2018年1月16日火曜日

古代豪族考 (4) 有力氏族 其之二


引き続き、力のあった豪族と呼ばれる古代氏族をピックアップしていきます。

6. 三輪氏
奈良県桜井市、奈良盆地の東南にある三輪山は、大国主神の分身である大物主神が鎮座する大神神社のご神体そのものの神聖な山である。五穀豊穣の農業神と病気を鎮める祟り神の性格を併せ持ち、三輪氏はその神宮家として栄えた。一部に、邪馬台国の卑弥呼の鬼道に起源を求める説がある。祟神紀に、疫病が流行り、大物主神は意富多泥古(おほたたねこ)を探し自分を祀るように天皇に伝えた。探し出された意富多泥古を始祖とし大神神社の祭祀権を獲得し、一定の力を保持し続けた。持統天皇の度重なる吉野行に対して、中納言であった三輪朝臣高市麻呂は、収穫を妨げ農民を疲弊させるとして思いとどまるよう進言し対立した。

7. 巨勢氏
奈良県高市郡を本拠とし、6~7世紀に大臣を多数輩出し外交外征で活躍した氏族で、武内宿禰の後裔氏族の一つだが、系図的には不明な点が多い。農業的な不利な地域だが、大和・紀伊・吉野を結ぶ交通要所であったことが力を持った要因とされる。律令制のもとでは武人から文人に転換したが平安時代になると次第に衰退していった。

8. 和珥氏(和邇氏)
孝昭天皇を始祖とする皇別氏族で、春日氏とも言い、奈良盆地東部の天理市和爾町付近を本拠とする。もともとは海人族系とされ、埴輪などの祭祀土器製作、墓の管理などを行っていた。天皇家に妃を出した人数は多いが、それらから天皇は輩出していない。武人として江戸時代まで続いていたようで、詳しいことはわからないが、ある程度の力を維持していた氏族。派生氏族は多く、柿本人麿の柿本氏、小野妹子や小野小町の小野氏、山上憶良の山上氏などは有名。

9. 秦氏
中国の秦国の始皇帝の後裔とされる功満君が仲哀紀に渡来したのが始まりとされ、その子である弓月君が応神紀に数千人(?)を率いて渡来し帰化した。記紀の中では、あまり目立った活躍は無い。しかし、奈良時代以降は経済的には力を持っていたようで、平安京を作る際にはかなり関わったといわれ、太秦(うずまさ)を本拠地としていた。

10. 紀氏
武内宿禰の子である紀角を始祖とし、奈良県生駒郡平群町を本拠とした。姓は初め臣であったが、天武紀に朝臣へ改められた。主として武人として、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したが、政権内での位にはもともとは比較的無縁。奈良時代にしだいに朝廷内に地位が上がり、姻戚関係の光仁天皇が即位してから繁栄したが応天門の変以後衰退する。歌人としては貫之が有名。

他にも豪族と呼ばれる氏族はたくさんありますので、挙げていたらきりがない。最低限として、このくらいの有名処はおさえておきたい、というほどのものですが、最後にもう一つ、記紀における最大の謎をはらんだ豪族を忘れてはいけません。それが、物部氏です。

11. 物部氏
日本書紀には、「饒速日命こそが物部氏の祖先である」と明記されています。しかも、この饒速日命は天孫であり、一般的に「天孫降臨」で地上に降り立つ邇邇芸命よりも先に近畿の地を制圧・統治していたことになります。このあたりの事情については、記紀ではまったく触れられておらず、何かの配慮が働いて書かないわけにはいかないが、できることならもみ消したいという意図がくみ取れます。

物部氏末裔は自分の祖先について、記紀の記載には満足できないため、あらため自分たちの出自を主張するために記録したのが「先代旧事本紀」と呼ばれる書で、饒速日命の降臨事情についてはより詳細に書かれています。この書は、学問的には「偽書」の扱いをされていますが、全面的に取り上げている先生もいるし、そうではないとしても部分的には信じられるとする傾向があるようです。

饒速日命については、いずれ整理する必要があると思っていますので、ここではもうしばらく横に置いておき、物部氏についての概略だけノートしておきたいと思います。

物部氏は、天皇家以外で最も長大な系譜を有し、天孫である饒速日命を祖とし、祭祀関係氏族として大王家の伝承を伝える、いろいろな宝物の管理などに携わっていたと考えられ、天理市を本拠として石神神社を管理していた。5世紀末くらいから力を増し、初期ヤマト王権の重責を担うようになった。仏教に対しては排仏派の立場をとり、用明紀の大連となった物部守屋が、蘇我馬子と皇位継承問題で対立し滅ぼされたため以後衰退した。