2018年1月28日日曜日

日本古代史と文字


古事記にしろ、日本書紀にしても文字で書かれたものですが、編纂されたのは7~8世紀のこと。舞台となる紀元前から、ずっと文字が存在していたわけではありません。

斎部広成の「古語拾遺」の冒頭には、「上代には文字がなかった」と記されていて、少なくとも神話世界(神代)、または、もしかしたらヤマト王権が成立する頃までは、日本には文字は無かったと考えられています。

ただし、例えば亀の甲羅を使った占いなどでは、一定の模様などが特定の意味を持つものとされていたわけで、記号としての文字様のものは存在したはずです。しかし、文字として成立するためには、その記号と話言葉とのリンクがあり、誰もが読んで書ける必要があります。

世界に目を向けてみると、紀元前3000年より前のシュメールが最古とされています。エジプトでも、同じ頃にピラミッド内に文字が発見されています。その頃は、日本でも何らかの文字があったことは否定はできませんが、学術的には4世紀以後、大陸側からの漢字の伝来がスタートとされています。

日本の古代文字として、いくつもの神代文字と呼ばれているものが存在はしていますが、信憑性という点からは疑問があり、取り上げ始めたら古代史の迷宮はよりいっそう混迷の度合いを深めてしまいます。歴史素人の立場からは深入りせず、現状で定説、通説となっている範囲を逸脱することはできるだけ避けた方が無難と思います。

当時のヤマト言葉に、中国の漢字の読みの音と似たものを当てはめていったわけで、天皇家の「偉大な」歴史を民に周知させることを目的とした日本最古の文字資料である古事記では、基本的に話し言葉を漢字だけで記載したものとして成立しています。

一方、日本書紀は、対外的に日本の威厳を示すため、漢文でかかれています。どちらも書かれているのは漢字だけですが、古事記は当時の唐の人が読んでも理解できなかったことでしよう。日本最古の和歌集として有名な万葉集も、実はヤマト言葉による漢字だけで書かれています。

いくつもの漢字が、漢字本来の意味を無視して、あくまでも読んだ時の音だけをその時々に応じて採用するという原始日本独特の使用法は「万葉仮名」と呼ばれます。

逆に中国側では、日本で聞いた言葉に漢字の音を適当に当てはめることもされていて、「邪馬台国」や「卑弥呼」が代表的。もしかしたら魏の人は「ヤマト」、「ヒメコ」と耳で聞いたのかもしれませんし、当時の日本で文字が使われていたら「倭」、「姫」を使うことを教えたはずで、わざわざ卑下したような邪や卑の文字は使われなかったはずです。

その後、奈良時代になると、「多」を「タ」のように使用する漢字の一部だけを省略して使用することが始まります。ヤマト言葉を表すのに使用する漢字が統一されていく過程で、平安時代には仮名文字が出来上がっていきました。

紀貫之の土佐日記(935年)では平仮名が使用されています。12世紀の今昔物語あたりからは漢字と仮名が混在するスタイルが出来上がってきました。平仮名と、片仮名(主として外来語向け)を使い分けるのは第2次世界大戦後で、歴史上は最近のことです。

日本古代史を知るうえで、文字史料の存在は多くの確定的な事実を伝える可能性がありますが、逆に嘘もあることに注意が必要です。現実には、7世紀以前のものは極めて少なく、千葉県稲荷台古墳から見つかった「賜王」の文字がある鉄剣は、5世紀頃の倭国最古のものとされ貴重な史料とされています。

奈良時代以後は、急速に文字の使用は拡大します。木の平たい面に文字が書かれたものを、木簡(もっかん)と呼び、平城京跡から20世紀後半に大量に出土したことで、当時の実態の解明が飛躍的に進みました。

歴史の時代区分で、古代の次は中世です。この境界は、支配体制や社会経済体制を基にされているわけですが、日本では11世紀の荘園制度形成を区切りとしています。文字を中心に考えると、独自の文字を持たなかったのが古墳時代までで、実用的な文字の使用が始まるのが飛鳥時代、日本独自の文字が考案されだすのが奈良時代、完成し普及するのが平安時代前半ですから、そこまでが不確定要素が多い「古代」だという考え方もあっていいのかもしれません。