夏季臨時休診
2026年7月11日土曜日
続・石油原料節約パッケージ
1か月ほど前に、カルビーの石油原料節約パッケージ版「かっぱえびせん」の話を書きました。クリニックのスタッフが見つけて買ってきたものですが、その後、また見つけたと言って買ってきて見せてくれました。
今度はポテチです。
確かに中身は同じで、外側はどうでもいいことなんですが、こうやって白黒バージョンを見ていると、袋の色によって味の違いを判別していたことがわかりました。
ぱっと見ただけでは、何味なのかよく分かりません。不便と言えば不便。
ただ、何でも値上げされるご時世ですから、少しでも値段を据え置きしてくれる工夫については、消費者側も受け入れていくことは大事。
白黒パッケージについては、イラン危機による石油由来のナフサ不足が原因ですが、ナフサの供給が安定してきたことで、カルビーとしては少しずつ色付きに戻していくいうニュースがありました。
とりあえず表だけカラーに戻すらしい。
それにしても、自分はよく行くスーパー数か所では、いまだに一度も白黒パッケージは見たことが無いんですけど・・・
2026年7月10日金曜日
Before the Flood (1974)
1973~1975年は、アメリカ近代史の中で、政治・経済・文化のいずれもが大転換を強いられた激動の3年間と言われています。リチャード・ニクソン現役大統領の犯罪が露見したウォーターゲート事件を手始めに、国民の中に強い政治不信が生まれます。また、国民の不満を外に向ける役割も果たしていたベトナム戦争が終結し、事実上の「敗戦」を経験したアメリカには虚無感が広がります。
そして、公民権運動は有色人種や女性の地位向上をもたらし、白人男性社会の構図を脅かしました。さらに第1次オイル・ショックによりガソリン価格が高騰し、ガソリン消費大国のアメリカは大きな打撃を受け、不況と物価上昇により経済は低迷しました。
1776年7月4日にイギリスからの独立宣言をしたアメリカは、1976年の建国200周年を目前にして、それまで培った価値観が揺らいでいたのです。人工妊娠中絶が合憲とされ、同性愛も「病気」として扱わなくなるなど、現在に続く多様性の容認が始まりました。既成の権威や資本主義、物質主義に異議を唱える「カウンターカルチャー」の象徴だったヒッピー文化は、その矛先を失い急速に衰退します。
ボブ・ディランは、60年代前半に突然現れカウンターカルチャーの舵取りを任されたわけですが、交通事故を契機に後半は世間の目から逃れた内省の時代を経て、70年代に入るとその変化を表に出すようになりました。この時期はアメリカ全体としては「Me (私)の時代」と呼ばれるようになりますが、社会の混迷から全体の改革よりも自分を見つめ直し自分をよくしていこうと考えるようになり、ディランは再び時代の象徴のように見られることになるのです。
1974年年明け早々、1月3日、18,000人の大観衆を集めたシカゴ・スタジアムで、1966年以来となるディランのツアーが始まりました。ツアーの概要は、わずか6週間前に告知され、チケットは郵便での受付のみとなったため、各地の郵便局はパニックになったと言われています。ツアーに同行したのは1966年のツアーでも一緒だったThe Bandですが、The Bandはすでにスターとなって今回はバックバンドではなく共演という位置づけになりました。
ツアーは、1月3日から2月14日までの43日間、北米各地で40公演という超過密スケジュールで行われました。11月の「PLanet Waves」のレコーディングでは、雰囲気を大事にした比較的コンパクトな演奏でしたが、ツアーでは大会場でものすごい数の観客を相手にしなければならないので、ディランもThe Bandのメンバーも負けないように大音量の派手なロックで畳みかけるつもりで準備をしていました。
シカゴで始まった第一声はデヴュー間もない頃に作られた「Hero Blues」で、今では「The Bootleg Series Vol.9 The Witmarl Demos」でフォーク版を聞くことができますが、当時の人々はまったく知らないであろう曲です。しかし、ミディアム・テンポのブルース・ロックは観客を十分に盛り上げることに成功しています。続く「Lay, Lady,Lay」もオリジナルのカントリー調から見事なロックに変貌しています。
ジミ・ヘンドリックスのカバーを参考にしたという「All Along the Watchtower」まで、一気に畳みかけたかと思うと、そこからは一転してディランのソロ・パートとなりアコースティック・ギターとハーモニカだけの従来のステージで、「The Time s They Are A-Changin'」や「Song to Woody」などを歌います。間にThe Bandのみの演奏を数曲ずつはささんで、最後は再びエレクトリック・パートでロックに変貌した「Like a Rolling Stone」などを歌いました。
2024年に、正式にアサイラム・レコードが録音していたツアー音源が「1974 Live Recordings」として27枚組CDボックス・セットとして発売され、ツアーのほとんどの演奏を聴くことが可能になりました。ただし、このセットの残念なところはThe Band単独の演奏はすべてカットされているところです。ディランに負けないほどに成長した彼らの演奏を含めてのツアーなので、ディランだけだと流れがバラバラな印象があります。
そういう意味では、ディランとしては初めてのライブ盤として1974年6月に発売された「Before the Flood (偉大なる復活)」の方が、ライブ全体の雰囲気が伝わりやすく作品として悪くはないと思います。とは言え、当時は、ディラン・ファンからすればThe Bandの単独パートは不要だという意見かあったのはもっともなことだと思います。このアルバムは、大部分がツアーの千秋楽、2月14日のイングルウッドで収録されています(一部が同じ場所の前日の演奏)。
ツアーとしては興行的には成功したと言えるのですが、実はディランもThe Bandもツアーが進めば進むほど自分たちの音楽が商業的に利用されているという気持ちが強くなっていました。それぞれが、自分自身を演じているというような、冷めた視点で見るようになり、必ずしも楽しいものではなくなったらしい。
アルバム・タイトルは「洪水の前」ですが、これは建国200年を目前して混沌と化した社会をリセットするための「洪水」であり、ディランは世間の注目の中で、「ノアの箱舟」の役割を担わされることになってしまうのです。
ちなみに、ジャケット写真は観客がライターに火をつけて掲げている写真が使われ、現代のライブではライトアップはお馴染みの光景ですが、この手の仕掛けがコンサートで行行われた元祖と言われています。
Most Likely You Go Your Way and I'll Go Mine
Lay Lady Lay
Rainy Day Women #12 & 35
Knockin' on Heaven's Door
It Ain't Me Babe
Ballad of a Thin Man
Up on Cripple Creek*
I Shall Be Released*
Endless Highway*
The Night They Drove Old Dixie Down*
Stage Fright*
Don't Think Twice, It's All Right
Just Like a Woman
It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)
The Shape I'm In*
When You Awake*
The Weight*
All Along the Watchtower
Highway 61 Revisited
Like a Rolling Stone
Blowin' in the Wind
Bob Dylan (vo, guitars, harmonica, ), Robbie Robertson (ele.g, vo)
Garth Hudson (org, p, clavinet), Levon Helm (vo, ds)
Richard Manuel (vo, p, ele.p, org, ds), Rick Danko (vo, b)
* The Band only
February 13, 14, 1974 Los Angels Forum, Inglewood, CA
☆☆☆☆☆☆☆・・・
2026年7月9日木曜日
Planet Waves (1974)
コロンビア・レコードからの報復措置があったものの、1973年秋に移籍問題を何とかクリアしたボブ・ディランは、移籍先のアサイラム・レコードのディビッド・ゲフィンのアイデアに従ってすぐさま新たな「復活の」動きを開始します。
まず、翌年にThe Bandと伴に大規模なツアーをする計画が始動します。ディランが大規模なツアーを行うのは、事故で隠遁生活に入る前、1966年のツアー以来です。この時のバックを務めたのもまだHawksと名乗っていたThe Bandでした。ディランとThe Bandはツアーのテストを兼ねて、何度かカリフォルニア州マリブのロビー・ロバートソンの自宅などに集まりセッションを重ねました。
ツアーを取り仕切るプロモーターは、ライブ会場であるフィルモア・イースト、フィルモア・ウエストを有名にしたビル・グラハムで、かなり早い段階から出演者未定のまま大きな会場をおさえていました。年明け早々から始まるツアーが公表されたのはたったの6週間前の11月25日で、郵便のみでの申し込みとしたので郵便局はパニックになります。
そして、ディランはロサンゼルスのスタジオにThe Bandのメンバーを招集し、ニュー・アルバムの制作に取り掛かりますが、初日は11月2日でしたがドラムのリヴォン・ヘルムが移動中で参加できなかったため、軽めのリハーサルでした。本格的に収録が行われたのは、5日、6日、8日のたったの3日間で、ディランのソロ曲のための9日を入れて正味4日間で完成させています。
これは、ツアーを目前にして時間が足りなかったというのもあるかもしれませんが、ディランのライブ感覚で多少のキズは気にせず、一気にたたみかけるように演奏したいという意向が強く働いたようです。ディランは細かく曲の説明せず、メンバーはその場でディランの演奏に反応して曲を完成させるという、長年の信頼関係があったからこその緊張感のあるセッションになりました。
それでも、今までのアルバムではThe Bandはあくまでも伴奏バンドという印象があったのですが、初めてバンドを含めた一体感を感じることができる出来になっているのは凄い事です。発売されたのはツアー中盤の翌年1月17日で、ディランとしては初めてBillboardのランキングで1位になりました。
冒頭「On a Night Like This」は、内容は「冬の暖炉を囲む恋人」の話で、軽快なテンポでアルバムに入り込みやすい。「forever Young」は今でも歌われる定番曲になっていますが、父親として息子の健やかな成長を願う気持ちが歌われていて、この曲だけは一連のセッションの中で、ディランもいろいろ悩んだようです。当初はスローバージョンでしたが、感傷的になりすぎるという理由でアップテンポ・バージョンも試され、両方がアルバムに入ったのはどちらかに決めきれない結果でした。
最後に収録された「Wedding Song」は、スタッフが全部終わったと思ったら、あと1曲やりたい曲があるというディランの申し出によって追加のような形で加わりました。The Band抜きのディランのギターとハーモニカだけという演奏で、ディランの苦しい心の叫びのような内容になっています。
当時、ディランと妻サラは、すでに破滅に向かうスイッチが入っており、「今の自分がいるのは君のおかげだ」と感謝の言葉が並ぶ一方で「君の言葉のナイフが自分を殺す」と歌うのです。それでも「君を失えば自分が壊れてしまう」と悲壮なジレンマに陥っている内容は、この後に発表される名作「血の轍」のプロローグとなっているかのようです。
久しぶりの全曲自作曲でかためられ、おおむね高評価を得たアルバムで、売れ方も出だしは絶好調のように見えました。しかし、注文が増えるほど、ディランほどのビッグ・ネームを扱ったことが無い新興アサイラムのレコード盤製造能力や全国への配送能力が追い付かなくなり、販売枚数は予想をはるかに下回ったのです。このことは、ディランにアサイラムに対する不信感を植え付けるのに十分すぎる結果でした。
November, 1973, Los Angels, CA
☆☆☆☆☆☆☆☆・・
2026年7月8日水曜日
ほたて日和 監修 至福の冷製和え麺 @ ファミリーマート
1月に冬の温かメニューで「至福の塩ラーメン」を紹介したんですが、今度は夏の冷たいバージョンです。
監修したほたて日和は秋葉原にあるつけ麺の店・・・らしいんですが、当然行ったこともなく、その店が監修することの価値についてはよくわからんです。
ただ、コンビニで思わずこれを手に取ってしまった最大の理由は・・・
何と、何と、これ360kcalなんです。
普通のラーメン的な物からすると、実に低カロリーで嬉しい。
その上美味しい、とくれば何を迷う必要がありましょうか。
特にポイントが高いのが、付属の梅ジュレ。
味変をするために「途中で入れてください」、と注意書きシールが貼ってあります。
けっこうこれがいい感じなので、また食べたくなります。
2026年7月7日火曜日
Around DYLAN - Mike Bloomfield & Al Kooper
マイク・ブルーフィールドとアル・クーパーは、フォークからロックに移行するボブ・ディランをしっかりと支えた功労者です。
1965年3月の「Bringing It All Back Home」で初めてエレクトリック・バンドを導入してロック色を出しましたが、ここはまだ中途半端でアコースティックをエレクトリックに替えただけという見方もできます。続く1965年8月の二人が参加した「Highway 61 Revisited」は名盤と言われ、ディランのロックへの本格的な転向が高らかに宣言されました。
マイク・ブルームフィールドはシカゴ出身、ディランより2歳年下で、すでにデヴューしていた同郷のポール・バターフィールドに誘われ、彼のブルース・バンドのギタリストとして頭角を現し始めていました。
1965年6月のセッションでは、ディランの要望でブルームフィールドが呼ばれました。ディランはブルームフィールドのシカゴ仕込みのブルース・ギターの音に惚れ込んでいたのです。またディランの考えている音楽を鋭く察知して、他のミュージシャンにも方向性を伝達する力があり、実に頼りがいのある逸材でした。
さらに2歳年下の生粋のニューヨークっ子のアル・クーパーが、セッションに参加したのは「奇跡的な偶然」と言われています。ソング・ライターでギタリストとして活動していたクーパーは、見学のためにスタジオにやってきました。あわよくばという気持ちがあったわけですが、ブルームフィールドがいたためさすがに出番はないと観念していました。
ところが、たまたま「Like a Rolling Stone」の合間でのリフをオルガンで弾いたところ、ディランの耳にとまりそのままキーボード・プレイヤーとして飛び入り参加することになったのです。この曲の製作過程は「The Bootleg Series」で事細かに公開されていますが、最初は3拍子だったのが4拍子になり、クーパーのオルガンが加わって仕上がったことがよくわかります。
そして、8月には伝説となったニューポート・フォーク・フェスティバルに二人そろってバックを務めることになります。アコースティックな響きを想像していた観客は、突然の大轟音に騒然となります。ディランは翌年春からのイギリス・ツアーにブルームフィールドの参加を打診しますが、本業のバターフィールド・ブルース・バンドか忙しく断られました。残念と言えば残念ですが、結果として代わりにThe Bandのメンバーとの付き合いが始まったわけです。
ブルームフィールドとクーパーは、その後の一緒に演奏する機会が何度かありました。コロンビア・レコードのディレクターになったクーパーは、1968年にセッション・アルバムの制作をブルームフィールドに持ちかけました。スティーブン・スティルス(後にCSN&Yなどで活躍)も参加したアルバムはスマッシュ・ヒットします。
またその勢いのままフィルモアで二人はライブを行い、この時のライブ盤が「フィルモアの奇蹟」として発売され、これもまた売れました。これらは、いわゆるセッション・ブームの先駆けとなり、日本でもこの頃輸入盤レコード店に行くと、この2枚のアルバムはたいてい目立つところに飾ってあって、人気なんだと思ったものです。
しかし、ブルームフィールドは薬物依存が強まり、しだいに表舞台から遠ざかっていき、1981年に過剰のヘロインにより亡くなっています。アル・クーパーは1968年にホーン・セクションを加えたBlood Sweat & Tearsを結成します(シカゴ結成の前年)が、ファースト・アルバム発売後に脱退、以後はソロ活動とプロデュース業に専念しました。
2026年7月6日月曜日
Around DYLAN - Woody Guthrie
ウディ・ガスリーは、洋楽を聴くなら、どこかで一度は耳にしたことがある名前です。アメリカの最も重要な文化人の一人で、音楽家に限らず多くの人々に影響を与えました。ボブ・ディランにとっても、十代の頃に強く憧れたアイドルであり、彼のフォーク・スタイルに多大な影響を及ぼしました。
ガスリーの代表曲である、「This Land is Your Land」は、アメリカの第2の国歌と呼ばれ、歌えない人はいないと言われています。ディランも度々ステージで取り上げていました。立ち位置は違いますが、例えば日本なら美空ひばりが近い存在感かもしれません。今の若い人でも美空ひばりの名前は聞いたことがあるでしょうし、昭和の頃には美空ひばりに影響されていない歌手はいないと言ってもいいくらいだと思います。
ウディ・ガスリーは1912年、オクラホマ生まれ。1930年代から音楽活動を始め、労働階級の人々の抱える問題を題材とした多くの歌を作り歌います。直接的な政治活動はしませんでしたが、下級労働者や共産主義者からは圧倒的な支持を得るようになります。折しも大恐慌により人々の暮らしが困難を極めた時代に、ラジオから聞こえてくるガスリーの歌は多くの人の心の拠り所になったのです。
1940年代にニューヨークに進出したガスリーは、フォーク・コミュニティに迎い入れられ仲間を作りつつ、レコード制作に乗り出します。下級階層の人々に寄り添うガスリーの歌は、自然と反体制的な内容を持つプロテスト・ソングという流れを作ります。自作した曲は1000曲以上といわれていますが、1940年代を通じてモーゼス・アッシュが録音した一連のものが、「Asch Recordings」として知られています。現在ではスミソニアン・フォークウェイズから、リマスターされた4枚のCD、全105曲がガスリー・コレクションの中核をなしています。
1940年代末から健康状態が悪化し、1952年母親からの遺伝によるハンチントン病と診断されます。また、事故によりギターを弾けなくなるのです。1956年以後は入院生活を余儀なくされたのです。
ロックンロールが好きな普通の高校生だったディランは、大学に入学すると友人からガスリーのレコードを勧められ強い衝撃を受けました。エレキギターを売り払ってフォークギターに持ち替えて、気持ちの上ではガスリーに「弟子入り」したのです。ディランの初期の歌唱は、実に「ガスリー的」です。大好きだったガスリーの節回しを自然と真似てしまうのは、ごく自然な事でした。
1961年はじめ、大学を中退してニューヨークに出てきたディランは、ニュージャージーで入院療養中だったガスリーを見舞いました。半年間ほどの間、頻回にガスリーのもとを訪れたディランは、傍らでギターを弾きガスリーの歌を何度も歌ったのです。このことがディランに歌を創作する意欲をもたらせたわけで、最初に作った「Song for Woody」はデヴュー・アルバムに収録されました。
ガスリーは1965年には話すこともできなくなり、ついに1967年10月3日にニューヨークの最後の入院先の病院で亡くなりました。当時、交通事故後の隠遁生活を続けていたディランは、翌年1月20日にカーネギーホールで行われたガスリー追悼コンサートにThe Bandを伴って1年半ぶりに姿を現しました。観客はロックになったガスリーの歌に驚きますが、2年前に浴びたブーイングと違い、大きな歓声に包まれました。
2026年7月5日日曜日
ひじきとツナのマヨネーズ・サラダ
ひじきは漢字で「鹿尾菜」とか「羊栖菜」と書くんですが、漢字だけ見たら読めませんね。普通に平仮名か片仮名でいいんですが、海藻の一種で、不足しがちな鉄分、カルシウムを含み体に良いお勧めの食材です。
ただし、実はヒ素を含むので大量に食べ続けることは控えたい。下ごしらえとして、一度茹でることで、ヒ素の9割がたを抜くことができます。
日本の食卓には副菜としてしばしば登場するひじきですが、ほぼレシピはニンジン、油揚げなどと一緒に煮たものの一択だと思うのですが、他の調理法は無いものかと探してみました。
見つけたのはこれ。ひじきとツナのマヨネーズ・サラダです。
作り方も簡単。マヨネーズと醤油、だしで混ぜ合わせるだけ。今回はさらに時短で、マヨネーズと濃縮そばつゆを用いました。
一度茹でて水洗いしたひじきをぎゅっと絞って、ツナ缶を汁ごと混ぜます。さらに薄くスライスしたタマネギを加えて出来上がり。
なかなか美味しい。バリエーションが増えると、食材として活躍の幅が広がります。
繰り返しですが、「茹でるのは不要」と書いてあるものを除いて、特に生ひじきなどは、必ず5分ほど茹でて水洗いすることを忘れないようにしましょう。
2026年7月4日土曜日
Pat Garrett & Billy the Kid ~ Dylan (1973)
1972年はボブ・ディランは、他人のライブやセッションへのゲスト参加などが中心で、自らの創作活動はやや控えめです。それというのも、何と映画の話が舞い込んできて、そちらにかなり力を注いでいました。
ディランと面識があったルディ・ワーリッツァーが書いた「ビリー・ザ・キッド」の脚本が、MGMでの映画化されることになり、監督はサム・ペキンパーに決定しました。ビリー・ザ・キッドについてはもともと興味があったディランは、ワーリッツァーを通して映画の音楽担当の希望を伝えます。ペキンパーはディランの音楽に感激し、音楽の依頼だけでなく、追加の役柄を設定してディラン本人の俳優としての出演まで決めてしまいました。
11月に家族と撮影地であるメキシコのドゥランゴへ移住したディランは、撮影の中で感じたインスピレーションにのっとって作曲を行ないます。翌年1月にはメキシコのスタジオで最初のセッションを持ち、2月にはカリフォルニアのバーバンクで最終セッションをおこない映画のサウンド・トラックを完成させます。特に劇中に使われた「Knockin' on Heaven's Door」は世界的なヒットとなり、多くのカバー・バージョンが登場しています。
とは言え、何しろ映画のサウンド・トラック・アルバムですから、ボーカル曲は全10曲中3曲だけで、あとはインストゥルメンタルではディラン目当てのファンには欲求不満にしかなりません。コロンビア・レコードも、発売を急いでいたのでなおさら中途半端感が出てしまいました(海賊盤で出回ったこれらのセッションの全貌では、他に2曲のボーカル曲がありますが、何故かお蔵入りになっています)。
その急いだ理由というのは、ディランとコロンビア・レコードの契約問題です。大プロデューサーのジョン・ハモンドに認められて、ボブ・ディランがコロンビア・レコードと契約したのは1961年10月26日のことでした。それから10年が経過して、アルバム「ニュー・モーニング」のリリースをもって最初の契約が基本的に満了したわけですが、ディランはコロンビアに対して少しずつ不満を抱いていたのです。契約を継続したいコロムビアは、多額の前渡金(アルバム1枚につき40万ドル)を提示しましたが、ディランが強くこだわった過去のバックカタログ(旧音源)の権利返還は拒否したのです。
当時力をつけてきた新興プロデューサー、デヴィッド・ゲフィンは、破格の待遇を提案しディランの引き抜きにかかります。ゲフィンは、自身が設立したアサイラム・レコードへの移籍の条件として、前渡金はありませんがアルバム1枚の売り上げごとに80セント純利益分配率を提示しました(当時の相場は20~40セント)。
しかも、原盤権(マスターテープ)の権利をディラン本人が所有するとしたのです。これはレコード会社が楽曲を再利用する時に、アーティストの意向を無視してできないということです。さらに、全面的なツアーの企画・運営をサポートすることも確約し、契約は1作ごとでいつでも辞められるというものとしました。
形の上では法的にも何ら問題を残さずに、1973年秋にディランはアサイラムと契約をします。しかし、ディランを失ったコロンビアは、ただちに報復目的で強力な対抗措置を取るのでした。それが11月のアルバム「Dyran」の緊急発売です。「Self Portrait」と「New Morning」のセッションでアルバムに使われなかった6曲のカバー曲と3曲のトラディショナル・ソングが収録され、ディランのオリジナルはまったく含まれませんでした。
まさに原盤権を持つコロンビアが、アーティストの意向をまったく無視して、公にするつもりのない「ゴミ」のようなものばかりを集めてアルバムを作ったのです。当然、このアルバムに対する評判は最悪で、ディランのアーティストとしての評価を十二分に下げる効果は絶大でした。ディランの新天地でさぁこれから、という出鼻をくじくことに成功したのです。当然、プライドを傷つけられたディランはこのアルバムに対しては、激しい怒りと拒絶の姿勢を取り、完全無視の態度をとります。
もっとも現在は単独のCDとしても発売されていて、ある意味ボーカリストとしてのディランを知ることができるアルバムとして再評価されているところがあります。それにしても、エルビス・プレスリーの代表曲「好きにならずにいられない」を歌ってしまうところは、怖いもの知らずというか、ディランらしいところなのかもしれません。
1973年のディランは2枚のアルバムが登場しましたが、いずれも実に立ち位置が難しいものでした。しかし、ディランの音楽史の中では大転換期にあたり、このような大混乱も大スターに成長したからこそのものであり、1974年からの反転攻勢を考えると一つの起爆剤にもなったのかもしれません。
"Pat Garrett & Billy the Kid"
Main Title Theme (Billy) (instrumental)
Cantina Theme (Workin' for the Law) (instrumental)
Billy 1
Bunkhouse Theme (instrumental)
River Theme (instrumental)
Turkey Chase (instrumental)
Knockin' on Heaven's Door
Final Theme (instrumental)
Billy 4
Billy 7
Bob Dylan (g, vo, harmonica), Byron Berline (back.vo, fiddle)
Fred Katz (cello), Ted Michel (cello), Gary Foster (recorder, flute)
Carl Fortina (harmonium), Jolly Roger (banjo), Bruce Langhorne (aco.g)
Roger McGuinn (g), Carol Hunter (g, back.vo), Booker T. Jones (b)
Terry Paul (b, back.vo), Jim Keltner (ds), Russ Kunkel (perc)
Priscilla Jones, Brenda Patterson, Donna Weiss – backing vocals
November, 1973, Mexico ~ Feburuary, 1973, Berkley
☆☆☆☆・・・・・・
"Dylan"
Lily of the West
Can't Help Falling in Love
Sarah Jane
The Ballad of Ira Hayes
Mr. Bojangles
Mary Ann
Big Yellow Taxi
A Fool Such as I
Spanish Is the Loving Tongue
☆☆☆・・・・・・・
2026年7月3日金曜日
揚げない「鶏唐揚げ」
唐揚げ好きですよね。
総菜として買ってきても旨いけど、やはり家で揚げたてで食べるのが一番美味しい。
ただ、いろいろ気にしていると・・・油が・・・
どうしてもカロリー高めで罪悪感のある食べ物です。
そこで、少しでも気持ちを楽にする方法を、いろいろな人が考えているもんです。
つまり、揚げるからたくさん油を吸ってしまいカロリーが高くなるので、揚げなければいいんじゃないかということ。
でも、唐揚げの美味しさは衣のサクサク感もあってのこと。こればかりは高温になる油が必要です。
そこで、よく紹介されている方法は「揚げ焼き」です。
それぞれの家庭の味付けがあるとは思いますが、自分の場合は、塩・醤油・にんにく・しょうが、そして少量の砂糖です。
肉と調味料を袋に入れてしばらく置いておいたら、片栗粉と小麦粉を同量入れて全体に粉がなじむようにしますが、ここで油を小さじ1くらいかけ回しておきます。
あとは、そのままフライパンに並べてじくり焼くだけ。追加した油と鶏肉から出る油で、内側から「揚げた」状態になって、しかも油も少なくて済むという作戦です。
油で一気に火を通すよりは時間がかかりますが、普通にカリカリ・サクサクの仕上がりで美味しく食べることができました。
2026年7月2日木曜日
Greatest Hits Vol.2 (1971)
1971年もボブ・ディランの活動は活発です。1971年3月にアメリカ南部ロックを代表するレオン・ラッセルをプロデューサーに迎えて、新曲「When I Paint My Masterpiece」、「Watching The River Flow 」のセッションが行われました。シングルとしては発売されましたが、「Greatest Hits Vol.2」以外のアルバムには登場しないレアな名曲になっています。
そして、1971年8月1日、ジョージ・ハリスンが主催したマジソン・スクエア・ガーデンで行われた「バングラ・デシュ救済チャリティ・コンサート」のステージで、ディランは久しぶりに人々の前に姿を見せたのです。ハリスンの熱心な誘いを受けてのことでしたが、直前までディランが出演するかどうかはっきりしなかったため、代替案の準備も行われていました。
ディランのサプライズ登場に観客は大歓声を上げ、ハリスンのギター、レオン・ラッセルのベース、リンゴ・スターのタンバリンという豪華な面々による最小限の伴奏を加えて、誰もが知っているフォーク期の代表曲5曲を歌ったのです。これは、ディランにとって、嫌っていた過去の封印を解き、大観衆の前で歌う自信を復活させるという大きな効果がありました。
このコンサートで、再びディランが脚光を浴びると、1967年の「Greatest Hits Vol.1」に続く、コロンビアはクリスマス商戦に向けた「Vol.2」の計画を進行させました。ディランの凄いと同時に謎なところですが、「Greatest Hits」というタイトルなのに、未発表音源や新録音音源が多く収録されて、ある意味評判の悪かった「Self Portrait」の再現・仕切り直しとでもいうような内容になりました。ジャケット写真は「バングラデシュ」のステージ写真が使われ、実は写真の右側にはハリスンがいてお互い顔を見合わせている時のものです。
8月21日、刑務所から脱獄を試みたジョージ・ジャクソン受刑者が警備員により射殺されるという事件が発生します。ジャクソンは黒人の急進派共産主義者で、必ずしも擁護される人物ではないように思いますが、ディランはこの事件を11月にすぐさまシングルとしてリリースし、ジャクソンを悼みつつ「この世全体が監獄で、周りの人々は看守」だと歌いました。体制を批判するディランが帰ってきたと、世評では比較的好意的に受け止められました。
11月に「Greatest Hits Vol.2」は、LPレコード2枚組として発売されました。ディランのベスト盤は数多くありますが、売れ行きは好調でレア度ではトップクラスですので、コンピレーションですがチェックを外せません。オリジナル・アルバムに匹敵する価値があると言えます。
Vol.1との重複は無く、全21曲中今までのアルバムに未収録が6曲、特に3月のレオン・ラッセルとのセッション、そして9月に行われた旧友ハッピー・トラウムとの二人だけでのセッションは他では聞くことができない新録音です。なお、「George Jackson」は含まれていません。
大晦日には、ニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックで行われたThe Bandのコンサートにサプライズ登場します。すでにThe Bandはかつてのディランのバックバンドから、完全に独り立ちした人気を得ていました。日付が変わり1月1日になった頃に、予定されていたセットリスト終了後のアンコールとして事前の打ち合わせ無しで即興的に両者の共演が実現しました。
この日のライブは、「Rock of Ages」というタイトルで2枚組LPとして発売されましが、オリジナルではディランの演奏は含まれていません。しかし2013年にこの公演のコンプリート盤が発売され、現在ではその時のディランとThe Bandの熱い4曲を聴くことができます。ディランには大きな刺激になり、後の1974年合同ツアーへの布石となりました。
Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again (Blonde on Blonde)
The Mighty Quinn (Self Portrait)
* Previously unreleased
☆☆☆☆☆☆☆・・・
2026年7月1日水曜日
New Morning (1970)
1970年という年は、日本では万国博覧会が開かれ戦後の高度経済成長のピークを迎えていた頃。アメリカでは、1964年に公民権運動に否定的な南部の指示が得られないジョンソン大統領が誕生していましたが、しだいに南北ベトナムの紛争に介入する度合いを強めていきます。しかし、1968年を境に次第に国内の参戦支持は減少し、若者を中心としてより自由な社会を求める声が高まります。新たにリチャード・ニクソンが大統領となり、ベトナム戦争へのアメリカの介入を終わらせるよう多くの突き上げを食らっていました。
そんな世相の中で、ボブ・ディランは交通事故の負傷以来、相変わらず人前にはあまり姿を晒さない。1968年1月20日、ニューヨークのカーネギーホールで行われたウッディ・ガスリー追悼コンサートに1年8か月ぶりにステージに登場しガスリーの曲を3曲歌いました。次に姿を見せたのは、1969年8月31日、イギリスのワイト島のロックフェスティバルにTHE BANDを率いて出演します。しかし、これも1時間という短めのステージでした。
それでも1970年になると、さすがのディランも再始動し始めます。ニューヨークに戻ると3月はじめから「Self Portrait」のためのレコーディング・セッションを行いました。演奏されたのは以前のようなロック志向ではなく、比較的アコースティックなサウンドに女声コーラスやストリングスまで登場し、積極的に追加のオーバーダビングをするというものでした。
しかし、5月のセッションは一味違いました。スペシャル・ゲストに向かえたのはジョージ・ハリスンでした。実はこの時のセッションを含む一連の録音は、当初2020年にヨーロッパ限定の「The 50th Anniversary Collection」として発売されました。これは2012年から、未発表音源を年単位で小出しにするシリーズで、あくまでも著作権延長目的のかなり限定的なものです。しかし、さすがにハリスンの参加が大きな話題となったため、2021年に全世界に向けて「Bob Dylan 1970」としてリリースされています。
一番の目玉はディランが歌うビートルズの「イエスタディ」・・・といっても、一応歌ってみた程度のもので、どうせならハリスンの曲を歌えばいいのに思ってしまいます。次のアルバムに収録されるような演奏はありませんし、全体に新曲のリハーサル的なものだったのかと思います。ただし、ハリスンからたくさんの刺激を受けたことは間違いなく、ディランからナッシュビルの色が抜けていくことに役立ったように思います。
6月のセッションにはアル・クーパーが招集され、だんだん本気モードのスイッチが入ってきました。8月のセッションでは、次々とマスターテイクが採用され、ニュー・アルバムは10月21日は発売されました。久々の精悍な顔つきのディランの写真が表を飾ったジャケットが素晴らしい。落ち着いた大人の音楽を感じさせるアルバムで、多くのアーティストがサイケデリック調を見直すきっかけになったようです。
1曲目はシングルとしてもヒットした、実に気持ちの良い「If Not for Me」で始まります。妻のサラに対して「君がいなければ、僕はどうにもならない」と歌います。ハリスン・セッションでも何度も試されていて、ハリスン自身はアルバム「All Things Must Pass」で取り上げ、オリビア・ニュートンジョンもカバーしました。
「If Dogs Run Free」はタイトルはわかりやすいのですが歌詞は難解で、「もしも犬が自由に走るなら」自分も(世間からの)束縛から解放されると言いたいらしい。ディラン初のジャズ的な伴奏に乗せて、女声スキャトを甘える犬の声に見立てている面白い曲です。タイトル曲「New Morning」は素敵なカントリー・ライフを歌うのですが、カントリーとの決別の意味が込められていると言われています。
If Not for You
Day of the Locusts
Time Passes Slowly
Went to See the Gypsy
Winterlude
If Dogs Run Free
New Morning
Sign on the Window
One More Weekend
The Man in Me
Three Angels
Father of Night
Bob Dylan (vo, p, aco.g, ele.g, org, harmonica)
David Bromberg (ele.g, Dobro), Harvey Brooks (b), Charlie Daniels (b)
Ron Cornelius (ele.g), Buzz Feiten (ele.g)
Al Kooper (org. p, ele.g, French horn), Russ Kunkel (ds), Billy Mundi (ds)
Hilda Harris (back.vo), Albertine Robinson (back.vo)
Maeretha Stewart (back.vo)
June ~ August, 1970, NYC
☆☆☆☆☆☆☆・・・
2026年6月30日火曜日
日本 vs ブラジル
いゃ~、頑張りました。お疲れさまでした。
日本代表の選手の方々はもちろん、スタジアムにかけつけたサボータの方々は言うに及ばす、われわれテレビ観戦組も頑張った。
何しろ日本時間の午前2時キックオフですから、もう大変です。今日の仕事は睡魔との戦いになることは必至です。
前半、佐野海舟の先制ゴ~~~~ル !!
しかし、圧倒的にブラジルにボールを支配され、守りの時間が多く、後半同点弾を食らいました。
守りが長いほど、見ていて苦しくなってきます。アディショナル・タイムに逆転され、万事休す。
敗れましたが、本当によくやりました。ブラジルを追い詰めた試合でした。確実に次につながる試合だったのではないでしょうか。
日本のWorld Cupは終わりましたが、これからもガンバレ!! SANURAI JAPAN !!
2026年6月29日月曜日
Self Portrait (1970)
ビッグ・ピンクでのセッションが終了すると、Hwaksはグループ名をThe Bandsに変更し、1968年7月にボブ・ディランとのセッションから生まれた曲を集めたデヴュー・アルバム「Music from Big Pink」を発表し高い評価を受け、世間を席巻していたサイケデリック調に一石を投じました。
ディランはというと、同じ時期に地元ともいえるウッドストックで大々的に開催された歴史に残るフェスティバルへの出演依頼は断って、1969年8月に人気がでてきたThe Bandと久しぶりにイギリスの第2回ワイト島音楽祭 (Isle of Wight Festival 1969)に出演しました。ナッシュビルでカントリー・ミュージックに浸りまくっていたディランが、久しぶりThe Bandとの共演で3年ぶりのまとまったライブを行うということで、ファンの期待は否が応にも高まります。
しかし、ナッシュビルで鍛えたつんつるてんの声による歌い方に観客は不満だったようで、全17曲、約1時間の短いステージも不評を買いました。現在では「The Bootleg Series Vol.10 Another Self Portrait」に、ステージが丸ごと収められています。
途中で4曲のディラン一人のアコースティック・パートを含みますが、確かに以前より角が取れ過ぎてぼやけた楽曲もありますが、逆に丸くなってより音楽的になったものあり、全体を通しては(ベストではありませんが)悪くはない演奏だと思います。そう感じる要因としては、The Bandの面々の成長が大きいかもしれません。
内容は1969年前半のナッシュビルでのセッションで収録された物、そしてワイト島のライブから4曲、さらに年が明けて、1970年3月を中心にニューヨークで行われたセッションで生まれたものが、順不同で配置されるというものでした。
ニューヨークに戻って、ディランらしい声に戻りつつあるものの、ナッシュビルのつんつるてん声もばらばらに出てきて、さらにライブありというてんでんバラバラの構成は、意図的に一貫性を無くしたものでしたが、批評家からは不評を買ってしまいます。ニューヨークでは、初めて女声コーラスやストリングスを導入し、編曲と言う点にも気を回したことは特筆すべきポイントです。
これまでにも、しばしばアルバムの冒頭1曲目で聞く者を驚かすことをしてきたディランですが、ここでもいきなりほとんど女声コーラスだけで「陽にあたって疲れた馬にはどうやって乗ればいいのでしょうか」という歌詞を3分間ひたすら繰り返します。そこからはトラディショナルや他人の曲が続き、やっとオリジナル曲になったと思ったら、ブギウギのリズムに乗せた歌無し演奏のみ。
CD2枚目には、何とジャズのスタンダードでもある「ブルー・ムーン」がプレスリーばりの歌声で登場したのには驚いた。さらに驚くのはサイモン&ガーファンクルのヒット曲「ボクサー」を自らのつんつるてん声とダミ声でセルフ・デュエットしてしまうという・・・よく言えば「遊び心」に富んだ構成です。
後年、ディラン自身が語っていることはどこまで本心なのかよくわからないことが多いのですが、このアルバムは端的に言うと世間に対して「あかんべー」をしたかったということらしい。
Rick Danko (b), Levon Helm (ds), Garth Hudson (key)
2026年6月28日日曜日
Nashville Skyline (1969)
1968年4月4日、公民権運動をーの陣頭に立っていたマーティン・ルーサー・キングJrが暗殺されました。さらに、6月6日には公民権運動に理解を示しアメリカのベトナムへの介入に反対していたロバート・F・ケネディ上院議員(故ジョン・F・ケネディ大統領の実弟)も暗殺されたのです。この頃、アメリカの大都市では毎日のように大規模なデモや暴動が発生して、社会は混乱していました。
若者たちの間には、自由を求めてヒッピー文化が広がり、薬物により現実から逃避することが常態化していたと言っても良いと思います。古い保守的な音楽は聴かれなくなり、ポピュラー音楽の世界ではサイケデリック調の物が人気を博し、ジャズも音楽のルールを排除したフリー・ジャズが人気となります。
1962年に登場して以来、ボブ・ディランは体制批判の先頭に立たされてきました。時代に流されてきただけで、本人が望んだことではなかったのですが、世間のディランに対する注目は続いていました。しかし、ディランは現実世界から一歩ひいたところで、相変わらずマイペースな音楽活動を続けていたのです。
本作では、前作で入り込んだカントリー・ミュージックの世界に最も深くのめり込んだアルバムと位置付けられています。何しろ最初の1曲目が、カントリー・ミュージック界の大御所、ジョニー・キャッシュとの共演ですから、インパクトは絶大です。
ディランがキャッシュと初めて対面したのは1965年のことで、キャッシュはそれ以来ディランに対しては好印象をもっていたようです。ディランは再びナッシュビルを訪れ、カントリー・ミュージックの懐深く入り込みます。1969年2月13日からにセッションを開始し、18日までで収録を完成させました(実際は21日までらしい)。その最終日にスタジオにやってきたジョニー・キャッシュとは、丸一日かけて別テイクを含めて38曲も収録をしています。
ただ、結論として二人がデュエットしても新しいことは何も生まれなかったのです。その結果がアルバムに収録されたのは「Girl from the North Country (初出は"The Freewheelin'")」の1曲のみということで、4月9日のアルバム発売後の5月1日にキャッシュの冠番組にディランが出演しのが最後の共演になりました。
アルバムは全11曲で30分に満たない、短い曲ばかりなので聞きやすい。ですが、その反面、物足りなさも残ります。それにジャケット写真の、とっても丸くなって微笑みかけるディランという構図も好き嫌いが分かれるところ。
何よりも、全体を通してディランの声に一番驚きます。初っ端から、あれ? この声誰? ジョニー・キャッシュってこんな声だっけとなります。ところが後から出てる歌声は、まさしくキャッシュそのもの。ということは最初のがディラン!? と耳を疑いたくなること必至です。
クルーナー唱法とは、B・クロスビーやF・シナトラで有名になったもので、声を張り上げずに耳元に直接響かせるような歌い方で、これまでガラガラ、しゃがれ声だったディランがこの歌い方をしてつんつるてんになっています。
カントリーに寄せたというか、一時的に禁煙していたからとか言われていますが、これを良しとするならこのアルバムはOKです。でも、とても違和感が強いのでこれも評価を大きく分けることになりそうです。実際、エルビス・プレスリーになりたがっているという批判も起こっています。
一番の収穫は「Lay Lady Lay」です。けっこうストレートな求愛ソングで、「二人の間に朝までずっといて」とお願いし続ける内容ですが、ロック版になってライブの重要なレパートリーになりました。
これらのセッションでの多くの未発表テイクは、その後いろいろな形で分散されて公表されていますが、特にジョニー・キャッシュとの共演はまとめられて「The Bootleg Series Vol.15 Travelin' Thru」で全貌を聴くことができます。
February 13 ~ 18, 1969, Nashville
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