2018年1月18日木曜日

続日本紀 (1) 藤原京の刹那


続日本紀は、持統天皇の孫、軽皇子が天皇位を生前譲位され15歳にして第42代文武(もんむ)天皇として即位したところから始まります。ただし、持統天皇は太上(だいじょう)天皇として、実質的な政務を続けました。

697年8月17日、即位の宣言が行われます。場所は、天武天皇の構想に始まり、中国の宮を強く意識した藤原京、その中心である持統天皇が完成させた藤原宮の大極殿の前の庭です。

「朝廷」という言葉は、もともとは「朝庭」で、宮の前の庭に臣下が毎朝集められ天皇の詔を承ったり、いろいろな訓辞を受けたことが語源だそうです。

歴代の天皇は、即位すると首都である宮をそれぞれ好きなところに作っていたので、それぞれが大都会として発展はしませんでした。しかし、藤原京は日本で初めて、広大な土地を都市計画の元に恒久的に発展させる目的で作られた都です。一辺5kmくらいの正方形の土地を碁盤の目のように区画整理し、中心にある宮は1km四方の大きさだったと言われています。

701年に国家の基本法典である大宝律令が発効し、聖徳太子に始まる百年間に渡る律令国家への模索が一定の完成を見ました。太上天皇は、夫の夢だった日本国の完成を、その亡き後に引き継ぎ完成させたわけですが、その翌年体調を崩し、いろいろな祈祷も効果なく亡くなりました。

大宝律令では、注目したいのは僧尼令です。すでに仏教は広まり政権も受容していましたが、あくまでも国家を鎮め護るためのものであり、民衆に広がり独自の勢力となることを恐れていたことがわかります。僧尼令では、寺は人を惑わす魔除け、まじないを禁じ、寺の外での布教活動を厳しく制限しました。

また、税制、徴兵制度(防人)についても、細かい規定が設けられていたものの、諸国の元豪族を「地方長官」として国造に任用し、一定の地位を保証したため、権力の二重構造が生じ、完全な中央集権制度にはなりませんでした。

707年、藤原京はまだ全体の完成には至っていませんでしたが、突然遷都の話が出てきます。その年、病に伏していた文武天皇が25歳で亡くなり、母親の阿閇皇女(あえのひめみこ)が元明天皇として即位しました。

またまた、話がややこしいのですが、阿閇皇女は天智天皇の娘で、持統天皇の異母妹です。また、持統天皇の息子、草壁皇子の妃でもあり、その息子の文武天皇の母ということ。

今までの女帝は、皇后が天皇位についたものばかりで、妃がピンチヒッター的な即位とはいえ、天皇になるのは初めてのことで、これには相当な根回しや強権が必要だったと想像します。ここで、力を発揮したのが藤原不比等でした。

不比等(ふひと)は、鎌足の次男で、文武紀に不比等直系のみが藤原姓を名乗り太政官として政権中枢に入り、他は元々の中臣姓とし祭祀のみの担当とされました。不比等は娘を文武天皇に嫁がせ、大宝律令の最終の詰めを行い、さらにこの後に登場する養老律令は不比等が編んだものと考えられています。世の実権は、急速に天皇家から藤原家に移っていくことになります。