2018年1月13日土曜日

古代豪族考 (2) 武内宿禰


武内宿禰(たけうちのすくね)は、記紀の中での謎多い・・・というより謎そのものみたいな存在。系図的には混乱していて、古事記と日本書紀での記載がいろいろ。また、登場する各天皇紀によっても、ばらばらだったりします。ここでは、日本書紀の登場シーンを中心に武内宿禰の役割を再確認してみます。

まず、最初に登場するのは、孝元天皇7年の記述で、第2夫人との間に彦太忍信命(ひこふちおしのまことのみこと)がいて、武内宿禰の祖父であると書かれています。つまり武内宿禰は孝元天皇の曾孫ということらしい。

次に、景行天皇3年のこと。天皇が紀伊国に行き神を祀ろうと思ったが、占いが不吉だったために、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を代わりに派遣します。屋主忍男武雄心命は彦太忍信命のこどもで、そのまま留まり現地で結婚し、生まれたのが武内宿禰であると書かれています。

日本書紀の書かれたままを素直に信じると、屋主忍男武雄心命が生まれるのは紀元前200年頃で、武内宿禰が生まれたのは紀元後70年くらいになってしまい、祖父と孫が300歳近く年が離れているということになってしまいます。

さて景行天皇は主として九州の制圧に乗り出すのですが、景行紀25年に、武内宿禰を北陸・東北の偵察に派遣しました。帰ってきた宿禰は「蝦夷(えみし)という連中が支配しているが、とても肥えた場所なので攻め取った方がいい」とレポートしています。

これがきっかけで、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に旅立たされることになります。景行紀51年に武内宿禰は棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)に就任しました。棟梁は建物の重要な部分で、棟梁之臣というのは政権の中で重要な位置にあることを示しています。ちなみに棟梁が頭領(とうりょう)となり、かしらとか親方という意味になりました。

ほとんど記載のない成務天皇紀ですが、3年の記述に武内宿禰を大臣にしたみとが書かれ、天皇と武内宿禰は生年月日が一緒でとても仲良しとあります。仲哀天皇が急死した際には、神功皇后と武内宿禰が相談して、天皇崩御を隠蔽する作戦を立てます。天皇の遺体は武内宿禰が密かに持ち帰り、偽りの帰還部隊を別に編制しています。武内宿禰は、琴を奏でてあげたり、活躍を祈祷したりと神功皇后と仲良しです。

三韓征伐成功後、神功皇后の水軍は戻って来たのですが、忍熊王の謀反軍が待ち受けていたため、武内宿禰と作戦を練って謀反軍を撃退しました。その後の朝鮮半島との外交問題の時にも、皇后は天照大御神に伺いを立てると、「武内宿禰に決めてもらえば間違いない」と言われたりしています。

その後の応神天皇紀、仁徳天皇紀にも少しずつ登場しますが、仁徳紀50年に天皇と歌を詠みあうのを最後に武内宿禰は記紀から消えてしまいます。これは紀元360年頃ということになるので、少なくとも武内宿禰の寿命はほぼ300歳・・・って、いやいや、そりゃいくらなんでも盛り過ぎです。

ですから、当然一人の人物ではなく、歴代の政権の重要な補佐役だった何人かを取りまとめた代名詞が「武内宿禰」であり、理想の大臣像として描かれたものと考えられています。重要なことは、武内宿禰は皇族の出身であり、また多くの中央系豪族の始祖とされている点です。

武内宿禰の系図は古事記の方が詳しいのですが、それによれば波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏などの有力豪族が後世に連なってきます。その時々の「武内宿禰」は存在していたかもしれませんが、継続的な実在性そのものが疑問視されていますので、これらの系図的なものについても作為の疑いが濃厚ではありますが、力をつけてきた豪族を天皇家の下に置くために、「褒めて落とす」作戦が見え隠れしているというところでしょうか。