2018年2月16日金曜日

古代終焉 (1) 長岡京遷都と棄都の謎


続日本紀は、桓武天皇の治世の途中で終了してしまいます。その続きは日本後紀、続日本後紀に記録されていくわけですが、ほぼ一般向けの書物はないに等しい。実質的には平安時代になるわけで、通常の歴史書か、平安時代の様々なテーマに沿ったものならたくさんありますが、ここまでの天皇を中心とした「国史」を手軽に勉強するのはなかなか難しい。

実際のところ、日本後紀は編集に携わった藤原緒継による「序」が存在するにも関わらず、第1~4巻が現存せず、あるのは第5巻から。そのため長岡から平安遷都にまつわる、多くのあったはずのごたごたが記録にありません。意図的な削除の可能性も否定できません。

それでも、ここまで来ると、さらにこの先はどうなったのか興味津々で、何とかあらすじだけでも追っかけてみたい気持ちがおさまりません。実際、古代から中世への切り替わりは、平安時代の荘園制度がポイント。続日本紀が終わっただけでは、まだ古代を制覇したとは言えないわけです。そこで、いくつかの資料を参考にしながら、もう少し歴史を追いかけてみたいと思います。

続日本紀の最後のエピソードとかぶりますが、長岡京についてのいくつかの問題点を整理するところから始めてみたいと思います。

桓武天皇は782年に「冗官整理の詔」し呼ばれる勅を宣じ、その内容は「官民疲弊しているので宮殿造営はやめ、倹約し蓄えを増やそう。今の暮らしに不足は無い」というものでした。

ところが、784年には長岡京造営を開始し、半年を待たず遷都を敢行したことは、先の詔で述べたことと相反する思うのが当然で、歴史学者からも謎の一つとされています。しかも、大急ぎでばたばたと未完の家に引越しする様は、まるで夜逃げのようだとも言われています。

しかし、詔の内容は、あくまでも平城京についてはこれ以上金をかけることはしないという宣言であって、逆に平城京は捨てる、遷都するぞという意気込みの表れというように解釈できるものです。

784年は六十年干支が一巡してスタートの年である甲子の年で、物事がうまく始まる最良のタイミングと考えられていました。この年を逃すことなく、天武系の色濃い平城京にかわる天智系の新しい都を作り出すことは、天智天皇の曾孫にあたる桓武天皇にとっては大きな意味を持っていたと考えられます。

地理的な要因として、淀川に隣接しているところが重視されたようです。瀬戸内海に直接出れることは平城京にはできないことで、この利便性は経済効率の良い都運営を可能にします。長岡京の突貫工事に際しては、難波京の建物が解体・移設されたそうです。

しかし、長岡京造営は簡単にはいきません。遷都翌年、まだ工事が続く中で、藤原種継が暗殺されました。種継は長岡京造営工事の最高責任者で、この事件により都完成の遅れは必至となります。そして、天皇の側近だった和気清麻呂の進言もあり、793年に天皇は再び遷都することを宣言し、1年後の794年に引越しをしてしまいます。

長岡京は、10年の歳月を費やしてもいまだ完成せず、日照りによる飢饉、疫病の大流行、さらには皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病などが続発し、種継暗殺に関与したととして処罰された早良親王の怨霊によるものと言われるようになります。おそらく、決定的だったのは利便性を考えた淀川近接が仇となり大雨にる川が氾濫が大きな被害をもたらしました。

長岡京は、発掘された遺跡から完成間近までたどり着いていたと想像されていますが、わずかに10年で放棄せざるをえない状況になったわけです。造営を任せていた種継を失ったことで失敗に終わったことを教訓した桓武天皇は、今度は自ら遊猟と称して頻回に視察に繰り出し、積極的にかかわることになります。

しかし、これらの激動の中で、反対勢力も登場し、造都に目が行き過ぎる天皇に多くの隙が生じたことも、様々な問題を噴出させていくことになるのでした。