2018年1月29日月曜日

長屋王の平城京の暮らし


奈良時代、平城京の住人はどのような生活をしていたのかは、国史たる続日本紀では多くは語られていません。当時の人々の息遣いに実際に触れることができるのが、実は木簡(もっかん)です。

文字を書くために使用するものとしては、紙は高級品でしたから、とっときの場合にしか使わず、日常的な連絡とか、メモ、荷札、あるいは文字を書く練習などには木の札が用いられていたのです。木の札は一度用が済んでしまえば、表面を削ってリサイクルできたので、また新たに文字を書いて使用することができました。

古くなった使用済みの木簡は廃棄されるのですが、一定のゴミ捨て場所が決まっていたらしく、一度見つかるとつるべ式に発見されることが多く、貴重な歴史を紐解く一次資料として有用性が高いとされています。

もともと正倉院の宝物に荷札として数十点の木簡が使用されていたことは知られていましたが、本格的に注目されるようになったのは1960年代の平城京から出土した数十点からで、特に1989年に平城宮のすぐ南東から偶然発見された大量の木簡により、その場所が非業の死を遂げた長屋王の住居であったことが判明し、その数は3万5千点にも及びました。

現在までに発見された木簡の数は40万点近くもありますが、その多くは細かい断片であったり、削った薄い破片だったりで、もちろん書かれた文字の解読が不可能であったり、読めても一定の意味づけができないものです。しかし、それらの中にも、見る人が見れば宝の山のような情報が詰まっているものです。

もう一度、長屋王について整理してみましょう。長屋王は天武天皇の孫、高市皇子の息子です。妃は吉備内親王で、同じく天武天皇の草壁皇子と天智天皇の阿閇皇女の間に生まれました。つまり、阿閇皇女は後の元明天皇であり、兄は文武天皇、姉は元正天皇です。天武系の主流は皇太子だった草壁皇子の系譜ですが、皇位継承権利者としては十分すぎる血筋を引いていました。

朝廷内では異例の速さで大納言に昇進し、太政大臣・藤原不比等に次ぐ地位を得ます。政治家としては、実務的な才覚はあったようで、不比等も目をかけていました。720年に不比等が死去すると、藤原一族を抑えて朝廷のトップになり、実質的に長屋王政権が誕生します。

724年、藤原家との関係が深い聖武天皇が即位すると、長屋王は対立姿勢が明らかになり、729年に藤原一族の陰謀により天皇が許可した兵に私邸を囲まれ、妻子ともども自決しました(長屋王の変)。

そんなわけで、長屋王は、当時の貴族の中でも、抜きんでた貴族であったことは間違いありません。出土した木簡には、全国から天皇並みの扱いで贈答された品々の札が見つかったりしています。また、魚介、獣肉、果実、野菜などもふんだんに記載されていて、まさに「奈良時代のグルメ王」とでも言えそうな食生活が想像されます。

近隣地域からは、毎朝新鮮な野菜がふんだんに運び込まれていたようで、そのための菜園をいくつも用意していたらしい。また、いくつかの野菜は粕漬けか、または醤油漬けの漬物になっていたこともわかっています。氷の貯蔵庫があり、夏には氷を運ばせていますし、牛乳なんかも仕入れています。

また主の長屋王と、奥方の吉備内親王にはそれぞれ別の付き人がいて、日常をかいがいしくお世話をしていました。こどもの一人が飼っていた犬のために、餌を仕入れた木簡も見つかっています。また、鶴も少なくとも2羽はいたらしい。邸内には、多くの専門職人を抱え、たいていのことは邸内で解決していたようです。

当然、天皇も含めて、他にもたくさんの貴族と呼べる人たちがいたわけですから、彼らも長屋王と似たような生活をしていたことは容易に想像できます。一般庶民は一汁一菜が基本だったことを考えれば、相当贅沢な暮らしぶりが浮かび上がってくるのも木簡の存在があるからです。

でも、そんな暮らしをしていても、基本的にはサラリーマンですから、毎朝家を出て、真っすぐ北上して徒歩10分程度のお役所へ通勤していたんでしょう。家は近いから、昼ご飯時は家に戻っていたのかもしれませんが、きっと奥さんには、いろいろな仕事の愚痴を言っていたのに違いありません。