夏季臨時休診のお知らせ

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2018年1月3日水曜日

日本書紀 (9) 天皇と日本の誕生


歴史は勝者が作るものというのは、古今東西、真理といわれています。ですから、勝者は自らの正当性を強く前に出した史書を作成するものであり、敗者は悪となるか、無視されてしまう場合が多い。

古事記にしても、日本書紀にしても、取りまとめを指示したのは壬申の乱で勝利した天武天皇であることは間違いないとされています。これらの国史に記載された内容は、天皇家の正当性を明確にする目的があることは異論はありませんが、特に天武天皇の英雄性・偉人像を作り上げることを念頭に置いて編集されたことも否定できません。

古代史の真実を明らかにするためには、記紀だけに頼っていたら、完全に見誤ってしまいます。様々な古文書に伝わる伝承や中国・朝鮮半島の歴史との整合性を確認しないと、信用はされません。そういう作業を文献史学と呼ぶわけですが、さらに物理的な証拠を探究するのが考古学であって、両者の一致を見て初めて事実と認定されます。

とにもかくにも、日本書紀も大詰め。ついに、第40代天武天皇にたどり着きました。天武天皇は、父親は第34代舒明天皇で、その皇后、後の第35代皇極天皇(および第37代斉明天皇)が母親。兄は第38代天智天皇で、皇后は天智天皇の娘、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)です。

天武天皇は即位後、ただちに法整備に着手し、有力豪族との協調体制である「大王(おおきみ)制」から脱却し、律令国家の完成を目指します。このことが意味することは、「天皇制」の確立に他なりません。

便宜上、これまでも××天皇という呼称を用いてきましたが、これは漢風諡号(しごう)と呼ばれ、生前の功績を讃えて死後につけられるもの。そもそも「天皇」という用語が初めて確認されているのは6世紀後半。また、聖徳太子と蘇我蝦夷が編纂した記紀のもととなる史料の名前に「天皇記」という名称が使われています(現物はなし)。

天武天皇は「天皇」の呼称で呼ばれた最初の天皇とされていて、その後701年の大宝律令で初めて用語としての明文化がなされています。これらの漢風諡号は、8世紀半ばから見られるようですが、760年代になってそれまでの「天皇」に対して、淡海三船が一括して選定したものといわれています。

また国号としての「日本」を最初に使用したのも天武天皇の仕事とされています。最初の統一国家としての呼称は「倭(やまと)」ですが、国外から「倭(わ)」として確認されるのは3世紀に成立した後漢書の中が最初で、隋の時代まで続きます。唐が周に変わる頃の史書には初めて「日本」が登場します。

国内では、天武天皇のアイデアで法制化が着手されますが、亡くなった後に飛鳥浄御原令を経て、やはり大宝律令で確定したと考えられています。いずれにしても、中国に対する優位性を意識して「日が昇る方向の国」という意味が込められているわけです。

天武天皇は次から次へと、様々な詔を出して、実質的には能力のある者を重用しながらも、自らを神格化し皇子を要職に就けつつも専制政治を行います。政治改革を強行的に進める上で、身分の高い低いにかかわらず、多くの臣下を処罰し、またそのための法も作っています。

経済政策では貨幣制度の確立を行い、国家を担保する史書(記紀)の編纂を命じます。また伊勢の神宮との関係を深め、天照大御神を皇祖神と位置づける神祗大系を創り出しました。

天皇は自らもそうであったように、皇位継承に親族内の内紛が生じることを恐れ、皇后と伴に自分の息子である草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、天智天皇の遺児である河嶋皇子、芝基皇子を連れて吉野の地で「千年の後まで争わない」誓いを立てさせました。

草壁皇子が率先して「我々は同母、異母、年齢に関わりなく、助け合うことを誓い、裏切ったら身が滅び子孫が絶えるものです」と言い、他の皇子も同意しました。これを吉野の盟約と言います。

686年5月より天武天皇は体調を崩し、9月に亡くなりました。しかし、吉野の盟約は直後に破られることになるのでした。

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