昭和の時代になって、杉田久女に続いて「ホトトギス」で活躍し始めた女流俳人が中村汀女と星野立子でした。
中村汀女(ていじょ)は、本名は破魔子、明治33年(1900年)熊本県に生まれ、12歳の時に県立第一高等女学校に進学しました。大正7年卒業する頃より「ホトトギス」に投句を始め、すでに名が知れていた久女に憧れ、大正10年から交流を持つようになります。
久女と違い、この頃から汀女は子育てに専念し、約10年間はまったく俳壇から遠ざかっていました。昭和7年に再び俳句の世界に復帰し、昭和9年には「ホトトギス」同人となりました。昭和22年に主宰誌「風花」を創刊し、昭和63年に88歳で亡くなるまで、主婦・母親としての目線から女流俳人のトップとして活躍しました。
我に返り見直す隅に寒菊赤し 汀女
18歳の汀女が俳句作りを始めるきっかけとなった句。拭き掃除をしている時に、ひとりでに浮かび上がってきたと述べています。
ゆで玉子むけばかがやく花曇 汀女
ガソリンと街に描く灯や夜半の夏 汀女
台所俳句です。茹で卵から空に思いが飛んでいき、曇り空なのに輝くと表現したところが面白い。結婚後、夫の転勤で東京に住んでいました。熊本から出てきた都会の光景は、何もかもが珍しかっただろうと思います。
扇風機何も云わずに向けて去る 汀女
夫が暑そうに家事をしている汀女に、黙って扇風機を向けてくれたという優しさを詠んだものかもしれません。扇風機は、当時としてはかなりモダンな家電だったと思います。
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 汀女
瓦斯(ガス)や燐寸(マッチ)という、あまり俳句に馴染みそうもない言葉の使い方は素晴らしい。ガスに火が付くのではなく、火にガスが飛びつくと感じるところが、汀女独特の気づきということでしょう。
山本健吉評。「汀女は、中流家庭に幸福に育ち、自分の才能と感受性を順当に伸ばすことが出来たバランスの取れた作家」であるとし、「女流の主婦としての狭い生活空間で詠みだされる俳句を、そのまま純化し精錬した」ことが最大の功績としました。
星野立子(たつこ)は、明治36年(1903年)、高濱虚子の次女として生まれました。東京女子大学高等部を卒業、22歳で結婚後に「ホトトギス」に就職しました。虚子の子にしては、俳句を始めたのはこの頃からですが、たいへん素直な句風を虚子が絶賛し、またたくまに女流俳人の中心に位置するようになります。
昭和5年、27歳にして虚子の勧めで主宰誌「玉藻」を創刊。男性作家と同列に「ホトトギス」系の俳人として活躍し続けました。昭和59年、80歳で病没。生前、立子は「父の言う、客観写生、花鳥諷詠については頭から服従しています」と述べています。
父のつけしわが名立子や月を仰ぐ 立子
虚子の娘として自らに誇りを持って俳句に精進する決意がうかがえる、立子の代表作の一つです。
大仏の冬日は山に移りけり 立子
手袋のとりたての手の暖かく 立子
わざとらしさが無く、詠んだままの句・・・ですが、情景がはっきりと見えてきますし、何か柔らかいものに包まれるような温かい気持ちになれるところが素晴らしい。
廣々と紙の如しや白菖蒲 立子
花火上るはじめの音は静かなり 立子
ほどほどになすことおぼえ老いの春 立子
山本健吉評。「ありふれた日常語の使用や、軽い口語的発想は、立子の句の特徴」で、「明るく、淡々として、軽く、また延び延びとしていて、屈託が無く、素直な情感が盛られている」としていますが、それらの誉め言葉を反転させれば「あまりに他愛なくて物足りない」という不満を持つようです。