2018年1月19日金曜日

続日本紀 (2) 平城京と女帝たち


藤原京は、唐と肩を並べたいという天武天皇の悲願であり、だからこそ持統天皇は、亡き夫の意志を完成させることを重視したはずです。それは、長期にわたって天皇の威光を天下に知らしめる、かつてない大規模な恒久的な都であるはずでした。

ところが、藤原京は、694年に開いてわずか10年で廃棄されることが決定してしまうのです。708年に遷都の詔がだされますが、「急がないけど、皆が遷りたいと言うし、あっちは四禽の配置が良く、占いでも吉だから」というよくわからない理由。四禽とは、古来中国の風水から来ている地相で、土地の4つの方角を四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が守るという考え方です。

詔ではさらに、「民に苦労掛けちゃだめだよ。しっかり準備して、後でごたごたにならないようにね」ということで、必ずしもテンションは高くないのが不思議なところです。

どっちにしても、天武後に唐の都である長安をつぶさに見てきた遣唐使らの報告から、藤原京がだいぶ劣るようだということがわかっちゃったようです。大国である唐に負けたくない、あるいはその上をいきたいがために、当時の天皇を中心にした朝廷は、ソフトウェアとしての律令国家を成立させ、ハードウェアとしての都を作りたいと心底願っていたということです。

日本史の時代区分としては、短命だった藤原京までが飛鳥時代で、平城京遷都によって奈良時代が幕開けます。さて、話を元明天皇に戻します。

姉であり、夫・草壁皇子の母親である持統天皇は、草壁の死によって、孫の文武が即位できるまで自分が天皇についたわけです。元明天皇も、息子の文武が亡くなり、その子・首皇子を天皇にすることが、最大の生きがいだったのかもしれません。しかし、藤原宮の建物を解体・運搬するという難作業が進み710年に平城遷都が行われると、関連した様々な激務が元明天皇の心身の疲労はピークに達します。

714年に首皇子が14歳で元服し皇太子となり、ちょうど世にも珍しいめでたい霊亀(左眼が白、右眼が赤、背中に北斗七星などなど)が見つかったというきっかけで天皇をやめると宣言しました。退位の詔で、「気力は衰え、年も取ったし、もう疲れちゃった」と述べています。

平成天皇が生前譲位したいというのは、80歳を超えての話で無理もない。ところが、この時の元明天皇は55歳です。相当、天皇をやっているのが嫌になっちやったんでしょうね。そこで、譲位したのが首皇太子・・・なら話はわかりやすいのですが、何と氷高内親王(ひだかないしんのう)に譲ってしまい、第44代の元正天皇が誕生します。

氷高内親王は、草壁皇子の長女、首皇太子の姉で、35歳、未婚の美女。皇后が天皇に即位することは前例があり、元明天皇の場合の母親が即位するのは異例でしたが、天武天皇の孫でかつ自分の娘とはいえ元正天皇の即位は、その上の上をいく異例中の異例です。この時、元明は理由として「孫である皇太子がまだ若いから」という持統天皇即位と同じ理由を挙げていますが、文武天皇が即位したのは15歳、この時の首皇太子の年齢も15歳ですから納得はできません。

実は文武天皇の后は藤原不比等の長女の宮子で、首皇太子の妃はやはり不比等の三女の光明子ですから、首皇太子はどっぷり藤原一族に浸かった人物です。しかも、父親は皇太子だったとはいえ、天皇にはなっていない人物です。いくら元明が皇位を譲りたいと思っても、相当な抵抗があったものと想像されますし、もしかしたら元明天皇自身による藤原氏に対する抵抗だったかもしれません。

元正天皇、文武天皇の妹である吉備内親王は、天武天皇の高市皇子の子供である長屋王の妃となっていました。元明、元正は長屋王を親王待遇に格上げし、不比等に対抗しうる大納言として政治に参加させました。

720年、藤原不比等が、さらに721年に元明太上天皇が亡くなり、長屋王は政権の中で、天皇に次いで最も力を持つことになりました。一方、藤原氏は4人の子が継ぎ、武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の四家となり、権力の再掌握を虎視眈々と狙っていたのです。