2018年2月2日金曜日

万葉集 (1) 記紀歌謡を受け継ぐ


桓武天皇の時代、783年頃に現存する日本最古の歌集である「万葉集」が完成しています。このことは、日本書紀、続日本紀のいずれも触れられていないため、正確な成立については不明な点が多い。

もともと、古事記、日本書紀には登場人物が、その時々に「・・・とお詠いなさった」という記述がたくさん出てきます。これは彼ら、彼女らの素朴な心情を歌に託して記載していたもので、一番最初に出て来るのは須佐之男命が作ったとするもの。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
  八重垣作る その八重垣を

というのが、日本初の短歌とされています。須佐之男命は八岐大蛇を退治し、櫛名田比売を妻としました。そして、出雲の国にすがすがしい場所を探し、須賀宮を作り、宮から立ち上った雲を見ての一句だそうです。

短歌形式が確立するのはずっと後のことですし、もちろん、本当の作者は後世の誰かでしょう。しかし、この他にも200首あまりの歌が詠われていて、歌の中には素直な心情を発露することがしばしばあり、直接に書けない裏事情を匂わせてあったりすることもあるので、なかなか侮れません。

これらは、通常は記紀歌謡と総称されていて、多くは長歌と言って、特定の形式に縛られていません。キリスト教の聖歌なども似たような発展を遂げているのですが、もともとは何かを伝承していく過程で、原始的な節をつけることで、印象を深め記憶に残しやすくなります。おそらく記紀歌謡は、実際に口に出して詠っていたのかもしれません。

文字文化が入ってくると、歌謡も文字として記録するようになり、ここから形式が整備されて、文学として和歌の形態が出来上がってきます。和歌は通常「わか」と読んでいますが、「やまとうた(倭歌)」と読めることは重要な意味がありそうです。ここにも中国の漢詩をライバル視して、張り合っている構図が浮かび上がってきます。

6世紀末の推古朝以後、国家の基盤としての律令体制が整い始めると、優雅な芸術文化もしだいに盛んになりました。和歌(厳密には現代の短歌とは区別されるらしい)は、五七五七七の形式が決まり、全部で三十一文字(みそひともじ)から作られるようになりました。

万葉集の最初の歌は、5世紀半ば頃の雄略天皇の長歌から始まります。古事記でも、雄略紀はやたらの歌謡が出てくるので、よほど好きだったのかもしれません。以後、多くの天皇、皇室、貴族らの歌が登場してくるのですが、第1期の開花期である「初期万葉」と呼ばれているのが、舒明天皇の時代から壬申の乱までの40数年間。

続いて天武朝から平城京遷都までの40年余りが、まさに和歌の確立する第2期の「白鳳万葉」。特にこの時期に注目されるのは、宮廷歌人の登場です。代表は、持統天皇をパトロンに持った柿本人麻呂。プロとして、より芸術度を高めることに成功しました。

そして、その後が第3期の円熟期である「平城万葉」で、遣唐使による中国からの風潮が入って来て、山上憶良、大伴旅人を代表とする自発的な心情を個性的に歌い上げる歌人が登場してきます。新しいものが入ってくると、古いものとの間で摩擦が生じたり、また逆にうまく混ざりあったりします。

そして聖武天皇から始まるバブルな時期、まさに華麗な天平文化が熟成する数十年間は「天平万葉」と呼びますが、一方で疫病の流行や政局の混乱が相次ぎ、大伴家持、大伴坂上郎女らによる鬱積して繊細な抒情的な世界が広がります。

もちろん、天皇周囲の人々の歌だけではありませんが、これらの収集・編纂の目的には、天皇を讃え、中央集権確立に役立てようという意図があることは明白です。登場する皇統歌人らは、実は古事記の続きの人々です。つまり、日本書紀には続編となる続日本紀があるのに対して、万葉集は古事記の続編たる性格を秘めているということは定説となっています。