2011年2月28日月曜日

ひつまぶし @ 名古屋

鰻は比較的食べ方にバリエーションが少ないような気がしていて、値段も高いし、そうしょっちゅうたべることもありませんでした。

ひつまぶしというのは、なんとなく知っていても、実は食べたことが無くて、今回初挑戦。

単なる、鰻の蒲焼のお茶漬け・・・と言ってしまえばそれまでですが、いや、なかなかうまいものですね。

ひつまぶしの薀蓄はWikiにまかせておいて、お茶漬けにするのに適した、ややしっかりと焼いてかりっとした鰻がまた絶妙です。

ひまつぶしに食べるには、だいぶ高級なひつまぶしでした。

2011年2月27日日曜日

スタバと富士山


今日は、早朝から東名高速道路をひたすら走ってきました。6時に出発して、途中で富士川SAにて最初の休憩としました。

ここは、富士山の西側からの眺望としては絶景ポイントベスト5に入る場所。カメラを並べている方もけっこういました。

それにしても、なんとも不思議な感じがしたのがスターバックがあること。SAの個性は最近評判になりますが、富士山の景色を楽しみながらゆっくりコーヒーを飲むと言うのは、アイデアとしてはいいかもしれません。

ただ、基本的には通りすがりですから、それほどゆっくりするかと言うと・・・

それにしても、行き先は名古屋だったので、この場所でまだまだ中ほどまでにも行っていません。約400キロ近い行程でしたが、6時出発で10時にはなんとか到着しました。

用事をすまして、帰途に着いたのは午後2時半。帰りは浜松の先までは頑張ったのですが、さすがに眠気が襲ってきて、家内と運転手を交代。ほんと、助かります。

さらに恒例の大和トンネルの渋滞があって、家に着いたのは午後8時。
ほんと、疲れましたわ。

ちなみに、交通費は東名高速道路の通行料が片道1450円で、往復は2900円。ガソリンはだいたい往復で満タンでお釣りがくる程度でした。ほとんど高速道路なので、燃費は驚異的に伸びたみたいです。8000円かからずに往復というのは、だいぶ経済的でしたね。

   
 

2011年2月26日土曜日

ネット強迫症

すんません。

今日はお許しいただいて、書くことがありません。Dr.Flickerも毎日書いていると、変な人に見られてないか心配してましたが、ほんまその通り。

毎日、毎日、ブログ書いていると、インターネット中毒者間違いなし。こいつ、なんやねん、と思われてもしょうがない。

そうですよね。せっせとブログ書くのも、変と言えば変。今日みたいな日は、書かなくても誰にも怒られるものでもないのですが、なんかとりあえず書いとかないと・・・単なる強迫神経症みたいなもんですか。

すんません。今日はこれにて、失礼いたします。
また次の話題を・・・おっ・楽しみっにぃ~

2011年2月25日金曜日

えんしょう

えんしょう・・・シリーズ化しようと思ってはみた物の、それほど単語がなくて、次は医者らしく「炎症」を取り上げて終了・・・の予定だったのですが、Dr.Flickerに見破られてしまいました。

ネタばれしてしまうと、天の邪鬼な自分としては素直に炎症の話をするということは自尊心が許さない。う~ん、だからと言って・・・しょうがない封印していたネタを使うことにしましょう。

つまり、実はすでに使ってしまったので、もうこのネタでは書けないと思っていたことなんですけどね。まぁ、何とかしてみましょう。

そこで、今日の話題は「圓生」です。

圓生は落語の三遊亭の中で、もっとも権威のある大名跡。現在までに6人の圓生が誕生し、そしてその最後が、自分の落語趣味の中で最も尊敬する六代目であり、1979年9月3日に亡くなって以来、その名跡は空席のままとなっているわけです。

圓生という名前は、三遊亭の本家本元であり、笑いをとる落とし噺は言うのおよばず、人の機微を語り尽くす人情噺、歌舞伎仕立ての芝居噺・怪談噺など、高度な技量を要求されるネタを得意としてきたわけで、そんじょそこらの噺家にはとても名乗れるものではありません。

実は、この名前を誰が襲名するかというのは、けっこう大きな問題。本来なら六代目の一番弟子だった最近亡くなった五代目圓樂が第一候補だったはずですが、結局襲名できなかった。はっきり言って、実力的な部分でだいぶ物足りなかったことは事実でしょう。

五代目圓樂は自分の一番弟子の鳳樂に襲名させようと動いていたようですが、実力的にはまぁまぁのところですが、いまひとつ物足りない感は否めない。

自分でなりたくてしょうがないのが円丈ですが、もともと際物落語ばかりをやってきた人ですから、圓生の名前はどう考えてもつりあわない。

そして、もう一人の候補が六代目圓窓です。もともとは六代目圓生の弟子ではなかったために、外弟子のように扱われることが多いのですが、おそらく実力的には最も三遊亭の名に相応しいかもしれません。

いずれにしても、自分にとっては圓生と言えば六代目しかありません。少なくとも、自分が生きているうちは、七代目が誕生しないで欲しいと思うのはわがままでしょうかね。

2011年2月24日木曜日

延焼

火事って目撃したことがありますか?

自分は、今までに数回あります。一番近かったのが、自宅から数十メートル。

これは、やばい。ゆっくりと火事見物をしている場合じゃない。なにしろ、うちの前の道は幅せまで、普通の乗用車は対向車ですれ違えないんです。

・・・と、いうことは、消防車、これるんかい? と、いうくらいの路地。いつ、飛び火しても不思議はない。まぁ、とりあえず、なんか小さい消防車がやってきて・・・あ~、よかった。

そういえば、むか~し、昔、連続企業爆破事件というのがありました。間組は比較的自宅から近かったので、うちの親父が野次馬にでかけていった・・・でもって、放水の水をあびて帰ってきたというのはまじです。

こどもの頃に、ずっとお世話になっていた角の床屋さんが焼けたのは残念でした。これは、比較的新しい話なので、話を聞いてびっくりしました。結局、床屋さんは、そのままやめてしまいました。

そういえば、うちでシチュー用の牛肉を煮ていて、そのまま寝てしまったことがあるんですよね。よくもまぁ、火事にならなかったものだと思います。一晩中、焦げた牛肉ですごいことになってしまいました。

まさに、家中が燻製状態で、こどもたちにはずいぶんと起こられましたっけ・・・

2011年2月23日水曜日

艶笑

艶笑というのは、「えんしょう」と読みますが、艶(つや)のある笑いということですよね。まぁ、ちょっとHっな笑いということですから、大人のギャグというわけです。

一番よく使うのは、艶笑落語という言葉。

「目薬」という落語があるんですけどね。眼病を患った熊さんが、目につける粉薬を貰ってくるわけです。でも、どうやって使えばいいかわからない。奥さんが使い方の説明書を見ると「めじりにつける」と書いてある。

熊さんは「めじり」を「女尻」と思ってしまうわけです。そこで奥さんの着物をまくって、出してお尻に薬をふりかけた・・・とたんに、奥さんおならをしてしまう。吹き飛んだ粉が熊さんの目に飛び込んでめでたしめでたし。

まぁ、にやにやしながら聞くような話ですから、こんなのが艶笑落語というわけです。ちょっと、気持ちにゆとりがあった時代のカルチャーの一つとでも言いましょうか。

なんちゃって。

2011年2月22日火曜日

美術展

うちのクリニックによくいらっしゃる患者さんのお宅にお邪魔しました。

いや、別に往診で行ったわけではありません。何故かと言うと、亡くなったご主人が集めた美術展のプログラムを整理したいということで、いただきに行ったのです。

ご主人は絵画の展覧会を見に行くのが好きで、いろいろな展覧会に行っては、その時のプログラムを買っていたので大変な量の本が残っているわけです。

整理したいが、一冊一冊が大変重いのでなかなか大変で今まで残していたのですが、いよいよ処分をする決心をしたので、もしも欲しいものがあれば貰ってくれということだったのです。

気楽な気持ちで出かけて行ったのですが、いざ膨大なコレクションを見てみると、そう安々とはいるとかいらないとかは言えない気持ちになりました。

ご主人が好きで集めたコレクションですから、いろいろな思いがつまっていることでしょう。貰うからには、大切にしないと申し訳ありません。

うちのクリニックの本棚にも、いくつかの美術書が置いてあるんです。ノルウェイの美術館で購入したムンクの画集。フランスに行ったときに買ったベルサイユ宮殿の美術書。長崎のオランダ村で買ったエッシャーの画集などなど。表には出していませんが、ダヴィンチの美術書もいくつかあります。

もともとは両親が展覧会によく連れて行ってくれたので、小学生のときにルノアールとかゴッホとか、いくつかの有名な画家展を見た覚えがあります。そういうわけで、嫌いではないわけで、画集を見ているのは楽しいのです。

さて、伺ってみると、印象派を中心にした展覧会のコレクションが中心で、一番このあたりが好きだったんだろうなとわかります。せっかくなので、いくつかをいただいて帰りましたが、そのうち何らかの形で待合室に置くようにしたいと思っています。

2011年2月21日月曜日

たかが映画じゃないか

アルフレッド・ヒッチコック監督が、大女優イングリッド・バーグマンにいった名言。

そう、たかが映画なのです。所詮、たかが2時間程度の中に面白おかしくストーリーを詰め込んで、観客を楽しませればいい。

でも、これはヒッチコックだからこそ言えたセリフ。観客をいかに楽しませるか、どうやって怖がらせるか、そしてどれだけ満足させられるか、考えに考え抜いた映画監督だからこその含蓄のある言葉です。

言葉にこそしませんが、クリント・イーストウットの映画作りにも、似たようなところがあると思っています。

イーストウッドは俳優ですから、純粋な作り手ではなく演じる側の立場を相当理解しているわけです。幾多の作品でも、共通していることはほとんど撮り直しをしないということ。

頭の中には撮影する前に、ほぼ映画出来上がっているはずですが、その場の勢いというのを大事にしている。キャスティングされた俳優の力量を信じているからこそ、多少のイメージの相違が生じても、それを取り込んでいくゆとりを絶えず持っているということでしょうか。

もともとが、イーストウッドの映画作家としての師匠はドン・シーゲル監督で、ダーティ・ハリーを初めとしていくつもの作品を一緒に作ってきた先輩です。シーゲルはいわゆる「B級」の監督であり、低予算・短期間で観客を集める映画を作ることにかけてはかなりの実力者でした。

イーストウッドも、そんなシーゲルの手法を十分に吸収し、自分の映画作りにいかしてきたことは間違いありません。しかし、表では「たかが映画じゃないか」という作り方でも、俳優が自分の考えている演技を自然とするように周到な準備 - 雰囲気作りをしているのでしょう。

それが40年以上にわたってハリウッドで現役を続けることができている、つまり物凄い大作を作るわけでもなく、超話題作でもないのに消えずにいる大きな要因なのかもしれないと思うのでした。

2011年2月20日日曜日

映画はつまらなくなったか

映画とテレビの違いなんていうテーマは、今となっては語り尽くされた感がある話題。大衆娯楽という側面については同じ文化ではあるが、何となく映画の方が高尚で、テレビの方が低俗というイメージがつきまとう。

いずれにしても、どちらもとにかくつまらなくなったと感じているのは自分だけだろうか。すすんで観たいと思うような作品が、めっきり少なくなったように思う。

映画は、構想××年・制作費××億円というような凄さが売りであった時代もあるが、もちろん金をかけずにこつこつと制作されたものも少なくない。いずれにしても、本来制作する側の意欲が全面に出てくるはずの物。

一方、テレビは基本的に低予算で即時性の映像の提供に強みをもっているわけで、東京オリンピック、連合赤軍事件、日航機墜落事故などの時代を象徴するような出来事をお茶の間(まだあるのか?)に届けてきた。

しかし、しだいにエンターテーメントが本流として叫ばれるようになり、本質が変異して、実質的にコマーシャルが最大の目的となり、コマーシャルを見せるための番組作りがしばしば問題として表出してきたことは事実。

映画も一時観客数の低迷があり、生き残りのためにテレビに接近したわけで、最近の好調さはある意味本来の「映画芸術」の終焉を意味しているかもしれない。最近特に日本で話題になる映画というのは、結局テレビ界とのタイアップであることがほとんど。

もっとも「話題になる」ということ自体が、メディアに操作された結果であるわけだから、観る側の主体性がどんどん無くなっていることが映画をつまらなくしている要因としてあるかもしれない。

結局、あまりに情報量が多い現代社会では、すべての情報を拾捨選択するということは大変な努力が必要。ある程度、誰かが情報を整理してくれることは、時間と手間の節約のためにも必要になり、ここにメディア操作が介在する。

まぁ、小難しいことを考えてもしょうがない。映画にしてもテレビにしても、本当に優れた作品がしっかりと評価されるようになってもらいたいと思うわけです。

2011年2月19日土曜日

Karajan + BPO / Brahms Symphony No.1

最近、ブラームスが好きという方とお話をする機会がありました。

ブラームスというのは、もちろんクラシックの作曲家のヨハネス・ブラームスのことですが、実は自分はあまり聞いていない。

というのも、何となくとっつきにくいという印象があって、食わず嫌い的なところがあるのです。知っているのは、好きなピアニストのグレン・グールドが演奏している、一部のピアノ曲とピアノ協奏曲くらい。

2年前にお買い得なブラームスのほぼ全曲セットを購入したのも、あまり一生懸命集める気力のなさの現れ。こういう「なんでも揃ってます」というのは、実は「何も揃っていない」ということと同じ。

実際、ほとんど手つかずで46枚もあるCDのうち数枚以外は聞いちゃいないわけです。たまたま長女が、大学の課題の関係で昨年資料として活用してくれたので、無駄にはなっていないのですが。

あらためてセットの一枚目、カラヤン指揮ベルリン・フィルの交響曲第1番を聞いてみたのですが、出だしからあの重々しいブラームスらしい旋律が鳴り響くさまは、確かにぞくぞくっとして悪くはありません。

ベルリンフィルのような大編成オーケストラによる、怒濤・華麗な演奏に向いているということなんでしょうか。おそらく、パソコンとかでちまちまと聞いてもつまらいわけで、コンサート・プログラムとして聞くのがいいかもしれません。

それにしても、話をした方は、NHKホールが内幸町にあったころに、毎週N響アワーの公開放送にはがきを出して出かけていたそうです。出せば、ほぼ毎週当たるというのがすごい話ですが、ずいぶんといろいろな名曲を楽しんだといううらやましい話を聞かせてくれました。


自分はコンサートに行くわけでもなく、ひたすらせせこましく、パソコンで楽しんでいるだけですから、本当の楽器の響きというものがわかっていないのかもしれません。

とにかく、せっかく買ったCDですから時間を見つけて少しずつ聞くようにしないとなぁ、思い直したわけです。

2011年2月18日金曜日

m(_ _)m

さて、困った。今日は、想定外の出来事があって、とてもブログどころではありません。
とにかく、今日は今日、明日は明日。また、頑張ります。

2011年2月17日木曜日

なぞなぞ

簡単ななぞなぞです。

人の不幸を商売にしているのは何?

答えは・・・

医者です。

病気になって嬉しい人は、普通はいないわけで、
そういう不幸な人がいるから成り立っている仕事。

ですから、天候が悪くて「商売あがったり」なんていうのは
不遜な表現で、他人の不幸を待っているみたいでいけません。

でも、実際のところ、医者も生活がかかっていますから、
患者さんが来ないと困わけです。

だからと言って、笛や太鼓で患者さんを集めるわけにはいきません。

でも、物は考えようと言います。

人の不幸を取り除いてさし上げるのが、
医者の仕事だと考えることもできるわけです。

そこで、なぞなぞの問題を変えてみましょう。

人を幸せにする商売をしているのは何?

2011年2月16日水曜日

横浜新緑総合病院20周年

今夜は、新横浜駅近くであった会合に出席しました。

横浜新緑総合病院の創立20周年を記念して、勤務医と開業医との交流のための会、ということでした。ふだん関係のある整形外科の先生方はもとより、都筑区の会ではお会いすることの無い先生などにもご挨拶ができました。

もともとあった横浜緑病院というのは、いわゆる「老人病院」というもので、あまり評判の良い病院ではありませんでした。それを三喜会という法人が買い取り横浜新緑病院としてスタートしたのが、平成3年のこと。

東京女子医科大学の第2外科からのスタッフを中心に、救急を扱う病院として再スタートしたわけです。自分は、翌年の4月から週に1回のパートで勤務を始めました。このときは、まだ整形外科の常勤はいない状態だったのです。

平成5年の4月からは、当時在籍していた東海大学の整形外科から出向で、一人医長として始まったのです。当時は、まだ10年にも満たなかったキャリアにもかかわらず、ずいぶんと生意気だったのと思います。

それでも、たしか年間200件くらいの手術をこなして、とにかく強気の診療をしていました。翌年からは、大学からもう一人出してもらって、二人体制で平成9年の3月まで医長を続けたのです。

その後は、しばらく縁が切れていたのですが、平成12年に東京女子医科大学リウマチセンターに転職すると、ベッドが慢性的に不足していて手術を大学でこなしきれないため、平成15年からふたたび横浜新緑病院にお世話になることになりました。

月に1回の外来をもたせてもらって、そこへ患者さんを紹介して手術をセットするというわけですが、開業してからは自分で手術するというよりも、クリニックにきた患者さんのベッドの確保先として大変助かっているわけです。

クリニックにも、すぐに入院が必要な患者さんが来ることは珍しくありません。近くに大きな病院がありますが、なんでもかんでも引き取ってくれるとは限りません。そんな時、外来をやっている関係で、相当無理をきいてくれるのはここしかありません。

そんなわけで、この病院の歴史は、自分の医者としての歴史と多くの部分で重なるところが大きく、おそらく今後も続いていくのだろうと思います。

2011年2月15日火曜日

付き合い

このところ天候の話題を思わず前ぶりで使いたくなるのですが、昨夜からのドカ雪から一転して今日はまた春の日差しです。毎日アップダウンの激しい天候で、体調管理は大変ですよね。

さて、話は変わりますが、クリニック開業して5年。自分の付き合いというのも、次第に増えてきました。

まずは、同じクリニックビルで開業しているの先生方。これは運命共同体みたいなところがあって、全体の評判が個々のクリニックにも影響しますから、ちゃんとしないとね。

そして、地域の先生方。これはだいたい医師会からみか多くなりますが、自分の場合は特にこのブログ関係が一番緊密かもしれません。

リウマチ関連で親しくなった先生方との勉強会もすっかり定着して、いまや無くてはならない付き合いになっています。

自分が卒業した大学の同門関係の先生方とも、定期的にお会いしています。ここでも、気兼ねなくいろいろな話ができるのが嬉しい。

もちろん、いまでも関係が深い東京女子医科大学関連もあります。

まぁ、付き合いもずいぶんと広がってきたものだと思います。このあたりが、開業医としての実績の目に見える部分かもとれません。

ひとつひとつの積み重ねが、自分にとっては財産みたいなものですからね。これからも大切にしていきたいと思います。