2018年1月9日火曜日

魏志倭人伝 (1) 邪馬台国はどこ


日本古代史の中で、記紀だけではどうにもならない無視できないのが「邪馬台国」の存在。唯一の記録がある、通称「魏志倭人伝」は、一度は目を通しておかないとしょうがないので読んでみます。

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倭人は帯方郡の東南、海に囲まれた山や島に百以上の国を造り、漢の時代から30国程度が使者を送ってきている。

帯方郡から海外に沿って船で南、そして東に7千里ほどで狗邪韓国に達する。ここで海を渡り千里ほどで対馬国、さらに南へ千里で一支(いき)国、また千里で末廬(まつろ)国に至る。

陸行で東南に五百里で伊都(いと)国、さらに東南に百里で奴(な)国、東に百里で不彌(ふみ)国に至る。ここから南へ水行20日で投馬(とうま)国、そして水行10日、陸行なら1カ月で女王が都としている邪馬臺国(あるいは邪馬壹国)に到着する。

周囲に二十あまりの国が従属するが、南にある狗奴(くな)国は男性の王がいて独立している。帯方郡から女王国までは、合わせて1万2千里ほどである。

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記紀にまったく触れられていないために、かえって日本古代史の最大の謎といえるのが邪馬台国の話です。先に、魏志倭人伝の概略については書きましたので繰り返しませんが、記紀で記述されない3~4世紀の倭国にあった邪馬台国については、中国の三国志にしか記録がありません。

となると、三国志の中で、邪馬台国について書かれた部分、つまり魏志倭人伝を読んでみたいと思うのは自然の流れ。上に載せたのが、冒頭部分の概略で、もちろん原文は漢字です。

まず最初は、朝鮮半島西部の帯方郡から邪馬台国までの行き方の説明。これだけのことですが、これが長きに渡って続く、邪馬台国論争の火種になっているところ。邪馬台国は日本のどこにあるのか、いまだに決着がついていません。

何しろ、日本全国でここが邪馬台国のあった場所ですと名乗りを上げている場所が、実は500か所くらいあるらしい。場合によっては、候補地が外国にもあったりします。

とは言っても、基本的には畿内説と北九州説の2つが有力候補地として、それぞれその根拠を列挙しています。特に、畿内説では纏向遺跡・箸墓古墳、北九州では吉野ケ里遺跡が邪馬台国の宮跡として、それぞれを主張する学者の拠り所になっています。

邪馬台国が九州の場合は、その後に成立するヤマト王権とは別の地方の王国の一つということになります。ヤマト王権が強大化していく過程で、征服され滅ぼされたか、吸収されたかしたと考えるわけです。ただし、邪馬台国が北九州にあって、後に東遷して奈良でヤマト王権を作ったという考え方もある。

畿内説を取ると、邪馬台国はシームレスにヤマト王権につながるわけですが、その場合は記紀に記載がまったく無いことは説明しにくくなる感じがします。

対馬国は今でも対馬と呼んでいる島であり、一支国は壱岐島、そして九州に上陸して末蘆国は、佐賀県唐津市松浦の付近であることは、特に異論はないようです。

東南に行って伊都国は福岡県糸島市、さらに東南で奴国は福岡県春日市まではあまり問題ないのですが、次に出てくる東にある不彌国あたりから怪しくなってきます。

不彌国は筑前国糟屋郡の宇美(博多湾岸)と言われていましたが、現在は方向と距離から福岡県飯塚市の立岩遺跡の付近が有力とされています。

投馬国が南へ水行20日というのが、九州内なのか中国地方吉備付近とするのか大きく分かれています。どっちにしても、これまでの動き方からすれば、真面目に南に船で行くと台湾を超えてしまうし、中国地方とするなら方向が違うわけで、元々の記述に何らかの勘違いか間違いがあることになります。

九州説を取る意見では、南にある対立勢力である狗奴国は熊襲(くまそ)の呼び名が転じたものだと主張します。畿内説を取る学者は邪馬台国がやまたい国、やまと国、倭国であると言いますが、実は伝わる倭人伝の複写本によっては邪馬臺(台)国ではなく邪馬壹(一)国と書かれているので、本当のところどっちが正解かはわかっていません。

他にも、様々な意見が噴出していますが、いずれにしても決定的な証拠となるものは現状では無く、どう主張しても仮説の域は出ません。そこが又、ロマンを掻き立てるところなんですけど、もしも確定できる何かが発見されれば、日本古代史における「謎の四世紀」はかなりの部分が明らかになり、記紀の読み方もかなり変わるのかもしれません。