あすなろ整形外科クリニックからのお知らせ

年末年始は12月29日(金)~1月4日(木)を休診します
ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします

2017年12月14日木曜日

2017年 総決算


今年も、あと残すところ2週間ちょっと。あっという間に、時間が過ぎていくのは、年を取れば取るほど強く感じます。

このブログも、気が付くと4000タイトルを超えていて、よくもまぁ、続けているもんだと我ながらあきれてしまいます。始めた当初の無料の宣伝という要素は、いまや微塵もなく、医学的な話題はむしろ避けていると言ってもいい。

完全に日々の日記状態で、ほとんど内容的にもどうでもいいことばかり。もうやめようかと思うこともありますが、何となく新しく興味を持つものが見つかると、その勉強ノートとしての機能として続いています。

今年は、まずヘンデルから始まりましたが、実はちょっと挫折しています。途中から、何度目かのオペラ鑑賞に移行してしまいました。オペラは、有名どころはいくつかDVDで見ることは見たんですが、やはりのめり込んでいくほどになれませんでした。

9月に出雲大社・厳島神社に出かけたわけですが、宗教的、思想的にはほぼ関心が無いので、日本の古代の国の成り立ち、神社に祀られている神の由緒など、もう少し知ってから出かければよかったという後悔から、むしろ、こっちへの興味が俄然沸いてきました。

知的探求心というものなんでしょうか、古事記などの記述がどうして出来上がったのか、謎がたくさんありますので、少しでも自分なりに納得できる答えを探してみたくなります。

ところが、もうこの手の話は、謎が謎を呼び、しかも証明は不可能ですから、底なし沼状態で、知れば知るほどわけがわからない。この辺りについては、もうしばらく勉強のネタは尽きそうもありません。

やっと古事記を読み通しただけですから、日本書紀でいうとやっと半分。ある程度、歴史としての確定的な時代・・・というと平安時代の手前くらいまでは追いかけてみたいところです。

趣味的な話はそのくらいにしておいて、クリニックはどうかというと・・・まぁ、基本的には順調なんですが、経営的には何とか赤字にはならないというところ。会計士の方にも、健全経営と言われているんですが、何しろ10年を超える機器をかかえていますから、毎日そろそろ壊れるんじゃないかとびくびくしています。

電子カルテのシステムだけは、壊れてからどうかするというわけにはいきません。ですから、今年最大の出費は、7月の電子カルテの総入れ替えでした。通常大手のメーカーのものだと、新規で数百万円以上はかかるところですが、うちは元々安さで勝負の電子カルテです。

新しいPC5台に入れ替えて、ソフトウェアの入れ直し、旧機からのデータ引継ぎ操作で何とか100万円(かなり安い!!)でまとめてもらいました。おかげで、OSが、とっくにMicrosoftのサポートが終了していたWindows XPから最新のWindows 10に変更され随分と快適になりました。

サーバーも一新して、使い勝手は向上しましたし、バックアップもより安定。この機にカルテのいろいろなマスター更新も、夜間自動リモートになりましたので、メンテナンスも楽になりました。

春に思いがけずダウンしたのは、レントゲンのサーバーでした。これも開業時に、できるだけ安い物を探して使用していたのですが、さすがにハードがもうダメになり、実はそのメーカーも無くなっていました。しかたがないので、レントゲンの読み取りシステムのコニカ・ミノルタの物を急遽導入。

これも交渉の結果、何とか100万以下で済ませられました。けっこう、それなりの交渉は必要でしたけど、どうも医療機器の値段というのはあってないようなものみたいなところがあって、定価を聞くと目の玉が飛び出ます。

もうひとつ問題がありました。クリニックのレントゲン撮影装置は、通常の撮影とあれば便利な透視ができるものなんですが、例えば透視は見ながら骨折のずれを治したりするのに使います。この透視のための装置が壊れました。

透視は年に数回しか使わないので、壊れたことにはまったく気が付きません。いつ壊れたのかわかりませんが、11月の定期点検で発覚しました。これには驚いた。早速修理の見積もりを出してもらって、さらに驚きました。

撮影装置はだいたい実質600万円くらいでした(これも定価は数千万)が、おまけみたいな透視で修理代が400万円越えでした。いや、もう、これは、悩むことなく却下です。下手すれば通常の撮影装置を買い直せるくらいの値段ですから、めったに使わないもののために400万では投資を回収できません。

いざという時の手段が無くなるわけですが、年に数回なので、何とかがまんします。実際、同じような事例はけっこうあるみたいで、メーカーの人も、たいてい修理しないことが多いといってました。

さて、今年は今までになく診療後の疲労を感じることが増えたように思います。年を取ったということなんですが、体力的な衰えは隠しようもなく、今のペースで仕事を続けるのはしんどいところです。

来年は、休診を増やすか、非常勤医師を依頼するかして、自分の休みを増やしたくなるのかもしれません・・・なんちゃってね。

2017年12月13日水曜日

魁力屋 @ センター南


久しぶりの魁力屋です。

最近は、美味しい担々麺を食べれる店を探して行くことが多かったんですが、今回は、鶏ガラ醤油の原点に戻りたくなりました。

とはいっても、昭和の典型的な醤油ラーメンに比べると、ずいぶんと進化はしているわけです。

魁力屋のスタンダードの醤油ラーメンです。チャーシューとメンマはありますが、ほうれん草、なるとはのっていません。

そして、何より背綿脂が、平成のラーメンの趣を強く感じさせます。健康上は必ずしも歓迎できませんけど、美味しさはまちがいなくアップ。

脂の甘味が旨さを強くして、表面が脂の層でコーティングされることで、スープが冷めにくく、最後まで熱々に食べることができますね。

でも、ベースの鶏ガラ醤油は、懐かしい味を思い出すのに十分で、実際に食べた経験はありませんけど、夜泣きそばのチャルメラの音が聞こえてくるようです。


2017年12月12日火曜日

史実の中の天皇記


一般的な日本の歴史年表は、次のように時代を分けています。

政治的・文化的な年代分類
旧石器時代 10万年前~
縄文時代 1万年前~紀元前3世紀 縄文土器
弥生時代 紀元前3世紀~3世紀 稲作始まる 集団の形成
古墳時代 3世紀~6世紀末 ヤマト王権の確立
飛鳥時代 6世紀末~ 聖徳太子、大化の改新
奈良時代 710年~ 平城京 記紀、風土記、万葉集
平安時代 794年~ 平安京 源氏物語、枕草子
鎌倉時代 1185年~ 鎌倉幕府 武家政権
室町時代 1338年~ 前半は南北朝時代、後半は戦国時代
安土桃山時代 1575年~ 織田信長と豊臣秀吉
江戸時代 1603年~ 江戸幕府 1853年黒船来航以後を幕末
明治時代 1868年~
大正時代 1912年~
昭和時代 1926年~
平成時代 1989年~

発展段階による年代分類
原始
古代 3世紀? 5世紀? 7世紀? 国家形成
中世 11世紀後半~ 荘園制度
近世 16世紀後半 太閤検地
近代 幕末または明治維新~終戦
現代 終戦後~ または 高度経済成長終了以後(バブル崩壊後)

これで、日本の歴史全体を・・・なんて大それたことは考えていません。あくまでも日本古代史を知るための俯瞰図みたいなもの。古事記を一通り読んだところで、今度は人代を中心に史実との関連を検討してみましょう。

とにかく、日本列島で、少なくとも人の痕跡として認められる最も古いものは約4万年前の石器です。もう少し古いかもしれないけど、(例の捏造事件発覚により)数十万年前ということはありません。

縄文から弥生の変化は、かなり大きな文化的な変革があり、稲作文化をもたらした朝鮮半島経由の大陸人の大量の渡来が大きく関わっていると考えられています。

縄文人が次第に弥生人になっていくことも否定できませんが、より巨大な先進性のある集団である弥生人により、縄文人は征服され、あるいは当時の辺境であった南九州や近畿へ追いやられたのかもしれません。

ただし、「騎馬民族征服王朝説」という有名な話がありますが、これは現在はほぼ否定されています。それほどの急激な変化ではないと考えられています。

紀元0年頃以降、弥生後半には地方単位の「国」が出来上がってきて、特に朝鮮半島との往来がしやすい九州北部が、より強力な力を持つようになります。教科書にたいてい掲載されている倭奴國金印は、「後漢書」によれば紀元57年に光武帝より与えられたもので、福岡圏志賀島で発見されています。

2世紀ごろに中国の歴史書、後漢書、三国志などの海外の史料から、倭国大乱の時期があったことが知られています。つまり、力をつけてきた地方豪族が互いに権力争いを行い、大陸側から見ると倭国、つまり日本の代表が誰なのか判断できなかったということです。

この時期に、近畿を中心に古墳が形成され始めたことは、しだいに日本の政治・経済的な中心が九州から近畿へ移動していったことを示しています。九州から勢力を拡大してきた弥生人が、縄文人が残る近畿を制圧したという考え方もあるようです。

これを記紀の記述に当てはめると、最初の文化的な人々(それをあえて神と呼ぶなら)が登場するスタートは弥生時代以後と考えるのが自然のように思います。ヤマト王権は、九州に始まり出雲付近までも勢力下に従えた集団の一つが始まり(天孫降臨?)だったのかもしれません。

彼らは、より経済的流通性に長けた東の地域への進出を狙うことになります(神武の東征?)。既存勢力を撃破して、ヤマトに初めての統一国家を作ることに成功します。これが魏志倭人伝でいうところの、(倭武命のようなスーパースターの活躍により)大乱を制して邪馬台国が倭国を統一という話とかぶってくることは避けられそうもありません。

魏志倭人伝から推定される卑弥呼が亡くなった年は、247年または248年です。邪馬台国はどこにあったかの論争はいまだに決着していませんが、スタート地点と思えば九州説ですし、ゴール地点と思えば畿内説ということでしょうか。

日本書紀の編者はおそらく畿内説の立場をとっていて、神功皇后を卑弥呼であると暗に示しています。ただし、日本書紀によれば、仲哀が亡くなるのが200年で、神功が摂政として采配を振るいます。そして、亡くなるのは269年ですから矛盾はしています。

さて、その次に記紀年代を特定するための重要な項目が「倭の五王」と呼ばれています。中国の複数の「史書」に登場する倭国の5人の天皇のことで、5世紀の宋の時代、武帝、文帝が活躍する時代です。宋の建国は420年、滅亡は479年です。412年~478年の間に讃、珍、済、興、武の5人の王との交流が記述されています。

この五王が誰なのかは、いろいろな説があり確定はしていません。それぞれが履中、反正、允恭、安康、雄略とする説、応神、仁徳、允恭、安康、雄略とする説が有力のようです。ただ、すべての天皇の実在が確定しているわけでもありません。

日本書紀の年代記載を信じるならば、各天皇の即位の年は、応神270年、仁徳313年、履中400年、反正406年、允恭412年、安康454年、雄略457年です。ちなみに続く清寧480年、顕宗485年、仁賢488年、武烈499年です。

とにかく、日本史の中では「謎の4世紀」とか「謎の5世紀」という言い方はよく出てくる、最も重要なのによくわからない時代。日本の国のそもそもの成り立ちの話ですから、できればタイム・マシーンとかできて確認できればいいんですけどね。

2017年12月11日月曜日

古事記 (20) 血統を守ったオケ・ヲケ兄弟


雄略天皇による血の粛清の結果、後継ぎがいなかった息子の清寧天皇の死去により、皇位継承者が不在の緊急事態が発生しました。

履中天皇には、皇子(雄略天皇からみると従兄弟)が二人、皇女が一人いました。皇子はいずれも雄略天皇により謀殺されましたが、兄の市辺忍歯別王(イチベノオシハワケノミコ、日本書紀では磐坂市辺押羽皇子)には、二人の皇子がいて兄を意祁命(オケノミコト、オケと表します)、弟を袁祁命(オケノミコト、ヲケと表します)といい、父が殺された時逃げ延び、一般人に紛れて隠れて生活をしていました。

清寧天皇が亡くなって、天皇不在となったため市辺忍歯別王の妹、忍海郎女(オシヌミノイラツメ)、別名、飯豊王(イイドヨノミコ)が臨時に政権を維持しました。

ある時、播磨国の国守が招かれた宴席で、少年兄弟が舞を披露しました。兄に続く弟は舞いながら「私たちは市辺忍歯別王の子である」と歌います。国守は驚いて、すぐに二人の発見を飯豊王に知らせました。

意祁命も袁祁命も、互いに天皇になることを譲り合いましたが、兄は「名を明かし復権できたのは弟の功績」とし、弟が第23代の顕宗(けんぞう)天皇に即位し、かろうじて天皇家の血統が断たれることが回避できました。

このエピソードは、日本書紀では多少の食い違いと、より詳細な裏事情が書かれています。まず、飯豊王は億計王・弘計王(意祁命・袁祁命)の叔母ではなく妹(か姉?)になっています。二人が発見される宴席があったのは清寧天皇存命中のこと。

弟の弘計王は、「乱から数年がたちそろそろ身分を明かそう、明かして抹殺されるかもしれないが、卑しい身分で死んでいくよりまし」と兄の億計王に言います。兄も承諾し、宴席での舞と歌になるわけで、知らせを聞いた清寧天皇は世継ぎがいなかったため、喜んで二人を迎い入れました。

清寧天皇が亡くなって、皇太子だった兄の億計王は弟が即位すべきといいはり、二人の間で譲り合いが始まります。しかたがなく、飯豊王は忍野飯豊青尊(オシヌノイイトヨノアオノミコト)として暫定政権を維持しましたが、1年経たないうちに亡くなり、ついに兄に説得された弟・弘計王が天皇に即位したということです。

ちなみに飯豊王に「尊」をつけ、亡くなったことを「崩じた」と記してあるので、事実上、初の女性天皇と認識されていたことになりますが、代を数える場合からは除かれています。

さて、神代から続いてきた古事記の最後を飾る大きなエピソードが、意祁命・袁祁命、二人による雄略天皇への復讐です。

顕宗天皇が即位してしばらくして、父親の市辺忍歯別王の歯は押歯(山形に削った歯?)だったことを頼りに、兄弟は父の骨を見つけ出し丁寧に埋葬しました。

次に、父の仇討ちとして雄略天皇の墓を壊そうということになり、兄の意祁命が「それは人にやらせてはいけないことだから、自分がやって来る」と言いでかけていきます。

意外に兄が早く帰って来たので、わけを聞くと、「父の仇ではあるが、我々の親族でもあり、天下を治めた方であるので、それを破壊したら後世に汚点を残す。ですから、少しだけ掘り返すだけにして侮辱するだけにしてきた」との説明に弟の顕宗天皇は納得しました。

日本書紀では、さらに「息子の清寧天皇には世話になったのだから」という理由も加えて、少しだけ掘り返すこともせず、大人の対応で事を収めています。

顕宗天皇は38歳で亡くなり世継ぎはいなかったので、兄の意祁命が第24代の仁賢(にんけん)天皇として即位しました。仁賢天皇は、清寧天皇の異母妹である春日大郎女(カスガノオオイラツメ)を妃とし、息子の小長谷若雀命(オハツセノワカササギノミコト)が、後に即位して武烈天皇になりました・・・という記述で古事記は終わります。

ドロドロした権力闘争の後、御家断絶の危機を乗り越え、兄弟を通して家族愛、天皇崇拝が何よりも重要であることを高らかに示しての終了です。

とりあえず、抜けている話もありますけど、重要処はだいたいおさえたと思います。日本書紀については、全30巻のちょうど半分にあたります。古事記を通して読み終えると、神代のファンタジーから、しだいに歴史上の事実に近そうな話になっていきますが、それでも編纂上、いろいろな意図的な創作・改変は多々あることは容易に想像できました。

日本古代史を知るために古事記は重要な書物ですが、考古学的知見も含めてそれ以外の史料も不可欠であることもよくわかりました。古事記には、編者が知らなかったのか、書き忘れたのか、意図的に隠したのかわからない事柄がたくさんあり、日本書紀をはじめいくつかを並行して勉強していかないといけません。

でも、知れば知るほど実際の歴史の事実は混沌として、謎が謎を呼ぶことになるんですね・・・・いやはや、終わりが見えてきませんね。

中つ巻以後は天皇家の歴史が中心になるため、天皇系図は理解する上での必須資料です。最も信頼すべき公式の系図は宮内省により公開されています。
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/img/keizu-j.pdf


2017年12月10日日曜日

古事記 (19) 雄略天皇の汚点


允恭(いんぎょう)天皇の皇子、穴穂御子(アナホミコ)は皇位を継承することなっていた兄の木梨之軽太子(キナシノカルノヒツギノミコ)を自殺に追い込み安康(あんこう)天皇として即位。古事記にはそれ以上の話は無く、安康天皇の弟、大長谷若健命(オオハッセワカタケノミコト)が第21代の雄略(ゆうりゃく)天皇に即位します。

最初のエピソードは、ちよっと天皇の傲慢なところが出ています。山道を通っていると、立派な家を見つけて「自分の御殿に似ていて生意気」と言うと焼き払おうとし、家主に土下座をさせます。

ある時、老女がやってきて「お仕えすることはもう無理」と言うので理由を聞くと、昔にたまたま見初めて「迎えを寄越すから待っていろ」と声を掛けたのを80年もの間忘れていたという話。また、討ちそこなった手負いの猪を恐れて木に登って逃げたなど、比較的呑気な話が続きます。

山で、自分と御付きの者たちとそっくりな集団と出逢い怒りますが、相手が善い事悪い事を一言で判断できる一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)であるとわかると、平伏し礼を尽くします。

124歳で雄略天皇が亡くなると、息子の白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)が第22代の清寧(せいねい)天皇となりますが、妻子がいなかったため、ついに天皇の血族が途絶える危機に直面します。

以上が古事記の記述。好色で呑気な雄略天皇像が浮かび上がってきますが、実は大悪天皇とも呼ばれる雄略天皇の本当の怖さは日本書紀でしかわからない。比較的、親から子へ自然に継承されてきた皇位が、力によって奪取されるドロドロの権力闘争(ある意味、王権の成熟)が展開される様子が書かれています。

允恭天皇は皇后との間に、木梨軽皇子(キナシカルノミコ)、名形大娘皇女(ナガタオオイラツメノヒメミコ)、境黒彦皇子(サカイノクロヒコノミコ)、穴穂皇子(アナホノミコ)、軽大娘皇女(カルノオオイラツメノヒメミコ)、八釣白彦皇子(ヤツリノシロヒコノミコ)、大泊瀬稚武皇子(オオハツセワカタケルノミコ)、但馬橘大娘皇女(タジマノタチバナノオオイラツメノヒメミコ)、酒見皇女(サカミノヒメミコ)という5人の男の子と4人の女の子をもうけました。

長男の木梨軽は長女の軽大娘となんと禁断の恋、まさに同父同母の近親相姦の罪を犯します。そのため、允恭天皇の葬儀が終わってから、安康天皇となった穴穂皇子は逃げ隠れた木梨軽を取り囲み自害させます。

そして弟の大泊瀬稚武の嫁に、父允恭天皇の異母兄弟である大草香皇子(オオクサカノミコ)の娘を迎えようと使者を遣わせます。大草香は承諾しましたが、使者が献上された宝を横取りし、拒否されたと嘘の報告をしました。安康天皇は怒って大草香を攻め滅ぼし、妻の中蒂姫(なかしひめ)を自分の妃、娘の幡梭皇女(はたひのひめこ)を大泊瀬の妻にしました。この時、中蒂姫は息子の眉輪王(マヨワノオオキミ)を連れてきます。

眉輪王は父の仇である安康天皇を刺し殺し、その報告を聞いた大泊瀬は裏で兄弟が関与していると疑い、まず八釣白彦を殺し、境黒彦も追及しました。境黒彦と眉輪王の二人は逃亡先で焼き殺されます。さらに安康天皇が後を託そうとしていた履中天皇の子供である磐坂市辺押羽皇子(イワサカノイチベノオシハノミコ)を、狩に連れ出し射殺し、その弟の御馬皇子も捕らえて処刑しました。

これは、もう完全に血の粛清というべき、父の仇討ちに名を借りた皇位継承権利者の大量虐殺です。皇室の万世一系が真実ならば、間違いなくその血筋の最大の汚点と言えます。

雄略天皇の後は、清寧(せいねい)天皇が第22代に即位しますが、磐城皇子(イワキノミコ)と星川稚宮皇子(ホシカワワカミヤノミコ)という二人の異母兄弟がいました。子は親を見て育つもので、この二人は(清寧天皇の指令により?)後に焼き殺されてしまいます。

清寧天皇は元々の名は、白髪武広国押稚日本根皇子(シラカミノタケヒロクニオシワカヤマトネコノミコト)という名で、生まれながらにして白い髪をしていて霊的な力を持っていたと書かれています。即位したのが23才、5年後に若くして亡くなっています。医学的には、アルビノと呼ばれる先天性の色素欠乏で、皇室の近親婚が続いたことの遺伝的障害が関与している可能性は否定できません。

いずれにしても、雄略天皇・清寧天皇の親子で皇位継承者をすべて排除してしまった結果、天皇家を継げるものがいなくなってしまうという大きな危機が訪れたことは古事記でも日本書紀でも同じ。権力闘争により自ら招いたこととはいえ、何とも困ったことになりました。

2017年12月9日土曜日

古事記 (18) 仁徳天皇と三人の息子


大仙陵古墳は大阪府堺市にある、日本で最も有名な最大級の古墳です。小学校の社会科以来、まず写真を見たことが無いという日本人はいないのではないでしょうか。

航空写真では、上から見ると大きな鍵穴のような形の、典型的な前方後円墳で、大きさは840m×654mです。出土品から、おそらく5世紀後半に作られたものと推定されています。

仁徳天皇陵とも呼んでいて、むしろこの別名の方が有名ですが、実は仁徳天皇の墓と「推定」されているだけで、本当に埋葬されているのが誰かは確認はされていません。

さて、古事記はいよいよ下つ巻に入り、ここからはおそらく実在性の高い天皇記が続きます。最初に登場するのが仁徳天皇で、ここだけはほのぼのとした雰囲気なのですが、以後は、天皇家内の血生臭い権力闘争が続くことになり、いかにも「歴史」らしい話が続くことになります。

仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた応神天皇の二人の息子、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラッコ)と大雀命(オオサザキノミコト)は皇位継承を譲り合っていましたが、ウジノワキノイラッコの急死によりオオサザキが第16代の天皇に即位しました。これは西暦では日本書紀の記述を信じるならば、313年のことです。

仁徳天皇は、治水工事や開墾を奨励し、港を作り内陸に堀をつなげ水上交通の利便を図りました。そして、国に煙が立ち上っていない様子を見て、民は困窮していると考え、三年間の税と労役を免除しました。自らも、宮殿の雨漏りくらいは我慢したりしたおかげか、また煙が経つようになったということです。ですから仁徳天皇の時世を「聖帝(ひじりのみかど)の世」と呼びます。

ある日、天皇は吉備の黒日売(くろひめ)を一目惚れで召し上げましたが、本妻の超嫉妬深い石之比売(イワノヒメ)に追い返されてしまいました。天皇は淡路島に行くことにして、そこからクロヒメと密会デートをしたりしています。

さらにイワノヒメが宴席用の食器を調達しに木国にでかけると、その隙に別の女性を宮殿に上げてしまいます。それを知ったイワノヒメはせっかく用意した食器を海に投げ捨てて別邸にこもってしまいました。天皇は、使者を使わせていろいろと歌にのせて許しを請うという話。

それでも懲りない天皇は・・・いろいろあって、83歳で崩御し、百舌鳥(もず)の耳原、つまり現在の大仙陵古墳と考えられている場所に埋葬されました。

日本書紀には、ウジノワキノイラッコは皇位を譲るために自殺したと書かれていますが、真相は闇の中。さらにいくつもの恋バナが書かれていて、仁徳天皇は善政を施す好色能天気人間という感じ。

仁徳天皇とイワノヒメの間の長男が、第17代の履中(りちゅう)天皇で、次男が第18代の反正(はんぜい)天皇、そして三男が第19代の允恭(いんぎょう)天皇となります。

古事記では履中、反正天皇の二人のことは省略されています。日本書紀によれば、それぞれ即位して6年、5年で亡くなっています。允恭天皇については、氏族の呼称が乱れているため、それを正しく定めることをしたというのが数少ない業績として書かれています。いわゆる戸籍調査をして、氏族を明確にしたということでしょう。

允恭天皇崩御後、長男の木梨之軽太子(キナシノカルヒツギノミコ)は皇位を継承するはずでしたが、粗暴なうえ同母妹とできてしまったため四男の穴穂命(アナホノミコト)が人気急浮上してきます。両者は武器を揃え内乱直前で、アナホノミコト側が相手を捕獲することに成功し、兄と妹を流刑にし、二人は自ら命を絶ちました。

アナホノミコトは即位して、第20代の安康(あんこう)天皇となりますが、即位後の話は日本書紀のみ。安康天皇は、仁徳天皇が日向の髪長比売(かみながひめ)との間に生まれた大草香皇子(オオクサカノミコ)を誤解から殺してしまいます。そして大草香皇子の妻であった中蒂姫(なかしひめ)を皇后に、大草香皇子の妹である幡梭皇女(はたひのひめみこ)を自分の弟である大泊瀬皇子(オオハツセノミコ、後の雄略天皇)の妻に迎えます。しかし、即位してわずか3年で中蒂姫の連れ子、眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されてしまいました。

2017年12月8日金曜日

大雪


呼び名からして大雪(だいせつ)は、冬本番です。

各地から初雪の便りが届く・・・なんて生やさしてもんじゃない。

もう、積雪がどのくらいという話で、山では、そろそろ動物は冬眠生活に入るらしい。

そりゃそうでしょう。食べるものが見つからず、動いてエネルギーを消費しては命に関わります。

都会でも、今週になって急に朝の冷え込みは強くなりました。車にも霜が降りるようになって、朝の準備に余計に時間がかかります。

暖かくて美味しい物を食べるのに、屋内に閉じこもりがちになって、運動不足が心配。体重計で毎日チェックして、注意したいものです。