2018年2月21日水曜日

古代終焉 (3) 平安京を棄てろ


時の天皇の息子は「箱入り」で育てられるのは当然ですし、ましてや774年に生まれから病弱ともなれば、桓武天皇の息子、安殿(あて)親王はかつての平城京で大切に育てられたことでしょう。長岡京に移り、安殿親王は785年に立太子します。

当時、天皇や皇太子の護衛についていた、今でいうSPみたいな役職が帯刀舎人です。793年に、桓武天皇の帯刀舎人が皇太子の帯刀舎人に殺された事件があり、天皇は激怒して犯人を捜索・処刑しています。事件は、安殿親王がやらせたという噂ありと、わざわざ日本後紀には書かれています。

桓武天皇も、女性に対してはけっこう出自を気にせず妃にしてしまう方だったようですが、皇太子も親を見て育ちますから似た様だったみたいです。新しい宮仕えの娘に伴ってやってきた母親の色香にやられてしまいました。その人物こそが、桓武天皇の右腕、長岡京造営責任者であった藤原種継の娘、薬子(くすこ)でした。

薬子は生年不詳で、当時何歳だったのかはわかりませんが、すでに既婚者で5人のこどもを生んでいたようですから、若くても20歳代後半だと思います。おそらく皇太子は二十歳前後。この関係には、さすがに桓武天皇はダメだしをして、薬子を皇太子の起居する東宮から追放しました。

805年、桓武天皇は体調を崩し、自分の余命を覚悟します。後事を託すため皇太子と政府重鎮を呼び出しました。しかし、安殿皇太子は当初これを拒否して参内せず、周囲から説得されてしぶしぶ出かけた様です。そして翌年桓武天皇崩御により、第51代の平城(へいぜい)天皇として即位しました。平安京になったのに、なんで平城に戻った諡号なのか不思議ですが、それには深い理由がありました。

とりあえず、新天皇は政治には意欲的に取り組む姿勢をみせたのですが、自由になって薬子を宮に呼び戻し、薬子の夫を九州へ左遷したことで話は歪んだ方向へ進み始めます。この頃、続日本紀には種継暗殺の記述は削除されていたのですが、薬子の意向もあって平城天皇はこれを復活させました。

種継暗殺および早良親王廃太子のエピソードは、祟りとなって様々な凶事の根源にあると考えられたため、桓武天皇は早良親王に祟道天皇という敬称を与え、追善法要を行い、そして続日本紀の記述を削除していたのです。薬子からすれば、父親の業績が抹殺された思いだったのでしょうし、平城天皇からしても自分の皇位継承の妥当性を明らかにするための記述の復活だと考えられています。

薬子にすれば、天皇の皇太子時代に引き離され、父の業績の記録は消され、そして何よりも父が命を懸けた長岡京が棄てられたことにより、桓武天皇に対しての恨みは相当な大きさになっていたのだろうと想像できます。

808年、天皇の弟の一人であった伊予親王が、藤原北家の藤原宗成に謀反を勧められます。このことは密告により露見し、首謀者とされた伊予親王は母共々幽閉され抹殺されました。これは藤原式家の薬子、その兄である仲成の陰謀だったようです。翌年、病弱な平城天皇はわずか34歳、在位3年ちょっとで薬子の反対を押し切って弟の神野皇子に譲位し、平城上皇となって平城京に移り引退したかのように見えました。

即位した第52代嵯峨天皇は、当初平城上皇にだいぶ気を遣っていたようで、平城上皇の高岳親王を皇太子に立てています。しかし、平城上皇の政策の見直しから対立が始まり、810年に、ついに平城上皇は「貴族たちは、平安京を棄てて、皆平城京に戻れ」と平城京還都の詔を出しました。

嵯峨天皇は、還都に従う態で自分の腹心である坂上田村麻呂らを平城京に派遣し、まず藤原仲成を捕らえ追放・処刑、薬子の官位を剥奪します。これに対し、平成上皇はついに挙兵し力づくでの皇位重祚を画策しますが、素早い嵯峨天皇の対応に万事休す。上皇は剃髪して出家、薬子は服毒し自害、高岳親王は廃太子されました。

この一連の流れは、「薬子の乱」と呼ばれます。嵯峨天皇は、続日本紀から再び種継暗殺の経過を削除しました。平城上皇は、その後についてはほとんどわかりませんが、824年にひっそりと亡くなりました。

鴨長明は「方丈記」の中で、「大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにける」と書いています。つまり、平安京が都として定まったのはこれらの事件の後からという認識でしょう。悠久の古都は、やっとスタートについたということです。