夏季臨時休診のお知らせ

夏季臨時休診のお知らせ
クリニックは次の期間を臨時休診いたします。来院される方はご注意ください。
① 7月25日(水) ~ 7月28日(土)
② 8月13日(月) ~ 8月15日(水)

2018年3月31日土曜日

桜並木


近場で見事な桜並木といえば、あざみ野から大場町へ抜ける道沿い。

今年も道の両側に、見事な桜のトンネルができました。

すでに花弁は散り始めていますから、見物するなら急ぎましょう。

沿道の方は、毎年簡単に見れて羨ましい・・・と言いたいところですが、虫もたくさんつくでしょうし、落ち葉の掃除なども大変だと思います。

でも、毎年、この時期の1週間のためだと思って辛抱していただきたい・・・というのがよそ者の希望です。

2018年3月30日金曜日

Miles Davis / The Final Tour (with Coltrane)

Miles Davisの新譜が出ました。

とは言っても、Milesは1991年に亡くなっているわけで、当然新たな録音のわけがない。Milesのこなしたたくさんのコンサートの記録は、死後に登場した膨大な海賊版により出尽くした感があります。

このところ登場する新譜は、Bootlegシリーズと呼ばれるもので、今回はその第6弾。海賊版ですでに登場している音源ばかりですが、音質はまぁまぁで、何よりも公式に発表されることに意味があります。

海賊版は、出ては消えでマニアでも手に入れにくいものが多い。公式化したことで、音源が今後もずっと一定の作品として保たれることになります。

もっとも、Milesが発表することを念頭に録音したものではありませんから、必ずしも作品の内容として最良とはいえないかもしれません。しかし、Milesの歴史を語る上では、もともと正式に発表された作品の間隙を埋めて行くことができまする

今回のBootlegシリーズで登場したのは、1960年ヨーロッパ・ツアーの模様。これは、John Coltraneとの最後のツアーということで、今までにも海賊版はたくさん登場していて、しかも比較的手に入れやすいのですでに所持している人は多いもの。

マニアからすれば今更というアイテムですし、出てくる曲もお馴染みの物ばかりだとは思いますが、あらためてColtraneの豪放なテナーがさく裂し、今となっては伝統的なジャズに近い音で十分に楽しめる。

この時期のツアーでは、テナーがSonny Stittに代わってからのものもありますが、Coltraneとの差が圧倒的(に低い)です。やはり、Coltraneの凄さが再認識できるわけで、もはやMilesの手下の位置には甘んじることができないことがはっきりします。

Bootlegシリーズは、ここまであっと驚くものはありませんが、今後も歴史的意義のある音源を公式化することは是非つづけてもらいたいものだと思います。

2018年3月29日木曜日

安心バックアップ


パソコンは消耗品です。

長年使っていると、嫌というほど思い知らされます。ほとんどの場合、記憶装置のハードディスクの物理的損傷が原因で起動しなくなる。でも、心臓部のCPUが吹っ飛んだという経験もあります。

データはあくまでも電気信号であって、いろいろなトラブルであっと言う間に消えてしまいますし、もしもウィルス感染が起これば、全てを消去してシステムから入れ直しということもあります。

とにかく何かの時の復旧対策は必須です。

Windows10になって、OSシステムの総入れ替えはかなり簡単。あとは、自分が使用する環境に戻すためソフトウェアを整理しておくことが大事。

今どきは、インターネット・ブラウザには設定などのクラウド・バックアップ機能がありますから、新たにインストールしてログインして同期すれば、すぐに使用環境は復元できます。

メールは、ある程度手動のバックアップが必要。変わったメーラーでなければ、だいたいフリーのバックアップ・ソフトがネット上に見つかるので、毎日とは言わないまでも週に一度くらいはバックアップを作っておくほうがよいです。

それが面倒なら、Gmail、Outlookのようなフリー・アカウントだけ使えば、ログインし直すだけでいいのですが、仕事に使うにはフリーだけだとちょっと寂しい。

Windows10のユーザー・データは、デフォルトでシステム内各フォルダーに保存されます。OSの入っているHDDと同じドライブなので、システム・ダウンした時は、一緒に消えてしまう可能性があります。

まず、普段使いとしてお勧めなのが、ユーザーファイルのフォルダーの移動。内臓でも、外付けでもいいので、物理的に別のドライブを用意して、そちらにフォルダーを移すこと。各フォルダーの右クリック→プロパティから「場所」を指定できます。

OneDrive、Dropboxのようなクラウドを利用している場合も、保存する場所はOSとは別のHDDを指定できるので、必ず変更しておく方が良い。

その上で、データ専用のHDDの中身を、丸ごと別のHDDにコピーしておけば、何かの時はそっくり差し替えるだけで元通りにできます。そういう意味では、外付けHDDを利用する方が楽。

イントラネット内で複数のパソコンからデータを利用している場合は、使っているパソコンとは別の独立したシステムにデータをバックアップしておくことが重要。会社とかでは、一定のタイミングで別のPCにデータをバックアップします。

一番推奨されるのは、NASです。ネットワーク上に、データの出し入れだけの操作を目的としてCPUとHDDをを搭載したもの。特に、複数のHDDを搭載させて、ハード的にリアルタイムにデータを同期させるRAIDシステムが構築できれば最強です。

パソコン黎明期は、ほとんど文字データだけで、大事なデータと言っても数MB程度ですんでいましたが、画像を使うようになり、音声を使うようになり、そして動画を使うようになって、どんどん肥大化してきました。

今では、一個人でも数TBの領域が保存用に必要になっています。SSDがだいぶ普及してきましたが、今のところ実用的には1TBが最大で、しかもかなり高価。残念ながら、いつか急に壊れることを前提にHDDを使うしかありません。

今回用意したのがSynologyのDiskStationというもの。数TBのHDDは数万円で手に入りますから、最低2台のHDDによるRAIDシステムをNASに組んで5万円程度。

自分でHDDを設置する手間はありますが、大変簡単な作業ですから、最初から出来上がっているものを購入するよりはるかに割安です。

しかも、いろいろな利用方法が簡単に設定できる。一番嬉しいのは、Dropboxのような自分専用のクラウドを用意できること。当然、容量は用意したHDD内で自由なので、フリーのクラウドの容量制限を気にする必要がありません。Androidやios様のクライアントも用意されています。

さしあたって、このくらいまで環境を作っておけば、今使っているパソコンがダウンしても、最短での復旧・復帰が可能だと思います。せっかく撮りためた思い出の詰まった写真が消えないためにも、現状で最強のバックアップ・システムだろうと思います。

2018年3月28日水曜日

証人喚問


昨日のニュースの話題の中心は、国会の証人喚問でしょうかね。

証人として登場して何を話すかというのは、いつも大きな話題になるわけで、問題が何であっても大変注目されます。

証人は偽証罪を伴う証言をするわけですから、①開き直って爆弾発言、②知らぬ存ぜぬ発言、③ちょっとだけ小出し、というようなパターンがあります。

最も有名なのは、「ロッキード事件」での、ほぼすべての答えが「記憶にございません」で押し通されたもの。

国会の証人喚問が、謎の焦点を暴き出したという事例こそ「記憶にございません」という感じですが、今回もほぼゼロ回答でした。

予想通りと言えばそれまでですが、今回は総理大臣にも関わることでしたから、よほどの覚悟が無ければ真実が話されることはないですよね。

結局、証人喚問自体にどれだけの意味があるのか・・・国会が、できることはすべてやりましたという自己満足、国民に対してのエクスキューズを正当化する手段の一つにしかすぎない・・・というと言い過ぎでしょうか。

国民は時間が経つと忘れる、というとても政治家にとってやさしい存在ですから、もやもやしながら数年たてばOKと思われているんでしょうね。



2018年3月27日火曜日

自宅居酒屋 #2 焼き厚揚げ


自宅居酒屋シリーズ 第2弾

これなんかも居酒屋メニューにはたいていある。

厚揚げをフライパンでじっくり焼いただけ。長葱と鰹節を添えて、生姜醤油で食べるという、とてもシンプルなものです。

つまり、夏なら冷奴なんですけど、豆腐を冷たく食べるのはちょっと、という時にベリーグーな一品。

厚揚げに焦げ目がついて、香ばしさアップ。この写真だと、ちょっと焼きすぎたかも。しかも、ピンボケだし・・・

2018年3月26日月曜日

目黒のさくら


目黒と言えばさんま!! なのは落語の話。

今は目黒と言えば桜。目黒川沿いの両側の桜並木が見事だというので、この時期テレビなどでも何度も紹介されます。

横浜北部の桜はまだもう少しというところですが、目黒川はほぼ満開のようでした。好天に恵まれた昨日の日曜日は、大勢の人出で賑わっていました。

通りすがりで、ちゃんと写真を撮れなかったのですが、桜(?)渋滞のおかけで、ちょっとだけ雰囲気を味わったかもというところ。

いやぁ、さくらは目黒に限る!! などと言うと、さんまを気に入ったお殿様のように失笑を買うかもしれませんけど、確かにまとまって植えてあると、ビルの谷間でも桜の名所になりうるということですね。

2018年3月25日日曜日

夜桜


クリニックの裏にホームセンターがあり、そのすぐ裏は鶴見川に合流する早渕川が流れています。

早渕川は、何と、自分が住んでいるあたりが始まりらしい。でも、どこかで湧水があるなんて話は聞いたことないしなぁ・・・・

それとはともかく、多摩川みたいな大きな川ほどではありませんが、都筑区内では河川敷があったりします。

あまり多くはありませんが、そういう河川敷が桜のプチ名所だったりするわけで、近くの建物の灯りでライトアップされている風になります。

通行人にけっこう見えてしまうのが平気なら、近場ですませる花見としてはお勧めかもしれません。


2018年3月24日土曜日

Led Zeppelin / The House of Holly (1973)


ロック界の三大ギタリストと言えば、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ・・・というのは、もうずいぶんと昔の話。

60年代にヤードバーズ出身の三人が、数々のギタリストの手本となって、いろいろなロックギター奏法の元祖たる地位を築いてから、すでに半世紀がたとうとしています。

自分が今でも、まじめに追いかけているのはクラプトンだけ。ベックは80年代以降は、神様状態ですが、正直、聴いて面白みが少なくなりました。ペイジは、レッド・ツェッペリン解散で終了です。

ファンの方には怒られるかもしれませんが、クラプトンだけが、時の流れに対応して順調に年老いた感があります。

もしも・・・仮定の話をしても無い物ねだりですが、ジミー・ヘンドリックスが生きていたら、ロック・ギターの世界は今はどうなっていたんでしょうかね。

なんてことを、考えながら久しぶりに聞いているのがレット・ツェッペリン。

70年代前半のハード・ロックで、最大の功労者とこれしかない。間違いなく、クラプトンより、ベックより、ペイジのギブソン・レスポールにロック少年の誰もが憧れました。

ショルダー・ベルトを長めにして、比較的肘を伸ばした演奏姿勢は、けっこう大変です。時にはバイオリンの弓を持ち出したり、SGダブルネックを使ったり、はたまたマンドリンまで持ち出しての多彩な音が楽しかった。

デヴュー作の衝撃、人気を不動のものにした二作目、ロックの金字塔の四作目などと言われることが多いのですが、自分が一番好きなのは五作目の「聖なる館」なんですよね。

何でかというと、順番に数字だけで呼んでいたアルバム・タイトルから離れて、初めて題名らしい題名がついてコンセプトがはっきりしたということで、全体の流れと統一感が素晴らしい。

でも、当時は曲調がバラバラで、ツェッペリンらしいハードさに欠けると批評家からはいじめられたんですよね。リアルタイムで聴いた自分としては、そのバラバラ感が不自然な印象ではなく、イマジネーションがより広がったという感じだったのかなと思います。つまり、それまでのアルバムは、どの曲もみんな一緒ということ。

一曲目の「永遠の詩」から一気に引き込まれます。「ノー・クォーター」はアルバムの白眉。45年たっても、色褪せないサウンドにあらためて脱帽です。

2018年3月23日金曜日

自宅居酒屋 #1 鶏わさ


自宅居酒屋シリーズ 第1弾

日本食肉消費総合センターによると、「鶏わさ」の定義は、「鶏ささみの刺し身、およびささみのわさびあえのこと。新鮮なささみを熱湯にさっと通して氷水で冷やし、そぎ切りにする。周囲は火が通って白いが、中は生でピンク色。これをわさびじょうゆで食べる」ということになっています。

居酒屋定番メニューの一つですが、お手軽なので家でも簡単に作れるところが嬉しい。

ただし、昨今は、生肉による食中毒の問題が取り沙汰されることが多いので、調理の際は注意が必要ではありますが・・・でも、食べたくなりますよね。

鶏わさはささみ肉を使いますが、それほど高価なものではありませんので、鶏わさとして食べるときは、多少高めのものでも、信頼できる店でできるだけ新鮮なものを選びたい。

まずは、しっかり洗うこと。表面に付着しているかもしれない菌を取り除くということ。お湯にくぐらせるときは、しっかり沸騰しているところで入れたいものです。

今回は、炙りで作ってみました。洗った後水をふき取り、並べてバーナーで全体をまんべんなく焼きを入れていきます。表面にほどよく焦げが出るくらい炙ると、ちょうどいい感じです。

切るとき筋肉線維がばらけやすいのですが、炙った方が表面が締まって切りやすい感じがします。

味は一緒ですけど、焦げの香ばしさを加わって美味しくいただけます。

2018年3月22日木曜日

雪の墓参り


ほーら、春が来たと油断してたら大変。

昨日の春分の日・・・お彼岸の中日ですから、恒例となってます我が家の墓参りに行きましたが、なんと朝から霙混じりの雨で、9時にはちらほら雪になってきた。

寒いのなんのって、びっくらこいたというのはこのこと。もしかしたら、雪が降るかもという予報は出ていましたが、まさか本当になるとはね。

けっこう降って、午後にはうっすら積もりましたが、夕方からは雨に。

せっかく咲きかけの桜も、びっくりしていることでしょう。

2018年3月21日水曜日

春分


昼と夜が同じ長さになります。春分から、昼の時間が増えていきます。

ただし、天文学的には、「太陽が春分点を通過し太陽黄経が0度となる」瞬間と定義されますので、正確には2018年3月21日午前1時15分の一瞬の事。

今日の日の出は5時44分、日の入りは17時53分。ですので、実際には今日の夜が明けた時点では、昼の方が長い状態です。

ちなみに、太陽横径90度となる「夏至」は、昼間の時間が最大で、今年は6月21日午後7時7分。おおよそ日の出が4時半、日の入りは19時で、昼の時間は14時間半あります。

つまり、これから毎日50秒くいらずつ日の出が早くなり、日の入りが遅くなる。夏至に向かって、昼間の時間は毎日だいたい100秒ずつ長くなっていくことになります。

・・・なんて、細かいことを考えてもしょうがない。とにかくも暦の上では、本格的に春だということ。

今年は、例年より桜の開花は1週間程度早く、先週から急に温かくなってきたのが関係しているのでしょう。でも、この時期は三寒四温で、まだまだ油断はできません。

年度末で忙しかったりもして、体調管理には注意が必要な時期ですね。




2018年3月20日火曜日

開花宣言


盆栽の吉野桜です。

先週末に一輪開花しましたが、週が明けて複数の花が開花しました。

巷より、一足早く開花宣言をします。

小さな鉢の中の話ですから、満開になっても数えられるくらいのものですけど、何故か去年は蕾をつけなかったので、何かすっごく嬉しい感じ。

「桜咲く」の朗報が、あちこちで待っている人に届くといいですね。

2018年3月19日月曜日

平安文化 (5) 紫式部


紫式部は、言うまでもなく「源氏物語」の作者ということで、平安時代の中でも一二を争う有名文化人です。そして、しばしば内裏の中で、清少納言とライバル関係にあり、まるで火花をちらしていたかのように、まことしやかに話されます。

しかし、それは明らかに間違い。二人が同時に宮仕えをしていた時期はありません。内裏の中で、ばったり出くわして視線がバチバチとなったなんてことはありません。

紫式部は清少納言より7歳若く、973年の生まれと言われています。下級貴族の藤原為時の娘で、母親が早くに亡くなり、継母に育てられたようです。慎ましく、静かに暮らすのを身上とする家だったようで、これが紫式部の内省的な性格に強く影響したと言われています。

はっきりとした記録はありませんが、20歳頃に一度結婚しているかもしれません。また、その頃に最初の宮仕えをしている可能性が指摘されています。紫式部はもともと藤式部という女房名で呼ばれていたのですが、藤原の藤に、父親の官位の式部大丞を合わせたものといわれています。彰子に出仕したときには、父親は越前守だったので、その場合は藤越前のような呼び名が普通です。

999年、紫式部は27歳で47歳の藤原宣孝と結婚。二人の間には女子が誕生しますが、1001年に宣孝が死去し、夫を失った紫式部は幼い子を抱えて、深い悲しみに沈んでしまいました。そして1005年12月に出仕するまでの間に、ついに「源氏物語」の執筆が開始されたと言われています。

紫式部は、華やかで優雅な世界を空想して文章にすることが、数少ない慰めになったということを書き残しています。1003年5月頃から、彰子サロンの充実を考える藤原道長に出仕を要請され始めているので、その時点ではすでに「源氏物語」の評判が広まっていたと思われます。

1005年12月、ついに紫式部は中宮彰子の女房として出仕しました。清少納言は、少なくとも1001年には内裏を辞して摂津に移り、再び京に戻り亡き定子の陵の近くに居を構え「枕草子」の執筆を続けていましたが、少なくとも二人が直接対決する機会は無かっただろうと考えられています。

出仕した紫式部を待っていたのは、先輩女房たちの冷たい視線でした。新進作家として有名になってきた新人に対して、強い警戒心を持って迎えられたのです。定子の新人・清少納言に対する心配りのようなものは、まだ幼かった彰子に求めるのはさすがに無理というもの。紫式部は、自宅に籠りがちで、内裏に出た時もできるだけ「物を知らず仕事ができない」振りをするように努めたのです。


能ある鷹は爪隠す作戦が功を奏して、少しずつサロンに溶け込んでいった「藤式部」は、「源氏物語」の色彩テーマの紫にちなんで、「紫式部」と呼ばれるようになりました。しだいに彰子にも気に入られ、請われてこっそりと漢詩を教えたりすることもありました。彰子らの強力な読者を得ることで、「源氏物語」はどんどん書き続けられていきます。

1008年、彰子は入内して10年目にして初めて待望の懐妊し、1008年7月に敦成親王を出産。紫式部は、もう一つ残された作品である「紫式部日記」の記述は、この彰子の出産のため実家に戻るところから始まります。喜びの出産に続く、いろいろな行事について詳細に記載し、1年半くらいの期間の「日記」として比較的淡々と日常を記録していくのですが、途中から次第に自らの回想が入りだし、周囲の人々に対する論評が加わり、紫式部の人物像が浮き出てくるところが貴重です。

特に、清少納言との直接的な交流が無いのにも関わらず、いつも物事に対して抑制的に対応する紫式部が、かなり辛辣な清少納言批判を書き記したことが有名で、そのことによって、二人をライバル視するとっかかりになっているわけです。

「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」(清少納言は、自分の自慢ばかりする人。利口ぶって、漢字の知識をひけらかしているが、よく見ると、中途半端である)

これは、かなり紫式部らしくない激烈な表現です。すでに宮中を去っている者に対して、このような批判をすることは強い違和感を感じます。京に戻り、心から敬愛する亡き定子の名誉を回復するために、「枕草子」を再開していた清少納言への対抗心があったことは否定できません。

しかし、道長からの働きかけもかなりあったのではないかと想像します。敦成親王が誕生し、彰子が名実ともに中宮として尊敬されることが、紫式部の女房としての役割ですから、定子の幻影をいつまでも追いかけるような清少納言の筆は邪魔でしかなかったのかもしれません。

紫式部は、彰子が皇太后となっても、引き続き仕え、1013年頃に「源氏物語」は全編が完成したと考えられています。10014年、42歳で亡くなったとされる説が有力ですが、晩年の活動記録はほとんど無いため、諸説があり本当のところはよくわかりません。

いずれにしても、多くの漢文・和歌の知識をフル活用して日本最古の長編小説「源氏物語」を完成させた偉業は色褪せることなく、日記から始まる日本文学史上の金字塔して、現在まで多くの人を魅了し続けているわけです。

2018年3月18日日曜日

ガラス栓のワイン


ワインのボトルの栓と言えば、定番はコルク。

本来は天然もののコルク樹皮から、そっくりくり抜いたものがベスト・・・ナノは、わかっていますが、天然コルクが入手困難になってきているそうで、圧縮して形成したものもよく見かけます。

安いワインだとスクリュー式のものが多く、開栓は簡単。ただし、やはり味気ない。

プラスチックのような素材でできた栓が使われていることがありますが、これはワイン・オープナーには硬くて開けにくい。

最近知ったのですが、ガラスの栓も使われるようになってきたそうです。長期保存には向かないようですが、薄いシリコン(?)みたいなラバーがあって、しっかりはまり漏れたりはしません。

これだと見た目も美しいし、何しろ再生利用が可能です。とっておけば、飲み残したときに使えて便利。スクリュー式のような安っぽさもありません。

瓶ごととっておいて、利用することもできそうです。

2018年3月17日土曜日

平安文化 (4) 清少納言


春は曙。やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。

秋は夕暮。夕日のさして山端いと近くなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音など。

冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も、白き灰がちになりぬるは わろし。
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さて、「枕草子」です。この超有名な出だしの四季についての文章は、大学入試必修古文ですし、理系でも聞いたことは無いという人は少ないでしょう。

作者は清少納言であり、現存する日本最古の随筆・・・つまりエッセイと言われていて、今で言えばブログ記事のようなものでしょうか。

もちろん、清少納言は本名ではなく、女房(内裏に出仕した女性)たちは自分や家族の地位に関連した通称で呼ばれるのが慣例でした。父親は、著名な歌人であった清原元輔で、清少納言の「清」は清原来ていると思われますが、少納言の由来については明解ではありません。

966年頃の生まれと推定されていて、父の影響を受けて幼少から和歌・漢詩などの素養を身につけたと考えられています。981年に橘則光と結婚し、翌年出産するも、武骨な夫との「性格の不一致」により数年で離婚しました。993年、経緯は不明ですが、28歳の時に一条天皇の中宮であった定子の女房として出仕します。

977年生まれの定子は、990年に入内し、すでに中宮として自らのサロンを活発に活動させていました。10歳ほど年上のこの新人に対しても、風流を大事にして、一から十を知るような鋭い感性と、即座に反応して行動できる力を求め教育します。初めは、まごついた清少納言でしたが、もとより十分すぎる素養を持っていた清少納言は、ほどなく定子から厚い信頼を受け、また清少納言も若い上司を敬愛するようになります。

994年夏頃に、内大臣となった定子の兄、藤原伊周が天皇と定子に高価だった紙を献上しました。天皇は「史記」の書写をするようだが、私は何に使うのがよいかと、定子は清少納言に問いかけました。分厚い紙の束を見た清少納言は、「枕にするのがちょうどよい」と返答したところ、定子はそのまま清少納言に紙を譲りました。

995年、定子の父、藤原道隆が病死したのを皮切りに、996年は1月に伊周の花山法皇に対する事件が発生、5月に逮捕され定子は発作的な出家。6月には、実家の焼失と、定子の周囲は急速に力を失ってしまいました。秋には、同僚たちから、清少納言は藤原道長と通じていると噂され、自宅に引き籠るようになります。

しかし、定子は右中将だった源経房を度々使わして、清少納言への信頼が損なわれていないことを伝え、再び紙を送りました。清少納言は、自分に対する中傷から、定子の一番辛かった時を支えずに逃げ出したことを後悔していたのでしょう。定子を励ますために、最も輝いていた頃の楽しかった思い出を書き始めたのが「枕草子」の執筆動機とされています。

ここで、清少納言は最初に紙を頂いた時の事を思い出したに違いありません。天皇が史記を書写したことに対して、こちらは「四季」を書くことから始めようという気持ちが、冒頭の名文です。

996年の年末に、源経房が最初の「枕草子」の原稿を定子に届け、これが書写され広まることになります。997年春、清少納言は定子のもとに戻り、1000年12月に定子が出産直後に亡くなるまで仕え、この間も「枕草子」は書き続けられました。

定子の死から1年後、藤原棟世と再婚していた清少納言は、夫の赴任先である摂津にいました。そこに天皇から使いがきて歌を送られます。天皇は定子を失ったことによる悲しみが続いていることを伝え、清少納言にも気遣いを見せており、清少納言も都と一緒でこの地も住みにくいのは同じと返しています。

1004年頃(?)、夫の任期満了により都に戻った清少納言は、再び筆を執ります。都でまだまだ続いていた「定子ロス」に対して、定子との華やかで楽しかった思い出を「枕草子」に書き足していくことで、この悲劇の中宮を徹底的に美化し鎮魂することが目的だったと思われます。

以後の清少納言の事はほとんど記録がありませんが、彰子サロンのメンバー、和泉式部や赤染衛門らとの交流はあったようです。没年は不明です。少なくとも、現代にいたるまで、「枕草子」が読み継がれたことでも、清少納言が意図した「定子の美化・鎮魂」は十分すぎるほどの成果を上げたと言うことができるのかもしれません。

2018年3月16日金曜日

蕾膨らむ


春と言えば桜・・・っていうのが、凡人の思うところ。

毎年、満開の桜、それも視界を埋め尽くすくらいのものを一度は見たいもの。

今週になって、天気予報で桜の開花予想を伝え始めましたが、首都圏では例年よりも早く今週末に開花、来週が見頃みたいです。

まだまだだろうとたかをくくっていたら、意外と早くてびっくりです。

何でかというと、実は桜盆栽が二鉢あるんですが、その一つ、早めに開花する山桜が一向に咲く気配がないんですよね。

そしたら、花芽なのか葉芽なのかよくわからない膨らみがあった吉野桜の鉢の方で、今週になって急に芽がピンク色を帯びてきました。

去年は、吉野はまったく咲かなかったので、けっこうがっかりでしたが、今年は逆のようです。

盆栽の春はもうそこです。


2018年3月15日木曜日

平安文化 (3) 一条天皇と彰子


一条天皇は、その時代としては珍しい・・・というと申し訳ないのですが、先の中宮、定子に対しての一途な愛情を持っていたことは確かで、その死による喪失感はかなりあったようです。それは、実は周囲の貴族たちも同様で、万人に対して定子の接する態度が見えてくるようです。

定子の妹(名や生没年は不詳)が、御匣殿別当(天皇の衣服を用意する部署の長)として出仕していたのですが、職務から御匣殿(みくしげどの)と呼ばれ、定子の生前よりこどもたちの世話を手伝っていました。定子死後半年くらいして、一条天皇は御匣殿に定子の面影を見つけ、恋愛関係に発展し御匣殿は妊娠するも出産を待たず亡くなりました。一条天皇は再び「定子」を失います。

定子、御匣殿が亡くなり、一人中宮となった彰子は、天皇の願いもあって第1皇子の敦康親王の養育を任され、藤原道長もそのことを容認します。理由は、定子に対する同情から来る反感を弱める効果があり、また彰子に親王ができない場合の保険として、親王の養母、養祖父という立場を作っておくことにありました。

道長が定子の影を意識せずにはいられなかった原因の一つに、当時すでに流布されていた、徹底的に定子を賛美する清少納言の「枕草子」の影響は否定できません。彰子にもサロンの強化の必要性を認識していた道長は、ちょうど宮内でも話題になり始めた「源氏物語」の作者、紫式部に目を付けます。

1005年、道長の要請で出仕した紫式部は、当初は人気が出始めた才女という色眼鏡で見られ苦労します。紫式部は自己防衛的に、才能を顕示するのではなく抑制的に働かせるコツを身に付けますが、そこが次第に彰子との関係を築くことになります。

定子は当意即妙の知的な雰囲気を作り出し、物事に積極的に関わり、周囲の人々を自然に引き込む力を持っていました。一方、彰子はそういう定子のライバルとして入内したものの、まだ幼く抑制的な考え方をするようになり、サロンは地味で消極的でした。一条天皇も、たった一人の妃として彰子を大切にするようになり、後宮の女房間のライバルとしての切磋琢磨の必要性が減ってしまったことも関係がありそうです。

1008年、彰子は入内して10年目にして初めて妊娠し、天皇と道長を安堵させました。その一方で、定子の産んだ次女、媄子が病没。定子の子を溺愛していた天皇は、悲嘆にくれました。精神的には、まだ彰子は定子に負けていたのですが、彰子には控えめですが、定子を乗り越える努力を続ける人でした。

第2皇子となる敦成親王を出産した後、翌年には敦良親王も誕生します。次第に一条天皇の心も彰子に向くようになったかに思われましたが、運命はなかなかうまく事を運びません。1011年、一条天皇は発病し、敦康親王への譲位の気持ちを漏らします。彰子も、自ら養育してきたので賛同しますが、道長はそれを許しません。

一条天皇は32歳の若さで亡くなり、冷泉天皇の第2皇子、居貞親王が第67代三条天皇に即位しました。その後は、敦成親王が第68代後一条天皇となり、さらに敦良親王が第69代後朱雀天皇と継いでいきます。彰子は、一条天皇の思いの実現は忘れずにいて、後朱雀天皇の中宮に敦康親王の娘を入内させました。

定子と彰子という、二人の妃は対照的で、普通なら皇統をめぐる敵対関係にあるはずですが、一条天皇を巡って成長していく彰子の人間性が、それらを上回ったのかもしれません。そういう宮中の気配が、文化的な熟成に大きく関与したわけで、この二人の妃のことを知らずしては平安文学は理解できないようです。

2018年3月14日水曜日

平安文化 (2) 一条天皇と定子


平安文学が盛んになったのは、一条天皇の宮廷内でのことです。当時の、状況から整理します。

第64代円融天皇が10歳で即位したのは969年。14歳で元服し、藤原兼道が関白に就き、兼道の娘である媓子が入内(内裏に入り妃の一人になる)し、973年に中宮(皇后)となります。兼道の弟の藤原兼家は、兄よりも当時勢いがありましたが、円融天皇から兄弟の順を守るよう要請されました。977年、兼道が病没し、その遺志により関白は藤原頼忠が就き、娘の遵子も入内します。

それでも、兼家は娘の詮子を入内させることに成功します。後ろ盾を失っていた媓子は遵子、詮子らに圧倒され病死します。すでに詮子が第1皇子の懐仁親王を産んでいましたが、遵子が中宮になりました。しかし、結局遵子は天皇の皇子を産むことなく後年出家します。

兼家から圧力もあり、円融天皇は26歳で退位し、984年、第65代花山天皇が即位。懐仁親王が皇太子になります。2年後に兼家は、次男道兼を使って花山天皇を騙して出家させます。懐仁親王が7歳で第66代一条天皇に即位し、ついに兼家は天皇の外祖父として摂政となり、長男の道隆、三男の道長を前例のない形で大臣に登用します。

990年、一条天皇の元服により、道隆の娘、定子が14歳で入内し中宮となりました。兼家は関白になりましたがすぐに病没し、道隆が引き続き関白を継ぎました。定子は、幼少より女子が敬遠する漢文詩を嗜み、物事に対して積極的に興味を持つ女性でした。定子の局では、彼女を中心に和歌や漢文詩を楽しむサロンが活発に活動するようになります。

そして993年、そのサロンの一員に加わったのが清少納言でした。清少納言は本名はわかっていません。966年生まれと言われていて、初出仕した時は28歳、結婚・出産そして離婚した後のことでした。定子のちょっとした言葉から意を汲んで、絶妙な反応を示す清少納言は、定子のお気に入りとなり、また清少納言も11歳年下の定子を敬愛しました。

しかし、995年、道隆が43歳で病没すると、定子を取り巻く環境が一変します。道兼が関白に就任するも直後に死去し、道隆の長男、伊周が藤原家を継ごうとしますが、天皇の生母・詮子の取り込んだ道長に阻まれました。翌年、伊周は恋愛を邪魔された恨みから、花山法皇に対して矢を放つという事件を起こしました。一条天皇は検非違使に捜索を指示し、実家に戻っていた定子のいるところで伊周は逮捕・左遷されます。

このことにショックを受けた定子は、直後に断髪し出家。兄の逮捕、その指示をしたのが天皇だったこと、妊娠中だったことなどが重なり、発作的に行ったものでした。さらに、立て続けに実家の火災、母の死、道長と内通していると疑われた清少納言が去るなどが続き、年末に失意の中で第1皇女である脩子内親王を出産しました。

997年、一条天皇は定子を呼び戻しますが、一度出家した立場の中宮を内裏内に入れるわけにはいかず、内裏のすぐ近くに居を定めます。定子は清少納言に何度か連絡を取り続け、999年に清少納言は再び定子の元に帰ってきました。しかし、その年道長は自分の12歳の娘、彰子を入内させます。それでも、定子は第1皇子となる敦康親王を出産。道長は、正式な皇后は一人だけという慣例を無視して、彰子を二人目の中宮に設えました。

1000年の年末、定子は第2皇女となる媄子内親王を出産しますが、翌日亡くなりました。一条天皇の願いもあって、中宮彰子は残された定子の産んだ子らの世話をすることになりました。内裏では、その後も定子に対する尊敬の念が根強く存続したため、道長は中宮として彰子の立場を強固にするため、定子に負けないサロン形成を目指します。そして、その一環として、1005年、教養の高さを買われた紫式部が出仕しました。

2018年3月13日火曜日

クリニックの雑誌


クリニックならどこでも、待合室があります。

他にも、床屋さんとか美容室とか、待合室があるところでは、待っている人のためにテレビを置いたり、雑誌などを置いたりします。

大変、残念なことではありますが、それらの書籍・雑誌が紛失することがしばしばあります。

紛失・・・と言っても、自然に無くなるわけではありませんから、はっきり言うと持ち帰ってしまう人がいるということ。

自分たちの仕事は、基本的に性善説の上に成り立つことです。つまらないことではありますが、こういうことの積み重ねは、残念でしかありません。

ですから、大きく店名を書いたり、しっかりしたビニールのカバーをしたり、持ち帰りにくい雰囲気を出したりして、何とか防止しようとするのですが・・・

確かに数百円のもので、たいしたことはないだろうと言われればそれまでですが、定期的に通院する方で楽しみにして方も少なくはありません。

うちのクリニックは構造上、スタッフの目の行き届きにくい場所があるので、監視カメラを設置しています。当然、1週間分くらいは録画もされているので、本気で持ち帰った人を探そうと思えばたいていわかると思います。

でも、さすがにそこまでしようとは思いませんし、過去に録画を見直したことはありませんが、こういうことで注意喚起をせざるをえないというのは、本当につまらないですよね。




2018年3月12日月曜日

平安文化 (1) 文学の形成


古代史を時代に沿って勉強してみたら、いつの間にか平安時代。どこかで、きりをつけないといけないと思っていたのですが、なかなか踏ん切りがつきませんでした。

そして、平安時代に入ると、天皇中心の歴史の動きだけでは話が収まらなくなってくることに気がつきました。特に平安京が藤原家摂関政治により安定期に入ってくると、文化面で目立つ事柄が増えてきました。ここのところがまた興味深く、あらためて勉強する価値が大いにあるわけです。

特に文学の急成長が目立ちます。
日本最古の小説 竹取物語 (平安初期、作者不詳)
日本最古の随筆 枕草子 (11世紀初頭、清少納言)
日本最初の大河小説 源氏物語 (11世紀初頭、紫式部)
さらに、土佐日記、蜻蛉日記、和泉式部日記、更科日記
仏教説話集である、日本霊異記、今昔物語・・・・

そういえば、高校の時に古文の時間に習って、いずれもタイトルだけは覚えていますが、基本理系の人間としてはその後ほぼ接するチャンスはなくこの年になってしまいました。

なにしろ、あまり授業のうまい先生ではなかった・・・ような気がして、習う気の無い生徒に教えるのは大変だったんでしょうけど、とにかく出だしの一文だけで知識は終了という感じでした。

古事記は8世紀初頭の成立で、日本最古の歴史書とされていますが、何しろ真実とは認めがたい話が満載ですから、歴史文学という位置づけで、だいたい古典文学全集には入っています。それに比べると、日本書紀は箇条書きの編年体による記録集という形式で、文学と呼ぶのはちょっと苦しい。ぎりぎり文学として扱ってもいいですが、その後の続日本紀、日本後紀、続日本後紀などはについてはまったく無理という感じです。

文学としては、和歌集である万葉集も同じ8世紀のもの。その後は10世紀末の「竹取物語」、「古今和歌集」までは、目立った作品は残されていません。当時は当然印刷技術はありませんので、口コミで広まった人気作品を写本していくだけで広まるわけですから、そもそも原本はほぼ無いという状態。

そもそも和紙は大変高価で貴重なものでしたから、そう簡単には手に入らないし、何かを新たに書くにしても、相当な覚悟が必要だったのかもしれません。ですから、当然、これらのカルチャーの担い手は庶民ではなく、貴族たち、それも天皇ないしはその取り巻きが中心でした。

特に、当時の貴族は一夫一妻多妾性で、天皇の場合だと正妻としての皇后、そしてあとはたくさんの妃を持つのが普通でした。これは、貴族たちが競って自分の娘を宮中に上げたことが原因の一つです。つまり、娘が男子を産めば、自分は次期天皇の外祖父になって権力を手に入れられる可能性が出てくるからです。

このため、宮中の天皇の居住区域である内裏には、天皇の起居する清涼殿の後ろに妃が住むための建物がたくさん設けられていました。この区域は後宮とよばれ、それらの女性たちは、天皇の寵愛を独占するために熾烈な争いを繰り広げていたわけです。

そのためには、もちろん美人であることも重要ですが、知性も必須条件でした。古今和歌集は空で言えるくらいのは当たり前で、それぞれの妃が自分の世話をする女房達とともにサロンを作り、天皇や貴族たちをもてなし楽しませることが文学的素養を発展させることにつながっていったと言われています。

それに、言っちゃ悪いのですが、この頃の天皇や貴族たちはけっこう暇だったらしい。天皇は政治をしていないし、やることは跡継ぎを残すことだけ。貴族も地位の獲得以外にはほとんど仕事は無く、優秀な官僚たちがせっせと働いていただけです。暇があることが、カルチャーの進歩につながるというのは世の常です。

ですから、一つ一つの作品は単体で楽しむことはできますが、裏には政治的な事情が深く関係して、実は無視できない関連性が存在しています。このことは、ここまでの古代史をある程度知っていて初めて見えてくるもので、歴史学の上に古文があることを強く認識しました。ですから、しばらくは、文学を中心に平安時代の文化について勉強を続けていこうと思います。

2018年3月11日日曜日

あれから7年


平成を生きた日本人にとって、おそらく忘れることができないのが、2011年3月11日に発生した東日本大震災。

今日で丸7年が経ちました。一度に2万人もの方が亡くなるというのは、戦後では最悪の災害でした。当時、すでにこのブログを書いていましたから、あらためて見返してみると混乱ぶりが思い出されます。

しかし、ブログに書いていなかったら、おそらく年々忘れていくのは当然で、メディアでは必ず取り上げたりしますが、日常的に話題にすることはどんどん無くなりました。

一番大きな被害を出した、東北地方、岩手・宮城・福島は、今でも復興工事などが行われているわけですから、忘れたくても忘れようがない。

距離が離れれば離れるほど、被害が少なければ少ないほど意識は薄れていく・・・というのは、ある程度しょうがないことです。

阪神淡路大震災は、関東ではほとんど揺れはありませんでしたから、関西圏はほとんど知らない自分が知っているのは、テレビに映し出された、まるで映画のような日常が破壊される映像だけです。

それは、2000年9月11日のニューヨーク同時多発テロ事件のときのような感覚で、「一体、何が起こったんだろう」、「これはどこの話なんだろう」というような自分とは直接関係無い「何かとんでもない大事件」というものでした。

東日本大震災は、横浜でも初めて恐怖を感じるくらいの強い揺れがありましたし、その後の電力問題によって、長く節電を必要としましたから、対岸の火事ではありません。

今でも、電力を無駄使いしないようにという気持ちは持ち続けてはいますが、一方で電化生活はさらに深まっていて、電気が止まったら途方に暮れることは明らかです。

関東大震災が発生した9月1日は、今では「防災の日」として記憶に残されていますが、3月11日も「春の防災の日」というような形にして、今後確実に記憶から風化させないというのもいいかもしれません。

2018年3月10日土曜日

Freewareでバックアップ


パソコン内のファイルのバックアップは、業務的なものなら必須ですし、たとえパーソナルなものでも、できるだけやったほうがいい。

ハードディスクは消耗品です。ある時、急に壊れてしまうことはいつでも起こりうる。長年使っていると、何度も痛い目にあっているもの。

その結果、やたらと同じ名前のファイルが散在して、どれが最新なのかわからなくなるという弊害もあります。

ばらばらにやっていると無駄が多いし手間もかかりますから、何かバックアップ専用ソフトウェアは使った方が絶対いいと思います。RAIDを組んで、ハード的にリアルタイム自動処理をするのが最善ですが、お金がかかる。

ソフトウェアは簡単に安くできる。大きく分けると、ドライブ全体をパッケージ化して保存するものと、個々のディレクトリーやファイルをそのまま別の場所に保存していくものに分かれます。

パッケージ化するものは、復元するのにそのソフトがないといけない。パッケージの中身は簡単に見れないなどの不満があります。そこで、必要なものだけ選んでバックアップの方が便利かなと思います。

定番の物はいくつかありますし、たいてい簡易機能の無料版もあったりします。ただし、基本的には "copy C:\*.* Z:\" みたいなコマンドをまとめて実行するようなもので、あまり高級なことをするわけではない。

無料で使えるFreewareでも、十分な機能を持っているものがあります。探すと色々出てくるのですが、とりあえず自分が使用しているのは、意外と知られていない Microsoft純正のSyncToyというもの。

最低限の機能としては十分。64bit版もあるし、何よりもよけいなおまけソフトを追加されるような心配が無いのが嬉しい。

フリーだと、知らないうちに強制的にソフトが増えていることがよくあるし、中には通常ではアンインストールできないこともあります。そのため、システム全体を入れ直したことも数回あります。

ダウンロードはこちらから。
Download SyncToy 2.1 from Official Microsoft Download Center

日本語化を含めて、使用方法の解説はいろいろなところに書いてあるので参照してほしいのですが、すごく難しいことは無いので、直感的に使い方はわかると思います。

あとは好みですが、無料・安心の純正ですから、お勧めです。

2018年3月9日金曜日

今年もアマリリス


もう、10年くらい、年末に患者さんにいただくアマリリスの球根。

水をかけるだけで、あれよあれよと伸びてきて、見事な花で毎年楽しまさせてくれるので、楽しみにしている方もけっこういるようです。

今年は、あえて遅くにしてみました。1月末に水をかけて起こしてみました。

そして、2本の花芽がどんどん伸びて、一緒に花をつけてくれました。

下は2輪、上は4輪の花が咲いて、随分とボリュームがあります。今週中が見頃でしょうか。

2018年3月8日木曜日

啓蟄


もともと秋田民謡で、全国的に唱歌として有名な四季を通じた「どじょっこ ふなっこ」という歌があります。夏以降は知らなくても、出だしの春のところは、たいてい聞いたことがあると思います。

♪ 春になれば 氷(しが)こも解(と)けて
  どじょっこだの ふなっこだの
  夜が明けたと思うベナ

冬の間、多くの生き物が土の中、氷の下で、温かくなってくるのをじっと待っています。

気温が上がってきて、何かの信号をキャッチした生き物は、目が覚めて動き出す。そんな情景が、まさに「啓蟄(けいちつ)」です。

温かくなって、新しい何かが始まる予感・・・希望にあふれる季節・・・だったり、何かと明るいイメージばかりで、嫌な気持ちになることはありません。

この時期、いろいろな卒業シーズンですが、「卒業」で終わるのではなく、必ず次に来る新しいことを始めるための最初の準備、つまり人生の啓蟄みたいなもの。

虫が蠢き出す・・・と書くと、何か気持ち悪く思うかもしれませんが、啓蟄は春を象徴するとても良い言葉だと思います。

2018年3月7日水曜日

大容量ハードディスク



誰もがコンピュータを利用できるようになったのは、自分が大学に入学した1980年頃の話。最初の記録媒体はカセットテープ。

カセットテープ・・・って何? という平成世代からの声が聞こえます。ほどなく登場したのがフロッピーディスク。カセットテープの磁気を丸い円周上に書き込んでいくもので、フロッピーもほぼ博物館ものになってしまいました。

でも、カセットテープもフロッピーディスクも、今でもニーズはあるらしく、細々と製造販売されているようです。実際、現在も血液検査会社とのデータのやりとりはフロッピーを用いています。

1985年頃に登場したのがハードディスク。フロッピーがふにゃふにゃだったので、それに対する固い円盤にさらに高密度に記録できるということで大ヒットしました。

フロッピーは記憶容量が1.2MBまたは1.44MBで、これでも文書データをいくつも保存できて凄いと思っていましたが、まだ画像データはほとんど使えない時代の話。

最初に記憶のあるハードディスクの容量は、10MBでした。すげぇ~、フロッピー10枚分くらい入ると喜びましたが、その反面価格が1MBで1万円というのにも驚いた。

初めて買ったときは、値段の高さに清水の舞台から飛び降りる気持ちというやつです。でも、ソフトウェアもいれられるし、少しずつ画像も使えるようになって、格段に快適になりましたよね。

もっとも、当時はMS-DOSの世界ですからシングルタスク。ソフトウェアを変えるときは、一度終了してコマンドラインに戻ってからあらためて起動したり、時にはパソコンを再起動しないといけない。

でもって、今なんですけど、ハードディスクはもはやSSDにとってかわられつつありますが、まだまだ超大容量だとSSDは限界があり、価格も高価ですから、HDDはまだまだ現役ばりばり。

単なる保存用、特にバックアップには大容量が必要ですから、数TBのハードディスクは必需品です。

そこで探していたのですが、一番コストパフォーマンスが良さそうなので購入したのがMarshall製のもの。とりあえず、なんの問題なく接続できて、使用し始めました。せっせと、いろいろなところに分散してしまったデータ類を集めています。

一応、8TBもありますから、当面困ることはなさそうですけど・・・これをフロッピーに換算すると・・・ひぇ~、数百万枚分入るんですよ!! 驚くしかないですよね。

値段だって、1MBあたり0.0035円ですから、最初のハードディスクの1/300万というのも凄い話です。

2018年3月6日火曜日

無花果


イチジクです。

イチジクは桑の仲間ですが、けっこうキャラの濃い植物です。イチジクの実というと、食用にされて多くはこんな乾燥させたドライフルーツとして利用されます。

イチジクは整腸作用があり、便秘にいい。ですから浣腸の代名詞みたいな「イチジク浣腸」という製品があるし、容器も実の形に似せてある。

イチジクの実は、あまり厚くない果肉に包まれて、細かい粒々が中にたくさん詰まっているんですが、実はこの表現は間違い。

イチジクの花は内向きに咲くそうで、そのあと固い皮に包まれた痩果(ソウカ)という実をつけます。それが中の粒。ですから、普通に実と思っているのは、実の集合体。

一見、花を咲かせずに実をつける・・・というところから無花果(むかか)と書いてイチジクと読むわけです。

2018年3月5日月曜日

古代終焉 (9) 終点は藤原家の世


村上天皇は42歳で亡くなり、憲平親王が18歳で第60代冷泉天皇として即位します。しかし、心体ともに病弱で在位はわずかに2年にも満たない期間でした。藤原家は、自分の娘を天皇に嫁がせ、その子を天皇に即位させる方程式を完成し、権勢を欲しいままにしていました。そのためには、かなり強引な婚姻もあり、また天皇の若年化などの道理を無視した無理を通してきました。

即位当初から冷泉天皇には不安があったため、皇太子選定が急がれました。天皇の同母弟にあたる村上上皇の為平親王と守平親王が候補でしたが、左大臣、源高明の影響下にあった年長の為平親王は排除されました。969年、安和の変が発生します。橘繁延と源連の謀反の計画が密告され、源高明の関わりが疑われ、九州へに左遷されたのですが、後に身内を固めるために藤原実頼が行ったの策謀だったことがはっきりしました。

守平親王は9歳で第64代円融天皇になりましたが、当然摂関家である藤原氏の鉄壁な包囲網により、ほぼ天皇は肩書状態です。皇太子は、冷泉天皇の師貞親王が立ちました。妃が集まる後宮は、外戚になろうとする貴族が自分の娘を次から次へと送り込み、またその娘らの争いもけっこうすさまじかったようです。天皇は26歳で退位し、師貞親王が17歳で、第65代花山天皇として即位。今度は、皇太子は円融天皇の懐仁親王です。

当時、藤原実頼(忠平長男)の次男であった関白の藤原頼忠は、なかなか外戚になることができず力を落としていました。藤原師輔(忠平次男)の子、右大臣藤原兼家の方が力がありました。もう天皇家の系図よりも、藤原家の家系がどうなっているのかがより重要という状況です。

花山天皇は兼家の子、藤原道兼の誘いに乗せられ、2年後には退位して出家してしまいます。懐仁親王が第66代一条天皇に7歳で即位し、藤原兼家は太政大臣となり、左右大臣もその子である道隆、道長が座りました。皇太子には、冷泉天皇の皇子、花山天皇の弟である居貞親王が選ばれますが、この親王も兼家の孫にあたりました。

いやはや、天皇家の系図だけでも複雑すぎてわけがわからない状態になっているところへ、藤原家が入り乱れて絡んでくるため、誰が嫁で、誰が兄弟、そして誰の子か・・・もうお手上げ状態です。つまり、これが平安貴族の優雅な生活の裏にある真実の姿なのかもしれません。この辺りを掘り下げるのは、テーマが変わってしまいますから、気力があれば別の機会に行いたいと思います。

一条天皇の治世で、ついに10世紀が終了します。神代から始まり、古事記・日本書紀によって謎の多い日本創生が語られ、律令国家として飛鳥時代、奈良時代を経て平安時代前半までたどってきました。さすがに古代と呼べる時代はそろそろ終わりになります。

こうやって辿ってみると、大王と呼ばれたトップが天皇となり、基本的には王朝による独裁国家として国らしくなってきたわけですが、古代の終点は天皇を形式的において、とりまく貴族たちの策謀術策が国を推進していたということだと思いました。

あまりに多くの天皇を取り巻く事件があり、いくつかは大袈裟に伝わったり、または創作であったかもしれませんが、逆に知られていないこともたくさんあるのだろうと思います。古代は、そういう謎がたくさん含まれている時代だということもできそうです。

2018年3月4日日曜日

古代終焉 (8) 武士の台頭


ヤマト王権誕生以来、天皇が政治の中心であり、例えば神功皇后の例の様に天皇以外が実際の政務を仕切った事例はありましたが、突発的な問題のための例外措置でした。

天皇が生前に譲位する場合、時に二重権力構造が発生し、孝謙上皇(後に重祚して称徳天皇)のように道鏡事件が発生したり、平城上皇の薬師の乱に至り、退位した天皇、つまり上皇の処遇をはっきりさせる必要に迫られました。嵯峨天皇は京内に天皇の内裏とは別に、上皇の場所(朱雀院と冷泉院)を設け後院と称して分離・明確化し権限の抑制を行いましたが、平安時代には生前譲位が常態化し、天皇の若年化・弱体化が進みます。

そこに有力貴族、藤原北家のつけ込む隙があったわけで、幼い天皇に代わって実質的に政治を行う摂政、さらに天皇が元服後も権力を保持し続ける関白の形態が出来上がっていきます。宇多天皇は、一度皇族から抜け源氏になっていたため、より政治に忠実に向き合い天皇親政を行う意欲を持ったわけですが、皇統系譜への連なりを深め、出自の正当化を進めるために幼いこどもへの生前譲位をまたも繰り返し、藤原家の思う壺にはまってしまいました。

ここに二重権力は、天皇と上皇という対立から、天皇の母方の藤原家と摂政・関白と天皇の父親である上皇との対立へと変化していきました。後に、関白はあくまでも天皇の補佐ということが明確化され、上皇による支配体制は院政と呼ばれるようになります。

藤原家の関わりを再度許してしまった醍醐天皇でしたが、宇多上皇、出家して宇多法皇との父子関係は良好でした。宇多法皇の院政体制はあったものの、仏教に傾倒していた法皇は政治への口出しをほとんどしなかったためでしょうか。

醍醐天皇の皇太子は第1皇子の保明親王ですが21歳で病死してしまい、その後に新たな皇太子となる寛明親王が生まれました。醍醐天皇自身も体調を崩し、930年、8歳の皇太子に譲位し直後に46歳で、翌年には宇多法皇も65歳で亡くなりました。

新しい第61代朱雀天皇は即位した時はまだ8歳で、藤原基経の四男、天皇の伯父にあたる藤原忠平が摂政につきます。左大臣は、基経の長男、藤原時平でした。桓武天皇の孫である高望王は、宇多天皇より平氏を賜り皇籍を降りていましたが、関東に出て武士集団になっていました。平高望の孫の平将門は周囲を制圧し、強大な力をもち、940年に朱雀天皇に対して、自らを新皇と称し東国の独立を宣言します。数か月後に朝廷連合軍により滅ぼされ、将門は歴史上初めて平安京で晒し首になります。

また、藤原北家出身の藤原純友は、瀬戸内海の海賊制圧の任に当たっていましたが、しだいにそれらの海賊を取りまとめて自らの軍隊として再編していました。将門の挙兵と時を同じくして、朝廷に対して反乱を起こしました。この2つの乱を合わせて承平天慶の乱と呼び、武士の台頭のエポックメーキングとされています。

皇子がいなかった天皇は24歳で退位し、弟の成明親王が第62代村上天皇として即位しましたが、病気だったわけでもなくその理由は不明です。朱雀上皇はその後復位を目指したことがわかっていて、必ずしも自らの希望ではなかった可能性があります。

村上天皇は即位した時は21歳、忠平が死去しますが、関白をおかず天皇親政を目指しました。しかし、実権は忠平のこどもである藤原実頼・師輔兄弟にあり、朱雀上皇の動きもあって現実には、自分の思うようなことはほとんどできなかったようです。

2018年3月3日土曜日

記紀から知る桃の節句


3月3日は上巳の節句、または桃の節句、あるいは雛祭りで、五節句の一つです。平安時代の貴族子女の人形遊びとして始まったらしく、季節の変わり目の祝い事としての文化が根付くのは江戸時代からということらしい。

雛飾りの最上段の雛人形は一対の男女で、合わせて「お内裏様」あるいは「お雛様」と呼びます、これは親王とその妃を表していて、つまり男雛とは皇太子であり、女雛は皇太子妃だということです。その下の段には三人官女、さらに下には五人囃子というのが標準的な配置です。

さて、古事記の神代の時代を思い出してみましょう。

伊邪那岐が、亡き妻、伊邪那美に会いに黄泉の国に行きますが、亡者となっていた伊邪那美に追いかけられて逃げ出します。この時、たまたま見つけた桃の実を、亡者の群れに向かって投げたところ、亡者が桃の実に気を取られた隙に無事に逃げ切れました。

これが、桃が邪気を払って百鬼を制す信仰の対象となる起源といわれ、桃太郎の話も根底は同じ。桃は多くの実をつけるので、聖なる多産の木として女の子の末長い幸せを祈ることにもつながったようです。

話は少し進んで、高天原にいる天照大神のもとに、弟の須佐之男がやってくるところ。天照大神は弟が攻めてくると思い、須佐之男に邪心が無いことの証明として誓約を行いました。

その時に最初に須佐之男の剣から生まれたのが、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命の女神三柱でした。この三神は須佐之男の子として宗像大社に祀られました。

次に天照大神の勾玉から生まれたのが、正勝吾勝々速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命の男神五柱です。こちらは天照大神の子として、最初に生まれた忍穂耳の子、邇邇芸命が天下って天皇の祖先となります。

この女神三柱、男神五柱が三人官女、五人囃子の原型という考えが成り立ちますが、真意のほどははっきりしていません。いずれにしても、記紀に出てくるエピソードでは、三・五・七にまつわるものが多数登場し、これらの数字が神聖視され縁起が良いものとされていたことがわかります。

2018年3月2日金曜日

古代終焉 (7) 天皇の逆襲と敗北


藤原良房は、9歳で即位した清和天皇の祖父にあたり、当然のように幼い天皇に政治ができるわけがありませんから、良房が摂政として実質的な権力を握っています。さらに、皇后は藤原高子で、良房の姪にあたります。良房が亡くなっても、養子に入っていた基経が地位を引き継ぎました。

清和天皇は27歳にして、若くして高子の産んだ貞明に譲位しますが、おそらく藤原家が実質な覇権を維持するための政略でしょう。その4年後には、31歳の若さで病死します。876年、貞明が第57代の陽成天皇として即位したのは、またも9歳の時です。母である高子はかなり飛んでる女性だったようで、基経との折り合いが悪かったようです。

陽成天皇が元服して基経が摂政を降りた直後、前代未聞の宮中殺人事件が発生します。犯人はほぼ・・・だろうといわれているようですが、迷宮入りです。いずれにしても、陽成天皇はかなり奇行・蛮行が目立ったようで、基経の画策により17歳で退位し、時康親王に譲位しました。時康親王は、仁明天皇の藤原家出身の妃が産んだ子で、即位したときは55歳、こどもを続けて即位させた反省がこめられているようです。

884年、時康親王は第58代光孝天皇として即位したもの、もともと皇位継承など夢にも思わず中年にかかっていたので、基経を関白としてなんでも任せていたそうです。しかし、唯一基経の意向に逆らったのが、3年後に病で倒れた時でした。一度皇族から除籍していた息子の源定省を、親王に復させて亡くなりました。

ちなみに、日本書紀から始まる政府公認の「国史」のシリーズを、まとめて六国史と呼びますが、六国史に記載されているのはここまでです。その後は、計画されたことはありますが、実際の編纂・出版は行われていません。古代史を学ぶことを、国史を読むことと考えれば終点に達したことになりますが、まだまだ興味は尽きません。さらに話を進めてみましょう。

887年、21歳だった定省は、第59代宇多天皇となりますが、何しろ血気盛んな年頃です。基経はそのまま関白に留まったものの、宇多天皇は自らの意見をはっきり述べるタイプで、次第に基経との間に確執が深まっていきます。

そもそものきっかけは、即位直後からから始まります。宇多天皇は基経への関白就任依頼に関白を指す「阿衡の任」という言葉を用いたところ、阿衡とは形ばかりで実が無い意味として、基経はへそを曲げてしまいます。この時、いろいろ両者の調整を行い何とか丸く収めることに奔走したのが菅原道真で、以後宇多天皇の信任を得て出世していきます。

宇多天皇が25歳の時に基経が亡くなり、その息子の時平を政権に入れるものの、関白はおかず自ら政治を司りました。しかし、一度皇籍を抜けたことで、清和・陽成系の皇族からは白い目で見られる中、菅原道真の助けもあり比較的善政を行い、久しぶりの天皇親政の時代を迎えました。それは、藤原家の不満を膨張させることであり、道真もわっかってはいても、宇多天皇の信頼に答えるしかありませんでした。

897年、宇多天皇は皇統の正当性に深みを持たせるために、突然、12歳で元服すると同時に敦仁親王に譲位します。自らは後に出家して宇多法皇として、実質的な権限は持ち続け、形式的には藤原時平と菅原道真を政府の両輪としつつも、実質的には脱藤原を進めていました。しかし、即位した第60代醍醐天皇は、親の心子知らずでした。

宇多法皇は仏道に励み、しだいに比叡山や高野山に出かけることが多く、宮内を配慮する時間が減ってしまいます。若い醍醐天皇には、時平のつけ込む隙はいくらでもあったわけで、まずは時平の娘、隠子が宇多法皇の反対をよそに入宮します。

901年、ついに昌泰の変が発生します。これは、有名な菅原道真の大宰府への左遷です。道真が宇多法皇の子で自らの婿でもある斉世親王を皇位に即けようとしていたというもので、宇多法皇は知らせを聞いたときは時すでに遅しでした。宇多法皇は、すぐに宮に駆け付けますが、門は閉ざされ入城を拒否されなすすべはありませんでした。嫡子がいない醍醐天皇の即位を急ぎすぎ、仏道に傾倒し道真への援助を怠った結果だといえます。

2018年3月1日木曜日

バックアップはいくつあっても困らない


あれっ? もう、三月。

気がつくと、だいたい入学試験も山場を越えて、卒業式の月。なんか、今年は寒い寒いとばかり言っているうちに、春を迎える感じ。

さて、バックアップの話なんですが・・・クリニックが紙カルテで運用していたら、保管するスペースはけっこう必要です。

ただ、取っておくだけなら段ボールに山積みでいいんですが、またそれを効率的に探して取り出すことがあることを考えると、きれいに順番に並べる書庫が必要。

整形外科だと、レントゲン写真もばかにできない。フィルムで保管すると、かなりの重量があります。大きくてペラペラなので、うまく仕切りを用意しないと倒れて折れ曲がったりしやすい。

電子カルテ、画像のデジタル化は、こういう手間を解消してくれる救世主のような・・・というのは大袈裟ですが、とにかく保管スペースがいらなくて、お手軽です。

なにしろ、カルテは基本文字情報の集積ですから、10年分でもHDDに数GBもあれば十分だったりします。

紙で送られてきた情報も、スキャンして画像として患者さんごとに保管。全部合わせても、数千円のHDD1個で問題ありません。

レントゲンなどの画像はもう少し容量が必要ですが、他院から来たものも取り込んでも合わせて1年間で数GB程度ですから楽ちんです。

ただ、バックアップは本当に重要で、カルテやレントゲン写真などは法律で保管義務がありますから、消えてしまったらシャレにならない。

現在のうちのクリニックのシステムは、電子カルテについては毎晩自動でバックアップが取られていますが、それだけでは安心できない。

自分で、独自に外付けHDDに手動で毎日丸ごとバックアップを取るようにしています。サーバーに一つ、別の電子カルテPCに一つ、そして外付けに一つ、全部で3つのバックアップがありますので、さすがに何かのトラブルがあっても、何とか復旧できると思います。

レントゲンは、実は、いままでに2度クラッシュしている。一度目は、データを保管するNASが壊れた時。サーバーから自動でバックアップが取られ、それが別のNASに同期して保存される設定だったはず・・・なんですが、この自動同期がいつの間にか働いていなかった。

NASが壊れて、同期バックアップからデータを戻そうとしたら、何と数年分が保存されていないという事態で、目の前真っ暗状態です。

さらに、サーバーそのものが壊れて、また一からデータ復旧をやり直し。さすがに、そのあとからはメーカーを全面的に使用するのは危ないと思いました。サーバーの自動バックアップはありますが、現在はやはり独自の丸ごとバックアップを毎日行うようにしています。

最近、改めてこれらのバックアップを再検討して、すべてうまくできているかチェックしました。ついでに、クリニックのお知らせとか、スタッフの勤務表とか、クリニックの運営上必要なドキュメントも含めて、一つのHDDに全てまとめるようにして、何かあったらそれだけあればなんとかなるというようにしたつもり。

もちろん、その一つだけでは不安ですから、同じ内容のHDDをもう一つ作ることも忘れてはいませんよ。