2018年3月14日水曜日

平安文化 (2) 一条天皇と定子


平安文学が盛んになったのは、一条天皇の宮廷内でのことです。当時の、状況から整理します。

第64代円融天皇が10歳で即位したのは969年。14歳で元服し、藤原兼道が関白に就き、兼道の娘である媓子が入内(内裏に入り妃の一人になる)し、973年に中宮(皇后)となります。兼道の弟の藤原兼家は、兄よりも当時勢いがありましたが、円融天皇から兄弟の順を守るよう要請されました。977年、兼道が病没し、その遺志により関白は藤原頼忠が就き、娘の遵子も入内します。

それでも、兼家は娘の詮子を入内させることに成功します。後ろ盾を失っていた媓子は遵子、詮子らに圧倒され病死します。すでに詮子が第1皇子の懐仁親王を産んでいましたが、遵子が中宮になりました。しかし、結局遵子は天皇の皇子を産むことなく後年出家します。

兼家から圧力もあり、円融天皇は26歳で退位し、984年、第65代花山天皇が即位。懐仁親王が皇太子になります。2年後に兼家は、次男道兼を使って花山天皇を騙して出家させます。懐仁親王が7歳で第66代一条天皇に即位し、ついに兼家は天皇の外祖父として摂政となり、長男の道隆、三男の道長を前例のない形で大臣に登用します。

990年、一条天皇の元服により、道隆の娘、定子が14歳で入内し中宮となりました。兼家は関白になりましたがすぐに病没し、道隆が引き続き関白を継ぎました。定子は、幼少より女子が敬遠する漢文詩を嗜み、物事に対して積極的に興味を持つ女性でした。定子の局では、彼女を中心に和歌や漢文詩を楽しむサロンが活発に活動するようになります。

そして993年、そのサロンの一員に加わったのが清少納言でした。清少納言は本名はわかっていません。966年生まれと言われていて、初出仕した時は28歳、結婚・出産そして離婚した後のことでした。定子のちょっとした言葉から意を汲んで、絶妙な反応を示す清少納言は、定子のお気に入りとなり、また清少納言も11歳年下の定子を敬愛しました。

しかし、995年、道隆が43歳で病没すると、定子を取り巻く環境が一変します。道兼が関白に就任するも直後に死去し、道隆の長男、伊周が藤原家を継ごうとしますが、天皇の生母・詮子の取り込んだ道長に阻まれました。翌年、伊周は恋愛を邪魔された恨みから、花山法皇に対して矢を放つという事件を起こしました。一条天皇は検非違使に捜索を指示し、実家に戻っていた定子のいるところで伊周は逮捕・左遷されます。

このことにショックを受けた定子は、直後に断髪し出家。兄の逮捕、その指示をしたのが天皇だったこと、妊娠中だったことなどが重なり、発作的に行ったものでした。さらに、立て続けに実家の火災、母の死、道長と内通していると疑われた清少納言が去るなどが続き、年末に失意の中で第1皇女である脩子内親王を出産しました。

997年、一条天皇は定子を呼び戻しますが、一度出家した立場の中宮を内裏内に入れるわけにはいかず、内裏のすぐ近くに居を定めます。定子は清少納言に何度か連絡を取り続け、999年に清少納言は再び定子の元に帰ってきました。しかし、その年道長は自分の12歳の娘、彰子を入内させます。それでも、定子は第1皇子となる敦康親王を出産。道長は、正式な皇后は一人だけという慣例を無視して、彰子を二人目の中宮に設えました。

1000年の年末、定子は第2皇女となる媄子内親王を出産しますが、翌日亡くなりました。一条天皇の願いもあって、中宮彰子は残された定子の産んだ子らの世話をすることになりました。内裏では、その後も定子に対する尊敬の念が根強く存続したため、道長は中宮として彰子の立場を強固にするため、定子に負けないサロン形成を目指します。そして、その一環として、1005年、教養の高さを買われた紫式部が出仕しました。