であることは間違いないとされています。これらの国史に記載された内容は、天皇家の正当性を明確にする目的があることは異論はありませんが、特に天武天皇の英雄性・偉人像を作り上げることを念頭に置いて編集されたことも否定できません。

古代史の真実を明らかにするためには、記紀だけに頼っていたら、完全に見誤ってしまいます。様々な古文書に伝わる伝承や中国・朝鮮半島の歴史との整合性を確認しないと、信用はされません。そういう作業を文献史学と呼ぶわけですが、さらに物理的な証拠を探究するのが考古学であって、両者の一致を見て初めて事実と認定されます。

とにもかくにも、日本書紀も大詰め。ついに、第40代天武天皇にたどり着きました。天武天皇は、父親は第34代舒明天皇で、その皇后、後の第35代皇極天皇(および第37代斉明天皇)が母親。兄は第38代天智天皇で、皇后は天智天皇の娘、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)です。

天武天皇は即位後、ただちに法整備に着手し、有力豪族との協調体制である「大王(おおきみ)制」から脱却し、律令国家の完成を目指します。このことが意味することは、「天皇制」の確立に他なりません。

便宜上、これまでも××天皇という呼称を用いてきましたが、これは漢風諡号(しごう)と呼ばれ、生前の功績を讃えて死後につけられるもの。そもそも「天皇」という用語が初めて確認されているのは6世紀後半。また、聖徳太子と蘇我蝦夷が編纂した記紀のもととなる史料の名前に「天皇記」という名称が使われています(現物はなし)。

天武天皇は「天皇」の呼称で呼ばれた最初の天皇とされていて、その後701年の大宝律令で初めて用語としての明文化がなされています。これらの漢風諡号は、8世紀半ばから見られるようですが、760年代になってそれまでの「天皇」に対して、淡海三船が一括して選定したものといわれています。

また国号としての「日本」を最初に使用したのも天武天皇の仕事とされています。最初の統一国家としての呼称は「倭(やまと)」ですが、国外から「倭(わ)」として確認されるのは3世紀に成立した後漢書の中が最初で、隋の時代まで続きます。唐が周に変わる頃の史書には初めて「日本」が登場します。

国内では、天武天皇のアイデアで法制化が着手されますが、亡くなった後に飛鳥浄御原令を経て、やはり大宝律令で確定したと考えられています。いずれにしても、中国に対する優位性を意識して「日が昇る方向の国」という意味が込められているわけです。

天武天皇は次から次へと、様々な詔を出して、実質的には能力のある者を重用しながらも、自らを神格化し皇子を要職に就けつつも専制政治を行います。政治改革を強行的に進める上で、身分の高い低いにかかわらず、多くの臣下を処罰し、またそのための法も作っています。

経済政策では貨幣制度の確立を行い、国家を担保する史書(記紀)の編纂を命じます。また伊勢の神宮との関係を深め、天照大御神を皇祖神と位置づける神祗大系を創り出しました。

天皇は自らもそうであったように、皇位継承に親族内の内紛が生じることを恐れ、皇后と伴に自分の息子である草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、天智天皇の遺児である河嶋皇子、芝基皇子を連れて吉野の地で「千年の後まで争わない」誓いを立てさせました。

草壁皇子が率先して「我々は同母、異母、年齢に関わりなく、助け合うことを誓い、裏切ったら身が滅び子孫が絶えるものです」と言い、他の皇子も同意しました。これを吉野の盟約と言います。

686年5月より天武天皇は体調を崩し、9月に亡くなりました。しかし、吉野の盟約は直後に破られることになるのでした。

2018年1月2日火曜日

日本書紀 (8) 壬申の乱


茜指す 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

紫の匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも
むらさきの におへるいもを にくくあらば ひとづまゆえに わがこいひめやも

突然ですが、万葉集です。古事記・日本書紀にも、たくさんの歌謡が登場していて、時には本文で伝えきれない、あるいは書くわけにはいかない微妙な心情を表現していたりするので、なかなかあなどれない。万葉集にも、歴史の傍証となりうる内容がかなりあるらしく、古代史を紐解く上では、重要な文献の一つという扱いです。

上は、万葉歌人として特に有名な額田王が詠んだもの。額田王といっても女性ですし、しかも大海人皇子の奥さんとだというから興味が湧いてきます。でもって、あくまでも噂話の域を脱しませんが、額田王を巡って天智天皇と弟の大海人皇子は三角関係だったかもという話しがあります。

天智天皇が、横恋慕して大海人皇子に有無を言わさず、自分の妃に取り上げたということらしい。大海人皇子は、天智天皇の冷酷に政敵を亡き者にしてきた手腕を知っていますから、泣き寝入りしたのですが、それでも額田王のことを忘れられずに、最初の歌に返事をしたというのが二番目のもの。

宴席で、額田王は「狩遊びの途中で、あなたが恋しい素振りをすると、警備の者に見られてしまいます」と歌い、大海人皇子が「だって、今は兄の嫁さんだけど恋しい気持ちはかわらない」と返歌したわけ。天智天皇もその場にいたかもしれないので、けっこう際どいお戯れだったというところ。

他にも、大海人皇子は、天智天皇の前で舞を見せた時、槍を床に本気で刺して怒らせたという話もあります。もともとは仲の良い兄弟だったようですが、二人の仲が決定的に崩れるきっかけになったのが、大海人皇子が次期天皇というのが既定路線だったのに、天智天皇は自分の息子可愛さに大友皇子を太政大臣に任命し、事実上の後継者として指名したことでしょう。

身の危険を感じた大海人皇子は、さっさと出家して吉野に籠りますが、その2ヶ月後に天智天皇は近江の宮で亡くなりました。近江ではただちに大友皇子が即位して第39代の弘文天皇になったらしいのですが、日本書紀でははっきりした扱いは無く、天皇としてはリストから欠落しています。歴代の天皇に数えられるようになったのは、何と明治時代になってからで、この点については未だに異論があるようです。

年明けて672年、大海人皇子は挙兵し、近江方との間で内乱が発生し甥である大友皇子を討ち取りました。これが、世に言う壬申の乱で、日本初の本格的なクーデターです。日本書紀は、天皇ごとに即位前の状況を簡単に記述する「前紀」で始まり、その後から元年として経時的記録をして一巻を構成するというものです。ところが、天智天皇の次の巻は、丸々壬申の乱に関する記述のみという異例の扱いをしていて、その内容は次のような感じ。

春が過ぎ、近江朝廷が天智天皇陵を作るという理由で人夫を集めているが、それぞれに武器も持たせている、そして近江から飛鳥の間に見張りを配置し、物資の吉野への搬入を制限しているという情報が大海人皇子のもとに寄せられます。

これを受けて大海人皇子は、6月22日、各地に挙兵の知らせを送るとともに、ただちに一族郎党を引き連れて吉野を脱出し、近江にいた高市皇子とも合流。しだいに付き従う軍勢を増しながら6月26日に桑名に到着しました。近江方は大海人挙兵の知らせに動揺し、各地に加勢を依頼しますがことごとく失敗します。

大海人軍はさらに北進し、6月27日に美濃国の不破(徳川家康の関ケ原の戦いで有名!!)に仮の宮を設置し、高市皇子が自ら軍の先頭に立ち指揮すると申し出ました。大海人軍は自軍を判別するために、赤色の目印をつけ、不破から近江と伊勢から飛鳥の2方面から進軍、初めは近江方の勝利もあったものの、その後は敗戦が続き、ついに7月22日琵琶湖南端の瀬田の地で最終決戦を迎えます。

瀬田川の橋を挟んで対峙した両陣営は数万人で、後方は見えないくらいでした。物凄い砂ぼこりの中で、旗・幟が野を覆いつくし、鉦・鼓の音が鳴り響き、放たれた矢はまるで雨のように降り注いだということです。そして、大海人軍は橋を強行突破し敵陣に踊り込み、近江方は一気に総崩れとなりました。大友皇子は7月23日に西の山前の地に逃げ延びますが、これまでと覚悟を決めて首を括って自害してしまいました。

・・・ちょっと、あれれというのが、大海人皇子自身は全く戦いの場にはいないんですよね。不破の宮にじっとして、ただ勝利を待っていただけみたいなんですよね。日本書紀の記述からすると、何かひたすら祈って神の力を引き出していたみたいなことなんでしょうか。

それはともかくとして、ここに乱は終結し、大海人皇子のクーデターは成功し、翌673年2月についに第40代、天武天皇として即位したのでした。

2018年1月1日月曜日

謹賀新年2018



あけまして おめでとうございます

どうか 皆様方には 今年が良い年でありますように
心よりお祈り申し上げます

本年も どうかよろしくお願いいたします

平成30年 元旦