2018年1月22日月曜日

続日本紀 (4) 平城京の盧舎那仏


奈良と言えば、現代人が真っ先に思いつくのは大仏です。釈迦の身長が一丈六尺(略して丈六、4.85m)という伝説により、立像でも坐像でも、それ以上の高さがあるものを大仏と呼びます。

各地に大仏と呼ばれる大きな仏像がありますが、ほとんどが高さが丈六に満たないか、20世紀に作られ歴史的な意義は希薄なものばかりです。江戸時代までに作られたもので、現存する大仏というと、大きいものとしてはやはり奈良と鎌倉で、より大きいものもありましたが倒壊、焼失しています。

奈良の大仏と呼んでいるのは、東大寺金堂(大仏殿)に鎮座する銅で鋳造され、高さが16mある盧舎那仏坐像のことです。中世に二度火災により再建されていますが、創建当時の部分も一部に残しています。これを作ろうと言い出したのが、何かとお騒がせの聖武天皇でした。

740年、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺(11世紀に消滅)で、聖武天皇は盧舎那仏像に感激したのがきっかけとされています。翌年、恭仁宮で政府直轄の国分寺・国分尼寺建立の詔を出しています。

その中身は、「自分の不徳により、天下泰平ではなくてゴメンね。去年は、諸国に丈六仏像を造り、大般若経を書き写すように指令したら今年は順調だよ。だから、幸せのために、もっと仏教を広めよう。国の華となる、四天王に国を守護してもらう国分寺、仏により罪を許し守ってもらえる国分尼寺を各地に作りなさい」というものでした。

いろいろと小心者で優柔不断、人民に苦労をかける悪者扱いの聖武天皇ですが、この中で「虚らかな場所に建立しなければならないが、人々が行きにくい場所はだめ」と、ちよっと優しい所が見え隠れしています。

そして743年、紫香楽宮にて大仏造立の詔を出しました。今度は、「徳が少ないけど頑張ってるよ。でもまだ足りないので、盧舎那仏金銅像を作ろう。天下の富は全部自分のものだから、国中の銅を使い尽くしても作るぞ。でも、作っただけじゃだめで、難しいけど心をこめること」と言っています。

ここでも、「自発的に仏像製作に参加したいものは誰でも歓迎。役人は、このことで人民を苦しめちゃだめ。増税とかもってのほか」とし、天皇自身としては、けっこう人民を気遣う気持ちはあったようです。

翌年、紫香楽宮近くの甲賀寺で作業が始まりましたが、745年に平城京に還都したため、平城東山の山金里で改めて作ることになりました。この場所が、都の東側の外縁だったため東の大寺で東大寺と呼ばれることになりましたが、実はこのあたりは藤原氏勢力圏なんですよね。しかし、この頃から聖武天皇は体調を崩してしまいます。

さて、大仏作りは大事業ですから、作業は遅々として進まない。地方からの寄付は集まってきてはいましたが、特に金メッキに使用したい金の調達のめどがつかないのも困りものでした。ところが、749年に陸奥国で黄金が初めて産出され献上され、何とかなりそうになってきたのですが、前年に元正太上天皇が亡くなり、聖武天皇はしだいに体力・気力を無くしていき自分と光明皇后の娘で初の女性皇太子であった未婚の阿倍内親王に譲位し、第46代の孝謙天皇が即位しました。

そして752年、ついに大仏の完成、開眼供養の法会が行われることになりました。これは欽明紀の552年に、百済より仏教が初めて伝来して200年目の記念すべき年であり、釈迦の誕生日である4月8日が当初予定されました・・・が、しかし、実はまだこの時点では、大仏殿は完成していませんし、像そのものもやっと形になった程度で、完成と呼ぶにはほど遠い状態だつたらしい。

東大寺の記録では4月9日に聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が列席し、印度の僧、菩提僊那が筆を持ち眼に墨を入れたとされています。しかし続日本紀には、この大事な会への皇族の出席にはまったく触れられていないし、大事な4月8日を延期したのも聖武太上天皇の様態がよくないためとも言われ、実際には孝謙天皇だけが出席していた可能性が高いようです。

この日、式が終わった孝謙天皇は宮ではなく、大納言藤原仲麻呂の邸宅に帰っしまい、以後そこを住まいとしたということです。まぁ、30代半ばの独身ですから・・・いろいろなことがあるんでしょうけど、このことがこの後の騒乱の伏線になってしまいます。756年、多くの加持祈祷の効も無く、聖武太上天皇は亡くなりました。