2020年1月17日金曜日

Monica Groop, Jorma Silvasti, Osmo Vanska / Mahler Das Lied von der Erde (1994)

ルキノ・ヴィスコンティ監督の代表作である、トーマン・マン原作の「ベニスに死す(1971)」の中で、グスタフ・フォン・アッシェンバッハと友人であり理解者でもあるアルフレッドは、芸術論を戦わせるのです。

原作ではアッシェンバッハは小説家であり、映画では心臓が悪い幼い娘を亡くした音楽家、そしてその音楽は聴衆に理解されず演奏会でもブーイングを浴び失意の中、休養のため運命のベニスを訪れる。

当然、アッシェンバッハはグスタフ・マーラーをモデルに改変されており、一部実際の出来事が物語の大きく関わってきています。そして、実はアルフレッドのモデルはアーノルド・・・つまり、アルノルト・シェーンベルクであると言われています。

シェーンベルクは、1874年生まれで、マーラーより14才年下。無調性音楽の開拓者であり、現代音楽を切り開いた偉人の一人に数えられます。マーラーはそういう観点からは、後期ロマン派の調性音楽を極限まで高め、古典的な様式を破壊した偉人と言えます。

シェーンベルグの新しい音楽は、当然初めは聴衆に理解されるはずもありませんでしたが、マーラーは早くからその才能を認めていました。シェーンベルクの初期の集大成と言われている壮大な「グレの歌」などは、マーラーからの影響はかなり強い作品です。

マーラーは、「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」と妻のアルマに語ったと言われています。シェーンベルクは、アルマの70才の誕生日には曲を送ったりして、その晩年までマーラーを敬愛していました。

マーラーの死後、第一次世界大戦が勃発し、戦争が終わった1920年以降、シェーンベルクは優秀な演奏者を失い、少人数での演奏会のために多くの楽曲を用意しました。その中に、既存曲を室内楽用に編曲し直すという作業も多数含まれることになり、交響曲第4番、さすらう若人の歌、そして大地の歌などに手を入れることになります。

そこで、「大地の歌」をシェーンベルク編曲の室内楽版で聴いてみようということなんですが、実は完成させたのリーンと言う人で1983年のこと。マーラーのオリジナルの管弦楽版の楽器編成をみてみます。

独唱 アルトまたはバリトン、テノール
ピッコロ 1
フルート 3
オーボエ 3
クラリネット 4
バスクラリネット 1
ファゴット 3
ホルン 4
トランペット 3
トロンボーン 3
テューバ 1
ティンパニ、バスドラム、タンブリン、シンバル、トライアングル、銅鑼、グロッケンシュピール
ハープ 2
マンドリン 1
チェレスタ 1
弦五部 合計88

と言う具合で、マーラーの「交響曲」としては普通、むしろ少なめの編成です。ところがシェーンベルクはというと・・・

管楽器はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各1名でおしまい。足りない部分をピアノ、ハルモニウムで補填しました。打楽器担当も一人だけ。弦は、弦五部各1名だけ。つまり、たったの13人のオーケストラです。

マーラー自身によるピアノ伴奏版は、オーケストラ版と比べるとさすがに伴奏はスカスカです。そのかわり、歌曲としての面が強調され、歌手の声量の自由度が増える分、歌いまわしの色彩が増す感じ。

ところが、室内楽版で、楽器が極端に減ったのでさぞかしやはり伴奏はスカスカかと思いきや、これがすごいんです。録音の仕方も関係あるかもしれませんが、ほとんどフルオーケストラと比べて遜色がなく、むしろすっきりした感じすらある。

歌手も伴奏が大音量でない分歌いやすそうで、自然な味のある歌唱を聴かせてくれます。もともとマーラーの曲は、全体の演奏と共に個別に各楽器がソロをとる部分が多いので、ポイントを抑えれば人数が減っても大きな違和感は出ないのかもしれません。足りない部分を多声楽器のピアノとハーモニウムが出しゃばり過ぎずにカバーしている感じです。

今回手に入れたのは、最近ミネソタ交響楽団とのマーラー・チクルスで評価が上がっているオスモ・ヴァンスカが指揮をとるもの。メゾソプラノのグループもテナーのシルヴァスティは嫌みの無い声質で好感が持てます。

2020年1月16日木曜日

冬景色はいずこ


年が明けて、1年の中で一番寒い時期に入ってきた・・・

はずなんですけど、う~ん、寒くない。

寒いけど、例年と比べると、暖冬・・・っていうんですか、寒くない。

各地ではスキー場の雪不足の話題が届きます。そもそも、毎年この時期は、朝、車の霜をかき落とすのが日課ですけど、今シーズンはまだ1回か2回くらいしかありません。

否が応にも地球温暖化という切実な問題は、身近にせまっていると実感せざるをえないというところでしょうか。

このままだと日本の四季は、どんどん変化の幅が無くなって、そのうち常夏ジャパンになっちゃうと本気で心配する日が来るかもしれません。

2020年1月15日水曜日

The Gustav Mahler Celebration (2010)

これはDVDなんですが、おそらくテレビ放送用の企画物で、通常のコンサートの全曲演奏会とは違った、マーラーの音楽を少しずつ広く楽しもうというスタイル。

ですから、はっきり言って普通のクラシック愛好家にすれば、中途半端な演奏会という感じは否めません。ただし、マニア的には注目すべき部分が無いわけではありません。

まず指揮者がマンフレート・ホーネック。この人は元ウィーンフィルのヴィオラ奏者で、指揮者に転向してからはアバドの弟子になって、その後ピッツバーグ交響楽団といくつかのマーラー交響曲の録音が評価されています。

オーケストラはマーラー室内管弦楽団。アバドが組織したオケで、ユーゲント出身の優秀な演奏者が参加し、そのままルツェルン祝祭管の母体ともなっています。ですから、アバドのルツェルンのビデオでおなじみの顔がたくさん出てくるのが嬉しい。

ソロイストは、個人的に一番お気に入りのメゾソプラノのアンネ・ゾフィー・フォン・オッターが登場するのがポイントが高い。そして、晩年のバーンスタイに登場し、その後マーラー専門みたいな存在になったバリトンのトーマス・ハンプソンも楽しめます。最後だけですがソプラノのマリタ・ソルベルグも出演しています。

そして、会場がユニーク。このコンサートは2010年のマーラー生誕150年を記念する企画のようですが、なんとマーラー生誕の地、カリシュト村にステージを用意して誕生日の7月7日に行われた野外コンサートです。風景が映像としてところどころにはまって、音楽を楽しむのには邪魔ですが、マーラー所縁の地の様子がわかります。

収録曲を順番に並べてみると、
1. 交響曲第2番 第1楽章
2. 少年の魔法の角笛 ~ ラインの伝説 (Ms)
3. さすらう若人の歌 ~ 朝の野を歩けば (Br)
4. 交響曲第2番 第4楽章 原光 (Ms)
5. リュッケルト歌曲集 ~ 私は仄かな香りを吸い込んだ (Br)
6. 少年の魔法の角笛 ~ 死せる鼓手 (Br)
7. 交響曲第3番 第5楽章 ~ 三人の天使が歌っていた (Ms)
8. リュッケルト歌曲集 ~ 私はこの世に捨てられて (Br)
9. 少年の魔法の角笛 ~ 不幸な時の慰め (Ms、Br)
10. 交響曲第2番 第5楽章終結部 (Ms、S)

というわけで、マーラーの交響曲第2番を中心に胆だけをうまく選曲した・・・と言いたいところですが、見終わっての欲求不満感がかなりある。

交響曲第2番をぶつ切りにしたのは、やはり失敗でしょう。気持ちの盛り上がりが分断してしまい、また突然最終合唱が始まっても「何かなぁ~」というところ。毎回、拍手が入るのもうるさいだけ。

まぁ、テレビ向けのショーと割り切ってしまえば、ソロイストを中心とした見所はたくさんあるので、まだマーラーを知らない超初心者の入門にはいいのかもしれません。




2020年1月14日火曜日

Ivan Paley, Robert Dean Smith, Stephan M.Lademann / Mahler Das Lied von der Erde (2005)

どうしても固定観念というものがあって、マーラーで「大地の歌」を交響曲と呼んでも、それを交響曲として聞くのには無理を感じてしまいます。全6楽章というより、全6曲からなる連作歌曲集・・・といって、その価値が下がるわけではありません。

実際のところ、マーラー自身が1907~1909年に作られたオーケストラ譜と同時進行で、ピアノ伴奏譜を作っていたという事実がある。こういうことは、他の交響曲ではありません。

ただしピアノ稿が出版されたのは、死後80年近く経った1989年の事。しかも、初演はヴォルフガング・ザバリッシュのピアノ伴奏でリポフシェク(Ms)、ヴィンベルイ(T)という豪華メンバーで日本で行われました。

ただし、この世界初演の録音は残っていないようです。初録音はファスベンダーらによるものがあります。今回紹介するのは、スミス(T)、パレイ(Br)、ラーデマン(p)という男性三人組による演奏。

ラッキーなことに、ヘンスラーの格安マーラー全集に丸ごと組み込まれている。この全集には、ダムラウ(S)、パレイ(T)の組み合わせで「少年の魔法の角笛」ピアノ伴奏版も含まれています。本音をいうと、「大地の歌」もパレイと女声の組み合わせだと・・・

そうはいっても、これがなかなか良い。二人の男性歌手はいずれも素晴らしい歌いっぷり。やはり、オーケストラ伴奏に比べて、声量を抑えられるので、細かニュアンスを出しやすいところがいいんじゃないでしょうか。

オーケストラ版を聴くと、どうしてもピアノだけの伴奏はやや物足りない感は否めませんが、曲の構成の細かい所はわかりやすいというメリットもあります。

2020年1月13日月曜日

変容する渋谷


自分がこどもの時に、親に連れられ、あるいは一人で、そして友人たちと一緒に出かけたのは渋谷です。

特に、大学浪人していた時は、予備校より渋谷のジャズ喫茶に毎日通う方が多かったりして、大袈裟に言ってみれば「我が青春の街」みたいな感じ。

駅そのものは東横デパート。後に東急に吸収されて、東急東横店。東横のれん街では有名なお菓子などが簡単に揃います。

駅の東側には東急文化会館。東宝系の映画館、本屋の三省堂、そしててっぺんにはプラネタリウム。

駅の西側には東急プラザ。本屋の紀伊国屋、レコードのコタニ、ケーキのフランセ。

すぐ北の明治通りの角は東映の映画館。その横に全線座という、少し古いものを安く見れる映画館。

井の頭通りを行くと、本だけ売っている大盛堂、向かいには西武デパート。その先には河合楽器。公園通りに入るとパルコ。裏にCISCOという輸入レコード店。その先がNHK。

道玄坂には月賦で買える緑屋、ヤマハ楽器。途中の百軒店には、ジャズ喫茶とストリップ劇場。

全部消えてしまいましたし、残っているものも当時の建物はすべて取り壊され、装いも新たに新築されました。

また、渋谷××がオープンしました!! って話題になってますけど、そのたびにどんどん知らない街になっていく一抹の寂しさを感じてしまうわけです。

2020年1月12日日曜日

Dietrich Fischer-Dieskau, James King, Leonardo Bernstein WPO / Mahler Das Lied von der Erde (1966)

マーラーの交響曲では、第8番を除いて独唱者は女声のみなので、男性歌手の活躍の場はおのずと歌曲が中心になります。男声というと、当然のようにディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウは、最も名実ともに揃った史上最強のマーラー歌手と言えます。

フィッシャーディスカウの「大地の歌」の初録音は、1959年。この曲では、アルトまたはバリトン、そしてテノールの二人が登場するので、バリトンのフィッシャーディスカウは、必ず男同士の組み合わせになります。正規盤は以下の3種類。

1959年 パウル・クレツキ指揮フィルハーモニア管 マレー・ディッキー(T)
1964年 ヨセフ・カイルベルト指揮バンベルガー響フィル フリッツ・ブンターリッヒ(T)
1964年 ヨセフ・クリップス指揮ウィーンフィル フリッツ・ブンターリッヒ(T)
1966年 レナード・バーンスタイン指揮ウィーンフィル ジェームス・キング(T)

1959年盤はクレツキ指揮て有名ですが、音質がいまいち。1964年盤はDGなのにモノラルでクリップスの指揮による伴奏が評判を下げています。

ちなみに指揮をしている途中で亡くなったのはシノーポリが有名ですが、実はもう一人いてカイルベルトも心臓発作で倒れています。

となると決定盤は1966年のバーンスタイン盤。本来はニューヨークでマーラーを録音していた時期の物なんですが、契約の関係でDecca録音となり別立てになりました。

また、フィッシャーディスカウはバーンスタイン自身によるピアノ伴奏で1968年に歌曲集も録音したので、これらのバーンスタインとの仕事でマーラー録音史上の栄冠を勝ち得た感があります。

実際、男声と女声が交互に出てくる方が、聴いていて楽しいしコントラストもはっきりするので、バリトン歌唱はフィッシャーディスカウ以外は「なんかなぁ・・・」という感想になりやすい。アルト歌唱を凌駕しているのは、フィッシャーディスカウだけと言っても過言ではありません。

2020年1月11日土曜日

Christa Ludwig, Rene Kollo, Herbert von Karajan BPO / Mahler Des Lied von der Erde (1974)

1958 フリッツ・ライナー指揮 シカゴ響
1964 オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管
1967 カルロス・クライバー指揮 ウィーン響
1970 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィル
1972 レナード・バーンスタイン指揮 イスラエル・フィル
1972 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィル
1974 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィル
1983 ヴァーツラフ・ノイマン指揮 チェコ・フィル

これは、すべてマーラーの「大地の歌」の録音です。このうち1970年と1972年のカラヤンは非正規盤と思われますので、正規盤は6種類です。

マーラーの録音を網羅するデイコグラフィを掲載しているネットのサイトから抜き出してみました。で、何? ということなんですが、すべてクリスタ・ルードヴィヒが独唱者として参加しているものなんです。

クレンペラーのものは、「大地の歌」としては不滅の名盤と呼ばれるもの。クライバーは、クライバー唯一のマーラー録音。

クリスタ・ルードヴィヒは1928年生まれですから、ライナーとの初録音は30才、最後のノイマンの録音時は55才です。

1970 ラファエル・クーベリック指揮 バイエルン響
1970 ジョージ・セル指揮 クリーブランド管
1975 ベルナルド・ハイティンク指揮 コンセルトヘボウ管
1975 ルドルフ・ケンペ指揮 BBC響
1977 レイモンド・ルパード指揮 BBC北響

一方、こちらはジャネット・ベイカーが独唱する「大地の歌」で、1933年生まれなので、37才から44才までの歌唱を聴くことができます。ベストはハイティンクの盤でしょうか。

二人は60~70年代を代表するライバルのアルト歌手ですが、こうやって並べてみると、歌手と指揮者の組み合わせは重ならないものです。指揮者の好みもあるでしょうけど、レコード会社との契約の関係もありそうです。

マーラー録音で、この二人のどちらも起用しているのがバーンスタインなんですが、さすがに同じ声域の歌手ですから共演しているものはありません。同じセット内で二人の名前がクレジットされていものは、DGのシューベルト歌曲集のボックスとジウリーニのベルディ/レクイエムくらいではないでしょうか。

さて、本題はカラヤンなんですが、実はカラヤンもマーラーの演奏については消極的。避けて通れそうにないので、しかたがなく何曲かは録音しましたという感じ。それでも、カラヤン信奉者からはさすがカラヤンと褒め讃えられる。

自分はアンチ・カラヤンなので、基本的なスタンスとしてはほぼ無視。それで困ることはありませんが、マーラーについては有名なバーンスタインとの「喧嘩」の話が出てきます。

1979年10月に、バーンスタインが唯一残したベルリンフィルとの演奏がマーラーの第9番。その直後の11月に、俺様カラヤンが同じ第9番を録音したことで、バーンスタインは「泥棒のところには二度と行かない」とへそを曲げたというもの。

もっとも、これらの話は尾ひれがついて膨らんでいくので、どこまで本当かは当人だけにしかわかりません。ただ、上のリストを見ていて気がついたことがあります。

バーンスタインの「大地の歌」、最初の1966年の録音は男性歌手二人。カラヤンはいつもアルトにはクリスタ・ルードヴィヒを起用していましたが、男性歌手は別々。1972年の二度目のバーンスタインはルードヴィヒとテノールにルネ・コロを持ってきた(DVD映像と同じ音源)。

すると1974年のカラヤン正規盤での独唱者も、実は同じルードヴィヒとコロを起用しているんですね。はっきり言って、さして上手とは言いにくいコロをカラヤンがここで使う意味が、バーンスタインに対するライバル心以外には想像しにくいと思うんですよね。

ことマーラーに関しては、このあたりに二人の確執の根源があるように思えて、実に興味深い。クラシック音楽の世界には、シンガー・ソング・ライターみたいな人はほとんどいないので、演奏者によるレパートリーのかぶりは必須ですから、こういう話は日常的に起こりうることなんでしょうね。

2020年1月10日金曜日

Kathleen Ferrier, Julius Patzak, Bruno Walter WPO / Mahler Das Lied von der Erde (1952)

1911年のマーラーが亡くなって半年した11月に「大地の歌」の初演が、ブルーノ・ワルターの指揮によって行われました。そのワルターは、その後「大地の歌」を度々取り上げたので、正規盤としてはこの1952年盤以外にも、1936年盤(VPO)、1960年盤(NYP)があります。

おそらく、一番有名なのが1952年のDecca盤。モノラルですが、音質は上々で、ウィーンフィルの伴奏を超える演奏の出来が素晴らしいように思います。

名盤とされる理由のもう一つは、キャスリーン・フェリアの歌唱によるところもあります。フェリアはこの録音の翌年に乳がんのために41才で亡くなっています。ただし、癖のある声質、歌い方なので好みは分かれるところかもしれません。

このレコードにケチをつけるとするなら、惜しむらくはテノールのパツァークがいまいちということ。二人の独唱者のうちテノールは固定で、もう一人はアルトまたはバリトンです。テノールのほうが歌唱時間は少ないのですが、必ず登場するので、テノールがしまらないと残念感が漂ってしまいます。

「大地の歌」の歌詞の内容については、当然、あらかた語られた話ですから、ここで詳細にコピペしても仕方がないので、簡単にしまする。中国の漢詩(主として李白)の意味を「こんな感じかな」というくらいに英語に翻訳したハンス・ベートゲの「中国の笛」がベースで、それをマーラーが曲に合うように適当に省略したりくっつけたりして改変したもので、各楽章の副題だけあげておきます。

第1楽章 大地の哀愁に寄せる酒の歌
第2楽章 秋に寂しき者
第3楽章 青春について
第4楽章 美について
第5楽章 春に酔える者
第6楽章 告別

全体的に生と死、友との別れなどがテーマになっているわけですが、特に注目するのが最後の最後、「大地に春が来て、花が咲き樹々は緑になる、永遠に 永遠に……」というところ。この「永遠に」のフレーズが、そのまま交響曲第9番の冒頭のフレーズにつながっていくということは押さえておきたいポイントです。

2020年1月9日木曜日

Christa Ludwig, Fritz Wunderlich, Otto Klemperer / Mahler Das Lied von der Erde (1964)

グスタフ・マーラーは、都市伝説のような「第9の呪い」というジンクスを信じていたらしいことはよく言われている話。

ベートーヴェンは交響曲第9番までを完成させました。ドヴォルザークもそうですし、マーラーに近い所で、ブルックナーも同じ。つまり、交響曲は第9番まで作るとその作曲家は死んでしまうということ。

兄弟の死、娘の死、そして自分の心疾患など、マーラーの人生には死の影が付きまとっていたのは事実ですし、実際作られた曲は生と死、そして死からの復活などのテーマが見え隠れしていることは否定できません。

「大地の歌」は、実際のところ交響曲第9番となるはずだったことは、タイトルにマーラー自身が「Symphony for 2 voices and orchestra」としたことから明らかですが、現実的には交響曲と呼ぶのには、あまりに形式的な違いが際立っています。

ベートーヴェンが完成させた交響曲という枠を、マーラーはベートーヴェンを超えるために壊し続けたというところがあります。「大地の歌」も普通に交響曲として発表しても、「あー、またマーラーがやった」という話になったろうと思いますので、実際のところマーラー自身が交響曲と呼ぶには無理があると思ったんではないでしょうか。

普通に考えれば、これはオーケストラ伴奏による6つの連作歌曲と呼ぶ方が普通。最後の第6曲だけが、伴奏を超えてオーケストラによる器楽曲部分が大きく占めているために、単なる歌曲とは呼びにくくなっているという感じ。

マーラーの交響曲全集という場合、番号のふられた第1番から第9番は必須ですが、未完の第10番は完成しているアダージョのみ、あるいは後年他人が補筆完成させた版で加えることは珍しくありません。

しかし、「大地の歌」は第10番よりも含まれる頻度は少ないように思います。やはり、全編にわたって歌唱がはいるため、全集としては異質な感じがあるということでしょうか。聴く側としても、当然歌手に耳がいくので、オーケストラは伴奏という感覚から離れられません。

ですから、「大地の歌」の名盤を探す時は、どうしてもまず名唱のものから探してしまうことになり、指揮者、オーケストラは二の次になりやすい。それでも、両者のバランスの良さで一番の名盤はというと、一般的に選ばれるのがクリスタ・ルードヴィヒ、フリッツ・ヴンダーリッヒという二大スター歌手にオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団という鉄壁のキャスティングで有名な演奏。

1964年の録音で、マーラー受容がまだ進んでいなかった時期であるにもかかわらず、さすがにマーラーからの直接の薫陶をうけたクレンペラーの演奏は、その後の演奏の規範となるもので、音質も悪くなく広がりのある優れたものと言えそうです。

二人の歌手も30代後半で、歌手として一番油が乗り切って歌声も張りがあります。第1曲で、最初のテノールの第一声は、この曲を聴くうえでカギになる重要なポイント。ヴンダーリッヒの突き抜ける澄んだ声は、いきなり聴く者を鷲掴みにする魅力にあふれています。

2020年1月8日水曜日

Dietrich Fischer-Dieskau & Karl Bohm / Mahler Lieder (1963)

カール・ベームも、20世紀後半を代表する指揮者の一人ですし、自分のクラシック愛好歴の中でも、一番目か二番目に買ったレコードがベームの第九だったということで、大変親しみは持っています。

オーストリア生まれで、その風貌から、冗談はまったく言わない通じない頑固親父というイメージ。実際にもそうだったようで、長く務めたウィーンフィルではその厳しさが恐れられるとともに、絶大な信頼もしていたそうです。

70年代の勢力図は、ベルリンのカラヤン、ウィーンのベーム、アメリカのバーンスタインの3巨頭で大方占めていたといっても過言ではないように思いますが、自分がマーラーそのものであるかの如く邁進したバーンスタインに比べて、ドイツ語圏の二人はマーラーに対しては積極的な取り組みをしませんでした。

ベーム自身は、マーラーの「直弟子」であったブルーノ・ワルターを敬愛していましたが、その一方でマーラーのライバル的な存在であったリヒャルト・シュトラウスの本人後任の継承者という立場であったこと、そして何よりもナチス統率化のドイツ語圏でマーラーらユダヤ系作曲家の音楽が禁止されたことも強く影響しているのかもしれません。

フルトヴェングラーと同じで、歌手フィッシャーディスカウにより、マーラーを再確認したのは随分と遅くの話で、完全に出遅れた感があり、もはやマーラーの音楽は理解の外であり、短く完結する歌曲のみにわずかな録音を残すのみです。

正規盤としては、1963年のフィッシャーディスカウにベルリンフィルと共に伴奏したDG盤のみがあります。ここでは「リュッケルト歌曲集」、「亡き子をしのぶ歌」が演奏それています。

ザルツブルク音楽祭の自主製作盤として、1962年にフィッシャーディスカウと「亡き子をしのぶ歌」、1969年にクリスタ・ルードヴィヒと「さすらう若人の歌」、1972年にクリスタ・ルードヴィヒと「亡き子をしのぶ歌」があります。海賊版で1978年のザルツブルク音楽祭でのイボンヌ・ミントンとの「亡き子をしのぶ歌」もあるようです。

実は、いずれも入手していないので、内容についてどうのと書くことはできませんが、フィッシャーディスカウはさすがの歌唱であり、ベームも伴奏としてうまくまとめ上げているという評判です。

いずれにしても歌曲伴奏だけで、残念ながら交響曲の録音はありません。まぁ、中途半端に手を出すことを良しとしなかったということでしょうから、頑固親父らしいということで納得しておきましょう。

2020年1月7日火曜日

七草


2020年になっても、まぁ、時代が変わりましたけど・・・

日本の伝統文化は、それなりに守れるものは守りましょう。

・・・と、いうわけで、今日は1月7日。いわゆる「松の内」は今日まで。正月飾りは今日まで。

そして、七草粥を食べる日ということになっています。

いまさらですが、春の七草と呼んでいるのは、
せり・なずな・ごぎょう・はこべ・ほとけのざ・すずな・すずしろ。

葉っぱの5つは、せりは芹、なずなは薺でいわゆるぺんぺん草、ごぎょうは御形で別名母子草、はこべらは繁縷、ほとけのざは仏の座。

すずなは菘でカブ(蕪)のことで、すずしろは蘿蔔で大根です。

美味しいものを食べ過ぎた胃袋を休めるという意味もありますので、簡単に実践できる文化なので、このくらいは継承したいものです。

2020年1月6日月曜日

Roger Norrington / Mahler Symphony #5 (2006)

突然ですが、ヨハン・セバスティアン・バッハの話。

今から遡ること300年前。バッハは毎週のミサで演奏するカンタータを作るのに大忙しで、限られた予算に文句を言いつつぎきりぎりの人数での演奏をし続けていました。

しかし、時代が変わり教会に集まった老若善男善女から、ホールに音楽を聴くために集まる人々に聴衆が変化し、より大きな音量が必要になって楽器も変わりました。

現代になって音楽が多様化してきて、昔のオリジナルの楽器の仕様を復元し300年前の実際の音を再現しようとする流れが古楽とよばれ、そのための楽器がピリオド楽器、それらの独特の演奏方法がピリオド奏法と呼ばれます。

バッハが今のような巨大なコンサートホールでの演奏を想定した曲を作っていなかったのは自明の事で、カラヤンの重厚なマタイ受難曲は、大型化し鈍重な編曲版みたいなものというのはもっともな話です。

バロック期の音楽を今のオーケストラが、今風の豊かな響きで演奏することが悪いわけではありませんが、一度古楽系の音を聴いてしまうと、本来の音楽の姿が明白になってくる感じがして、もう現代オケの演奏の「嘘」が鼻についてしまうのです。

18世紀以後、古典期には急速に楽器が進歩する過渡期にあたり、ベートーヴェンのピアノソナタも新しい鍵盤楽器を意識してどんどん変化していきました。シューベルトを経て、シューマンの時代、つまり19世紀なかばには楽器はほぼ現在の形に完成していますので、その扱い方も大筋で決定づけられたと言えます。

ですから古楽系のアーティストがアプローチするのは、ぎりぎりシューマンくらいまで。頑張っても、19世紀後半の最後まで古典派の枠内から出れなかったブラームスが精一杯。無理してピリオド奏法で押し通しても、現実的音楽としての良さが半減してしまう感じは否めません。

そこでマーラーなんですが、19世紀末から20世紀初頭が主な活動期間であり、普通に考えれば現代のオーケストラが現代の楽器で演奏すればいいはず。

いいばすなのに、それをピリオド奏法にこだわって演奏しているのがロジャー・ノリトン。古楽界の草分けの一人ですが、同時期から活躍するガーディナーよりも10歳ほど年上。ベートーヴェンの早すぎる第九は有名です。

ノリトンは、すでに第1、4、5、9番を手兵であるSWRシュトゥットガルト放送交響楽団とCDとして録音しています。発売されるたびに、マーラーをピリオド奏法で演奏する是非についての物議をかもしているわけですが、当然一定の理解者はいる。

最初にばらすと、さすがにマーラーに関しては一部のノリトン・マニアの絶賛を除いて、否定的な意見の方が大多数という状況のようです。

実際、ノリトンが自らマーラーをピリオド奏法で演奏することの正当性を表明しているんですが、その中心は弦楽器がビブラートをかけるかかけないかに絞られる。

ピリオド弦楽器はガット弦を使用し音の減衰が早く響きが多くありません。演奏会場の巨大化に伴い、より大きな音を出すため、倍音効果が出せより音の通りがよくなるビブラートは現代弦楽器奏者はほぼ100%当たり前のように使用するテクニックです。

ノリトンは1930年代以降にビブラートがしだいに使われ始め、20世紀初頭のマーラーの音楽では不必要なテクニックと断言しているわけですが、残っている資料・録音・録画などの物理的な資料から、必ずしもそうとは言えないことが証明されているようで、自らを強引に正当化していると言わざるをえない。

バッハの音楽を現代風に演奏することは可能だし、それが現代人の耳で名演と感じることはあっても良い話なので、逆にマーラーの曲を古楽として演奏することもあっていいのですが、それが「正しい」とするのはやり過ぎの感があります。

試しに、弦楽器が思いっきり歌う交響曲第5番第4楽章、有名なアダージェットで聴いてみると、バイオリンの旋律が一音一音はっきりしている。これは、途切れ途切れだからであって、旋律の流れが分断している感じでいただけない。

つまり、緩徐楽章では良く言えばあっさりした味わい(言い方を変えると透明感がある)、悪く言えば味も素っ気もないサウンドです。管楽器がメインの場所、あるいはもともとテンポの速めの場所では、ノンビブラートであることの違いがはっきりせず必然性が無いということ。

単にマーラーも頑張ってピリオド奏法でやりましたくらいの話にしておけば、「変なマーラー」の一つくらいですんだかもしれません。とは言っても、「バッハは古楽で」と思っている自分としては、こういうマーラーも許容できなくはないんですけどね。

2020年1月5日日曜日

Georg Solti CSO / Mahler Symphony #7 (1971)

アバドやレヴァインが客演してシカゴ交響楽団を鳴らしてマーラー録音をしていた時期、オケのボスだったのはサー・ゲオルク・ショルティです。

ショルティはカラヤン、バーンスタインらと同世代で、1969年に音楽監督にシカゴ響の音楽監督に就任し、70年代から80年代に黄金期を築き、今日までのオケの名声と商業的成功の基盤を作った功労者です。

ショルティの音作りは「シカゴ・サウンド」と呼ばれる特徴的な物で、楽器、特に金管楽器をよく鳴らすメリハリのあるもの。しばしば「健康優良児のような」と形容されます。慣例的に変えられている部分も楽譜通りに演奏するため、正確であることを「ショルティのようだ」と言われることがありました。

そんなショルティですから、当然強く楽譜指示を求め金管楽器の活躍の場も多いマーラーとの相性が悪いはずがなく、音楽監督就任後すぐの1970年の第5、6番を皮切りに十数年かけて交響曲全集を完成させ、現代のマーラー振りのパイオニアの一人に数えられます。

第7番は曲想として必ずしもシカゴ向けとは云い難いところはありますが、第5楽章のにぎやかはまさにシカゴ向けで、オケを鳴らすことにかけては第一人者のショルティの面目躍如の演奏。

アバドの場合は、楽譜を尊重しつつも、その行間を読み、書かれていない作曲者の音符を具体化させることで優美な音楽作りをする感じ。ショルティの書かれている音符通りにびしっとまとめあげるショルティとは、同じオケでも違った印象の音楽が出来上がるというのは大変面白い所です。

2020年1月4日土曜日

James Levine CSO / Mahler Symphony #7 (1980)

ジェームス・レヴァインというと、メトロポリタン歌劇場との関係が長いので、オペラの専門家というイメージが強いのですが、実際は普通の器楽曲も当然ながらレパートリーにしています。

ユダヤ系アメリカ人のレヴァインは1943年生まれで、アバドらとラトル、シャイーらの間を埋める世代で、70年代以後は、最近になって過去の不名誉なセクハラ問題解任されるまで、メトロポリタン歌劇場を主たる活躍の場としていました。

アバドはマーラー演奏の初期に、1976年から1986年にかけて、シカゴ交響楽団と第1、2、5、6、7番、リュッケルト歌曲集を録音しています。レヴァインは同時期にフィラデルフィア管弦楽団、ロンドン交響楽団、そしてシカゴと集中的にマーラーの交響曲を録音しています。

その中でシカゴ響とは、第3番(1975)、第4番(1974)、第7番(1980)の録音があり、アバドのシカゴ響との録音の曲目選択に少なからず影響したのではないかと想像します。その中では第7番がアバドと重なっています。

アバド指揮の演奏時間は、
21:20 - 16:35 - 8:53 - 14:00 - 17:42 (78:30)

一方、レヴァインの演奏時間は、
21:35 - 15:54 - 10:20 - 14:46 - 17:46 (80:21)

レヴァインの方がちょっと長めですが、だいたい同じくらいで、例のクレンペラーの100分越えに比べればいたって普通。

アバドの方が、明晰な音という印象を持ちましたが、アバドはDG、レヴァインはRCAという録音技術の違いはあり、どちらかというとDGの方が管楽器の音をクリアに収録しているのかもしれません。

テンポの変化による演奏時間の差以外では、こういう長い曲では楽譜と見比べながら一音一音をチェックしないと、細かい違いはなかなかわかりません。当然、そんな力量は持ち合わせていない。

あくまでも雰囲気でしかありませんが、アバドの方がめりはりを付けた、レヴァインよりも若々しい感じの演奏になっているように思います。つまり、アバドは延ばすところは延ばす、切るところは切るというのがはっきりしている。

しばしばアバドは楽団に好きにさせ過ぎるという評をされるのですが、この演奏に限って言えばレヴァインの方がそれに当たる。もちろん悪い演奏ということではありませんが、これはアバドの後出しジャンケンみたいなところかもしれません。