2026年6月8日月曜日
2026年6月7日日曜日
The Times They Are a-Changin' (1964)
1963年という年は、間違いなくボブ・ディランにとって飛躍の年だったはずです。
5月27日に2作目となるアルバム「The Freewheelin'」が発売されると大きな反響があり、6月にすでに人気があったピーター・ポール&マリー(PP&M)が「風に吹かれて」をカバーしたシングルが大ヒット(全米2位)しました。
1954年に始まったロードアイランド州ニューポートで行われるジャズ・フェスティバルが着実に人気を得ていたことに対抗して、フォーク・フェスティバルが1959年、1960年に開催されていました。第1回では、当時18歳だったジョーン・バエズがデヴューしています。
1963年は4年ぶりの開催となり、7月26日~27日のいくつかのセットで、ディランは代表曲の数々を歌いました。そして、その大舞台でPP&M、ピート・シガーやバエズらを後ろに従えてディランが「風に吹かれて」でトリを飾ったのです。また、初顔合わせとなったバエズは、いきなりディランの独特の節回しにハーモニーを付けていて歌唱力の凄さを再確認できます。この時の映像は2007年に「The Other Side of the Mirror」として残されていて(DVD、Blurayあり)、1963年から1965年までのニューポートでのディランを堪能できます。
8月23日は、アメリカにとって歴史的な出来事がありました。それは、キング牧師を筆頭に「ワシントン大行進」と呼ばれるようになる大規模な公民権運動のデモです。有名なキング牧師による「I have a dream・・・」から始まる演説が行われた同じマイクに向かって、このデモに参加したボブ・ディランは「風に吹かれて」と「しがない歩兵」の2曲を歌ったのです。
知り合ったばかりの政治的活動に積極的なジョーン・バエズらの影響を強く受けたディランは、急激に運動家としての行動が目立つようになり、「しがない歩兵」は、その年の6月に起こった黒人公民権運動指導者M・エバースが暗殺された事件をテーマにして作られたばかりの曲でした。
ディランは、バエズのツアーのゲストとして招かれる一方で、8月の初めから10月末にかけて次のアルバムの録音を行ないました。ここではついに全体が人種差別や不平等、貧困と言った社会性の強いテーマを持つ自作曲で構成され、翌年2月に「The Times They Are a-Changin'」というタイトルでリリースされました。伴奏は自らのギターとハーモニカだけです。何度かのセッションでは、アルバムに採用されなかったたくさんの曲が録音されていて、そのほとんどが後に公式に聴くことが可能になっています。
タイトル曲となる「時代は変わる」では、古い価値観を持つ人々に危機感を持つように訴え、「ホリス・ブラウンのバラード」は貧困から実際に起こった一家五人の無理心中を歌い、「ハッティ・キャロルの寂しい死」でも気分でハッティを殺した殺人者が法に守られたことを批判します。さらに「神が味方」についているからいくつもの戦いに勝利し、「神が味方」だから核兵器だって使えると皮肉を込めて歌います。
そうかと思うと、「いつもの朝に」は朝が来るたびに離れていく恋人のことを歌うのです。
そして興味深いのは「スペイン革のブーツ」という曲の歌詞。これも私小説的な感傷的な歌になっています。バエズと急接近したディランは、前作のジャケット写真で仲の良さをアピールしていた恋人と次第に疎遠になっていきます。そこで、スペインに旅立ってしまった恋人と恋の終わりを自覚する自分とが互いに心情を歌う形式になっています、
ディランは「異国の空気に飲まれないでほしい」と歌い、彼女は「あなたへの贈り物をさがしている」と答えます。「ほしいものはないけど、どうしてもというならスペイン革のブーツにしてくれ・・・」という内容で、これを男女の関係を逆転させると・・・そうです、松本隆作詞の大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」になります。松本がディランの歌からヒントを得たというのは有名な話です。他にも多くの日本のフォーク歌手が、このアルバムからいろいろな影響を受けたのでした。
April ~ October, 1963, NYC
☆☆☆☆
2026年6月6日土曜日
In Concert (1963, unreleased)
1963年のボブ・ディランは知名度がいっきに上がったことで、大きなホールでも集客が期待できるアーティストになりました。
4月21日には今では国定歴史建造物として指定を受けている由緒あるタウンホールでコンサートが開かれました。収容人員数は1,500人です。7月にニューポート・フォーク・フェスティバルに初登場し、さらに10月26日には、こちらもクラシック音楽を中心とした権威のある音楽の殿堂であるカーネギー・ホールにたった一人で立ちました。ここの収容人員数は2,804人です。
スタジオ・アルバムにしても、小さな場所でのライブにしても、そして大きな会場でのコンサートも、そのほとんどがギター1本、ハーモニカ1個による弾き語りのスタイルでしたから、ボブ・ディランはどこへでも気軽に登場することが可能でした。誰かと演奏を打合せする必要もありませんし、しいて言うなら夏以降共演機会が増えたジョーン・バエズは、圧倒的な歌唱力でどんな状況でもディランに合わせてくれるので助かったことでしょう。
まだテープ・レコーダーが一般に普及する前ですから、テープ・レコーダーがある家では何でもチャンスがあれば録音をしていたのだと思います。ディランがあちこちの家庭を訪問した際に、歌を催促されテープに残されたものが驚くほど残っています。ですが、どんな状況でもディランの歌唱そのものは、一聴しただけではあまり変わり映えしない。
これらの音源は多くの海賊版として世の中に登場していますが、そのほとんどを網羅した公式音源として「The Bootleg Series Vol.18 Through the Open Window」がCD8枚組のセットで2025年にリリースされました。今では、可能な限りリマスターされた聞きやすい音になって簡単に聞くことができるのはありがたいことです。
コロンビア・レコードは、当初タウンホールとカーネギーホールでのライブを合わせて、「In Concert」としてディラン初のライブ盤を発売する予定でした(写真左)。しかし、発売直前でディランから「ライブももう過去のものだから新しいものに注力したい」との意見により発売は中止になっています。
2005年に、ディラン作品の購入特典としてカーネギーホールでの音源から6曲を収録したCDが配布されました(写真右)。また同年にM・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画「No Direction Home」にはカーネギーホールでの別の2曲が使われました。そして、2025年に「The Bootleg Series Vol.18」で、ついにカーネギーホール・コンサートのすべてが公開されています。
スタジオで録音されたレコードしか無い時期ですから、後から出てきた公式盤、あるいは海賊盤であっても無視することは悪くはないのですが、リアルタイムのファン達はおそらくレコードよりも実演に接して口コミでディランの人気を盛り上げた部分がかなり大きいだろうと想像します。
ですから、ディランのようなフォーク歌手にとっては客を前にしたパフォーマンスは、レコードよりもよりその真価を発揮する機会として重要だと思います。「The Bootleg Series」は海賊盤対策として新たに著作権を主張する根拠として立ち上がった企画だとは思いますが、埋もれていた音源を可能な限り聞きやすく集大成するという意味では大きな意義があります。
カーネギーホールのコンサートは録音が終わったばかりの次のアルバムのタイトル曲「The Times They Are a-Changin'」からスタート。4枚目のアルバムに収録されることになる曲なども含めて客の反応が良いのは、すでにライブではお馴染みなのかもしれません。
アルバム「The Freewheekin'」で録音されながら政治的過ぎる理由でボツになっていた「Talking John Birch Paranoid Blues」は、反共産主義の極右結社であるジョン・バーチ協会を揶揄した曲で、聴衆が歌詞に反応して度々笑いが起こります。また「風に吹かれて」を歌う前にはタイトルにまつわる笑い話を語り全体的に饒舌です。
このようなディランの雰囲気はスタジオ・アルバムだけしか知らないと意外な印象を持ちますが、全体的にプロテスト・ソングが多いセットリストの中で、ディランが実に余裕をもってユーモアを持ち合わせていたことが伝わってきます。
October 26, 1963 Carnegie Hall, NYC
2026年6月5日金曜日
2026年6月4日木曜日
The Freewheelin' (1963)
フォーク・ソングというのは、そもそもはその土地に伝承されてきた民族音楽のことですが、それらを手軽に楽しむための道具としてギターやハーモニカといったものが普及しました。それらをうまく使って、人々に寄り添ってその気持ちを代弁することで人気を集めたのがウディ・ガスリー(1912-1967)でした。
次第にフォークは反体制的な色合いを強め、ジョーン・バエズのようなスター歌手の登場とともに60年代になってベトナム戦争に対する反戦運動が盛んになるとプロテスト・ソングの傾向はさらに濃くなっていきます。
1941年生まれのロバート・ジマーマン少年は、小さい時から家にあったピアノとギターに慣れ親しみ、50年代の普通の少年と同じでロカビリーに夢中になっていました。1959年には大学へは登校せず、ガスリーに感化されミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始めます。この時、ロバートの愛称と詩人のディラン・トーマスからとった「ボブ・ディラン」を名乗り始めるのでした。
1960年12月にニューヨークに出てきたボブ・ディランは、カウンター・カルチャーの聖地、グリニッジ・ヴィレッジを根城にして歌える場所ならどこにでも顔を出すようになります。1961年2月、すでに歌手としては引退しているガスリーと彼が長期療養のため入院している病院で面会しています。
少しずつ小銭稼ぎ的な仕事をしているうちに、コロンビア・レコードで力を持っていたプロデューサーであるジョン・ハモンドがディランの存在を知ることになるのでした。ロバート・ジマーマンが「ボブ・ディラン」に変貌していく過程は「The Bootleg Series Vol.18 Through the Open Window」に多くのプライベート録音が収録されていて、大変興味深いものがあります。
デヴュー・アルバムがあまり話題にならなかったディランは、あちこちのクラブなどでの「対外試合」を加速させ、知名度を広げ技能的にも向上させることに集中したかのようです。また自作曲を増やし、出版社に売り込むためのでもデモ音源を作成していて、これは後に「Witmark Demos」として「The Bootleg Series」からも公式にリリースされました。
1962年4月からは、再びコロンビア・レコードのスタジオで断続的に1年ほどかけてレコーディングが開始され、1963年5月にいよいよ発売されたのが初期の傑作とされる「The Freewheelin'」です。フリーホイール(freewheel)は、ほぼすべての自転車に備わっているペダルを回し続けなくても惰性で進める駆動輪のことで、アルバムのタイトルとしては意味深です。
特に傑作とされる理由は、ディランの初期の代表作となる「風に吹かれて (Blowin' in the Wind)」、「はげしい雨が降る (A Hard Rain's a-Gonna Fall) 」、「戦争の親玉 (Masters of War)」、「くよくよするなよ (Don't Think Twice, It's All Right)」、「北国の少女 (Girl from the North Country)」など、後々まで歌い続けられる曲が目白押しであるところが大きい。
1作目では2曲だけが自作曲でしたが、この2作目では全13曲中2曲だけがカバー曲です。基本的には前作と同様にディラン自身のギターとハーモニカ、あるいはピアノによる伴奏だけですが、カバー曲の「コリーナ・コリーナ (Corrina, Corrina)」だけにバンドが加わっていて浮いた印象を持ちます。
冒頭の「風に吹かれて」は、ピーター・ポール&マリーがカバーして大ヒットし、ジョーン・バエズもアルバムで取り上げました。「どれだけ歩けば男は一人前と認められるのか。どれほどの砲弾が飛び交えば武器がなくなるのか・・・答えは風に吹かれている」という抽象的な内容が、ディランの意図とは関係なく当時吹き荒れていた公民権運動のテーマソングのように扱われたのです。その結果、ディランは反体制の旗頭であり、彼の歌うフォークはプロテスト・ソングであるという固定観念が浸透してしまうのでした。
もっとも「戦争の親玉」では積極的に武器を作る人・使う人を糾弾しています。「第3次世界大戦を語るブルース」では、キューバ危機により核戦争が現実味を帯びていた時期に、夢の中での不思議な体験を語るのですから、プロテスト・ソングを歌う歌手として祭り上げられてしまうのはしょうがない。
もっとも「北国の少女」は寒さの厳しい北国のかつての恋人に思いをはせる歌ですし、「くよくよするなよ」は恋人同士のすれ違いの歌です。そもそもアルバム・ジャケットが当時の恋人と一緒に写っている写真が使われているのですから、真っ向から社会を敵に回そうとする意志はあまり感じられません。
April, 1962 ~ April, 1963, NYC
☆☆☆☆☆
2026年6月3日水曜日
Bob Dylan (1962)
ある特定のアーテイストの音楽を聴こうという場合、正規の公式アルバム単位で、できれば古い物から順番に聴くというのが基本です。ですから、ネットで「おすすめ」とか「ランキング」で検索すると、アルバムごとの評価が並ぶことになる。
ボブ・ディランの場合も基本的にはそれでいいんですが、通常は一定のコンセプトでまとめられたはずのアルバムのはずが、意外とあまり考えられていない場合があったりします。ただやりたいからやったみたいな、かなり雰囲気だけで決めている節がないわけではないので、ボブ・ディランを聴き込む場合は、一つ一つの曲により注目することも忘れてはいけません。
また、ネットの情報はやはり個人の主観、そしてすでに定まった評価に基づいていることが多く(当然、ここでの話もそうなんですが)、必ずしも良し悪しを判断する最適な方法とはならないことがしばしばあります。とにかく、他人の意見に左右されずに自分の耳で聞くことが大事ということを忘れてはいけません。
さて、記念すべきボブ・ディランのデヴュー・アルバムは1962年3月にリリースされた、ずはりタイトルは「BOB DYLAN」です。全13曲収録で、自作曲は「ウディに捧げる歌」、「ニューヨークを語る」の2曲だけであとはカヴァー曲という構成。録音は前年の11月20日と22日の二日間だけで行われました。
自作曲が少ないという理由で、たいへん評価が低いのですが、それは作詞家・作曲家というの一面についてのみ注目しているからです。才能が有ると認められたから大手のコロンビア・レコードと契約できたものの、まだ海の物とも山の物ともわからない二十歳になったばかりの若者を売り出すためには、誰もが知っている曲を利用するというのはレコード会社の常套手段です。
ですから、ここでは歌手としてのボブ・ディランに注目すべきところ。そう思って聞くと、ディランの意識的に曲によって声色を変える特徴はすでにここでも聞くことが出来ます。また、曲によってはフォークというよりは、明らかにロック歌手のような歌い方もしていて、自分で演奏するフォーク・ギターとハーモニカだけのシンプルな世界なのに、独自の雰囲気をしっかりと出している作品で悪くはないと思います。
とは言え、他人の曲ばかりでは本人も多少不本意な部分はあったのかもしれません。後にリリースされた「The Bootleg Seriese Vol.1」に数曲のアウトテイクが収録されていますが、何度も歌うことには乗り気でなかったようです。いずれにせよ「ボブ・ディラン」はここから始まったことは否定しようのない事実です。
November 20 & 22, 1961, NYC
☆☆☆
2026年6月2日火曜日
山田神社 @ 都筑区南山田町
初詣はここに行くという方がけっこういるんじゃないかと思いますが、サレジオ学院の近くにあって、中原街道からの長い参道を持つしっかりした神社です。
敷地内に「皇太子殿下御成婚記念碑」というのがあって、平成5年のものなので、今の天皇陛下の結婚の際に建てられたもので、ここに神社の由緒が刻まれています。
山田の地は太古の昔から豊かな土地だったらしく、ずいぶんと栄えたらしい。貞観2年(860年)にはすでに諏訪神社があったと記されています。
そこから時代はいっきに進んで、明治43年11月、村社神明神社、無格社諏訪神社、同八幡神社2社、同熱田神社、同稲荷神社七社、同菅神社、同熊野神社、同子聖神社を妙見社へ合祀すると同時に山田神社と改称したとなっています。
従って、それぞれの神社の御祭神がまとめて祀られているため、その数は全部で9柱と多くなっています。神明社代表は大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと、天照大神の別名)、諏訪神社代表は建御名方神(たけみなかたのかみ)、八幡神社代表は応神天皇(八幡神)、稲荷代表は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、熊野神社代表は伊弉冊尊(いざなみのみこと)、子聖神社代表は大己貴尊(おおなむちのみこと)です。
あと日本武尊(やまとたけるのみこと)と菅丞相霊(かんしょうじょうのれい、菅原道真のこと)が残ったのですが、熱田神社は天照大神以外に日本武尊も祀っています。菅神社は名前からして菅原道真関連のように思います。
そして、それらの神が集められた妙見社というのは北極星・北斗七星を神格化した天地開闢の最も真っ先に登場する天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を御祭神としているので、全部で9柱の勢ぞろいということになります。
神奈川県神社本庁HPには天之御中主神のかわりに高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が入っていますが、高皇産霊神は天之御中主神の次に登場するので間違いではないかと思います。
写真を見て、あれ? と思った方いますか。本殿の左側にあるもの・・・鐘楼です。一般的に鐘は寺で見かけるものなので、神社にあるのは違和感を感じますよね。
平安時代に仏教の勢いが増してくると、しだいに古来から土着の信仰であった神道との境界がが曖昧になり「神仏習合」と言われるようになります。その結果、神社に鐘楼があったり、寺に鳥居ができたりしたのです。
ところが、明治維新により「神仏分離」が行われ、今では基本的には別のものと考えられるようになりました。ですから、その名残りとして鐘楼が残されたということで、神社が古い歴史を持っていることを示すものと考えられます。
2026年6月1日月曜日
ボブ・ディラン
さて、いきなりですが問題です。
ロック史上で世界で最初にいわゆる「海賊盤 (bootleg)」と呼ばれる、非公式発売のレコードが登場したミュージシャンは誰でしょうか。
ヒント・・・登場したのは1969年夏。タイトルは「Great White Wonder」で、誰の演奏なのかは表記されないタイトルだけの白いジャケットでした。
では、今では必須と言えるミュージック・ビデオですが、これを世界で初めて作ったアーティストは誰でしょうか。
ヒント・・・ビートルズだとか、いやいやマイケル・ジャクソンだとか言われていますが、1965年に公開されたもので、手書きの歌詞の断片を書いたたくさんの紙を、本人が歌に合わせてめくっていくというものでした。
それでは、最後の問題。2016年に世界で初めて、ミュージャンで歌詞が評価されノーベル文学賞を受賞したのは誰でしょう。
これはかなり話題になった有名な話なので、本人に興味が無い人でも、このニュースには驚いたことと思います。
そうです。いずれも答えはボブ・ディランです。
ボブ・ディランBob Dylan、本名はRobert Allen Zimmerman。1941年5月24日、アメリカのミネソタ州ダルースで生まれ。御年85歳になっても、多くのステージをこなして、フォーク、ロック界で絶対的な生きる伝説として君臨する存在です。
1962年にコロンビア・レコード(現Sony Music Entertainment)からデヴューし、すでにそのキャリアは60年を超えています。公式に発売されたスタジオ録音のアルバムは40作品、ライブ・アルバムは22作品、ベスト盤などのコンピレーションの類は世界中で数えきれないくらい発売されています。
流出したセッション・テープやライブ録音からなる海賊盤の数はほとんど無限にあって、さすがに頭を痛めたコロンビア・レコードは、著作権延長のための未発表曲集を作ったり、海賊盤音源さえもリマスターして取り込んでしまう「The Bootleg Series」を制作しています。
普通なら海賊盤の音源は「隠し録り」された劣悪な音質のもので聞くに堪えないはずだったんですが、サウンドボードという音響機器から直接出力された公式音源に負けないものが多数あるから困ったものです。
さらに。ボブ・ディランはアルバムに採用しなかった未発表曲が膨大な数になることが知られていて、それらの中に何でアルバムに採用しなかったのか不思議なくらい素晴らしいものが相当数あるので厄介です。つまり、時間的にも量的にも最大深度まで深入りしてみる価値があるということ。
自分の初めてのボブ・ディランとの出会いは、だいぶ古くて1972年にさかのぼります。
自分が初めて世界地図で知った東パキスタンと呼ばれていた土地が、西パキスタン(今のパキスタン)からの独立を求めて紛争が勃発し、後にバングラ・デシュとなる東パキスタンの国民は極度の飢餓にさらされたのです。これに対して、ジョージ・ハリスンとインドの国際的なシタール奏者、ラビ・シャンカールが中心となって1971年にチャリティ・コンサートが開催されました。
この時のライブが翌年にLPレコード3枚組で発売されました。骨と皮だけのこどもの写真をメインにしつらえたジャケットも強いインパクトがあり、豪華な出演者につられて自分も購入したわけです。ただ、1枚目SIDE-Aのシャンカールの長いシタール演奏は、ほぼ最後まで聞いたことが無い。
リンゴ・スターの歌もあんまり真剣になれず、ジョージ・ハリスンとレオン・ラッセル中心に聞いて、いよいよ3枚目のSIDE-Aにボブ・ディランが登場します。初めてのディランは、ハリスンらのごく軽いバッキングはありますが、ほとんど自ら演奏するフォーク・ギター伴奏による歌唱で、今から考えるとその時までの代表曲のオン・パレードでした。
独特の声と歌い方に面くらいながらも、何度か聞いていくうちに癖になってくるから不思議です。その後も新しいアルバムが出ると注目はしましたが、実は他に聞きたい音楽がたくさんあったのでディランまでは懐が回ってきませんでした。
さすがに大人買いもできる年齢になったので、積極的にディランのこれまでの軌跡を埋めていきたいと思うようになりました。知れば知るほど、音楽的にも人間的にも実に興味深く、音楽好きならはまること請け合いです。
2026年5月31日日曜日
天照皇大神 牛久保神社 @ 都筑区牛久保西
実はここも最近まで知らなかった神社。なんと、センター北にある何度も訪れたことがある都筑区医師会館のすぐ近くで、なんで気がつかなかったんだろう・・・
今では住宅街となった区域の中で、大きくはありませんが小さいと言うほどでもない規模。鳥居から本殿までに階段はなく、平坦な土地に建っています。ということは、別の場所から移設された可能性が高そうです。
実際、港北ニュータウン計画の一環として、今の場所に平成10年に近くの請地から移設されたらしい。少なくとも、昔から牛久保地域で総鎮守として信仰の対象とされてきたようです。
由来などの説明がわかるような碑や掲示物はまったくないのですが、名称からして天照大神を祀る典型的な神明社(伊勢神宮を総本社とする神社群の総称)のひとつと考えられます。
神奈川県神社庁のHPによれば、御祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)の一柱だけとなっていますが、やはりそのほかの説明はありません。「牛久保神社」というのは正式名称ではないようで、本来は「天照皇大神(てんしょうこうたいじん)」だけ。
19世紀のはじめに編まれた新編武蔵風土記稿によると、牛久保村には10の社があることが記載されていますが、その中の「伊勢宮」か「神明宮」のいずれかが該当するのかもしれません。
天気の良い早朝は東から陽が射してきて、まさに天照大神に見守られているかのような不思議に感覚が湧いてきました。
2026年5月30日土曜日
よしだたくろう オン・ステージ ともだち (1971)
吉田拓郎です。当時は平仮名表記でした。
中学生になると、何か誰もがフォーク・ギターを持ちたがり、ストロークだけでは恥ずかしいので3フィンガー・ピッキングなどを必死に練習したものです。そんな連中に音楽を提供していたのがELECというマイナーなレコード会社で、古井戸、泉谷しげるもそして一番のスターがよしだたくろうでした。
若かりし頃の吉田拓郎が最も影響を受けたとされるのがボブ・ディラン。ギター1本、ハーモニカ1個で自己表現をするやり方に強く感化された吉田拓郎は、後から思えばこの時期ディランを強く意識した演奏スタイル、歌唱方法を真似ていたことは間違いがない。
すでに「青春の詩」や「人間なんて」というアルバムもありましたが、最初に買ったのがこのライブ盤でした。これが最高に楽しい!! 特に間に入る拓郎のMCが絶妙です。当時の彼の喋り方で「・・・なのです」とか「・・・であります」というのは、けっこう真似していました。
これは、意図的にMCを多めに入れてライブの楽しさを伝えようとしたものらしい。またこの前の2枚のアルバムに収録されていない曲も多く、他人の曲、自分の曲の替え歌などバラエティに富んだ構成も楽しめました。
ディランに影響を受けているといっても、政治的意図はほとんどなく(日本にもその手のシンガーはたくさんいましたが)、すでにフォークをエンターテイメントとして客を楽しませる姿勢に好感が持てました。
この後、メジャーのCBSソニーに移籍して、よりポップ色を強くしロック化もしていくことになるんですが、それはそれで吉田拓郎の魅力の一つとして素直に受け入れることはやぶさかではありません。ただ、ELEC時代の純フォーク時代の3枚のアルバムは、「よしだたくろう」の原点として別の意味で素晴らしい。
少なくとも「よしだたくろう」を聞かずして「吉田拓郎」が好きだとは言ってもらいたくない・・・とは大げさかもしれませんけどね。
2026年5月29日金曜日
Joan Baez / Come from the Shadow (1972)
ジヨーン・バエズ・・・と、言って日本でどれだけの人が覚えているのか、ちょっと不安になるのは、1980年以後はあまりその活躍は日本には伝わっていなかったような気がするから。
でも、アメリカのフォーク・シンガーの元祖の一人として50年代後半から人気を博し、しかも当時の世相を反映して公民権運動・反戦活動に身を投じて、反体制派の女神のように扱われていました。
実は2018年に77歳で音楽活動から引退しているので、もう新しい曲を聴くことはできないのですが、2023年にはドキュメンタリー映画「I am a Noise」公開され、バエズのキャリアの総括が見れたことはファンとしてはとても嬉しいことでした。
中学生になった自分は、イギリスのビートルズも聴きましたが、大量に日本に流入してくるアメリカのポップスに触れる機会が多かったと思います。日本で言えば、吉田拓郎。泉谷しげる、古井戸らに代表されるフォーク・ソングは、自然とギターを練習するのにも役に立ちました。
アメリカでは、ピーター・ポール&マリーは、やや自分より上の世代の人に人気で、自分たちはサイモン&ガーファンクルでした。なんでジョーン・バエズに興味を持ったのかは記憶に定かではないのですが、少なくとも前年にジョージ・ハリソンが中心になって行われた「バングラ・デシュのためのチャリティ・コンサート」から連想した部分があったかもしれない。
後から知ったことですが、70年代に入って活動の矛先を失った反戦歌手たちは、何を目標にすればいいのかわからない袋小路に入り込んでいたらしい。
バエズもその一人で、飢餓に苦しむバングラ・デシュの人々をはじめとして、このアルバムの中でいろいろな物に拳を振り上げているのですが、バエズの良いところは美しい歌声によって、怒りの怖さみたいなものが表面化しないところだと思います。
シンブルなタイトルと白黒の写真のジャケット、しかも写っているのは政治的な匂いのする反戦デモに参加して逮捕連行される高齢者夫婦というのも、レコード屋さんで見かけた時のインパクトは絶大でした。
2026年5月28日木曜日
裏船頭御嶽社 @ 青葉区元石川町
すすき野御嶽神社から、北東のたまプラーザ方面に1.5kmほど行ったところにも御嶽神社があります。近くには元石川高校がある。
こちらも御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で、すすき野の同じような経緯があるかもしれません。創建時期は不明ですが、寛文11年(1671年)の記録に記載があるそうです。
本来は御嶽社という名称ですが、通称で裏船頭が頭についています。船頭と言えば船の水先案内人ですが、どう見ても海も湖もありませんし、早渕川は近いけど船を浮かべるほど深くない。
実は、神社の裏山を越えた向こう側が船頭と呼ばれる地域で、今も交差点の名称として信号機に表記されています。これは、北の石川村と南の荏田村の間で水争いが起こり、石川村が水浸しになったため船で移動したという言い伝えからついた名称です。
船頭地区の裏にあるから裏船頭ということで、村落の鎮守として小さくても大切に守られてきた神社です。
2026年5月27日水曜日
御嶽神社 @ 青葉区すすき野
剣山小学校の近くにあり、大きな神社ではありませんが、祭りなどではけっこう賑わいます。
創建年代は不明とされていて、慶応4年(1868年)に再建された記録があります。昔は、この近辺は黒須田村という集落があり、村の鎮守として人々の信仰を担ってきたようです。
御嶽神社という名称の神社も全国にありますが、基本的には木曽御嶽山の修験者によって広まった各地の霊山に対する山岳信仰が基本です。この付近には霊山と呼べるような山は見当たらないので、有力な御嶽社から分祀されたのかもしれません。
さらに倉稲魂命(宇迦之御魂神、うかのみたまのみこと)も祀っています。宇迦之御魂神は稲荷信仰の主祭神ですから、以前は農村が広がり五穀豊穣、商売繁盛、産業興隆の御利を期待されていたのだと思います。
2026年5月26日火曜日
宮﨑辛麺
おみやげにいただいたインスタント食品です。
宮﨑辛麺は、宮崎県延岡市発祥の「ソウルフード」ですが、チャルメラ・シリーズなどにも登場して、そこそこ全国区に知名度があります。
今回は空港限定と書いてある「生麺」タイプというもので、茹でる前は一見すると盛岡冷麺みたいに見えました。
宮﨑辛麺は、小麦粉だけでなくそば粉を混ぜてこしの強い麺が特徴とされていますが、思ったよりは硬さはありませんでした。
味は鶏ガラベースで、ニラや溶き卵を入れると「さらに美味しい」ということなので、素直に従ってみました。味そのものは、川崎のソウルフード「元祖ニュータンタンメン」と似た感じです。
パッケージでは真っ赤っかなのですが、出来上がりはそれほどではなく、辛くしたい人は唐辛子を追加することをお勧めしますが、これだけでも美味しく食べれる十分な辛さはあると思います。














