2022年11月30日水曜日

俳句の勉強 59 映像の無い季語


俳句は少ない文字数で読者が内容を理解してもらえることが重要ですから、無駄な言葉を省くことはもちろん、言わずとも伝わる内容も削ります。そして、俳句の内容が映像として読者が想像できれば、説明を大幅に減らすことができることになります。

基本形として有季定型、つまり季節を象徴する季語を必ず使い、上句五音、中句七音、下句五音の構成で、どこかに「切れ」を含むという俳句を原則とするならば、季語によって誰もが共通の映像を思い浮かべることになります。

そういう意味で、季語は重要で、季語を使うことでおそらく言いたいことの多くを省略できることになる。その一方で、季語による縛りもあるわけで、何でも好きに入れれば良いというものではありません。

ところで、季語があれば映像が頭に浮かぶと言いましたが、例えば「水洟(みずばな)」という冬の季語なら、鼻汁が垂れている光景が浮かんできますし、場合によっては風邪気味のこどもの様子も想像できる。もしかしたら、花粉症で目も真っ赤にしているかもしれません。

ところが、一般に「時候」と分類されている季語は、明確な映像を持たないことが多い。この場合、何らかの追加の言葉を加えないとぼんやりした句になってしまいます。

単に「冬」と言えば、初冬・仲冬・晩冬を通じての季語になりますが、「冬」だけではあまりにも漠然としていて、何を映像として想像するかは、人それぞれ、千差万別になってしまいます。

中年や独語おどろく冬の坂 西東三鬼

中年あるあるみたいな句ですが、「の坂」をつなげて時候と場所を映像として想像できるようになります。下り坂なら滑りそうで「おっと」とか思わず口走るかもしれないし、上り坂だと、白い息を吐いて「あ~あ」とか言っていそう。

暦では小寒、大寒を経て節分で立春となり冬が終わります。冬が終わることを「寒明(かんあけ)」と呼び初春の季語。寒明けになったのに寒さが続く場合を「余寒(よかん)」という季語で表現します。実際の体感としては、2月前半なんて一年で一番寒い頃ですから、寒が明けた感じもしないし、寒が残っていて当たり前。これらの季語は明確な映像も持たないし、現実の感覚とずれているので、いっそう使い方が難しくなります。

われら一夜大いに飲めば寒明け 石田波郷

仲間と酒宴で盛り上がる様子を、上中でしっかり映像として作りました。下句の季語は、実際の暦ではなく「寒さを吹き飛ばす」という威勢の良さの表現として利用しているようです。

鎌倉を驚かしたる余寒あり 高濱虚子

虚子の居住する、冬でも温暖な鎌倉だからこその句。立春を過ぎて、あまりの寒さに自分が驚いたのでしょうが、主観を排して擬人法で鎌倉が驚くとしています。

「夏の朝」という夏を通じて使える季語があります。これは、かなり難しい。水原秋櫻子による歳時記の説明文は「誰でも知っている感じを、筆でかき表そうとすると、かえて難しくなる」とし、その後の説明も何だか曖昧です。歳時記によっては、季語として収載していなこともあります。まぁ、夜明けが早いとか、朝から暑いとか、そんなところでしょうか。例句を探すのも大変です。

夏の朝病児によべの灯を消しぬ 星野立子

具合の悪いこどもの看病で夜明かししてしまい、朝になってやっと寝付いてくれたので、灯を消したということでしょう。季語として役立っているのかどうか判断しかねますが、少なくとも徹夜明けくらいの時間を提示する意味はありそうです。

このような季語はたくさんありますから、兼題に出されると悩みの種になります(もっとも、何が出ても悩むけど・・・)。まず季語の持つ雰囲気を大掴みして明確な映像を書き込むか、逆に映像を明示した後に雰囲気で収束させるかということなんでしょうけど、実践するのは本当に大変そうです。

2022年11月29日火曜日

出た!! プロローグ


昨日の早朝、起き立ての眠気がすっ飛んだ。

何と、うちから近いパン屋さんのプロローグがテレビで紹介されているじゃありませんか。このブログでも何度も登場している名店です。

TBSの朝の情報番組、「THE TIME」で篠原アナがあちこちに出向いて、美味しい物を紹介する「早朝グルメ」のコーナーです。

この手の企画は、たいてい放送局のある都内ばかりの紹介で、自分たちにはほとんど意味が無いことが多いんですが、ついに近くに中継が来ましたよ。

思わず中継を見に行こうかと思っちゃうくらい近い。もっとも、近いので紹介されてもあまり有難みはありませんけどね。

2022年11月28日月曜日

サッカー・ワールドカップ2022 日本 VS コスタリカ


もともとグループ・リーグの抽選が決まった時に、唯一、日本が勝てるかもと予想されたのがコスタリカでした。

日本は初戦の対ドイツ戦で大金星をあげたので、対コスタリカに勝つことは重要度を大幅に増しました。ここは是が非でも勝ち点3をもぎ取らないといけません。

昨夜、日本時間ごご7時から・・・もう結果は知れ渡っているでしょうから、どうのこうの言う必要はありません。

残念!! !! !!

これで1勝1敗。勝てないと言われていたとこに勝ち、勝てそうといわれていたとこに負けただけ・・・なんですが、予想との落差が大きいだけに、昨夜はガッカリ感が大きい感じ・・・

絶対負けたくないコスタリカの鉄壁な守り姿勢に引きづられ、なんか、ずっとモヤモヤした試合でした。ひところよく言われていた「決定力の無さ」が目立った印象です。コスタリカは耐え忍んで、ワン・チャンスをしっかり生かしたというところ。

そんなわけで、まぁ、スペインに勝てばいいんです・・・
ガンバレ、NIPPON、SAMURAI BLUE !! !!

2022年11月27日日曜日

セブンのおにぎり


コンビニの雄、セブンイレブンの期間限定おにぎりは、登場してもあまり食べてみたくなることは少ないのですが、今売られているののがこれ。

わさびめし・・・これは、以前にもあったように思いますが、115円という安さも魅力。一口食べると、ほんわかとわさびの香りが口の中に広がり、もう一口かぶりつくと、真ん中の摺り下ろしのわさびにたどり着く。

ヒョエ~というほどではありませんが、多少刺激的な味が癖になります。わさび好きにはたまらない。海苔が巻いてあれば最高ですが、それだけで30~40円値段が高くなるだろうことを考えれば、こういう質素系は海苔無しで納得です。

もう一つは、きのこめし。これも「新発売」となっていますけど、似たようなものは過去にもあったんじゃないかと。

まぁ、普通に美味しいいろいろな茸が入った炊き込みご飯です。いちいち確認はしませんでしが、たぶん椎茸、しめじ、舞茸あたりの一般的な物が入っているんだと思いますが、わさびより具材らしいものが入っている分、10円高くて125円です。

じわじわと何でもかんでも物価上昇している最近ですが、何とか価格を抑えて提供しようという作戦は歓迎です。


2022年11月26日土曜日

味噌を作ってみる 7 もつ煮


自家製味噌作りで、使ってみようシリーズ・・・って続くかどうかわかりませんけど。

今回は、「もつ煮」です。

豚の白もつ 適当量
野菜類 好きな物いろいろ適当量
 定番としては大根、人参、椎茸、蒟蒻、牛蒡・・・
 今回は、ちょっと嬉しいウズラの卵も入れてみました。

味付けは、出汁はあごを使いました。鷹の爪輪切りもパラパラ・・・

そして、肝腎のみそ。漬け込んでから6か月の自家製味噌。味を見ながら適当量を入れます。もう、味は間違いありません。ビールが進みますよ。

ところで、もつ煮というと、臭いが気になる人が多いと思います。

これを防ぐには、まずもつだけを茹でこぼすのが正解。それも2回ほど茹でると、ほぼ匂いは気になりません。もつに残っている脂もほとんど解けてしまうので、カロリーが気になる方にも嬉しい。

いやいや、その脂が美味しいという方は、そもそももつ煮じゃなくて、生もつでもつ鍋で楽しみましょう。


2022年11月25日金曜日

サッカー・ワールドカップ2022 日本 VS ドイツ


あっ、何か一日遅れの話題でスミマセン。もう、さんざんニュースでやってたので、お腹一杯ネタかもしれませんが・・・

森保JAPAN、初戦で強豪ドイツを撃破!!

おめでと~!! 

もともと、グループリーグの組み合わせはシビアでしたよね。何しろ、日本の入ったグルーブEは、ドイツ、スペイン、コスタリカです。FIFAランキングで言えば、それぞれ11位、7位、31位です。日本は24位。

上位2チームが決勝トーナメントに進むことを考えると、日本はかなり難しい・・・はずですからね。でも、これでコスタリカに勝てれば、スペインに負けても行けるかもしれない。

いよいよ日曜日のコスタリカ戦が重要になってきましたよ。

ガンバレ、NIPPON、SAMURAI BLUE !! !!

2022年11月24日木曜日

俳句の鑑賞 47 桂信子


桂信子、本名、丹羽信子は大正3年(1914年)に生まれた、大坂出身の女流俳人です。

少し話を戻して、日野草城の連作「ミヤコホテル」のことを思い出しましょう。昭和9年に発表された、京都のミヤコホテルを舞台に、(想像上の架空の)新婚初夜のことを大胆に俳句としたため、その是非について大きな論争が巻き起こりました。

ごく普通の子女だったはずの二十歳の信子は、この「ミヤコホテル」に感銘を受けます。翌、昭和10年に俳句を始め、昭和13年に草城が主宰する「旗艦」へ投句を開始し師事しました。昭和14年、26歳で結婚した信子は、昭和16年「旗艦」の同人となりますが、その直後夫が喘息により急死してしまいます。

今で言うOLとして寡婦として生活していましたが、昭和20年には空襲により自宅が全焼し、命からがら句稿だけ持ち出しました。昭和24年、この激動の10年をまとめた第一句集を出版しました。

梅林を額明るく過ぎゆけり 信子

ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ 信子

夫逝きぬちちははは遠く知り給はず 信子

新婚の嬉しさを詠ったもの。おそらく夫と楽しく梅林を散歩したのでしょうか。料理初心者には煮豆は難しいのですが、うくまできなくてもそれを楽しんでいる様子が伺えます。しかし、夫の急逝により、その幸せは長くは続きませんでした。

湯上りの肌の匂へり夕ざくら 信子

ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜 信子

無邪気な喜びに満ちていた信子の俳句は、一転して静けさを持った独特のエロチシズムを漂わせるようになります。「湯上りの肌」というだけでも十分に艶っぽいのに、それが匂った上に火照った肌と桜を重ねる作りは凄さを感じます。着物をゆったりと着ると、おそらく白いうなじがよけいに目に映るだろうと思いますが、「会う」ではなく「逢う」相手は一体誰だったのでしょうか。

ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 信子

湯上りの指やはらかく足袋のなか 信子

寡婦としての寂しさを、直接的な肉体的表現を使って表現しているのだろうと思いますが、この妖艶な情景は他の俳人の句には見られない独壇場です。これらの句からすれば、「ミヤコホテル」は艶っぽさでは可愛いものです。終戦後の時代の感性の変化は、信子に味方をしたようです。

女学生の黒き靴下聖夜ゆく 信子

一本の白毛おそろし冬の鵙 信子

女体のエロスのような内容は、ある意味、願望であり憧れの裏返しだったのかもしれません。中年期に入ると、女体の表現の仕方にも変化が現れます。もしも、自身にこどもがいたら、それが女の子だったら、その女学生はクリスマスイブの夜に黒い靴下をはきローファーかなんかで颯爽と歩いていくのかもしれません。髪の毛にブラシをあてていると、たった一本の白髪にも驚きます。老いを予感すると、鵙(もず)の速贄(はやにえ)の一本の枝を想像して戦慄するのです。

昭和45年、56歳で仕事を退職すると、自らの「草苑」を創刊・主宰します。俳句界の名立たる賞を多数受賞し、平成16年、90歳で亡くなりました。

2022年11月23日水曜日

俳句の勉強 58 寒卵で苦心

寒卵・・・「かんたまご」と読みます。それにしても、兼題にはすごくありふれたものか、あるいは聞いたことが無い言葉が出てくる。寒卵は聞いたことが無い方。どちらも難しいのは一緒です。

「寒卵」は晩冬の季語で人事生活に関する物とされていて、「寒中に鶏が産んだ卵。この時期は滋養が多く、保存もしやすい」とあります。冬だからことさら美味しいと意識したことがありませんでしたので、特に冬と結び付けて思いつくことが無いので困ります。

寒玉子割れば双子の目出度さよ 高濱虚子

これはわかりやすい。卵をわったら、黄身が二つ入っていた。誰でも何かラッキーっと思うところを詠んだもの。虚子でもこんなことで喜ぶんだと、微笑ましく思います。

寒卵薔薇色させる朝ありぬ 石田波郷

さすが「ホトトギス」系ではない波郷の句。有季定型を守りつつ、詩情性を重視。膳に生卵も出てくる冬の朝の一コマですが、「薔薇色させる」が深い。おそらく黄身の色が濃くて赤味が強かったことで、より美味しそうに思えたということでしょう。ちなみに、明らかに血が混じっていることがありますが、血卵(けつらん)と呼びます。

奴隷の自由という語寒卵に澄み 金子兜太

これはよくわかりません。19文字で、句切れがはっきりしないし、どう読んでも全部が字余りでリズム感が感じられない・・・でも、歳時記に載るんだから秀句ということらしい。使われる言葉の印象が強いのは兜太の特徴でしょうから、そこはよしとします。

大つぶの寒卵おく襤褸の上 飯田蛇笏

「襤褸(ぼろ)」はいわゆる「ボロボロ」、古くなった布などのこと。もちろん、ボロ布の上に卵を割ったわけではなく、質素なご飯、麦飯とか雑穀の上に載せた寒卵が御馳走だということ。農村作家としての蛇笏の面目躍如みたいな句だと思います。


寒卵つぶしてまぜれば醤油色


いくら寒卵と言って特別扱いしても、卵かけご飯にするとかけた醤油で茶色くなるよね、というつまらない句。もしかしたら夏場よりは美味しいのかもしれませんが、何しろ意識して試したことが無いのでわかりません。「潰す」、「混ぜる」というのは漢字だときついかなと思いひらがなにしましたが、動詞を並べるのはあまりよくなさそうです。

寒卵世界を駆ける日本人

やや時事俳句っぽいですが、白人中心社会の欧米の中で活躍する日本人へのエールくらいのもの。まぁ、あまり説明すると人種問題になりかねないので、サラっと終わらせておきます。

光射し二度生まれ出る寒卵

何か宗教的な雰囲気もありますが、特にキリストを寒卵に例えたわけではありません。卵として生まれた時、そして食べられるために殻を割れれる時、卵は2回生まれているんだなぁという気持ちです。卵の中では、カツンっと衝撃が走りヒビが入ると、さっと光が射しこんできて、卵もいよいよ活躍する時だと意を決しているのかもしれません。

例によってあまり人を唸らせるような俳句ではありません。いつまでたっても素人句のままです(もっとも素人ですが)。門前の小僧・・・と言いますが、暗唱できれば何とかなる念仏と違って、俳句は自分で考えないと駄目なので、さらなる修行が必要です。

2022年11月22日火曜日

俳句の鑑賞 46 高柳重信


高柳重信は、大正12年(1926年)に東京で生まれました。父親も俳句を嗜み、重信も中学に入ると投句を始めます。昭和15年、早稲田大学に入学しますが、投句していた俳誌が軍国主義化していったため、自ら「早大俳句」を創刊します。

昭和17年、大学を繰り上げ卒業しますが、結核を発症し前橋に疎開し仕事につきます。終戦を迎え、すぐにいろいろと同人誌を作り、自分の道を模索するのでした。昭和23年には、多行俳句を実践し、富沢赤黄男、楠本憲吉、さらにのちには三橋鷹女らとの協調していろいろな俳句誌を出版しています。

「俳句研究」誌の編集も行い、多くの現代俳句作家を見出していまが、昭和58年7月、肝硬変から食道静脈瘤破裂により60歳で急逝しました。

活躍した時代が重なるために、金子兜太としばしば比較される存在ですが、重信はまさに「前衛俳句」と呼ばれる従来の形式を逸脱したような句作りが特徴です。

くるしくて
みな愛す
この
河口の海色
 重信

通常、俳句は一行に書く。上中下句の間に空白は入れないのが普通です。それを、重信は一つ一つの言葉ごとに改行する「多行俳句」というものを始めました。改行されると、明示的に強い切れが生じます。俳句というより「詩」に近い雰囲気です。

耳の木や
身ぐるみ
脱いで
耳のこる
 重信

内容も難解です。正直、よくわかりません。この句の場合、「み」で始める言葉遊びのように思えます。耳の木から全部はぎ取ったら耳だけ残ったということだと思いますが、そもそも「耳の木」とは何だろう。

一睡の
夢見や
伊勢の
いかのぼり
 重信

「伊勢」は三重県の伊勢ではなく、かつての軍艦の名前。「いかのぼり」は凧揚げのことです。軍艦伊勢の絵が描かれた凧あげをしている夢を見たということでしょうか。ここまでで気が付いてたのは、明快な季語らしきものが無いということ。「いかのぼり」としたのも、わざと春の季語になる「凧」をさけてぎりぎり傍題を使った感じです。

身をそらす虹の
絶嶺
・・処刑台
 重信

女性が身をそらしている姿。乳房が虹のように思え、また山のようにも見えた。その一方で処刑台も連想したということでしょうか。重信の代表作の一つとされています。こうなると、何故「身をそらす」で改行しなかったのか気になります。改行すると「虹」が独立して、季語として成立してしまうのを嫌ったのでしょうか。

・・山脈の
襞に





埋も



 重信

極めつけがこれ。う~ん、実験的と言ってしまえばそれまでですが、単語の中の文字こどに改行するという・・・何なんでしょうか。

言葉を文字が集まってできたものと考えれば、その一文字づつに分解することは、徹底的に言葉を嚙み締めよ、というメッセージなのかもしれません。これも俳句というジャンルに入れてしまえるのは、俳句の懐が深いと考えればいいのでしょうか。

ただし、現実には今では多行俳句をほぼ見かけることはありません。いろいろなことに挑戦する重信の姿勢はともかく、俳句を言葉ごと、文字ごとに分解する試みはそれほど評価されていないと言えそうです。

2022年11月21日月曜日

俳句の鑑賞 45 金子兜太


金子兜太(とうた)は、「ホトトギス」の絶対性が弱まった戦後の俳壇を牽引した最重要人物と言えそうです。大正8年(1918年)に埼玉で生まれましたが、旧制熊谷中学を卒業後は水戸に転居し、旧制水戸高等学校に入学し、ここで学友に誘われ句会に参加し、初めて詠んだ句があります。

白梅や老子無心の旅に出る 兜太

いきなりこれだけ高尚な内容を詠むとは只者ではない。ここで詠まれた漂泊の心情は、兜太の人生をすでに象徴しているかのようです。医師であった父親は、「馬酔木」に参加し伊昔紅(いせきこう)という俳号を持っており、自らも俳句誌を創刊する人物でした。間接的に、父親の影響が兜太にあっただろうと想像されます。昭和16年、東京帝国大学へ入学し、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句するようになり師事します。

貨車長しわれのみにある夜の遮断機 兜太

閑古鳴く女さらさらと帯を巻く 兜太

リアカーに秋鶏上り農夫の死 兜太

若き日の句。長い貨物列車のため、ずっと遮断機が下りた夜の踏切で一人だけで待っている自分。ひなびた遊郭に行ったのか、女はさっさと着物を着ているところを冷めた目で見ている自分。農夫が死んでしまったため、引かれることがなく放置されたリアカーに鶏が乗っているのを眺めている自分。いずれも、人の営みを客観的、冷静に観察した独特の視点が表現されています。

昭和18年、戦時下において繰り上げ卒業となった兜太は、日本銀行に就職するも、出勤3日で出征し、激戦の南太平洋、トラック諸島へと送り込まれます。補給の道を断たれ餓死者も出る凄惨な戦場体験をし、奇跡的に命をつないでアメリカ軍の捕虜となり、昭和21年11月に何とか復員することが出来ました。有名な俳人の中では、本格的な激しい戦闘を実体験した数少ない一人です。

焚火の煙無人の磯へ溢れ落つ 兜太

青きバナナ部屋の真中に吊りておく 兜太

流れ星蚊帳を刺すかに流れけり 兜太

スコールの雲か星を隠せしまま 兜太

出征前夜、父と千葉の白浜を訪れた兜太は、焚火の煙に自分の未来を見たのかもしれません。続いて、トラック島での生活を詠んだもので、苦しい日々だろうと思いますが、バナナや流れ星に束の間の安らぎを覚えたのでしょう。そして、敗戦がわかり、もう星を見ることは無いと覚悟したということ。

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太

水脈(みお)は地下水の流れの意味ですが、トラック島では雨水くらいしか飲料水が無かったことをさしているのだろうと思います。強い日差しにさらされる死んだ仲間たちの墓碑を残して、この場所を自分は去って日本に戻るということでしょう。

日本に戻った兜太は日本銀行に復職しますが、労働組合運動に身を投じたため、レッド・パージ(赤狩り)に引っ掛かりますが、組合を抜け出世をあきらめたことで、何とか逮捕はまぬがれました。その結果、福島、神戸、長崎と転々と移動させられ、昭和35年に本店に戻ると、本人曰く「窓奥族(窓際よりももっと奥)」として昭和49年の定年まで勤めました。

会津の山山雲揚げ雲つけ稲田の民 兜太

港祭の空映る窓外人透く 兜太

湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太

転勤先でも、その土地土地で俳句を詠んでいます。特に代表句として有名なのが長崎の句。長崎の街を走り抜けていくマラソン・ランナー。その苦しそうな様子から、ここがかつて爆心地であったことに思いが飛ぶのです。

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

庭で梅が満開で綺麗というだけならわかりますが、そこに登場するのが青鮫というファンタジー作品。本人は春の到来を喜んでいる句と説明していますが、それにしても理解しにくい。どうやら、兜太の心の中では、戦地に赴き帰ることができた人なら誰もが少なからず持っている自己嫌悪、仲間は死んでいったのに自分は助かったと卑下する気持ちがあったのではないでしょうか。青鮫は、死んだかつての仲間たちととらえることができるようです。数々の功績を残して、平成30年2月、兜太は肺炎のため息を引き取りました。98歳でした。

社会的ですが、あくまでも自分の思索的な客観性がそう見えるのかなと思いますが、そこがずっしりと重みのある独特の表現をまとって俳句となっている。さすがに、誰かが真似して真似できるすじではありません。

兜太は種田山頭火の研究にも功績かありますが、本人の句は完全な自由律というのはほとんど見られない。基本的には有季定型、字余り句またがりは自由という句作りのスタンスだろうと思います。今の俳句の主流がまさにそれであり、金子兜太の俳句が現代俳句のメインストリームになっているように思いました。

2022年11月20日日曜日

エコ・テロリズム


地球温暖化が進行している。そして、それは、地球の自然環境にとってかなり深刻な状況をもたらしていることは間違いない。自分たちも、年々に異常気象と呼ばれる、かつての経験からは想像できない事象に遭遇する頻度が増えていることは実感している。

そこで、環境活動家と呼ばれる人々は美術館を訪れ、誰もが知っているような歴史的名画に対して、ケチャップ、卵、オイルを投げつける抗議活動を始めました。中には、絵画に自らの体を接着剤で張り付けてしまうという行為まで行われています。このような行為は「エコ・テロリズム」と呼ばれています。

彼らの理論は、「人々は美術館で美しい絵画を鑑賞するのに、美しい地球が汚染され破壊されている状況には無関心である」ために、「美しい物が破壊されることにどれほど苦痛を感じる」ことかを自覚させたいということのようです。

また、「名画を保存・展示することに莫大な費用が使われている」ことに対しても、「優先順位が違う」ということも主張していて、まずは「人々が生きていく上でより重要なはずの地球環境を改善することが急務」と考えているのです。

中心となる組織は「JUST STOP OIL」という集団で、襲撃する絵画は「ガラスなどにより保護されている」ことがわかっていて選択されていて、「絵画そのものの破壊が目的ではない」としており、「変化を起こすためにまずは行動することが重要」であり、「行為によって共感が得られなくてもかまわない」と考えているらしい。

そのような理論を主導するリーダーはいるわけですが、その組織は確立されておらず、SNSなどを通じて、共感する誰もが「兵士」として行動しているため、実態が不透明なことが現代を如実に反映していると言えます。

自分は、これらのエコ・テロリズムに対して断固反対し、明確に非難します。

彼らが自ら語っているように、絵画を襲撃することは、規模こそ違えても地球を汚染することと同じ行為です。彼らもすでに地球環境を悪化させている様々な文明の賜物を利用しているわけで、自己矛盾に気が付くべきです。

18世紀なかばにイギリスから始まったとされる産業革命が、地球破壊のスタートとするならばすでに250年、19世紀なかばにアメリカで油田開発が重化学工業が始まって150年以上という歴史を考えると、この間に人類が享受した文明の多くは、すべての人々の生活の隅々まで浸透しています。

地球環境が、もう待った無しの状況に来ていることは想像に難くありませんが、一度得た便利さを捨て去ることは大変難しい。悠長に人々に説いている時間はないというのはわからなくはありませんが、その矛先を絵画に向けることの意味は、あまりにも稚拙で無駄の多いことであり、文化遺産を攻撃することは人類そのものの否定にも通じます。保護措置が取られている絵画を攻撃対象にするということも、自己保身的な行動とも言えるでしょう。

人々の共感は期待していないとする時点で、歪んだ正義は一方的な価値観の押し付けにすぎず、おそらく地球環境の改善に寄与する割合は限りなくゼロに近いと思います。地球規模の危機は、すべての人類が一致して向かうことが出来る方向性があってこそ回避できるものではないでしょうか。

2022年11月19日土曜日

焼売


シュウマイと言えば・・・横浜ではすぐに思いつくのは崎陽軒ですが、確かにスーパーで売っているほとんどのシュウマイより、崎陽軒は美味しいことは間違いない。

ならば、崎陽軒に挑戦しようじゃありませんか。と、無謀な話ですが、シュウマイを作ることはそれほど難しくはありません。

まず材料です。25個分です。

シュウマイの皮
豚肉 挽肉で300gくらい
玉ねぎ 1/2個分を細かくみじん切り
醤油 大さじ1くらい
オイスターソース 大さじ1くらい
コショウ 少々
砂糖 大さじ1くらい
片栗粉 大さじ2くらい

そしてカギとなるポイント食材が、エビとホタテです。
本来なら干海老、干貝柱を使いたいところですが高価ですから、冷凍のシーフードミックスを使います。
ムキエビ 中くらいのもので10尾くらい
ホタテ 小貝柱だと10個くらい

まずは餡作り。

ムキエビとホタテを解凍したら、ブレンダーでペースト状になるまでしっかり細かくします。ブレンダーが無ければ、包丁で徹底的に切って潰せばOKです。本当は、崎陽軒はグリーンピースを餡に練り込んでいるらしいのですが、まぁ無くてもかまいません。

豚肉、玉ねぎ、ムキエビ、ホタテをボールに入れてしっかり混ぜ合わせます。残りの調味料も一気に入れて捏ねまくりましょう。

あとは適当な量をスプーンですくい取って皮で巻くだけ。蒸し器に並べて、沸騰してから10分ほどで出来上がり。

早速食べてみます。

お~、まさにシュウマイ。まさに崎陽軒。旨い。美味しい。間違いない。

冷凍シーフードを使ったので、水分が多くて餡が柔らかめでしたが、問題になるほどではありません。上にアクセントで乗せたのは、冷蔵庫に余っていたインゲン。あれば。ちょっと可愛い。

2022年11月18日金曜日

コキア


コキア、またはホウキギと呼ばれる、細い枝がたくさん伸びて丸っこい植物。ヒユ科バッシア属の一年草です。

このあたりでは、よく見かけます。庭とか畑の端あたりにたくさん並べて植えてあったりします。

きれいな緑色だったのが、この時期、真っ赤に紅葉します。もう少しすると、黄色から茶色になっていきます。

名前の由来は、これを乾燥させて束ねると・・・箒(ほうき)になるから。確かに、昔はこういう箒がたくさんありました。

夏に強く、一年草ですから、あと腐れなく楽しめるので、庭があるなら一度は楽しんでもよさそうですね。



2022年11月17日木曜日

和三盆


主として四国で作られている、伝統的な砂糖が和三盆。

基本的にはサトウキビから作られるので、普通の砂糖と変わりません。

ただ、「研ぎ」と呼ばれる砂糖粒子を細かくする作業を繰り返すことで、きめの細かい「粉」状にして練り固めたものは、ある意味芸術品のような出来栄えです。

甘さが柔らかいので、そのまま和菓子として食べたりもできるのですが、やはり落雁みたいもので、口の中の水分を取られてしまいます。

かといって、料理に使うのももったいないし、そもそも値段が高いので、ちょっと使い道に困ってしまいます。

2022年11月16日水曜日

菊芋


菊芋(きくいも)・・・って、何だ? って感じなんですが、知る人ぞ知るなのか、知らないと恥ずかしいのか・・・

北米原産のキク科の多年草で、けっこうそこらに生えていたりするらしい。

5cm程度の塊で、球根みたいなものかと思ったら、実はこれは地下茎で、塊茎ともいわれているもの。食用になります。

栄養としてポイントは、多糖類イヌリンを20%くらい含む食物繊維であり、デンプン質はほとんど含まないので、芋といっても食べての罪悪感はありません。

綺麗に水洗いしたら、皮ごと薄切りにして生でサラダで食べれる・・・というので、早速食べてみました。

う~ん、ほぼ味が無い。しゃきしゃきした食感だけ。旨いも不味いもありません。かけたドレッシングの味になってしまう感じです。

煮物風にしても良いとのことなので、煮ると里芋風の感じになるらしいです。

ちなみに、けっこうマイナーですが、仲秋の俳句の季語にもなっています。

2022年11月15日火曜日

俳句の鑑賞 44 川端茅舍


川端茅舍(かわばたぼうしゃ)、本名、信一は、明治30年(1897年)に東京の日本橋蛎殻町で生まれました。風流人だった父親の影響で、当初は西洋画家を目指していました。その一方で、17歳のころから茅舍の俳号を名乗り、飯田蛇笏の「キララ(後の雲母)」へ投句をするようになりました。

しかし、結核を患ったため画家の道は断念し、俳句に専念するようになります。「ホトトギス」に投句するようになると高濱虚子より高く評価され、昭和9年に同人となりました。松本たかしとの深く交流し、互いに影響し合いましたが、昭和16年、肺結核により43歳の若さで死去しました。

りうりうとして逆立つ露の萩 茅舎

女性的な表現に似合う萩を、「りうりう」という威勢の良い表現を使っているところが面白い。普通は下に向いていく可憐な花だが、花から見始めると上に行くにしたがって太くたくましくなっているということでしょう。

水馬青天井をりんりんと 茅舎

「水馬」はみずすましのこと。みずすましは水面をすいーすいーっと進んでいくわけで、その水面に青空が映っていたことで、まるで天井を「どうだ」と言わんばかりに進んでいく。これも普通の視点を逆さまにした発想が興味深い句です。

咳われをはなれて森をかけめぐる 茅舎

火の玉の如くに咳きて隠れ棲む 茅舎

正岡子規のように、短い人生の半分は寝たきりだった茅舎ですが、咳が出たすと大変苦しかったのだろうと思います。しかし、咳そのものが「苦しい」、「辛い」というように直接的に詠むことはなく、その病苦すら客観的に写生したのかもしれません。

青き踏み棹さす杖の我進む 茅舎

昭和16年の句で、おそらく自分でままならなかったであろう、春になって生えてくる青々とした草を踏みしめるということを 杖を頼りに少しでも楽しんだのかもしれません。病苦の中でも、表現は勇ましい。

夏痩せて腕は鉄棒より重し 茅舎

亡くなった後に「ホトトギス」の巻頭に掲載された句。苦悩の中でも、茅舎の句が力強く響くのは、否定的な表現をほとんどしないところと、軽やかな物でも重たい表現をすることで重厚感が生み出しているのだろうと思います。

また季語の使い方がうまい。季語とそれ以外が、別の内容になっていてより多くを語ろうとする俳句が多いのですが、茅舎は季語が全体の中ですっぽりとはまっていて、軽く読み流すと季語だと気が付かないくらい同化しているように思います。

戦前の「ホトトギス」において、四Sの後に、さまざまな逆境を抱える虚子にとっては、中村草田男、松本たかし、そして川端茅舎の3人がどれだけ心強かったことだろうと想像できます。

2022年11月14日月曜日

俳句の鑑賞 43 松本たかし


もちろん、作詞家の松本隆とは別人。関係ありません。松本たかし、本名は孝は、明治39年(1906年)に東京の神田で代々能役者の家柄の長男として生まれました。生涯、高濱虚子に師事し、「ホトトギス」の困難期を支えた俳人です。

5歳から能を始め、8歳で初舞台を踏むも、肺病のため16歳で淡路島に転地療養を余儀なくされます。療養中から俳句を始め、大正12年、17歳の時に「ホトトギス」へ投句するようになります。

病気のため能役者を断念せざるを得なくなり、ますます俳句へ傾倒するようになり虚子もその芸術味を評価し、23歳で巻頭に選ばれました。

鶺鴒のあるき出てくる菊日和 たかし

白菊の枯るるがままに掃き清む たかし

鶺鴒(セキレイ)は、水辺を好む比較的普通の小鳥。白露の第二候、9月半ばの頃を七十二候では「鶺鴒鳴く」となっていて、ことさら泣き声が目立つようです。そんな鶺鴒も喜ぶような良い天気、そして菊がたくさん咲いて多くの花びらが落ちてくる様子を詠んだもの。

虚子は、たかしの句は写生であるが、その表現方法が詩的で空想化されたような印象であると述べています。「ホトトギス」同人となったたかしは、ますます「花鳥諷詠」を重視するようになります。

雪残る汚れ汚れて石のごと たかし

夢に舞ふ能美しや冬籠 たかし

能役者は断念しましたが、鼓はかなり練習し名手であったようです。長男として能を継げなかったことは、精神的な重荷になったことは容易に想像できます。たびたび、ノイローゼになって、句作にも影響することもしばしばでした。

昭和6年ごろから、同じ「ホトトギス」の高野素十、川端茅舎らと交友関係が深まり、互いに影響し合うようになります。そして、昭和21年、「笛」を創刊し主宰します。昭和31年2月、脳梗塞を発症し、5月11日に心臓麻痺により死去、50歳でした。

猫飼えば猫が友よぶ炬燵かな たかし

草枯るる猫の墓辺に猫遊び たかし

戦後は久我山に住んでいましたが、猫を飼っていたようで、猫に関する句が多く、その多くは微笑ましくも一抹の悲しさを持っていました。「笛」の表紙にも猫の絵がよく登場したようです。


2022年11月13日日曜日

俳句の勉強58 落葉で苦心


寒くなって来ると落葉は、そこらじゅうで見ることでできます。当然、冬の季語になっていて、単独以外にも「落葉掃く」、「落葉焚く」、「落葉時雨」などの傍題も使われます。

まだ木に残っていて散りそうなのか、木からは垂れてゆらゆらと落ちているのか、あるいは地面に溜まっているのか、時間的な変化もあったりして、バリエーションがありそうなんですが、たいてい何かが終わる寂しさみたいな共通の感情を呼び起こすので、発想が固定化されやすい。

待人の足音遠き落葉かな 蕪村

落葉がたくさん道に落ちていて、人が歩くとカサ、カサっと音がする。人を待って耳を澄ますと、まだまだやってくる気配が無いなあというところでしょうか。人を待ちわびて、一人でいる寂しさが表現されています。

西吹けば東にたまる落葉かな 蕪村

これも蕪村ですが、何か当たり前感のある句。西から風が吹いて、東側に落葉が溜まっているということ。「菜の花や月は東に日は西に」のセルフカバーみたいな感じです。

焚くほどに風がくれたるおち葉かな 一茶

現代ではそこらで簡単に焚火をするわけにはいかなくなったので、落葉炊きというのは死語に近いものがあります。焚火の中でサツマイモを焼くなんていうのも、ほぼ消滅した風習なので、今さら俳句に盛り込んでも嘘っぽいだけになってしまいます。

野良犬よ落葉にうたれとび上がり 西東三鬼

陽だまりでうとうとしている野良犬がいて、ゆらゆらと落ちて来た落葉に「打たれ」るという大袈裟な表現が面白い。でも、そのくらい驚いてビクンとなるというのは、いかにもありそうな光景として納得できます。

雄鶏や落葉の下に何もなき 西東三鬼

戦後すぐに詠まれた句で、一生懸命餌を探して落葉の下をつついて回る雄鶏は、敗戦後の困窮した日本人を重ね合わせることができます。でも、そこには何もないという、辛さがにじみ出てくるわけで、人の生活の匂いが強く感じられます。

そこまで鑑賞に耐えることができる句が詠めなくてもいいんですけど、とりあえずいろいろ考えてみましたが、やはり同じ発想の中をぐるぐると回るだけの凡人の域をなかなか出られません。

停車場の落ち葉を連れて郷帰り

落葉連れ夜行のバスは故郷へ

どこからか落ちて来た落葉の一枚が、夜行バスにひらりと入って、一緒に故郷に帰るんだなぁ、ということなんですが、「停車場」というのがわかりにくいかなと思って、直接的な「夜行バス」を使ったものも考えてみました。停車場のほうがいろいろと郷愁を誘うと思いますが、落葉よりも目立ってしまう感じがします。

夜行バス旅のお供は落葉かな

切れ字の項かは絶大で、「かな」をつけるだけで一気に「落葉」が主役に躍り出る感じになりますが、どういじっても「だから、何?」という程度の俳句ですね。

末社にも吹き溜まりたる落葉あり

神社には主たる祀神をおさめた本殿以外に、別の神を祀る小さな末社が併設してあることがよくあります。たいてい端の方にあるので、落葉の吹き溜まりになったりしていますが、手入れが疎かになりやすいのかもしれないけど、落葉でくるまれて寒さもしのげているのかなぁという句です。

山に入り踏まれ踏まれし落葉路

山に入って道がわからなくなったけど、何度も誰かに踏まれて落葉が踏み固められた道があったので助かったという感じです。「踏む」を繰り返すことで何度も何度もという感じをだしてみました。ですが、相変わらず、駄句量産という感じですね。

2022年11月12日土曜日

俳句の鑑賞 42 石田波郷


石田波郷(はごう)、本名哲夫は、大正2年(1913年)、松山市の中心部から西の海岸沿いの町で農家の次男に生まれました。地元の尋常小学校を卒業すると、県下一番の県立松山中学へ進学。かつての教壇には夏目漱石が立ち、先輩には子規、碧梧桐、虚子、草田男などがいます。

中学で俳句を作り始めた波郷は、当初は郷里の師に句作を教わっていましたが、卒業すると農家の仕事を手伝うようになります。しかし俳句の事は忘れませんでした。昭和5年、一時は中村草田男と共に注目されていた五十崎古郷と知り合い、彼の推薦で水原秋櫻子に師事することになります。俳号の波郷の命名は、古郷によるもの。

病弱だった古郷は、「ホトトギス」の草田男に対するライバル心もあって、「ホトトギス」を離反した秋櫻子につくことを決め、草田男に勝つための武器として波郷に期待していたようです。

秋の暮業火となりて秬は燃ゆ 波郷

昭和7年、「馬酔木」の巻頭に初めて載った若き波郷の句。「秬(きょ)」は黒いキビのことで、燃料的に燃やすと豪快に炎が上がったというもの。冬が近づき、日が暮れると急に寒さがこたえるということか。

バスを待ち大路の春をうたがはず 波郷

そして波郷はついに昭和7年、20歳にして単身上京することになりました。東京という大都会に出て来たばかりの青年が、疑い事もない大きな希望をいだいていたことがにじむ句です。

東京で波郷は、「馬酔木」の事務の仕事をしながら、最年少の同人になりました。昭和9年、秋櫻子の援助により明治大学に入学。しかし、女性とのいざこざ(?)などもあって2年で中退しています。

梅雨の空ひとが遺せし手鏡に 波郷

同棲した女性が去った後に遺された手鏡・・・ということか。梅雨空が切なく悲しいと思ったのか思わなかったか、回想を残していないので、本人曰くの「一箇の愛欲事件」の詳細はまったくわかりません。

昭和14年、記憶に残る座談会が開かれます。「俳句研究」誌の編集長だった山本健吉の企画として実現したもので、「新しい俳句の課題」というテーマでした。「ホトトギス」の中村草田男と共に「馬酔木」から出席した加藤楸邨と石田波郷は、近代俳句は自然諷詠から人間諷詠が重要で「人間の探究」が共通点であるという認識で一致しました。

霜柱俳句は切れ字響きけり 波郷

新興俳句の散文調に対する危機感を持った波郷が、自らの俳句のそのものを表すために詠んだとされます。

雁やのこるものみな美しき 波郷

昭和17年結婚、翌年長男誕生。しかし、その直後招集され、中国山東省に駐留。この句は、召集令状が届いたときに詠まれたもの。昭和19年に結核を発症、昭和20年1月帰国し家族と埼玉に疎開します。戦後は現代俳句協会設立に奔走し、「現代俳句」誌を創刊・編集するも、昭和44年、56歳で病没しました。

ひとつ咲く酒中花はわが戀椿 楸邨

酒中花は椿の古い品種の一つで、自宅の庭に波郷が植えていた物。句集のタイトルにもしているほど、波郷が愛してやまなかった花です。

基本的には伝統俳句の範疇を守り、新興俳句に対しては「新たなものを作るのではなく、伝統的なものを一歩進めることが重要」とし、私小説的な自らの生活そのものを詠みあげる句が多い。

山本健吉評。「今日の多くの俳句の中で、かくべついさぎよさに輝いている。(もともと俳句は文学ではない考えていたので)第二芸術論にたじろがなかったご少数の作家の一人で、俳句を作ることは波郷にとっては生きることそれ自体である」と述べています。

2022年11月11日金曜日

俳句の鑑賞 41 加藤楸邨


加藤楸邨(しゅうそん)、本名、健雄は明治38年(1905年)に東京で生まれました。父親が鉄道勤務で転勤が多く、楸邨も各地を転々として父親の定年により金沢に落ち着いたのは旧制中学の頃でした。大正14年、父親が病没し、一家は水戸に転居し、楸邨は水戸で代用教員の職に就きます。

しかし、翌年単身上京し苦学して東京高等師範学校に入学。昭和4年に卒業し、埼玉県春日部市の中学校教諭に採用されます。ここで仕事仲間からの誘いで句作を始め、俳号は当初「冬村」でしたが、「柊村」となり「楸邨」に落ち着きます。少年期より読書が好きで、古典、思想書などを愛読していたので、文学的素養はしっかりとしたものがあったようです。

昭和6年、仕事で春日部に来た水原秋櫻子と会う機会があり、以後「馬酔木」に投句をするようになります。 昭和10年、「馬酔木」同人となり、俳論の寄稿も積極的に行うようになりました。昭和12年、教諭職を辞し「馬酔木」に就職すると同時に東京文理科大学に入学します。

棉の実を摘みゐてうたふこともなし 楸邨

冬に没る金剛力に鵙なけり 楸邨

第一句集冒頭句。初期の作品であるので、自然諷詠ですが、歌うこともないとは間違いなく人の営みであり、棉の実を摘むことが楽しいわけではないということでしょうか。次の句も難しい。「冬に没る(いる)」は「冬になって」ということ。金剛力は木々の葉が黄色くなり、まばらになっていく様子だと思いますが、そこを弱々しさではなく力強さで表現し、鵙(モズ)が確信をもって鳴くということだと思います。

昭和14年、「俳句研究」誌の座談会に中村草田男、石田波郷らと出席し、発言内容から彼らは「人間探求派」と呼ばれ、その俳句は難解と言われるようになります。昭和15年に大学を卒業した楸邨は、俳誌「寒雷」を刊行し主宰となりました。創刊の巻頭言に「俳句の中に人間の生きることを第一に重んじる」とし、誌名は前年に秋櫻子の序を頂いた第一句集から来ています。

鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨

代表句とされる有名な句で、鰯雲が見える秋の空を眺めながら、いろいろと心の中で思っていることを口に出すものではないと考えている作者がいるということです。

つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど 楸邨

知人の戦死の知らせを受け、地面を見ると一匹の蟻がひたすら這っていく様子が目に入った。ただ進んでいく蟻に知人の姿を重ねた思いを詠んだものでしょう。

十二月八日の霜の屋根幾万 楸邨

昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃を仕掛けアメリカに対して宣戦布告しました。朝、ラジオで「我が国は戦争状態に入れり」とニュースが流れます。それを聞いた作者は、家々に降りた霜がきらきら輝くのをどのように見たのでしょうか。

戦後は戦争協力者という非難を受けることがありましたが、次第に俳壇での活動を活発化させます。昭和29年、青山学院女子短期大学教授に就任し、俳壇の多くの受賞、受勲を成し遂げ、平成5年、88歳で亡くなりました。

木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ 楸邨

病床にあった時に、落ちて散りゆく木の葉に向かって、「急ぐな急ぐなよ」とつぶやく自分を詠んだもので、それは自分に向かって発せられたものでもあったのでしょう。

人間探求をテーマに俳句革新の中心となり、輩出した多くの多様な門下の俳人は「青邨山脈」と呼ばれ、戦後俳壇の中心となっていきました。

山本健吉評。「楸邨はカオスを含んでおり、話しているうちに新しい問題に突き当たり、考え込みさらに前進する」と人柄を表現し、その作品は「庶民的な凡愚の生活感情」が根本にあり、「暖かい人間的な善意に満ちていて、求道者的魂が貫ていいて感動の振幅が人一倍巨大である」と述べています。

2022年11月10日木曜日

オリーブ・オイル・ドレッシング


日本の自家製オリーブ・オイルを使った高級ドレッシング・・・をいただきました。

小豆島にある井上誠耕園が作っているもので、それなりの値段です。それなりの値段だと、それだけで美味しく思ってしまうのが、小市民的なところですが、少なくとも普通に使うものよりは間違いなく高級です。

オリーブ・オイルの話は以前に書いたんですが、日本の場合はJAS規格が基準です。ところが、この規格は世界的には怪しい所があって、正真正銘まともなオイルかどうかはわかりにくい。

井上誠耕園のオリーブ・オイルは、HPで見ると標準的なエキストラ・ヴァージンで約10円/gなの、国際的な価格からすると最高級品の値段と肩と並べます。

ところが、ちょっと気になったのは、小豆島で自家栽培・自家製をしているようなんですが、スペインからもオリーブの実を空輸しているらしい。となると、実を採取してから最低でも1日以上のタイムラグが生じるというところが、どうなのかなぁ・・・

それとHP上では、国際規格で重視されるオイルの酸度の表記がまったく見つけられなかったことも、どうなのかなぁ・・・

もっとも、今回賞味したのはドレッシングですから、そんなところをあまり気にしてもしょうがない。野菜や肉にかけてみて美味しければ問題ないわけで、普段使いにするにはもったいないとは思いますが、贈答品としてはバッチリでした。

2022年11月9日水曜日

月蝕


いや、月蝕の前に11月7日は立冬だということを忘れちゃいけない。暦の上ではここから冬だということ。

毎年、いつの間にか過ぎる立冬に比べて、やはりセンセーショナルなのが昨夜の月蝕。それも皆既ですよ。しかも、442年ぶりの天王星蝕も同時に見られる・・・

相当、天気が良い空気の澄んだ場所で、しっかりとした天体望遠鏡があれば天王星もわかるかもしれませんが、首都圏の当たりじゃどうせわかりっこないので、そこんとこは聞かなかったことにします。

月蝕とは・・・太陽の光を遮る地球の影に月が隠れる現象ですが、綺麗に全部隠れる場合は皆既月食ですよね。

真っ暗になって月が見えなくなるわけじゃなくて、ほんのりと赤みを帯びた月が見えました。写真を撮るにも、相当露出を開いて、シャッター速度も遅くして、感度もあげて、その上でノイズ・リダクション機能を使って、やっとこの写真が精一杯。

ちなみに右下ふきんに天王星が・・・・見えません。


2022年11月8日火曜日

俳句の勉強 57 第二芸術論


第二芸術論とは、は、岩波書店の「世界」誌の昭和21年(1946年)11月号に掲載された桑原武夫の論文のタイトルです。その挑発的な内容によって、戦後間もない俳壇に大きな衝撃を与え、論争を巻き起こしました。

現在も文庫本として論文集は手に入るので、本来はしっかりと読了した上で書くべきタイトルなのですが、なかなか敷居が高い感じがするので、ネットを探していろいろな意見を読んだ上での感想を書きとどめておきたいと思います。

桑原武夫(1904 - 1988)は、フランス文学・文化研究者、評論家で京都大学名誉教授。受勲もしており、一定の見識を持った学者であると言えます。ただし、同じ文学界からは研究姿勢に批判的な意見も少なからずあるようで、本テーマについても冷静に考えると論点に疑問が残るように思います。

俳句と無縁だったフランス文学を専門にしている学者が、何故、急に俳句を徹底的に否定する論文を発表したのかは謎ですが、書かれている論点は以下のようなことにまとめられるようです。

1. ヨーロッパ、ことにフランスの芸術は最も高い位置にある
2. 明治以降、日本の小説、とくに俳句は社会的思想的無自覚であるがゆえに面白くない
3. 俳句は同好の集まりで楽しむ芸事である
4. 芭蕉を崇拝し続けたことで俳句は堕落した
5. 俳句は芸術ではなく、強いて言うなら第二芸術である

まぁ、その他にもずいぶんと過激な意見が述べられているようですが、桑原氏は有名俳人と素人の句を並べて、被験者にブラインド・テストで優劣を評価させたところ、必ずしも大家の句が優秀であるという一定の評価が得られなかったことから、上記のような結論を導き出しています。

15句の例句のうち2つだけ紹介します。

囀や風少しある峠道 ???

防風のこゝ迄砂に埋もれしと ???

さて、どっちが大家の句でしょうか。正解はも前者は無名の素人、後者は高濱虚子です。確かに、確実に正解を出す自信はありません。正解を知って、確かにそうなのかもと思えるというのが本当の所かもしれません。

さらに、俳句は他に職業を有する老人や病人が余技とし楽しむ程度の物であり、床屋の俳句や川柳のごときものを芸術と呼ぶことはできないと論じています。

確かにプロの俳人の句だとしても、どうにもつまらない句があることは否定出来ません。何千、何万句を作って、後世に残るのは良くて何百かもしれません。素人の句でも、出合頭のホームランというのもあります。テストでは、例句にはプロの有名句は避けているのはしょうがないとしても、これだけで語るには無理がある。

もっとも、大正から昭和初期にかけて、高濱虚子の「ホトトギス」が絶対正義となり、直接的な感情移入表現を拒絶した「花鳥諷詠」を大看板に掲げたことは、俳句の芸術的な広がりを抑制したことは間違いないかもしれません。

ですから、それに対抗して早くから自由な作句を目指した河東碧梧桐、種田山頭火のような新傾向俳句運動や、「ホトトギス」の内部から水原秋櫻子や山口誓子のようにもっと心情を発露していこうという新興俳句運動などが発生してきています。

フランスの芸術にしても、例えばルノアールの絵画から思想的内面をうかがうのは困難だろうと思いますし、そもそも日本とはキリスト教の信仰に基づいた文化的な背景がまったく違うので、同列に置いて優劣を論じることはあまり意味があるとは思えません。

水原秋櫻子はこれに対して、「俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである」と反論しましたが、逆に、「小説家は小説を書いてみなければ小説のことはわからないなどとは言わない、この言葉こそ俳句の近代芸術として命脈が尽きている証拠である」と切り返されてしまいます。

山口誓子は、大家の弊害はある程度認めつつも、「作品に失望するとしても、大家に失望しない。またよしんば大家に失望するとしても俳句そのものに失望しない」と述べています。最も強く反論したのは中村草田男で、「その説教調は理由なき優越感からくるもので、これを教授病と命名する」としました。ちなみに、本来もっとも標的になっていたはずの「ホトトギス」は沈黙を続けました。

少なくとも、この議論に勝者はいません。後年、桑原氏は自ら適切ではない部分があったことは認めていますし、俳人の側も効果的に論破できたとは言い難い。ただ、桑原氏の投げつけた爆弾と軍国主義の崩壊によって、戦後の社会派俳句と呼ばれるようなより内面的な句作が始められるきっかけになったことは間違いなく、「ホトトギス」だけでなく多くの傾向の違う俳句を作る流派も同等にみられるようになったのかもしれません。

2022年11月7日月曜日

俳句の鑑賞 40 中村草田男


降る雪や明治は遠くなりにけり
 草田男

いきなりですが、超有名です。誰もが一度は耳にしたことがある俳句の一つ。これは、大学に進学した俳人・中村草田男が、自分が通った東京都港区の青南尋常小学校を訪れた際に詠んだ句。本人は、「降る雪によって、時と場所の意識が空白化し、今も明治が続いていると同時に永久に消えてしまった」と感じたと後に述懐しています。

中村草田男、本名、清一郎は、明治34年(1901年)に清国の時代の中国で生まれました。両親は旧松山藩の士族の家系ですが、父親が外務省に勤務した関係で、清国領事として赴任していたのです。3歳で帰国し松山に戻ると、7歳で上京。毎年のように都内を転居し、そのたびに小学校を転校、11歳で再び松山に戻っています。

ところが、松山で草田男は学校が嫌いになり、しだいに精神的に安定を欠くようになりました。転勤の連続で父親がずっさといないことや、旧家の長男としての様々な重圧が関係しているのかもしれません。

大正3年、県立松山中学入学(夏目漱石が奉職していた学校)。大正5年には、いわゆるノイローゼ(神経衰弱)のため、1年間休学することになります。草田男の困難を救ったのが、同級生だった伊丹万作(戦前の片岡千恵蔵の映画を多数監督)でした。復学した草田男は、ニーチェの「ツァラツストラ」を愛読し、哲学的思索に傾倒するようになります。

大正10年、やっと中学を卒業した草田男は、1年間浪人して大正11年に松山高等学校に入学し無事卒業後は、東京帝国大学へ進学しました。この間に、近親者が相次いで亡くなり、再びノイローゼがひどくなった時に、自己逃避の一助として俳句を始めるのです。

松山に住み、家には当然ように雑誌「ホトトギス」があった環境では、草田男の俳句の出発点も高濱虚子の説く「客観写生」でした。東大俳句会にも入会し、水原秋櫻子からも直接指導を受けながら、昭和4年に「ホトトギス」初入選を得ます。

前向ける雀は白し朝ぐもり 草田男

「ホトトギス」初入選句。昭和6年に秋櫻子が反「ホトトギス」を表明し脱会した後は、しだいに会の重責を担うようになります。昭和8年、大学を卒業し、吉祥寺の成蹊学園に教師として就職。

軍隊の近づく音や秋風裡 草田男

しだいに日本の軍国化が顕著になって来る昭和8年の句。「裡」は「り」と読み、「裏」と同義語で物事の内側という意味。寒々とした秋風の裏に軍隊の気配を感じ取るという、すでに「ホトトギス」の花鳥諷詠からはずれた独自の句柄になっています。

昭和10年、日野草城が発表した連作「ミヤコホテル」に対して論争が起こると、「都ホテルとは厚顔無恥な、しかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。(中略)俳句は単なる十七音詩ではなくして、同時に本質的意味で自然諷詠詩なのである」と激烈な批判を展開しました。この年、草田男は第一句集「長子」を刊行します。

萬綠の中や吾子の齒生え初むる 草田男

昭和14年の、草田男の代表句として広く知られる句。季語は「万緑」ですが、今ではよく知られたこの単語は中国の詩句に登場し、俳句の季語として草田男かここで初めて使用し、見渡す限り草木の緑色の真っ只中という意味を持ちます。自分の幼い子に初めて歯が生えてきたことの喜びを、万緑に象徴させました。

また、この年、「俳句研究」誌の座談会「新しい俳句の課題」に出席。司会は評論家・山本健吉で、同席したのは、当時「馬酔木」に属していた加藤楸邨、石田波郷でした。三人は「人間の探究」が必要であるという点で共通の認識を確認したことで、「人間探求派」と呼ばれるようになる一方で、「難解派」とも称されることになります。

焼跡に遺る三和土や手毬つく 草田男

空襲により焦土と化した街並みの瓦礫の中に平らな三和土(たたき)が残っていて、こどもたちは無邪気に毬突きをして遊んでいるという様子。終戦により、俳壇も少しづつ活動が再開され、草田男も昭和21年に「萬綠」を主宰することになりました。

同年、再び俳壇に激震が走ります。フランス文学者の桑原武夫が「第二芸術 - 現代俳句について 」を発表し、思想的無自覚な俳句創作態度を、「到底芸術とは呼べず、あえていうなら病人や年寄りお楽しみ程度の第二芸術である」と痛烈に批判します。ここでも、草田男は反論を積極的に行いました。

昭和22年、石田波郷、西東三鬼らと現代俳句協会を結成。草田男は、精力的に活動を続け、昭和34年、虚子没後の「朝日俳壇」選者を引き継ぎます。昭和36年、運営方針に賛同できなくなったため現代俳句協会を辞し、石田波郷らと新たに俳人協会を設立しました。昭和58年7月肺炎を発症し、8月5日に82歳で亡くなりました。

草田男という俳号の由来は、俳句を始めた頃に親類から、一家の長男として「お前は腐った男だ」と叱られたことから、「くさったお」を思いついたらしい。腐っているかもしれないが、そうじゃなくなって見せるという反骨精神のようなものがあったのでしょう。

山本健吉評。「草田男の本質はメルヒェンの世界」とし、その根源には、伊丹万作らの松山の友人たち、多くの西洋の芸術家たち、そしてカトリックへの信仰などがベースになっていると指摘しています。俳句の世界にとどまらない、文学者としてもっともかけがえのない存在であると最大級の賛辞を贈っています。

2022年11月6日日曜日

俳句の鑑賞 39 永六輔


永六輔は昭和8年(1933年)生まれの、テレビ放送黎明期を代表する放送作家であり、大ヒットした「上を向いて歩こう」、「こんにちは赤ちゃん」、「いい湯だな」、「遠くへ行きたい」などなどの作詞家としても知られています。テレビやラジオで様々な意見を発信し、平成28年に多くの著作を残して83歳で亡くなりました。

永は、昭和44年に入船亭扇橋(九代目)、小沢昭一、江國茂らと(東京)やなぎ句会を結成しました。江戸情緒にも精通した放送作家、劇作家、噺家、芸能評論家、俳優らが参加し、2021年まで大いに盛り上がる句会を開催してきたそうです。

永は、俳号は六丁目で、「いかに短くするかという俳句と、いかに長くするかという歌詞とは両立できない」として、しだいに作詞家活動を止めてしまうくらい、俳句が好きだったようですが、自分では「たいした句はなく、(やなぎ句会で)俳句を作らなければどんなに楽しい会」と言っていたらしい。

看取られる筈を看取って寒椿 六丁目

愛妻家で知られる永が、妻に先立たれた際に詠んだ句。自選するならこの一句だけ、と述べています。寒くなって咲く寒椿の凛とした紅色の美しさと、妻への愛情が込められています。

梅干しでにぎるか結ぶか麦のめし 六丁目

おにぎりなのか、おむすびなのか昔から諸説入り乱れ、結論は様々。中に入れるのは、今では何でもありですが、戦後の食糧難を経験した永にとっては、一番シンプルな梅干しが定番で、白米よりも握りにくい麦飯がスタンダードだったのかもしれません。

遠回りして生きてきて小春かな 六丁目

歳時記にも収載された句。季語の「小春」は、初冬の春のような温かい陽気のこと。いろいろあったけど、今は小春日和のような気持の良い日々を送っているということでしょう。でも、小春の後には厳しい冬(老年)がやって来るのです。

寝返りうてば土筆は目の高さ 六丁目

「土筆(つくし)」は仲春の季語。どこかの原っぱで、春の陽を浴びてぬくぬくとしているこうけいでしょうか。寝返りを打ったら、すぐ目の前に土筆があったことで、いっそう春を感じたということ。

土筆の向こうに土筆より低い煙突 六丁目

寝返りしたら土筆があって、さらに遠くに視点を移すと煙突がある。なんだ煙突の方が土筆より低いだと思ったわけです。もちろん遠近感の問題ですが、人工物より自然物により愛着を持ち季節を感じることができることを、両句とも自由律で詠みました。

ずっしりと水の重さの梨をむく 六丁目

確かに梨は持って視ると重さを感じますが、美味しい梨はとても瑞々しいもの。梨の新鮮で美味しそうな雰囲気を「水の重さ」と表現するところが素敵です。

いかにも永六輔らしい、軽いユーモアをもありつつ、どこかに現実に対する鋭い観察眼から生まれる正確な写生をしている感じがする俳句です。これが、まさに「粋」な言葉というものなのかと思いますし、自然とこのように詠めたら嬉しいですね。

2022年11月5日土曜日

俳句の投句結果 1


俳句を作る上で、兼題というテーマが決められていることがあります。もちろんテーマが無く、好きに作れと言われても、なかなかネタを見出しにくいですから、プロの俳人でもなければ途方に暮れてしまいます。

兼題はほとんどの場合には季語が選ばれているわけですが、その言葉を聞くと頭の中に映像が浮かんでくるものとこないものがある。例えば、「桜の花」みたいな言葉から、当然春の満開の桜のイメージが連想できるわけですが、誰でも同じような映像からスタートするので類想・類句に陥りやすい。

一方、時候・天文に関する季語は明確な映像を持たないものが多く、例えば「初冬(はつふゆ)」と言えば10月、あるいは「神無月(かんなづき)」のことで、普段からいろいろなものを細かく観察していないとここから何も思いつかずに困惑するだけになってしまいます。

という、言い訳を長々としておいて、そろそろこれまでの投句の結果発表第一弾と行きたいと思います。今回は、愛媛県松山市が運営する「俳句ポスト365」の分。松山市は正岡子規をはじめとして、有名な俳人とのかかわりが深く、夏井いつき先生の地元です。

投句は中級者以上と初級に分かれていて、選者は前者は夏井いつき先生、後者は夏井先生の長男で俳人の家藤正人先生です。当然、自分は初心者ですから初級に挑戦しました。

まずは2022年6月の兼題、「夏の海」です。初級の投句数は4155句、投句人数は1702人です。

夏の海驚き払う飛ぶ海月

落選。この時は、けっこういいなと当然思っていたわけですが、あらためて見ると動詞が3つあって、全部の単語でぶつ切れ俳句です。季語が「夏の海」と「海月」で季重なり。しかも、どちらかというとクラゲの方が主役っぽい。映像としては想像しやすいと思いますが、俳句としては成立していませんでした。

夏の海泣く子澄ませば傘の波

入選。初級の入選は、俳句の体をなしているというほどの評価だろうと思いますが、とりあえず嬉しいことに変わりはありません。あらためて考えると、中七がまずい。

迷子が泣いている声を、耳を澄ましてて探しているという状況を詠みたかったのですが、「泣く子」が「澄ましている」状況になっていて内容が伝わらない。「耳を澄ます」という言葉にこだわりすぎて盛り込み過ぎた感じで、もっと単純に「泣く子探して」とか「泣き声かすか」などくらいが良かったかもしれません。

続いて、2022年7月の兼題、「原爆忌」です。初級の投句数は4116句、投句人数は1680人でした。

銀翼にフラッシュバック原爆忌

落選。う~ん、悪くはないと思うんですけど、何がダメなのか・・・「銀翼」とか、「フラッシュバック」という比喩表現が伝わりにくいのかなぁ。空を飛ぶ飛行機を見つけた時に、爆弾が投下される恐怖が思い出されるということなんですが、カタカナ言葉の使い方も難しいのかもしれません。

原爆忌手を止め未了の「黒い雨」

入選。小説の名称、つまり固有名詞を鈎括弧で囲むというのは、ちょっと冒険でしたが、何とか合格を貰えました。だから強気になるわけではありませんけど、これはまぁまぁイケてるんじゃないかと思います。

そして2022年8月の兼題は「芒」です。初級の投句数は3874句、投句人数は1614人でした。

待宵に鬼子母授けし芒木菟

落選。いゃ、もぅ、これは凝り過ぎ。考えすぎ。意味不明。言葉遊びになってしまい、そもそも兼題の「芒」が埋もれてしまいました。芒の類想を回避しようと悪戦苦闘したことだけが伝わるかもしれません。

芒原阿吽の息に靡きけり

入選。「芒原」から始まるススキがなびく様子は、山ほど類句がありますが、「阿吽の息」でというところがオリジナリティ。ススキの花言葉は一般的には「生命力」ですが、「心が通じる」というあまり知られていないもう一つの花言葉から、「阿吽の呼吸」に発想を飛ばしたところがわかれば面白いと感じてもらえると思います。

ちょっと気になっているのは、自分としては珍しく「切れ」を使って終わっているところ。「けり」は過去の感動ですので、「(以前に)なびいたんだなぁ」という感じです。よく登場する「かな」は現在の詠嘆なので、「靡くかな」とすれば「(今目の前で)なびいている」となります。どっちがいいのか、まだ決めかねています。

2句ずつ投句して、入選率50%ですから、十分に合格と言って問題ないと思いますが、基本的に初級は、季語を含む五七五という定型をしっかり作れということが目標です。9月の兼題「鰯雲」の初級発表はまだですし、入選以上の特選を貰ったわけではありませんが、今後は内容の勝負を含めて中級以上に投句すると宣言しておきます。

2022年11月4日金曜日

味噌を作ってみる 6 出来ている


4か月近く、その後音沙汰なしだったので、味噌作りは失敗して捨ててしまったんだろうと思っていたでしょう・・・ところが、そうじゃない。

とりあえず出来ています。仕込んでから最低3か月ということでしたが、さすがにそれじゃ熟成具合がイマイチだろうと、ずっとほったらかしていました。

もっとも、ビニール袋に入れていたんですが、9月ごろに黒カビっぽいものが表面に出たので、これを取り除く際に、今後の使い勝手も考えて密閉できるプラケースに移しました。

さて、さらに放置して本格的に食するのは1年くらいは待ちたいところなんですが、とりあえず一度は味見をしてみようと・・・

味噌汁を作ってみました。

元々、塩はやや少なめにしたので、塩辛さは丁度良い。思ったより甘めの感じに仕上がっています。それと麹のアルコール発酵のせいなのか、やや酒っぽい感じ。

予想よりも色も濃いので、夏の暑さで発酵がやや強めに進んだ・・・ってことありますかね。よくわかりませんが、一応食用として何とかなりそうです。

2022年11月3日木曜日

俳句の鑑賞 38 三遊亭圓樂


ここでは三遊亭圓樂は、六代目のこと。昭和の人間は、圓樂というと馬面の五代目の印象が強い。六代目は、1970年に五代目に入門して六代目圓生に命名された楽太郎と名乗っていた期間が長く、五代目が2009年に亡くなったことで、六代目を襲名しました。

三遊亭の大名代は圓朝と圓生。そして圓生と言えば六代目(1900-1979)。おそらく、今まで聞いたことがある最高の噺家だと思いますし、落語のベースとなる文化が忘れられた現代では、六代目圓生を超える落語家は出るべくもない。

六代目圓樂は、圓生の襲名にかなり思い入れがあったのだそうです。ですが、最近の圓樂の落語を聞いていないので、よけいなことは言えませんけど、やはり圓生は六代目があまりにも偉大であり、五代目圓樂もまったく及びもしない存在でしたから、個人的には到底難しいことだったと思います。

だったと過去形になってしまうのは、六代目圓樂は2022年9月に亡くなったからですが、落語界として考えれば惜しまれる存在だったことは間違いありません。六代目圓樂は、「プレバト!!」の俳句コーナーにも出演し、名人初段まで上がってきていたので、病気のことが無ければこちらも残念なことでした。

番組内では、全部で22句を詠んでいますが、夏井いつき先生に添削無しとされた句をいくつか拾い上げてみたいと思います。

町会長犬を預かる盆踊り 圓樂

お題は「盆踊り」です。盆踊り大会に誰かの大事な犬を預かって、自分は大会には行けないという、ちょっととぼけた噺家らしい俳句です。

チーママの裾はしょりたる梅雨の夜 圓樂

お題は「雨の銀座」で、季語としては「梅雨」を使っています。チーママは小さいママさんの意味で、スナックなどの女主人(ママさん)に次ぐ二番手のこと。着物の裾が濡れないように、片手で傘、片手で裾をちょいと持ち上げているという艶っぽさがある感じ。

塩鮭の喋るが如き売り子かな 圓樂

お題は「年末のアメ横」です。大声で客を読んでいる店員さんの姿が見えてきます。売り物の塩鮭を持ち上げて、もうまるで鮭が喋っているみたいという活気あふれる映像です。このあたりから、落語家としてのウケよりも、本気で句作し始めた感じがします。

段雷に靴紐きつく秋の朝 圓樂

お題は「運動会」で、一発なら号砲というところを、何発も続けざまに聞こえたので連続打ち上げ花火に例えて「段雷」という言葉を使ったようです。運動会にかける意気込みが詠まれています。

氷壁崩落白玉を掘り出す 圓樂

お題は「アイスクリーム売り場」です。アイスクリームというよりかき氷でしょぅか。スプーンでざくざくとかき分けていくのを「氷壁崩落」という大袈裟な表現をしたところが面白い。何だろうと思っていると、中から出てきたのが白玉というのがお茶目。

夕立や尻っぱしょりを犬が追う 圓樂

お題は「雨宿り」です。これは噺家ならではの俳句でしょう。熊さん八っさんの世界。おっと夕立だぜ、向こうの軒下まで一走りだ、と尻っぱしょりして駆け出すと、野良犬がワンワンと吠えて追いかけていく様子がありありと見えてきます。

この句が、一番良いなと思いました。噺家の俳句という、他の人では思いつかない世界が描けていると思います。元気であれば、もっとこのようなオリジナリティのある句が披露できたのでしょうね。ご冥福をお祈りします。

「プレバト!!」で芸能人が詠んだ句を、夏井先生の評も含めて、詳細に聞き書きしたブログを続けているプロキオン氏のサイトを参照させていただきました。テレビでは掛け捨てになってしまうところを、このような形でまとめられていることは大変な労力だと思います。

2022年11月2日水曜日

俳句の鑑賞 37 鷹女と多佳子


三橋鷹女、本名、たか子は、昭和初期に活躍した女流俳人の中で、「ホトトギス」との関係が無い例外的な存在です。明治32年(1899年)に千葉県成田で生まれました。県立成田高等女学校を卒業、歌人が多い家族の影響で短歌に親しむようになりました。

23歳で歯科医の夫と結婚し、夫の影響で俳句を始めました。近所の句友と句会を行ったりしていましたが、夫と共に原石鼎(はらせきてい)の「鹿火屋(かびや)」、小野蕪子の「鶏頭陣」などに参加しました。

「ホトトギス」の「台所俳句」とはまったく一線を画した女流俳句を発表するようになりました。戦後も新興俳句系の「俳句評論」を中心に活躍し、昭和47年に72歳で亡くなっています。

蔓踏んで一山の露動きけり 鷹女

山路で蔓を踏んだ途端にざっと落ちて来た露に山全体が動いたように思えたという、小さい物から大きな物へダイナミックに飛躍していく、当時の女流の中ではまったく傾向の違う研ぎ澄まされた感性が表出する俳句です。

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり 鷹女

ひるがほに電流かよひゐはせぬか 鷹女

客観写生とは対極にあるような、自分の感情を激しく前面に打ち出した主観句であり、鷹女からすれば台所俳句は相当生ぬるいものに見えただろうと感じます。昼顔が凛と咲いている様子は、まるで電気が流れているかのように見えるという感性がすごい。

あたたかい雨ですえんま蟋蟀です 鷹女

何者か来て驚けと巻貝ころがる 鷹女

鮮烈な文語表現を駆使したかと思うと、一転して口語での自由律も鮮やかに使い分けるところも面白い。いずれも対象物の主観が立つ句で、独特の物の見方は誰も真似できないところです。

山本健吉評。鷹女は「その特異な句風は(早くから)俳壇に印象づけられていた」もので、「多くの女流俳人の句が、おおむね一色の特色にぬりこめられているのに較べれば、たいへん変化が多く、多彩である」としています。

橋本多佳子は明治32年(1899年)、東京の本郷で生まれましたが、18歳で建築家、橋本豊次郎と結婚し、福岡県小倉市にモダンな洋館「魯山荘」を立て移住しました。

大正11年、高濱虚子か門司を訪れた際、魯山荘で句会が開催され、その時の虚子の「落椿投げて暖炉の火の上に」に感銘を受けた多佳子は、杉田久女の勧めもあって久女の手ほどきで俳句を始めました。

昭和2年、「ホトトギス」に初入選しますが、昭和4年に大阪に転居、ここで山口誓子に師事したことから、水原秋櫻子主宰の「馬酔木」に移りました。戦後も誓子と行動を共にして「天狼」に参画しています。男性俳人を凌駕する戦後の活躍が目覚ましく、昭和38年、64歳で病没しました。

たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏 多佳子

「ホトトギス」初入選の俳句。「ホトトギス」らしいと言えばらしい句で、後年の多佳子の句とは異なります。

月光にいのち死にゆくひとと寝る 多佳子

雪はげし抱かれて息のつまりしこと 多佳子

「ホトトギス」離脱後は、誓子と関わるようになって、女性ならではの感性のもと主情的な激しい表現を盛り込むようになりました。男性たちに負けまいという気持ちもあったかもしれませんが、生来の心の強さを隠さず表出した結果であろうと想像します。

白桃に入れし刃先の種を割る
 多佳子

一ところくらきをくぐる踊りの輪 多佳子

これらも多佳子の代表作として知られているもの。「切れ字」を使用を控えて、作者の視点が冷静に一点に集中していく力強さがはっきりと描かれています。ふだん誰も気にしないであろうところを、描き出す力があります。

臥して見る冬燈のひくさここは我家 多佳子

雪はげし書き遺すこと何ぞ多き 多佳子

晩年、胆管がんによる入院生活から退院しての句。自分の死期を悟っているのかもしれませんが、やや弱気な印象。一方で、生への執着のようなところも見てとれ、往年の力強さは失われていないようです。

山本健吉評。多佳子の句は「女流の俳句としての魅力を極度に具えている」のと同時に「女性として情に流される弱点」もあるとしています。

また、山口青邨が水原秋櫻子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四人を「ホトトギス」の「四S」と称したのにならって、山本健吉は中村汀女、星野立子、三橋鷹女、橋本多佳子を「四T」と呼びました。

典型的な「ホトトギス」の花鳥諷詠を守った前二者に対して、後二者は主観的な感情吐露を恐れない力強い句を作り対照的です。主観が勝ると女性らしい視点がはっきりし、女流としての特徴が明確になることがよくわかります。

2022年11月1日火曜日

俳句の鑑賞 36 汀女と立子


昭和の時代になって、杉田久女に続いて「ホトトギス」で活躍し始めた女流俳人が中村汀女と星野立子でした。

中村汀女(ていじょ)は、本名は破魔子、明治33年(1900年)熊本県に生まれ、12歳の時に県立第一高等女学校に進学しました。大正7年卒業する頃より「ホトトギス」に投句を始め、すでに名が知れていた久女に憧れ、大正10年から交流を持つようになります。

久女と違い、この頃から汀女は子育てに専念し、約10年間はまったく俳壇から遠ざかっていました。昭和7年に再び俳句の世界に復帰し、昭和9年には「ホトトギス」同人となりました。昭和22年に主宰誌「風花」を創刊し、昭和63年に88歳で亡くなるまで、主婦・母親としての目線から女流俳人のトップとして活躍しました。

我に返り見直す隅に寒菊赤し 汀女

18歳の汀女が俳句作りを始めるきっかけとなった句。拭き掃除をしている時に、ひとりでに浮かび上がってきたと述べています。

ゆで玉子むけばかがやく花曇 汀女

ガソリンと街に描く灯や夜半の夏 汀女

台所俳句です。茹で卵から空に思いが飛んでいき、曇り空なのに輝くと表現したところが面白い。結婚後、夫の転勤で東京に住んでいました。熊本から出てきた都会の光景は、何もかもが珍しかっただろうと思います。

扇風機何も云わずに向けて去る 汀女

夫が暑そうに家事をしている汀女に、黙って扇風機を向けてくれたという優しさを詠んだものかもしれません。扇風機は、当時としてはかなりモダンな家電だったと思います。

秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 汀女

瓦斯(ガス)や燐寸(マッチ)という、あまり俳句に馴染みそうもない言葉の使い方は素晴らしい。ガスに火が付くのではなく、火にガスが飛びつくと感じるところが、汀女独特の気づきということでしょう。

山本健吉評。「汀女は、中流家庭に幸福に育ち、自分の才能と感受性を順当に伸ばすことが出来たバランスの取れた作家」であるとし、「女流の主婦としての狭い生活空間で詠みだされる俳句を、そのまま純化し精錬した」ことが最大の功績としました。

星野立子(たつこ)は、明治36年(1903年)、高濱虚子の次女として生まれました。東京女子大学高等部を卒業、22歳で結婚後に「ホトトギス」に就職しました。虚子の子にしては、俳句を始めたのはこの頃からですが、たいへん素直な句風を虚子が絶賛し、またたくまに女流俳人の中心に位置するようになります。

昭和5年、27歳にして虚子の勧めで主宰誌「玉藻」を創刊。男性作家と同列に「ホトトギス」系の俳人として活躍し続けました。昭和59年、80歳で病没。生前、立子は「父の言う、客観写生、花鳥諷詠については頭から服従しています」と述べています。

父のつけしわが名立子や月を仰ぐ 立子

虚子の娘として自らに誇りを持って俳句に精進する決意がうかがえる、立子の代表作の一つです。

大仏の冬日は山に移りけり 立子

手袋のとりたての手の暖かく 立子

わざとらしさが無く、詠んだままの句・・・ですが、情景がはっきりと見えてきますし、何か柔らかいものに包まれるような温かい気持ちになれるところが素晴らしい。

廣々と紙の如しや白菖蒲 立子

花火上るはじめの音は静かなり 立子

ほどほどになすことおぼえ老いの春 立子

山本健吉評。「ありふれた日常語の使用や、軽い口語的発想は、立子の句の特徴」で、「明るく、淡々として、軽く、また延び延びとしていて、屈託が無く、素直な情感が盛られている」としていますが、それらの誉め言葉を反転させれば「あまりに他愛なくて物足りない」という不満を持つようです。