2022年8月31日水曜日

俳句の勉強 30 鰯雲で八苦


季題「鰯雲」で、俳句を作る。いや、難しい。もっとも、何を兼題に出されても、難しいのは一緒ですけどね。

鰯雲・・・秋です。秋と言えば芸術。俳人の中には、西洋絵画に興味を持っている方もいますが、代表的なのが阿波野青畝(あわのせいほ)という人。

ルノアルの女に毛糸編ませたし 阿波野青畝
「ルノアル」はルノワールのこと

モジリアニの女の顔の案山子かな 阿波野青畝

いや、もう、傑作です。 これにならって、自分の好きな印象派の点描が特徴のスーラを題材にしてみました。

鰯雲一色キャンバススーラかな

空と言う広大なキャンバスにスーラが白一色で点描したのが鰯雲・・・という感じなんですが、何か言い足りない雰囲気。着想としては面白いと思いますが、このままだと凡人句はまぬがれない。青地に白絵具一色というところまで流し込むには、17文字では足りそうもありません。思い切って整理してしまいましょう。

鰯雲白一色のスーラかな

そういえば、9月19日が命日の正岡子規を使わせてもらうのもありですね。俳句の世界では、有名な文化人の命日は忌日として季語扱いになっています。子規の場合は、「子規忌」、あるいは「糸瓜忌」、「獺祭忌」が季語になっています。

ただし、それらを使うと「鰯雲」と季重なりになってしまい、季語の強さは忌日が主になってしまう。子規はホトトギスの別名で、ホトトギスは秋になると日本から離れていきます。ホトトギスは他にも、比較的珍しい呼び名として不如帰があります。鳥の名前として使うと、どれをとっても季語になってしまいますが、これなら多少季語としての力は弱められそうです。

不如帰終に望むや鰯雲

正岡子規は、亡くなる間際には鰯雲を見ることがあっただろうか。子規は「鰯雲」を使った句は作っていません。そしててホトトギスも日本を離れる前に見れたかなぁ、という二重の意味が含めることができたと思います。

この句の是非は「不如帰」と「鰯雲」の季重なりです!! あー、何か声が聞こえてきそう。とりあえず最終候補として残しておきたいと思います。

2022年8月30日火曜日

俳句の勉強 29 鰯雲で四苦

投句する際与えられるテーマが「兼題」ですが、兼題に選ばれる言葉はたいてい季語。しかも、特殊な季語はめったに無く、いかにもその季節を象徴するようなものが選ばれることが多いようです。

そうなると、どうしてもその季語から連想される内容はありふれたものばかりになりやすく、当然似たり寄ったりの俳句しか思いつかない。選者の先生方は、そこをどうやって乗り切ってオリジナリティを押し出すのかを見ようということなんでしょうけど・・・


今回、チャレンジする兼題は「鰯雲」です。傍題としては「鱗雲」が使えます。

あー、いかにも秋ですよね。空を見上げると、細かい斑点状の薄い雲がきれいに並んでいる。その様が、鰯の群れや魚の鱗のように見えるので鰯雲と呼ばれるわけですが、正式には巻積雲(けんせきうん)と呼び、5000m以上の大変高い所に発生する秋を象徴する雲。

鰯雲が空に発生すると、鰯が豊漁になると言われたりもしますが、温暖前線や熱帯低気圧の接近によって出現するため、天気は下り坂となります。

鰯雲で連想することというと・・・もう、ほとんど「秋」以外には思いつかない。じゃあ、秋だったら、食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋、芸術の秋等々が出てきます。

鰯を食べるとかだと、食べすぎ、肥るとか。スポーツは山ほどありますが、特に秋に特化したものは思いつかない。読書や芸術も、基本的には年中できるわけで、秋だからという特別な物はありません。せっかくですから、名人の句を探してみましょう。

鰯雲日和いよいよ定まりぬ 高濱虚子

虚子の句は、天気がはっきりしないなぁ、という内容で「明日は雨かな」というだけのもの。歳時記に例句として収載されているので名句なんでしょうけど、先に言った者勝ちみたいな印象です。天気に絡めたら、後の句は全部類想になってしまいます。

いわし雲大いなる瀬をさかのぼる 飯田蛇笏

「瀬」は川の早い流れ、あるいは浅瀬という意味。空の鰯雲が川面に写って、まるで遡っているように見える。あるいは、水面に立つ細かい波が鰯雲のように見えた、など人それぞれの想像力をかきたてる名句です。気を取り直して、あらためて作句。

鰯雲間に挟まるホームラン


ホームランを打ったら、高く上がり過ぎてボールが鰯雲の間に挟まって落ちてこない。まぁ、それほど悪くはないと思いますが、俳句としては直球すぎて、面白みには欠ける感じがします。いっそのこと、雲を突き抜けたらどうでしょぅか。

鰯雲抜けて飛び去るホームラン

大同小異で、内容が薄い事には変わりない。雲に届くくらい大きなホームランを打ったという以上の話にならない。選手の嬉しさとか球場の大歓声は聞こえてきそうですけど。

鰯雲は高い所に発生し、その高さは富士山よりもはるか上です。登山をしている(自分はしてませんけど)時に、もうじき頂上と思うとあとひと踏ん張りと気合が入るものです。一言で登山中で頂上が近いとわかる言葉は何だろう? というところからスタートです。「あと少し」とかを使うと、登山中は伝わらないし、上句を全部使い尽くしてしまいます。

稜登り峰より高き鰯雲

頂上に向かう切り立った最後の難関を稜線と呼びますので、「稜を上る」とすればゴールが近いという情景が浮かんできます。ゴールの頂上を見上げたら、それよりももっと高い所に鰯雲がある。まだまだ気を抜けないという感じが出ましたでしょうか。最終候補にキープしておきます。

2022年8月29日月曜日

俳句の鑑賞 12 子規と漱石 (2)


明治28年10月、夏目漱石の下宿を辞して東京に戻る途中、子規は奈良に立ち寄ります。もしかしたら、たぶん、いやきっと子規は1か月ほど前に新聞で見た、漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句を思い出したに違いない。「漱石くん、頑張ったけど、俺ならもっとうまく作れるぜ」と思ったのかどうか・・・

柹食えば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規

そして詠まれたのがこれ。おそらく、芭蕉の「古池や・・・」の次くらいに有名な子規の俳句です。この句をあらためて、鑑賞したいと思います。

句の構成は、典型的な有季定型の五七五です。季語は「柹(柿)」。実在する地名、奈良の法隆寺が含まれます。俳句では、このような地名や特定の建築物などを「俳枕」と呼び、季語と同じように特徴的な情景を作り出す効果を利用します。

解釈は、一般には「法隆寺で柿を食べたら、鐘の音がしてきた」というもの。子規は柿は大好物で、柿を詠んだ句はたくさんあります。おそらく法隆寺の境内の茶店かなにかで、柿を食べていたら、どこからともなく「ゴーン」と鐘の音がしてきて、とても風流だなぁと感じたという鑑賞で良いことになっています。

明治33年9月、漱石は英国留学に出発します。その直前、すでに病床に臥せり身動きもままならなくなっていた子規を訪ねます。子規は再び会うことはなかろうと伝え、次の句を漱石に送ります。実際これが最後の面会となりました。

萩すすき来年あはむさりながら 正岡子規

その後、子規は何度かイギリスにいる漱石に手紙を出したようですが、異国の地で精神的に余裕がなくなっていた漱石は返事を出すことは無く、子規は残念に思っていたようです。ただ、明治34年4月に子規・高濱虚子宛という「倫敦消息」と題する、ロンドンでの暮らしぶりを紹介する「手紙」が、子規のホームである「ホトトギス」誌に掲載されています。

この手紙を喜んだ子規でしたが、それに対して漱石に送った11月の手紙は、「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居る・・・(中略)・・・僕はとても君に再会することは出来ぬと思ふ。万一出来たとしても其時は話も出来なくなってるだろ」とあり、いかに気丈な子規でも親友に対しては弱音を吐くしかないところまで追いつめられていたのです。

明治35年9月19日、正岡子規は34歳の生涯を閉じました。11月にロンドンの漱石のもとに、高濱虚子からの訃報がやっと届きます。漱石は12月に荷物をまとめると、帰国の途に就くのです。

筒袖や秋の柩にしたがわず 夏目漱石

漱石は、訃報に対する返事の中でこの句を詠みました。筒袖は洋服の事で、2年前にいわゆる「袂を分かつ」ことになり、二度と会うことは無いと覚悟はしていましたが、「(ロンドンにいるため)葬儀に参列できなかった」ことは大変に残念であったという内容です。

夏目漱石の小説家としての処女作、「吾輩は猫である」が「ホトトギス」誌に連載を開始したのは明治38年1月のことです。最終話では子規が実名で登場し、おそらく漱石自身と重なる人物が「僕の俳句における造詣と云ったら、故子規子も舌を捲まいて驚ろいたくらいのものさ・・・(中略)・・・(子規とは)始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と語らせています。

最後に明治28年12月30日、年の瀬も押し迫った根岸の子規庵の様子を紹介します。子規は来客の準備をし、友人たちが集まって来るのを今か今かと待ちわびていました。本当にその時の光景が目に浮かぶようです。

梅活けて君待つ庵や大三十日 正岡子規

漱石が來て虚子が來て大三十日 正岡子規


2022年8月28日日曜日

俳句の鑑賞 11 子規と漱石 (1)

正岡子規は、いろいろな俳号やペンネームを使っていたことはよく知られています。しかし、明治22年5月に初めて喀血し、肺結核と診断され、初めて「子規」の俳号を用いました。

卯の花をめがけてきたか時鳥 正岡子規

卯の花の散るまで鳴くか子規 正岡子規

「子規」は「時鳥(ほととぎす)」の別名で、口の中が真っ赤に見えるため「鳴いて血を吐く時鳥」と形容される鳥に、自分をなぞらえたのでした。「卯の花」は空木(ウツギ)の花のことで、旧暦の4月の別称である卯月に花を咲かせます。この頃に日本に渡来する時鳥との組み合わせは、万葉集の時代から多くの歌になっています。

どちらの句も、「時鳥」も「子規」も喀血(肺結核)を連想させる「ほととぎす」と詠みあげます。実は、子規は卯年の生まれ。卯の花は自分のことであり、ついに当時は死の病とされていた結核になってしまったこと、そしてそのために死ぬのであろうということを詠んだのでした。

当時、子規は東大予備門の学生で、知り合ったばかりの友人の一人に夏目金之助がいました。夏目は、大学を辞めて松山に帰ろうかと言う子規を見舞って、次の一句を詠みました。

歸ろふと泣かずに笑へ時鳥 夏目漱石

時鳥は、子規以外にも不如帰という漢字も充てられています。不如帰は「帰るに如かず(帰るしかない、帰りたい)」と読めることにかけて、「学問をあきらめると泣いていないで笑おうよ」と励まし、もともと子規の俳号の一つだった「漱石」を譲り受けたのです。これは、まさに世に夏目漱石が誕生した瞬間です。

しかし、余命少ないと悟った子規は大学を中退し、新聞「日本」に就職。退学したという手紙を受け取った漱石は、子規に宛てて句を詠みました。

鳴くならば満月になけほととぎす 夏目漱石

漱石は、社会に出るならちゃんと単位を取って卒業してからにしろと、叱咤しているわけで、漱石の子規に対する思いがよくわかる一句です。明治28年4月に子規は、新聞記者として日清戦争に従軍しますが、戦地に到着した時はすでに終戦。そのまま帰路のついた子規は、戦中で大喀血をし神戸で入院。生死を彷徨い8月に何とか退院し、療養のため郷里松山に戻ります。


そこで仮の住まいとしたのが、松山の中学校に英語教師として赴任していた漱石の下宿、愚陀仏庵(ぐだぶつあん)でした。周りの人は病が伝染するからと漱石を止めましたが、漱石は意に介さず、率先して子規を招き入れます。子規のもとには、同好の者が集まりしばしば句会が開催され、しだいに漱石も加わり俳人として成長します。漱石が9月に詠んだ句が新聞に載っています。

鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石

そして、10月なかばになって、子規は東京に戻ることを決意して、漱石にお別れの句を詠みました。

行く我にとどまる汝に秋二つ 正岡子規

今まで同じ季節を分かち合っていたけれど、東京に旅立つ自分と、松山にとどまる漱石には、それぞれの秋が巡ってきたのだよ。ある意味、子規の決意表明です。出発した子規は、途中で奈良に立ち寄るのでした。

2022年8月27日土曜日

俳句の鑑賞 10 若き日の子規

愛媛県松山市に生まれた正岡子規は、父親が5才の時に亡くなったため、儒教学者であった祖父の私塾に通い漢文の素養を身につけます。旧制松山中学(現・松山東高等学校)に入学するも、漢文や英文を学ぶため共立学校(現・開成高等学校)に再入学しています。

司馬遼太郎の代表作の一つ、「坂の上の雲(1969-72)」の三人の主人公の一人が子規でした。維新によって一気に世界が開けたことによる若者たちの高揚感がみずみずしく描写され、小説とはいえ松山時代の子規を知る足掛かりとなっています。

松山市立子規記念博物館の俳句データベースを検索してみると、おそらく最も古い作句と考えられているのは、12~16歳のもので、

山路の草間に眠るきりぎりす 正岡子規

秋の季語である「きりぎりす」を用いた有季定型句です。きりぎりすは、昔は漢字だと蟋蟀(こおろぎ)と書いていたので、あえて区別するために平仮名にしているのかもしれません。ただ、「山道の草の間にきりぎりすがじっと動かずにいたので眠っているのだろうか」という、そのまんまの内容以上のものではなく、僭越ながら凡人句と言ってよさそう。

東京に出て東大予備門に進学した子規は、夏目漱石らと知り合い、俄然俳句創作に意欲が出ます。18歳の子規が詠んだ句は、滑稽味のあるものが多く、昔ながらの俳諧の趣を残しているように思います。俳諧の「諧」は、もともと滑稽という意味でした。

ねころんで書よむ人や春の草 正岡子規

ぬす人のふりかへりたる案山子哉 正岡子規

初雪やかくれおほせぬ馬の糞 正岡子規

白猫の行衞わからず雪の朝 正岡子規


興味深いののは次の4つの句です。

窓あけて顔つきあたる夏のやま 正岡子規

窓あけて鼻の先なり夏のやま 正岡子規

窓あけて顏つきあたる前のやま 正岡子規

窓あけて鼻の先なり前のやま 正岡子規

上五は共通ですが、窓を開けると山並みがすぐそこにあるという感慨を詠んだものですが、より間近ということを中七で「顔つきあたる」とするか「鼻の先なり」とするか、そして眼前の山々を「夏のやま」とするのか「前のやま」とするかで自ら推敲しています。

「顔つきあたる」と「鼻の先なり」では、鼻の方がよりすぐ前にあるような印象を受けます。とはいえ、「前のやま」を続けると「先」と「前」で似たような表現が重なるのはいただけない。

また、「夏の山」は季語ですが、「前のやま」とすると無季になってしまいます。また「夏」の一言が入るだけで、空気感も伝わってきます。自分としては、「窓開けて鼻の先なり夏のやま」をベストに選びたいと思いましたが、子規自身はどう思っていたのでしょうか。

2022年8月26日金曜日

俳句の鑑賞 9 子規を深読み


いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規

正岡子規の名句をしっかりと鑑賞する勉強をしてみます。まず解釈。これは蒸すが強い言葉は含まれていないので簡単です。「積もり始めて雪の深さを、繰り返し近くの人に尋ねたものだ」ということ。

句の構造は、まさに有季定型で、上五・中七・下五です。季語は中七に含まれ、晩冬の天文となる「雪」です。頭から、一気に読み切る「一物仕立て」であり、最後に詠嘆を表す切れ字の「けり」で過去の思い出を断言しています。

雪が降りだすと、大人になると必ずしも喜んでばかりはいられないのですが、こどもたちは楽しくてしょうがない。たくさん積もったら、雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりと外に出て遊ぶことばかりを楽しみにするのは今も同じ。

窓から時々外をのぞいては、お母さんに「もう何センチ積もったかなぁ? もう遊べるかなぁ?」と待ちきれずに何度も何度も尋ねているような光景が浮かんできます。

しかし、作者の子規の状況を知ると場面は一転します。これは明治29年、30歳の時に詠まれた作品ですが、その頃子規は脊椎カリエス(背骨の結核)と診断され、激しい痛みのため自由がきかなくなり、床に臥せる生活を余儀なくされたのです。

根岸の子規庵で、身を起こして窓の外を自らのぞくことが出来ない子規は、おそらく同居していた母親の八重か妹の律に「どのくらい積もったのか?」と聞くしかできなかったのでしょう。何度も何度も同じことを聞くこどものような子規に対して、二人はどんな気持ちで積雪の実況中継をしたのでしょうか。

紫陽花やきのふの誠けふの嘘 正岡子規

解釈は、「色がしだいに変わっていきさまざまな顔をみせてくれるアジサイの花は美しいが、まるで昨日の誠は今日には嘘に変わっていることに似ている」というところでしょうか。

子規の「紫陽花」を使った句は42句あり、季語としては仲夏・植物の扱いです。花が開いてから、順に色彩が変化するところがしばしば注目されます。構造は有季定型で、上五が季語で切れ字「や」で呼びかけの詠嘆をしています。

季語の「紫陽花」のみは目の前にあって直接観察した(俳句では写生と呼ぶ)かもしれませんが、中七・下五は率直な作者の心情を発露した形で、「取り合わせ」の形式になっています。

この句は明治25年、26歳の作品。すでに結核と診断されていたものの、まだまだ元気な青年で、親友・夏目漱石と過ごした東京大学を中退し、叔父の紹介で新聞「日本」の記者となっていました。

おそらく社会に出た子規は、いろいろな都合でころころと変わっていく事柄に驚いたに違いありません。昨日の嘘が今日は誠になることもあったかもしれませんが、たいがいは純粋な文学青年をがっかりさせることの方が多かったのだろうと想像します。

翌年、日清戦争が勃発。明治28年に子規は従軍記者となった子規は大喀血をし、寿命のカウントダウンが始まります。子規の鑑賞には、単なる作品論的な見方だけではなく、作家論的な視点も含めないといけなさそうです。

俳句を勉強する上で、子規は避けては通れない巨星ですから、しばらく子規の人生も含めていろいろな面から鑑賞を続けたいと思います。

2022年8月25日木曜日

俳句の勉強 28 子規の俳句分類


物事を分類するというのは、ほぼどんな場合にもあるわけで、ちょっと小難しく考えると、その基本はAとBの違いを知ることで、比較論として両者を理解することにつながるということ。比較するときに主観が立つと、好き嫌いに発展して、時には差別と言う状況を作るかもしれません。

正岡子規が近代俳句の「創始者」と認められていることに異論をはさむ者はいないと思いますが、作られた句の素晴らしさだけでの評価ではなく、批評家としての優れた慧眼を持っていたこと重要な要素です。

では、それはどこから育まれたものか。生来の資質も当然あるかもしれませんし、成長過程での人との結びつきも関係するでしょう。しかし、俳句に特化すれば、おそらく「俳句分類」という気が遠くなるような仕事が、最も重要であろうと思います。そのきっかけとなったのは、夏目漱石との若き日の論争が出発点らしいというも面白い。

子規自身も、「この仕事には終わりが無い。終わるとすれば自分が死ぬときだ」と述べていて、生涯の仕事と位置付けていました。明治22年、22歳の時に始まった古句の収集は、その後の10年間で12万句を越えています。現代のようにパソコンで整理するにしてもめまいがしそうな仕事を、すべて手書き・手作業で行っていたことに驚きます。

全66冊に分かれていて、そのうち大部分を占める53冊は歳時記のような季題による分類、残りの13冊は季語以外のいろいろな分類となっています。しかし、あまりにも膨大な量故に、現代の自分たちがそれを目にする機会はめったになく、見たとしてもそれを作句・鑑賞に利用することはかなり困難だろうと予想します。

子規は、季語による分類以外にも、例えば一つの言葉が様々な意味を持って使われていることを明らかにし、その中には客観的な物から観念的な物、あるいは古来から近代の科学的用語にも及びます。

古句を渉猟していくうちに、おそらく子規は、見つけた句がつまらなく思ったり、楽しくなったりしながら、芭蕉・蕪村の偉大さを確認したわけで、それらが今に続く俳諧師の評価にも受け継がれていることは間違いありません。

また、あらたに発見した表現方法などは明らかに自身の句にも生かされ、作句・推敲によって後世に残る名句としての条件を高めていったことでしょう。

例として、名句とされる「若鮎の二手になりて上りけり」があります。元々は明治25年に、河東碧梧桐に宛てた手紙が初出で、原形は「若鮎の二手になりて流れけり」でした。このままだと、鮎が水にまかせて流れていくだけです。おそらく古句を分類しているうちに「鮎」が「上る」という表現をいくつも見つけて、「あっ、これだ」と膝を叩いたに違いない。

子規の俳句の創作数は、明らかに俳句分類を開始してから増えており、過去の俳諧を整理して一定の評価を与えると共に、自らの作句力を飛躍的に向上させたと言っても良さそうです。

ただし、芭蕉・蕪村以外を切り捨てたことの本当の評価については、多少疑問の余地が残るかもしれません。子規が「これが俳句だ」という形を作り上げたことで、文学としての位置づけがなされた反面、子規から高濱虚子に至る「ホトトギス」系が主流であり、それ以外を亜流とする考え方は、今に至るも見え隠れしていると言う印象を持ちます。

2022年8月24日水曜日

粉抜きお好み焼き


ネットで紹介されていた・・・

小麦粉を使わない、「お好み焼き」、試してみました。

結論。まったくもって、お好み焼きでした。しかも、粉が入っていないので、食べる時の罪悪感が無いというのが、何か嬉しい。

作り方は簡単、大量のキャベツの千切りに溶き卵を混ぜて焼くだけ。

今回は、だいたい1/3玉くらいのキャベツに対して、卵は3個。全体にからむようによく混ぜ合わせておきます。

さすがにそれだけだと味気ないので、少しだけ残っていた薄切り豚バラ肉をいれました。

厚みがあるので、弱火でじっくり焼きます。

後は、お好みで、ソース、マヨネーズ、青海苔、鰹節、紅ショウガなどを散らせば出来上がりです。

小麦粉が入っていないのは、知らなければ「卵が多めだなぁ」くらいにしか思わないんじゃないでしょうか。素晴らしい。

キャベツが余ってた時は、是非またやりたいレシピです。

2022年8月23日火曜日

俳句の勉強 27 季重なり

季重なりとは、一句の中に季語が二つ以上含まれるものを言います。一般には、主題が曖昧になるため、避けることが望ましいと言われています。

目には青葉山ほととぎす初鰹 山口素堂
「青葉」は三夏、「時鳥(ほととぎす)」は三夏、「初鰹」は初夏の季語

季語はどこかに公式認定機関があるわけではなく、この言葉は何となく季節を象徴すると考えて使う俳人がいて、それに監修者・編集者・執筆者が同意して歳時記に収載することによって一般にも季語として認知されるようになります。

ですから、歳時記によっては季語として載っていたり載っていなかったりとバラバラの事もあるし、場合によっては季節が異なることも無いわけではありません。確かに近代的な歳時記が整備された昭和の時代以降、特に歳時記による足かせは強くなった感は否めません。

俳諧に特化して歳時記の名称を最初に冠したのは、1803年の曲亭馬琴の「俳諧歳時記」です。曲亭馬琴は「南総里見八犬伝」の作者として有名ですが、俳諧師というより今で言う小説家、脚本家です。「俳諧歳時記」には2600季語が収載されました。

その後旧暦から新暦への変更などにより、様々な混乱を経て近代的なまとまった歳時記は1933年の改造社の「俳諧歳時記」が始まりとされます。編者は山本三生で、俳人ではなくどちらかと言うと短歌中心の文学者です。

改造社版にも携わった高濱虚子が1934年に編纂した「新歳時記」は、作句のための実用的な最初の歳時記で、増改訂され現在も販売されています。1940年には、説明を簡素化し携帯に便利なように小型化した「季寄せ」も刊行されました。正岡子規から「俳句」を継承した虚子のこれらの業績が、ある意味「俳句」を窮屈にした部分と言えなくもない。

最初のすべての季語を網羅しようとして刊行された大歳時記の先鞭をつけたのは、角川書店の1964~65年の「図説俳句大歳時記」で春・夏・秋・冬・新年の5分冊。A4サイズで各巻500ページ前後、鳥の鳴き声を収録したソノシート(薄いビニール製のレコード盤)が付属していました。定価が一巻5000円前後ですから、全巻揃えると当時大卒初任給丸々1か月分かそれ以上の給料が必要という感じ。


話を季重なりに戻します。ですから、明治期に活躍した正岡子規の時代には、季語について今ほど厳格ではなかったわけで、子規の句には季重なりはけっこうある。それは、子規が季語を気にしていなかったとか、わざと季語を重ねて作ったとかではなく、当時は季語としてあまり認識されていなかった言葉が多かったのではないかと思います。

あたゝかな雨が降るなり枯葎 正岡子規
「あたたか(暖か)」は春、「枯葎(かれむぐら)」は冬の季語

現代で考えると、実生活は新暦、歳時記は旧暦という暦の不一致のせいで、まだ真夏の暑さが続いているのに立秋を過ぎると秋と言われても違和感があります。自然と、季節の異なる季語が混ざってしまう(季違い)ことだって普通にある。

実は、芭蕉は「季重なりはかまわないが無理に作らないこと」、虚子も「主題が明確なら季重なりはかまわない」としています。初心者のうちは、まずは一つの主題に絞る方が、たった17文字しかない中で表現しやすいということでしょう。自分が感じた思いを詠んだら、偶然に季語が複数入っていた場合は、季語の持つ言葉の力の主従がはっきりとしているならば恐れずに「できた!!」と叫びたいものです。

2022年8月22日月曜日

俳句の鑑賞 8 正岡子規

 俳句「夏草やベースボールの人遠」、短歌「打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に」は、同じ人が詠んだもの。

明治30年頃に詠まれたこれらは、当然野球についてのもの。プロ野球が成立したのは昭和9年のことですから、それよりも40年ほど前、まさに日本にアメリカのベースボールが紹介されたごくごく初期のことです。

詠んだのは、正岡子規。俳句の世界では、俳聖芭蕉に次ぐと言ってもよい大人物で、今でも使われる漢字の野球用語の多くは子規考案とされ、野球殿堂博物館入りしています。

1867年、松山市に生まれた子規は、8歳で漢詩を学び、17歳で俳諧を始めます。しかし、22歳で喀血し当時は不治の病と言われた肺結核と診断されます。これを機に、自分の俳号を「子規」としました。

子規は時鳥(ホトトギス)の別名。ホトトギスの口が赤いことから、古い中国の故事にならって「鳴いて血を吐くホトトギス」という表現が一般化していたため、子規は血を吐いた自分になぞらえたものです。

28歳の時に日清戦争に従軍するも、戦わずして終戦となりその帰路に再び喀血し、親友だった夏目漱石(漱石はもともと子規の俳号の一つ)の誘いに応じて松山に戻り静養します。しかし、すぐに上京し母と妹と共に台東区根岸に子規庵をかまえ、文筆活動を続けました。

30歳ごろには脊椎に結核が広がり(脊椎カリエス)、激しい痛みのために歩行もままならない状態になりますが、ほとんど寝たきりの状態の絶望の中で筆を取り続け、34歳で眠るように子規庵にて息を引き取りました。

過去の俳諧を徹底的に調べ上げて、言葉合わせの月並みな俳諧を否定し、心情を深くにじませる芭蕉を高く評価しました。そして、見たことを見たままに詠み込む「写生」を重視し、近代文学として確立し「俳句」と呼ぶようになりました。


誤解を恐れずに言うならば、今の「俳句」は子規から始まります。いろいろな議論がありますが、少なくとも短い生涯で俳句は2万5千句、短歌は2千5百首を残した偉大な文豪であることは間違いありません。


夏井いつき氏の著書で「子規365日」というのがあります。この中で紹介された名句・秀句・珍句を自身のYouTubeチャンネルのシリーズで、季重なり、「や」や「けり」の使い方、「暑さ」や「色彩」の表現などの学びの見本として紹介していました。

松山市立子規記念博物館では、子規の俳句をデータベース化して公開しているので、興味を持たれた方はネットで確認するとよいと思いますが、ここでは夏井氏がYouTubeで紹介した句を列挙するにとどめます。


春や昔十五万石の城下哉

松山や秋より高き天守閣

うれしさにはつ夢いふてしまひけり

おお寒い寒いといへば鳴く千鳥

蒲公英(たんぽぽ)やローンテニスの線の外

蝶飛ブヤアダムモイブモ裸也

君を待つ蛤鍋や春の雪

馬ほくほく椿をくぐり桃をぬけ

摘草や三寸程の天王寺

春雨やお堂の中は鳩だらけ

春の夜や寄席の崩れの人通り

春菊や今豆腐屋の声す也

菜の花やはっとあかるき町はづれ

故郷やどちらを見ても山笑う

昼過ぎや隣の雛を見に行かん

若鮎の二手になりて上りけり

飛び込んで泥にかくるる蛙哉

蜂の巣に蜂の居らざる日和哉

板の間にひちひちはねるさくらだい

夕桜何がさはって散りはじめ

花御堂の花しほれたる夕日哉

梅雨晴れやところどころに蟻の道

花一つ一つ虻もつ葵哉

川セミノ来ル柳ヲ愛スカナ

枇杷の実に蟻のたかりや盆の上

火串消えて鹿の嗅ぎよるあした哉

田から田へうれしさうなる水の音

茗荷よりかしこさうなり茗荷の子

瓜くれて瓜盗まれし話かな

花守と同じ男よ氷室守

家のなき人二万人夏の月

痰吐けば血のまじりたる暑哉

猶熱し骨と皮になりてさえ

ぐるりからいとしがらるる熱さ哉

生きてをらんならんといふもあつい事

腹中にのこる暑さや二万巻

大仏に二百十日もなかりけり

秋の蝶動物園をたどりけり

淋しさの三羽減りけり鴫の秋

松に身をすって鳴けり雨の鹿

色里や十歩はなれて秋の風

鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな

しぐるるやいつまで赤き烏瓜

黒キマデニ紫深キ葡萄カナ

冬ざれの厨に赤き蕪かな

穴多きケットー疵多き火鉢かな

冬の日の筆の林に暮れて行く

画室なる蕪を贈って祝ひけり

何はなくと巨燵一つを参らせん

正岡子規

2022年8月21日日曜日

俳句の鑑賞 7 小林一茶

現代で「いっさ」と言えば、Da PumpのISSAですが、お父さんが小林一茶が好きでつけた名前で本名は一茶らしい。

それはともかく、江戸時代の俳諧師で芭蕉、蕪村に次いで有名なのが小林一茶で、1763年、長野県信濃町の比較的裕福な農家の長男として生まれました。3歳で母と死別し、8歳の時に父親が再婚。ところが、一茶は継母に馴染めず弟が生まれたことで関係は破綻してしまいます。

父親は一茶が15歳の時に江戸に奉公に出してしまいますが、一茶はしだいに俳諧に興味を持ち徐々に知られるようになります。39歳の時に父親が亡くなり、継母・弟との間で泥沼の相続問題が生じました。

何とか和解にこぎつけたのは13年後で、一茶は故郷に定住し初めて結婚します。しかし、生まれた4人のこどもを次々に幼くして亡くし、妻にも先立たれ、再婚するもその相手も亡くなります。再々婚したものの一茶自身も65歳で、辞世の句を残すことなく急死しました。

比較的、都会的な精錬されたものと言うより滑稽な風味のある田舎調の句が多く、現在に至るも独自の世界が根強いに人気を博しているポイントのようです。また残した句の数は2万を超えるのも驚きですが、一瞬の閃きで作句するスタイルから駄作も多いと言われています。


名月を取ってくれろと泣く子かな
 小林一茶

これは誰もがきいたことがある有名な句。

我と来て遊べや親のない雀 小林一茶

これも有名です。実母に死なれて淋しかった少年時代を詠んでいます。

椋鳥と人に呼ばるる寒さかな 小林一茶

梅が香やどなたが来ても欠茶碗 小林一茶

めでたさも中位なりおらが春 小林一茶

やせ蛙まけるな一茶これにあり 小林一茶

これらは、貧乏生活していた若い頃の状況。椋鳥は田舎者という意味。カエルの喧嘩を見て弱そうな方を応援するのは、自分の境遇に重ねている。

これがまあつひの栖か雪五尺 小林一茶

やっと相続問題が解決して、信州に永住を決意した時の句。

陽炎や目につきまとふわらひ顔 小林一茶

こどもを次々と失った悲しみを詠んでいます。

ネットに全句を掲載しているサイトもあったりしますので、根性があるならじっくり眺め倒すことが可能ですから、一茶ワールドに浸りきってみるのもありですね。

2022年8月20日土曜日

俳句の勉強 26 視点移動

俳句は映像詩。たった17文字の中で、感じたものを映像としていかに凝縮させるかということ。圧縮した映像を、読み手がその人なりに解凍して何らかの感慨を得るのが醍醐味です。

約束事となる季語が、最低限の共通の映像を提供してくれるので、季語からスタートして目的となる映像に着地するのか、あるいは逆に最終的に季語の映像に収束させるのか、それは俳句を作る人の自由であり技術というところ。

この中で、切れ字の役割は大きくて、切れを入れることで視点を変えることができて、1シーンの中が1カットから2カットに増えて中身が膨らんできます。ただし、17文字を2シーンにしたり、3カット以上にすると、ブツ切れになり過ぎてまとまりが無くなってしまうので注意が必要です。

桐一葉日当たりながら落ちにけり 高濱虚子

上を見上げると桐の葉がある。陽の光を浴びている葉が枝から離れ、ゆらゆらと落ちてきて地面に着地したということ。視点の移動は高い所から低い所へ、上から下へと縦方向に動いていくようにできています。

流れ行く大根の葉の早さかな 高濱虚子

目の前の小川に上手から大根の葉が流れてきたが、速い流れに乗って下手に去っていった。今度は視点の移動は横方向、上手から下手です。

もちろん静的な映像をじっくりと呼んだ秀句は当然あるんですが、初心者は視点を動かした方が、俳句にダイナミックな雰囲気が加わり面白くなるようにに思います。静的な句を一句。

香を残す蘭帳蘭のやどり哉 松尾芭蕉

芭蕉が悦堂和尚の隠居を訪ねた時、実に清楚な蘭のような部屋だったと感じたという内容で、静かに身動きせずに嗅覚だけを鋭敏にしている芭蕉の姿が思い描けます。


それでは視点移動を意識して作ってみます。

盆の月櫓(やぐら)遠巻き指銜(くわ)え

「盆の月」は初秋の季語で、仲秋の名月の一つ前の満月。つまり、今の暦でちょうどお盆の頃のことで、各地の町内では広場で盆踊り大会などが盛んに行われます。空に満月があり、広場で櫓の周りを踊っている人たちが楽しそうにしています。それを遠巻きに見物している自分は、踊りが出来ないのか、あるいは恥ずかしいのかその輪に入れずに指をくわえて見ているだけ。

空から視点を下に移動してくると盆踊り。そして、さらに指先のアップにまでカメラを寄せていくという雰囲気です。もちろん実際に自分の指を口に突っ込んでいるわけではありませんが、高から低、遠から近、大から小という三次元的な視点移動ができたように思います。

2022年8月19日金曜日

俳句の勉強 25 二つのパターン

基本として17文字しか使わない俳句の組み立て方には、2つのパターンがあります。それが「一物仕立て」と「取り合わせ」です。

「一物仕立て」は、一つの季語(題材)に対して句を詠むこと。「取り合わせ」は、季語とそれとは別の題材について詠むこと。教科書的に説明するとそんな感じになりますが、ちょっと理解しにくい。

実際の例句で確かめましょう。

白牡丹といふといへども紅ほのか 高濱虚子

季語は白牡丹。白色というけどよく見れば紅色がわずかに混ざっている、という内容です。まさに一物仕立てで、季語の内容だけについて語っています。

春雷や女ばかりの雛の宿 高濱虚子

こちらは、季語は春雷ですが、助詞の「や」で切って場面を屋外から屋内に変え、中七・下五に展開を作っているので取り合わせです。

しかし、なかなかクリアカットにどっちと断定しにくい俳句もみかけます。それは、途中に明確な切れがあるため取り合わせのように見える一物仕立てと、切れが明示されていないために一物仕立てのように見える取り合わせがあるから。このあたりは、たくさんの句を鑑賞して、感覚を身につけていくしかないようです。


例えば、これはどうでしょうか。

遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子

正解は取り合わせ。遠い山に日が当たることと、枯野が広がっているという2つの題材を詠んでいます。ところが、日が当たるのは枯野とも鑑賞できてしまうため混乱します。しかし、冷静に考えると遠い山と季語である枯野はまったく別物とわかります。

一物仕立てだろうと取り合わせだろうと、どっちでも良さそうに思いがちですが、そこを見抜けないと作者の言わんとすることが理解できずに間違った鑑賞をしてしまうので、ちゃんと勉強しておかないといけないということです。

2022年8月18日木曜日

俳句の勉強 24 著作権

俳句も「短文学」と位置付けられるわけですから、当然できた作品については著作権が存在します。文学作品の著作権は2018年までは、作者の死後50年間存続するとされていました。現在は死後70年間と改められています。

ちなみに2018年までに著作権が切れたと判断されているものについては、そのままで延長はされていません。つまり1968年以後に亡くなった方から、70年間ルールが適用されるということになります。

さて、そこで俳句です。一般に、俳句は著作権はあるものの、それを引用することについて権利者の許諾は一般に必要ないものとされています。つまり一部を抜粋・・・とかって、17文字しかないので、抜粋したらもう何が何だかわからないことになるので、基本、全文引用しか使いようが無い。

例えば、俳句歳時記にはたくさんの例句が収録され、それが歳時記を持つ重要な要素ですが、このような場合には作者名があれば出典の省略も許容されています。またエッセイなどの中で使う場合も、主たる文章との関連性がはっきりしていればかまわない。鑑賞文や批評文についても同様の考え方が成立します。

また、投句したものが公開され、それが添削されて改変された場合は、投句自体が添削される可能性を前提に行われる行為として認められており、著作権侵害にあたらないとされています。

このブログでは、有名な俳人の句を引用していますが、必ず作者名は記載しています。また、その目的は、俳句を勉強・鑑賞するための自分なりのノートとして、関連性のあるものについて紹介しているので、基本的には問題は無いと考えていますが、1968年(昭和43年)以後に亡くなられた方や、現在ご活躍中の俳人の作品については、注意をしていきたいと思います。

作者を明記していない句は、当然、自分の作品。誰かが何処かで引用することがあるかもしれませんが、それに対して文句を言うことはありません・・・って、そんな奇特な人はいないでしょうけどね。


若鮎の二手になりて上りけり
 正岡子規

正岡子規が亡くなったのは 1902年(明治35年)9月19日で、この日は「子規忌」として季語にもなっています。すでに120年経っていますので、著作権は消滅しています。

鮎は晩秋に産卵し、生まれた稚魚が一度川を下ります。春になると、若鮎となって再び川を遡って来ると、二つの川の合流地点で鮎もまた二手に分かれるさまを描いています。「若鮎」は晩春、成魚となった「鮎」は三夏の季語です。産卵後は「落鮎」という三秋の季語で呼ばれ、川を下りつつ体力を消耗して死んでいきます。

6月になると禁漁が解禁され、鮎釣を楽しむ人々が繰り出しますが、旬の時期は7~8月なので、食べるなら暑い盛りがお勧めと言うことになります。

2022年8月17日水曜日

元祖ニュータンタン麺 @ 向ケ丘遊園


まず、向ヶ丘遊園地の話。閉園したのは2002年のことで、もう20年たつんですね。昭和2年からなので、75年間こどもたちを楽しませたことになり、跡地は生田緑地となっています。

次は元祖ニュータンタン麺の話。昭和39年、東京オリンピックの年に川崎で産声をあげた個性的なラーメンです。スタミナがつくように、ニンニクと唐辛子がたっぷり、挽肉と溶き卵が入った独特の味が癖になる、川崎市民にとっては「ソウルフード」に近い物があるんじゃないでしょうか。

実はクリニックのある都筑区センター南にも店舗があった・・・と過去形なのは、今はもう無いから。クリニックを開業した時には、美味しくて何度も足を運びました。

ところが、土地の権利者とのトラブルがあっらしく、撤退してしまったのは2007年9月のこと。あれから苦節15年、向ケ丘遊園の店舗でついに再びあの味を賞味することができました。

・・・・ ・・・・ なんですが、ちょっと? ? ?

挽肉少ない。

溶き卵が細かくない。

麺はこんなにふとかったっけ?

などなど、15年前の記憶との差異がいろいろありました。味は確かにこんなだったと思うんですが、まぁ、とりあえずあの味をもう一度を達成できたので満足です。

ちなみにカップ麺にもなってますけど、本物とはかなり違うので、食べるとがっかりします。

2022年8月16日火曜日

俳句の鑑賞 6 お盆


現代では一般に8月15日とその前後が「お盆」と呼ばれ、祖先の霊を祀る行事として定着しています。正式には仏教用語で「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と呼びますが、当然、多くの関連用語が俳句の季語として使われています。いずれも初秋の行事として扱われています。

まずは「盆用意」あるいは「盆支度」は、事前準備のこと。「盆路(ぼんみち)」あるいは「精霊路(しょうりょうみち)」などは、あらかじめ草を刈って霊が通りやすくすること。「盆花」は、供えるための花(萩、おみなえし、山百合など)を採ってくることです。

盆用意すべてととのひふと虚し 長谷川浪々子

盆路のそれぞと見ゆる岨の雲 水原秋櫻子
岨(そわ)は山の切り立った斜面、崖のこと

南無鵜川盆花ながれかはしけり 飯田蛇笏

そのものズバリの「盆」ですが、「魂祭(たままつり)」、「精霊祭」、「盂蘭盆」、「盆棚」、「真菰筵(まこむむしろ)」、「新盆」などなどたくさんの傍題が存在します。盆の期間に入ると、家々では盆花を飾り付けた盆棚を用意して祖先の霊を迎えます。今では仏壇を利用していることが多いのですが、実は仏壇はお盆の時は空なので空棚と呼ばれる。

数ならぬ身とな思ひそ魂祭 松尾芭蕉

あぢきなや幮の裾踏む魂祭 与謝蕪村
幮(ちゅう)はとばり、たれぬののことで蚊帳を意味する

御仏はさびしき盆とおぼすらん 小林一茶

盂蘭盆や無縁の墓に鳴く蛙 正岡子規

お盆の間に、存命中の一家の長老格の家族に、主として鯖、赤飯などを備え拝むことを「生御魂(いきみたま)」あるいは「生身魂」と呼びます。鯖は背開きにして塩漬けにした「刺鯖(さしさば)」、赤飯は蓮の葉に包んだことから「蓮の飯」が季語として使われます。

生身魂七十と申し達者なり 正岡子規

刺鯖や隣へやるも表向き 成田蒼虬

祖先の霊を迎えるために家の前で焚く火を「迎火」、「門火」、「魂迎え」などと呼びますが、集落全体で行う火焚きは「精霊火」あるいは「盆火」です。霊が乗って来るのが「茄子の馬」、「茄子の牛」、「瓜の馬」、「瓜の牛」、「迎馬」、「送馬」で、盆が終了すると「送り火」を焚き「送り盆」として用意した茄子、瓜などは川に流します。

迎火や焚いて誰待つ絽の羽織 夏目漱石

あけがたの風に倒るる瓜の馬 山田みずえ

送り火の名残の去年に似たるかな 中村汀女

ひとところ暗きを過ぐる踊りの輪 橋本多佳子
単にに踊と書いた場合は盆踊りを意味する


他にもたくさんありますが、キリが無いのでこのくらいにしておきます。季語を通して、日本の古くからの風習がわかります。中には廃れてしまったものもありますが、知識としては憶えておきたいものだと感じました。

2022年8月15日月曜日

俳句の鑑賞 5 終戦記念日


昭和20年、1945年8月15日は、第二次世界大戦で、日本がポツダム宣言を受諾し天皇陛下による終戦の詔勅が宣布された日です。以来、8月15日は、戦争が終結した日、そして日本が敗戦した日として、毎年この体験を後世に伝えるべく記念日となっています。

俳句の世界では、戦後この「終戦記念日」は当然のように初秋・行事の季語として認められるようになりました。傍題としては「終戦の日」、「終戦日」、「敗戦日」、「終戦忌」、「敗戦忌」などが使われています。

8月6日の「広島忌」、8月9日の「長崎忌」、両者を合わせた「原爆忌」などと合わせて、多くの俳句が作られています。

しかし、俳句の世界も世間一般と同じで、敗戦になるまでは愛国精神を詠ったものも少なくない。敗戦までは、大本営発表を鵜呑みにして、ほとんどの日本人は疑うことなく戦争に突き進んでいたわけです。しかし、敗戦と同時にすべての価値観がひっくり返る。戦争の悲惨さ、非人間性をテーマにする俳句が数多く生み出されることになります。

戦中に、戦争の本質を鋭く指摘する俳句を作っていた俳人の一人に渡辺白泉がいます。

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉

銃後といふ不思議な町を丘で見た 渡辺白泉

玉音を理解せし者前に出よ 渡辺白泉

廊下と言う日常空間、しかし壁と天井と床に囲まれた狭い窮屈な空間。おそらくその先には扉があって、開けると会議室で誰かが戦争のことを議論していたのかもしれません。自分は廊下を前に進むしかなく、戦争と言う不気味な存在に向かってどこにも逃げ場がない状況を見事に詠みあげました。

句自体は季語が無く無季定型という形式ですが、戦争という季節を越えた一時代を象徴する言葉は、季語に匹敵する強さを持っていることは間違いありません。また客観性が少なくなりやすく俳句では避けられやすい擬人法によって、戦争を人が起こすことであることをしっかりとらえているようにも思います。

俳句が17文字の映像詩という側面を持つ以上、実際に戦争体験を持たない自分たちは記憶の中に戦争の信実を見出すことができず、作句をしてもあくまでもまた聞きの話を基にするしかありません。

ウクライナのように現実に戦争の渦中にある国がありますが、正直に言えば対岸どころか、海の向こうの火事です。多くの情報がリアルタイムに伝わる時代になっていますが、あまりに多い情報は逆に多くの間違いも含んでいると考えないといけない。

戦争を実体験した方々が、だんだん亡くなっていなくなってきた今、我々にその本質を未来に伝えることはできるのでしょうか・・・


2022年8月14日日曜日

俳句の勉強 23 芒で八苦

芒(すすき)という、ある意味平凡、ある意味激ムズの兼題に果敢に挑戦しているわけですが、もとより初心者の悪あがきみたいなところで、なかなかまっとうな俳句なんてできる気がしない。

札幌のすすきのは有名な繁華街ですが、必ずしも芒がたくさん生えていたからというわけでもないらしい。近くの青葉区すすき野は、間違いなく芒がたくさんの野原を開発したから。

それはさておき、あまりに芒から連想ゲームができないので、ちょっと方向を変えてギャグにしてみました。

すすき好き好きに束ねて埃取り

「好き好き」は句またがりで「すきずき」と呼んでもらいたいわけで、もう単なるダジャレ系です。そうか、束ねたら箒になるというところで、もう一つ思いつきました。

黒ワンピ芒またがりいざジャンプ

これは完全に「魔女の宅急便」です。芒ですから、魔女の箒とは違うので、たぶん飛べない。飛べないけれど、えいっ、やっ!! とジャンプしてみた、という話。カタカナのワンピとジャンプで、ちょっと韻を踏んだ感じになったのは良しとします。


さて、遊んでないで、まじめに考えましょう。どうしても、最初に連想するのが仙石原なので、芒の傍題になる「芒原」から膨らませてみましょう。当然、風が吹いてたくさんの芒が一斉になびく様子を想像してしまいます。ただの風では話にならない。どんな風? そこが問題です。

そこで芒の花言葉を調べてみました。芒は「活力」、「生命力」ということらしいのですが、もう一つ「心が通じる」というのがある。心が通じるで連想するのは「阿吽(あうん)の呼吸」です。

阿吽は口を開けて発する「あ」と口を閉じて発する「ん」で、万物の始まりと終わりを表します。神社にたいてい飾られている一対になっている狛犬は、獅子阿形(口を開けている)と狛犬吽形(口を閉じている)です。阿と吽が呼吸までも合わせるように行動することを「阿吽の呼吸」と言って、まさに芒の花言葉と通じるんですね。

阿と吽が揃って息を吹き付ければ、芒は一緒になってなびくだろうと思ったところで、ストーリーは完成しました。

芒原阿吽の息に皆靡き

阿吽というやや宗教色をだしたので、「靡く(なびく)」という書いたことが無い漢字を使ってみました。ここで気になったのは、「皆」としたこと。たぶん、こういうのをすすきの擬人化と呼んで、主観的になりやすいのでかなり注意が必要なんだろうと思います。

いっそのこと、俳句らしく「靡きけり」とか「靡くかな」とした方が良いのかなぁ? まぁ、これも最終候補として残しておきたいとは思いますけどね。




2022年8月13日土曜日

俳句の勉強 22 芒で四苦

俳句を作るとき、あらかじめ出されるテーマのことを「兼題」といいます。集まって俳句を楽しむ句会で、その場で出されてすぐ作句するためのテーマは「席題」です。題は季語が用いられることもあれば、それ以外の事もあります。「プレバト」では、写真を兼題として見せて俳句に仕立てる方式です。

無料で投句出来る松山市の「俳句ポスト365」で、次に出される予告された兼題は「芒(すすき)」です。〆切まで1か月間以上、考える時間はたっぷり・・・なんですが、これまた難しいテーマを出してきました。


何が難しいって、ススキですよ、すすき。普通に考えて、連想することと言えば、仙石原の見事なすすき原とお月見くらい。そこらにたくさん生えていて秋らしいのですが、普段は雑草とまでは言わないにしても、それほど注意を払う存在ではありません。

月見から連想するのは、十五夜、兎、団子などで、類想の域を出ることができません。村上式連想法を活用したくても、ほとんど言葉が出てこないので、すすきをキーワードにネットを探し回ってみました。

そこで知ったのは、茅葺屋根に使うのがすすきなんですね。ただ残念ながら、茅葺の家は遠目に見たことはあっても中に入ったことが無いので、そこからの連想の広がりができません。

もう一つ見つけたのが「すすきみみずく」という、すすきの藁で作った人形。東京の雑司ヶ谷の郷土玩具で、鬼子母神の参詣土産としてけっこう有名らしい。鬼子母神(きしもじん、あるいはきしぼじん)は千人いる自分の子を育てるため、近辺のこどもさらって贄にしていたところ、釈迦に諭され改心し安産の守り神となったお方。

すすきみみずくの由来は、母親の薬を買うお金が無い娘が鬼子母神に祈ったところ、すすきでみみずくの人形を作って売りなさいと告げられ、無事に薬を買うことが出来たということらしい。

これは面白いと思ったものの、鬼子母神で5文字、すすきみみずくで7文字。あと5文字しか使えない。そもそもすすきみみずくは全部で玩具の名前ですから、芒という季語としては弱すぎるというか無理がある。残りに季語を別に入れたら、それでお終いになってしまいます。

そこで、何とか文字数を削れないかとじたばたするわけですが、鬼子母神は別名は訶梨帝母(かりていも)で、同じ5文字。いっそのこと神をとっちゃうしかない。鬼子母とすれば3文字でいける。

すすきみみづくは固有名詞みたいなものなので難しいのですが、いろいろ調べてみたら耳木菟(みみずく)の古い言い方で「木菟(つく)」というのがありました。すすきみみずくを芒木菟とすれば5文字。合わせて4文字節約できます。

鬼子母神が芒木菟を授けたよ、というストーリーができそうなので、これに最適な秋の季語を探すことにします。芒にかけて「月」が絡むといい感じで、「盆の月」なんていいかなと思ったんですが、これは仲秋の名月の1か月前。ちょっと早すぎる。

仲秋の名月、十五夜の前日の夜のことを「待宵(まつよい)」というのだそうで、これなら明日は月見と楽しみにしている様子がでてきて、きつねみみずくで良い事があるようにと願う気持ちとも合いそうです。

待宵に鬼子母授けし芒木菟

何か、良くないですか? 自己満足的にはOKですが、「待宵や」の方がいいかもとか、やはり無理矢理言葉を省略したのは大丈夫なのかとか不安は残る。まぁ、最終候補の一つとして残しておきたいと思います。

2022年8月12日金曜日

俳句の鑑賞 4 与謝蕪村

芭蕉に次いで知っておくべき江戸時代の俳諧師といえば、与謝蕪村です。

大坂で1716年に生まれた蕪村は、最初は絵画に興味を持ち二十歳頃に江戸に出ました。同時に俳諧を始め、北関東、東北を巡って頭角を現します。40代を前にして京都に上洛し、しばらくは絵画に専念、その後江戸、京都、讃岐などを行き来しながら俳諧師、絵師を両立させ活躍し、68歳で亡くなりました。

蕪村の俳諧の師は其角の弟子の巴人であり、蕪村は芭蕉を崇拝し「芭蕉回帰」を唱え、俳諧の格調を高くしようとしていたそうです。画家としての観察眼を生かした物語性を、軽重両面の語り口で俳諧に埋め込むのが得意と言われています。


蕪村の句と意識せずに昔から知っていたのは、

春の海終日のたりのたり哉 与謝蕪村

「終日」をひねもすと読むことを面白いと思い、「のたりのたり」の何とも雰囲気が伝わるオノマトペが印象的です。

菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村

これも有名。大地に広がる菜の花と、おそらく茜色の夕空の中に月と太陽を織り込む雄大な光景が凝縮しています。

さみだれや大河を前に家二軒 与謝蕪村

これも助詞の使い方の例句として、しばしば取り上げられます。雨で増水した川沿いの家の危うさかを、読み手が映像として思い描くことができる表現です。

春雨やものがたりゆく蓑と傘 与謝蕪村

しののめに小雨降出す焼野かな 与謝蕪村

夏河を越すうれしさよ手に草履 与謝蕪村

他にも有名句はたくさんあり、約3000句が蕪村作として残されています。一つずつゆっくり鑑賞していくことで、自分の俳句作りの糧にしたいものだと思います。

2022年8月11日木曜日

俳句の勉強 21 類句脱出法

凡人の凡人たる所以は、見つけた俳句のタネから、誰もが当然想像するものしか思い浮かばないことが大きな理由。そうやってできた凡人句は類想・類句と呼ばれ、何とかこの深い深い沼から脱出しようともがくことになります。

お笑い芸人である村上健志は、もともと短歌をたしなみ、「ブレバト」出演で俳句をはじめ、短期間でその実力を認められました。彼のおすすめする俳句の作り方は、類想・類句を脱出するための有用なヒントになりそうなので紹介します。


例えば「運動会」という季語が兼題にだされたら、普通は「紅白」、「綱引き」、「リレー」、「お弁当」などを想像します。ここで俳句を作ると「運動会親も本気の綱引きか」とか、「運動会家族で楽しくお弁当」みたいな句が量産されることになる。

村上さんのおすすめは、連想した言葉からさらに次の連想を広げていくというもの。「リレー」が気になったら、そこから第2段階の連想をするわけで、「バトン」、「たすき」、「応援」、「リボン」何かが出てきそう。

そして、さらに深く連想広げます。「バトン」が気になったので、ここから「筒」、「落とす」、「バトンケース」・・・あっ、これ面白いかもというのが見つかるまで連想ゲームをしていくというもの。

村上さんは「バトンケース」が面白いと思った。そこで「からっぽのバトンケース」を想像し、空っぽなのは使っているからで、練習なのか、本番なのか・・・さらに想像を膨らませて、空いたケースをちゃっかり利用してしまうカマキリの映像を重ねていました。

リレーバトン空のケースにいぼむしり 村上健志

「いぼりむし」は蟷螂(かまきり)のことで秋の季語。確かに運動会をテーマに、独自の発想力が生きた句になっています。これまでの連想の流れを知っていると、中身も理解できます。ただし、「プレバト」番組内では、夏井先生に以下のように査定されてしまいました。

リレー練習バトンケースにいぼむしり 村上健志 (推敲 夏井いつき)

「空の」はいらない。使っていれば空になっているのは当然で、リレーの様子を練習なら練習とはっきり書くことで、最初の情景がより明確に映像化できると評されています。

この連想の連鎖をする方法は、確かに面白い。三段階以上考えれば、個人個人の思い出などにたどりついてオリジナリティのある発想に飛ばすことができるかもしれません。連想力を鍛えるのも、俳句作りでは重要な勉強だということですね。

2022年8月10日水曜日

最高に面倒で、最高にうまいラーメン。


セブンイレブンで売ってました。他の店でもうっているかもしれませんが、日清食品の話題のカップ・ラーメンです。

何しろタイトルが「最高に面倒で、最高にうまいラーメン。」というくらいなので、どんだけのものか食べてみたくなる。

最初に結論を言えば・・・・確かに旨い。それは間違いない。

何が「最高に面倒」なのかと言うと、お湯を入れて一度麺を柔らかくしたら、焼きそばのようにお湯を捨てるということ。あらためてお湯を入れてからスープ類をいれるんですが、そのスープが、通常1つか2つのところ、これは3つある。

確かに面倒。それも間違いない。

ただ、カップ麺ですからね。お手軽感は減っているので、普通の茹でるラーメンとの境界が不明瞭になっているかなと感じます。

味はいわゆる家系、豚骨醤油。これだけ凝った作りなので、再現性は高い。たた、物凄く残念なのは、薬味・トッピングが海苔だけというところ。

ほぼ麺とスープだけ。まぁ、潔いと言えば潔いのですが、値段も高いしこうなると袋生麺でいいんじゃないのと感じました。

2022年8月9日火曜日

俳句の勉強 20 長~い季語


短い季語があれば、反対に「何これ?!」と言いたくなるような長い季語もあったりします。そもそも俳句ではたった17文字しか使わないと言うのが基本で、必ず季語を使うとなると季語は短いにこしたことがない・・・はずなんですけどね。

例えば「愛鳥週間(あいちょうしゅうかん)」は、5月10日~16日の行事で8音の初夏の季語。上下の5文字どころか、中七にもおさまらない。使用した時点で、字余りか、句またがり確定です。「大和神幸祭り(おおやまとしんこうさい)」は、さらに多くて11文字の晩春の季語で、4月1日に行われる別名「ちゃんちゃん祭」と呼ばれる奈良のお祭りです。

4月7日、島根の「青芝垣神事(あおふしがきしんじ)」は晩春で、まだ可愛い9文字。「アスパラガス」だけなら6文字・晩春ですが、「アスパラガスの花」となると晩夏・9文字。「愛宕の千日詣(あたごのせんにちもうで)」は7月31日に京都・愛宕神社の鎮火祭で晩夏・11文字です。

もう、すでに探すのが嫌になってきましたが、だいたいは行事の名称が長いことが多い。短くしようがないというのは理解できますが、これだけ長いと俳句としては使いようが無いと言えそうです。

キリスト教関連でイースター(復活祭)がつく言葉もありますが、一番長そうなのは帽子の種類で「イースター・ボンネット」が10文字・三春です。11月23日、島根の出雲大社の神事は「出雲大社新嘗祭(いずもおおやしろにいなめさい)」は14文字・初冬。「厳島神社の年越祭(いつくしまじんじゃのとしこしさい)」は旧1月6日で15文字・新年。

「国民体育大会(こくみんたいいくたいかい)」というも、晩秋の季語ですが、12文字もあって、残りはたったの5文字。戦後に始まったものですから、比較的新しい季語と言えます。国民・体育・大会と構成するパーツがすべて4文字なので、どう使っても読んだ時のリズムが悪い。どうしても使いたい時は、「国体(こくたい)」と略するのが現実的です。

歳時記で10文字くらいを拾っていたらきりがありません。とりあえず、後は省略で、極めつけを一つ。キリスト教関連で10月7日は、「ロザリオ聖母の日」となっていますが、正確には「童貞聖マリアの聖なるロザリオの日(どうていせいまりあのせいなるろざりおのひ)」となって20文字・晩秋の季語です。実際の俳句では省略して、単に「ロザリオ」とか、「ロザリオの月」として使われています。

言葉を季語と認定する特定の機関があるわけではないので、誰かが「これは季語として使える」と思って使い、それに追従する作品がそれなりに生まれることで、次の歳時記に載せようと考える監修者がいたりする。最初に使った人、最初に載せた人は、俳句では現実的ではない言葉を季語とした責任があるはずなんですけどね。

2022年8月8日月曜日

俳句の勉強 19 一文字の季語

季語は5文字だと、上句か下句が丁度埋まって初心者には使いやすいということになります。ところが、必ずしもそうは問屋が卸さない。

歳時記の中から、一番短い季語を探してみました。赤、とか秋とか、漢字一文字の季語はすぐに思い浮かびそうなんですが、どちらも仮名だと二文字です。じゃあ、仮名でも一文字の季語は?

あるんです。五十音順で行きましょう。最初は「藺」です。こんな漢字知らんかったわぁ・・・というのが普通ですよね。「い」と読みます。湿地に自生するイグサ科の植物。畳とか茣蓙(ゴザ)の材料と言えば、わかりやすい。「う」は、鵜飼で有名な鳥の「鵜」。刺されて痒いのが「蚊(か)」で、飛んでくるのが「蛾(が)」。これらは全部三夏の季語になります。

「葱(ねぎ)」は普通に食材として一般的ですけど、これを音読みすると「き」となって三冬の季語に使えます。ざだまさしの小説「解夏」で有名になったので、「夏」を「げ」と読むのは知られていそうです。正式には夏の間修行に専念させる仏教の行事「安吾(あんご)」のことをで、単に「げ」と呼ぶことがあり三夏で使います。

「茅」は長野県茅野市というのがあるので、「ち」と読める。「ち」と読む場合は白茅(ちがや)と呼ぶ雑草のことで三秋の季語。晩冬の季語になる「氷(こおり)」は音読みで「ひ」として使うことができます。屁は面白いのですが、残念ながら季語ではありません。

「芽(め)」は春になって出てくるいろいろな植物全体で使える初春の季語で、正確には「ものの芽」となっています。そして最後が「ろ」ですが、二つあります。「羅」と書いて「うすもの」と読み夏用の薄い布で作った単衣ですが、これを別名「絽」と呼び晩夏の季語になる。反対に寒い時期、暖を取る「囲炉裏(いろり)」を単に「炉」と呼んで三冬の季語に使います。

歳時記の面白いところは、索引だけを眺めていても面白いというところ。膨大な項目が並んでいるのですが、こんな言葉に季節を感じるんだと感心してまうことがしばしばあります。ここにあげたもの以外にも一文字の季語を歳時記に載せている監修者の方もいるかもしれません。

短ければ、残り16文字を自由に使えるわけですから、出来れば積極的に利用したいものですが、短ければ短いなりになかなか使うのが難しかったりするんですね。


茅野入れば時偶(ときたま)句種拾いけり

茅のたくさん生えた平凡な野原でも、入ってよく観察していると、稀には俳句のタネになるような面白いことが見つかるものだ・・・という内容。

まぁ、初心者でも下手な鉄砲数撃ちゃ当たるみたいなところで、とにかく作句しないことには始まらない。有名な景勝地に行けなくても、その気になって見れば身の回りにも、はっと気づくことはあるはずです・・・という願望みたいな話です。

2022年8月7日日曜日

俳句の勉強 18 季語の分類

季語は、俳句の17文字に必須の言葉。説明しなくても、季節や情景の一部を既定の共通認識として表現してくれるので、文字の制約が厳しい俳句の中では大変重要な役割を担っています。特殊なものとして、稀に季語を持たない無季俳句と呼ばれるものもあります。

現在、通常「これは季語になる」と誰もが認めている言葉は4,000~6,000語あり、それに似た表現の言葉(傍題)を含めれば15,000~18,000語にも及びます。これだけ膨大な数になると、てんでんばらばらでは歳時記で探すのも一苦労。

そこで、季語はその内容によってある程度時期が分類がされています。まず、季節。春、夏、秋、冬、そして1月だけは新年として独立しています。それぞれの季節は、初・仲・晩で3つに分割され、共通して使える物は三春・三夏・三秋・三冬とされています。

これは旧暦の二十四節気と密接に連携していて、初春は「立春」と「雨水」、仲春は「啓蟄」と「春分」、晩春は「清明」と「穀雨」、初夏は「立夏」と「小満」、仲夏は「芒種」と「夏至」、晩夏は「小暑」と「大暑」、初秋は「立秋」と「処暑」、仲秋は「白露」と「秋分」、晩秋は「寒露」と「霜降」、初冬は「立冬」と「小雪」、仲冬は「大雪」と「冬至」、晩冬は「小寒」と「大寒」です。

また、その内容によっても分類されます。「時候」、「天文」、「地理」、「人事(生活)」、「動物」、「植物」、そして「行事」の8項目があります。

例えば「春」の場合は、三春の時候の季語。「二月」は初春の時候の季語になります。「朧月夜」は三春の時候、「八十八夜」は晩春の時候、「雪崩」や「雪解」は仲春の地理という具合です。

旧暦と今の暦とでは、1か月くらいのずれがあるので、夏だったら8月7日に立秋で秋になりましたと言われても、まだまだ暑くてとても秋とは思えません。立秋以後にすぐ秋の季語を使うのは現実とのギャップを感じますが、これは俳句の世界のルール。

また、晩夏に初秋の季語を使うこと(季節の先取り)はかまわないことになっています。ただし、初秋になったのに、まだまだ暑いからと晩夏の季語を使う(季節の後戻り)のは原則としてOUTです。


「七夕(たなばた)」というと、7月7日で夏と思いがちですが、季語としては初秋の行事にあたります。陰暦の7月7日に行われた行事で、実は本来は今の8月7日のことで、夏と秋が交差する祭りです。

七夕や互いに呼びし天河原(あまがわら)

まぁ、相当な凡人句です。七夕と言えば琴座のα星ベガ(織姫)と鷲座のアルタイル(牽牛)が、年に一度天の川をはさんで大接近することになっていますが、伝説と違って両者の星はけっして重なるわけではありません。向こうの河原とこっちの河原で、言葉を掛け合うのが精一杯できること。一年ぶりでどんな話をするのか、まぁ、地上にいる自分たちには知ったこっちゃありませんけどね。

2022年8月6日土曜日

俳句の鑑賞 3 松尾芭蕉


俳句に興味がなくても、知らない者はいないくらい有名ななのが松尾芭蕉で、俳聖とも呼ばれます。まさに、俳句を現形に完成させた人。

寛永21年(1644年)、江戸時代が安定し始めた頃に、伊賀国上野の赤坂(三重県伊賀市上野赤坂)で貧しい家に生まれた芭蕉は、29歳で俳諧師を目指して江戸にやってきます。神田上水道の整備の仕事をしたながら腕を磨き、35歳で俳諧の師匠として独立しました。

そして46歳で、棲家をたたみ弟子の河合曽良と共に「奥の細道」の旅に出ました。約半年をかけて江戸から奥州(東北地方)に向かい、反転して岐阜に至る行程で、多くの発句を今も詠み継がれる作品を残しました。わかっているもので900句ほどあり、おそらく芭蕉作と考えられているものを含めると1500句ほどと言われています。

古池や蛙飛びこむ水の音 松尾芭蕉

名月や池をめぐりて夜もすがら 松尾芭蕉

夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉

閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉

五月雨を集めて早し最上川 松尾芭蕉

秋深き隣は何をする人ぞ 松尾芭蕉

物いへば唇寒し秋の風
 松尾芭蕉

俳句専門書ではなく、一般の教科書に掲載され、記憶に残っていた句を拾い上げてみました。芭蕉の全句からすれば1%にも満たない数ですが、積極的に勉強してないうちからこれだけの俳句を聞いたことがあるというのは驚きです。

これらは、教育を受けた日本人に意識するしないに関わらず、成長のベースのいくらかを形成することに役立っているのだろうと想像します。別の言い方をすれば、「日本人らしさ」の一部には、芭蕉の俳諧の精神が生き続けているのかもしれません。

教科書に載るくらいですから、いずれもその場の情景が眼前に広がり、様々な思惑が呼び起こされる名句ばかりなのですが、他にもユーモアの詰まった思わずクスっとなるような軽妙な句もかなりあります。

ネットには全句を掲載しているところもありますので、時間があるときに、文字だけを追うのではなく、ゆっくりと読み上げてみることでじわーっと浮かび上がってくる何かを感じることが出来れば楽しいこと間違いありません。

2022年8月5日金曜日

俳句の勉強 17 不易流行


俳諧(はいかい)というのは、主に江戸時代に栄えた文学の形式の一つ。ざっくり言えば、現代の俳句の原型です。

元をたどれば、和歌の歴史は万葉集にまでたどりつくわけですが、奈良時代以後、五七五からなる発句(長句)と続く七七の脇句(短句)を数人で交互に詠んでいく連歌(れんが)が盛んになります。

そこに登場したのが、松尾芭蕉(1644-1694)。芭蕉は発句を独立させ、五七五だけで鑑賞する「俳諧」を確立したと言われています。細かいことは、興味がある方は各自で調べてもらうことにして、以降に芭蕉の弟子だった室井其角(1661-1707)や画家でもあった与謝蕪村(1716-1784)、独特の音感を取り入れた小林一茶(1763-1828)と言った名前は記憶に残っていると思います。

明治の世になって、単なる言葉合わせ的になっていた当時の俳諧にダメ出しをして、発句を文学の一つとしてより高めたのが正岡子規(1867-1902)であり、子規により「俳句」という呼称が成立しました。つまり、俳句という文学は成立してからまだ150年に満たないということになります。

本当に最低限の歴史の話ですが、一応このくらいは知っておかないと俳句をやってますと言うには恥ずかしい。名のある俳人たちの句を鑑賞する際に、少しずつさらに勉強を深めていきたいとは思います。

さて、そこで「不易流行(ふえきりゅうこう)」です。これは芭蕉が「奥の細道」の旅で見出した俳諧の理念と言われています。芭蕉自ら語った記録はありませんが、弟子が伝えるところによると、芭蕉は「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」と語ったとのこと。

「不易」は、世の中が変わっても変わらないもの、変えてはいけないもの、「流行」とは世の中の変化とともに変わっていくもののこと。つまり、良い俳諧を作るためには普遍的な基本をしっかり学びつつ、時代に合わせた新しい物を取り入れていくことが大事と言う意味。

これは、俳句に限らず、芭蕉以来350年ほどたっても、世間のすべてのことに当てはまる基本的な真理と言えそうです。特に、俳句の初心者は肝に銘じておく必要がありそうですね。

2022年8月4日木曜日

俳句の勉強 16 写真を見て一句

俳句は、たった17文字の中に、作者の言いたいことを込められるか、そしていかに読み手に情景をイメージとして伝えられるかがポイントです。

そのために吟行とよぶ、散歩あるいは旅行などをして俳句になる実体験をすることが推奨されます。適切な時期に適切な場所に自由にでかけられるならいいんですが、なかなかそうもいかない。

そういう自分のような者には、写真というのは大変心強い味方になってくれる。幸いなことに、若干写真の趣味もあったりするので、過去に撮影した写真をあらためて眺めてみると俳句になりそうな景色などが見つかったりします。

実体験でも同じことが言えますが、写真から俳句を考える時のポイントは、まず写真の景色・状況を描写することからスタートします。ただし、「美しい広い草原と青い空」みたいな内容だけでは俳句とは言えません。

次に大事なことは、写真に写っていない時間や空間を描き込むことです。まぁ、そんなことをやってたら、とても17文字では足りないと言ってしまえばそれまでですが、それらを読者に想像してもらい補うことで俳句として完成するということ。

・・・と、理屈はわかるんですが、やはり難しい。

写真という固定したイメージは、そこから語りたい情景も自由が効きにくくなります。自分で撮った写真の場合は、「綺麗だ」とか「かっこいい」といった撮影時の感覚を引きづってしまいます。お題として写真が出された場合は、誰もが同じような感想を持ち類想・類句となりやすいものです。

あくまでも、写真をきっかけに自分の記憶の底から何かをほじくりだせるか、そしてそこからできた句が写真とかけ離れなかったかが勝負というところ。


どこにでも、ありそうな小規模な滝の写真です。「滝」は年中ありますが、涼し気なので夏の季語とされています。必然的に滝を見て想像するのは、「涼しさ」、「マイナスイオン」、「滝行」、「水しぶき」とか、大きな滝なら「瀑音」などで、やはり似たようなイメージになりがち。

一キロと聞けば滝道引返す 稲畑汀子

稲畑汀子は最近亡くなりましたが、結社「ホトトギス」を率いた俳句界の重鎮。滝そのものではなく、せっかくここまで来たけど、まだ1キロもあると聞いて、あきらめて引き返すという、いかにも「あるある」な状況がよく伝わってきます。

さっそく、練習してみます。この滝は檜原村にある払沢(ほっさわ)の滝で、唯一東京で選ばれた「日本の滝百選」の一つ。冬は氷結することで有名。

払沢に滝響くより子らの声

「~に」という助詞は場所を限定するわけですが、写真が払沢だとわかる人には地名を使うのは5文字丸々無駄遣いです。逆に知らない人には、景色が思い浮かびません。全景をイメージできる別の言葉を使った方が良さそうです。

「響く」という動詞に比較の助詞「より」を付けるのもおかしい。本来は「響く音」とすべきところを省略したわけですが、「響く」とくれば「音」でしょうから、入れるとくどいし字数も合わなくなります。

このように、一度作られた句を、もっと良くするために「あーでもない、こーでもない」と直していく過程を「推敲(すいこう)」と呼び、大事な作業です。

森ひらけ響く滝より子らの声

森の中を行くと、ひらけたと思ったら、見事な滝があった。水が落ちる雄大な音がするが、それよりも喜んで歓声をあげる子どもたちの声がよく聞こえた・・・という内容です。ですが、やはり「より」が気になります。

森ひらけ滝音にまさる子らの声

少しましになったように思いますが、まだまだパッとしない。どうも発想力とボキャブラリの不足を解消しないと無理かもしれませんが、一朝一夕にはいきませんね。

2022年8月3日水曜日

酷暑


昨日は、朝から天気予報士の方々が、「今日はこの夏一番の暑さとなるでしょう」と言っていましたが・・・・

その通りでした。

昼過ぎに、天気アプリが表示した気温は、38°c!!! !!! !!!

おそらく横浜のこのあたりでは初めてのことじゃないでしょうか。

7月初めに37°で驚いていましたが、更新となりました。全国でも、40°を超えた所は無かったようなので、一律でとんでもない暑さだったようです。

完全に体温を超える気温ですから、長く外に出ることは「自殺行為」みたいなもの。

屋外で働く方は本当に大変。受診した植木屋さんが、最初は日陰でガマンできるけど、仕事が進むと日影が無くなってとても辛いと言っていました。

2022年8月2日火曜日

俳句の勉強 15 勝手に夏井いつき

毎週見たくなる数少ないテレビ番組の一つが、TBSの「プレバト」です。もともとは「プレッシャー・バトル」というタイトルで2012年から始まったのだそうですが、芸能人のいろいろな才能を「査定ランキング」する内容になってからは、やはり一番人気なのは「俳句」で間違いない。

この俳句のコーナーを、一番人気に押し上げただけでなく、全国に自分のようなにわか俳人を増やした原動力になったのが、夏井いつき氏です。「夏井いつき」は俳号(俳人のペンネーム)で、年も自分とほぼ同じ。まず、そこに親近感を感じます。

また、最近放送された氏の「仕事の流儀」についてのドキュメントにも感化されました。毎日、物凄い量の投句に目を通すのですが、「つまらない」と思ったときは、自分がその俳句の良さをわかる力が不足しているのかもしれないと考えるのだそうです。

夏井氏は、伝統的な結社は持たず「いつき組」という「俳句集団」の組長を名乗っています。氏によると、俳句集団とは自分と一緒に俳句を作って楽しむ入るのも出るのも自由なグループで、自由に組員を名乗ってもいいらしい。

俳句を作ってみると、自分だけで作って楽しんでいるだけでは、どうにも限界があります。結社に参加して、主宰と呼ばれる「師」のもとで切磋琢磨するのが一番良いのはわかっていますが、なかなかそのような句会にでかけていくというのが難しい。

直接見たことも聞いたこともない俳界の重鎮の結社に入るよりも、テレビで伝わる人となりがわかった氏のネットを活用した「いつき組」の取り組みは、自分にも入りやすいと感じました。

一番のメインの道場となるのは、「おウチで俳句」というサイト。サイト名が示すように、いろいろあちこち行かなくても、家の中だけでも俳句の「タネ」は山ほど見つかるというコンセプト。そして、毎月、テーマが出され、それに対して投句するもの。

もう一つ、氏の本拠地、愛媛県松山市が運営する「俳句ポスト365」というサイトがあります。正岡子規をはじめ多くの俳人の出身地である松山市は、俳句に関しては大変力を入れていて、こちらは毎月のテーマに対して無料で投句ができ、うまくいけば氏の選評がつくかもしれません。

当面、この2つのサイトに、毎月4~5句くらいを投句していこうと決心しました。思いついた物をただ出せばいいというもんじゃないことはわかっているので、人に見てもらうからにはその何倍もの俳句を作って自選自捨しなければなりません。

それと、氏はYouTubeで自身のチャンネルを持っていて、俳句のさまざまな話題を提供してくれているのも大いに助かります。本で活字だけで勉強するより、目で見て耳で聴く勉強の方がはるかに効率的です。


実は、前に出した「夏の海」は、俳句ポスト365の7月のお題でした。結果がどうなるかは8月下旬のお楽しみ・・・で、早速、8月のお題に挑戦します。

何と使う季語は「原爆忌」です。原子爆弾が広島に投下されたのが昭和20年8月6日、そして長崎に投下されたのが8月9日です。それぞれを別々に「広島忌」、「長崎忌」と呼ぶこともありますが、なかなか重たい響きのある季語なので、特に戦争の実体験の無い自分としてはかなり困りました。

しかも、この季語の面倒なところは、広島に限れば晩夏の季語ですが、実は8月7日ごろが立秋なので、暦の上ではそこから秋。つまり、長崎忌は初秋の季語なんですね。歳時記によって、原爆忌を夏の季語として扱ったり、秋の季語として扱ったりと一定していません。

この季語から連想されることも、原子爆弾の怖さとか、戦争の悲惨さとか、平和を祈念するなど、誰でも考えることは同じで、類想・類句になりやすい。何とかオリジナリティを出そうとするには、やはり実際に見たものを材料にするのが一番です。

長崎は高校生の頃に一度行ったんですが、もう記憶に残る映像はほとんどありません。一方、広島なら何年か前に平和記念公園を訪れたので、この時の写真を眺め直しました。

原爆忌焼け煉瓦の間土伸びる

原爆ドームに残された焼けた赤煉瓦の壁は、年々少しずつ崩れているくので、そのたびに修復されひびを埋めるコンクリートの線が増えています。増えるたびに平和を訴えようとする人々の気持ちが、ずっと続いているんだなぁと感じました。「隙間」としたいところを「間」だけに省略し、「コンクリート」も長すぎるので「土」と言い換えたのですが、無理に字数を合わせた感は否めない。

で、これは却下して、最終的に投句したのは次の2句。

原爆忌手を止め未了の「黒い雨」

銀翼にフラッシュバック原爆忌

中学の夏休みの定番の宿題、読書感想文で選んだのが井伏鱒二の原爆小説の名作「黒い雨」だったんですが、その重苦しさに途中辞めになってしまい、いまだに完読していません。「」で囲むと作品のタイトルのような固有名詞を表現できます。

時々けっこう低空飛行の大型旅客機を見ることがありますが、おそらく被爆者の方々はそういう飛行機を見ると、B29爆撃機を思い出して恐怖を感じるのだろうと思います。飛行機の別名が「銀の翼」です。最初は、「思い起こすや」とかを使おうと思ったのですが、「フラッシュバック」は(日本語化した)英語ですけど、心的外傷(トラウマ)により突然記憶が蘇り恐怖を感じるという意味がまさにぴったりです。

2022年8月1日月曜日

俳句の勉強 14 自由律

繰り返しになりますが、俳句は上句5文字、中句7文字、下句5文字で構成され、その中に季語と呼ばれる季節を連想しやすい言葉と、言葉の間合いを取ったり詠嘆・強調する効果を持つ切れ字を含む短文詩です。

初心者は、まず基本としてこのような決まり事を守りながら作句することが推奨されていますが、慣れてくると応用技術として、「字余り」や「句またがり」といった方法を用いて、意図的に5-7-5のリズムを崩した「破調」の句でより深みを出したりすることがあります。

破調はあくまでも5-7-5の延長ですが、この基本の枠組みを取っ払い、季語すら必須にものとはせず、自由に心情を「語る」ものがあります。そのような俳句は自由律の俳句と呼ばれ、放浪の俳人、種田山頭火が特に知られています。

書家の相田みつおが書く文章は、しばしば俳句のような雰囲気を併せ持っていて、場合によっては自由律俳句と言えなくもありませんが、一般には散文詩と呼ばれます。

つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの 相田みつお

有名な詩ですが、あえて俳句として見立てると、季語無しで上七中六下七、「いいじゃないか」の「か」でキレがある3文字オーバーということになります。まさに自由律なんですが、読んだ時の受ける印象とリズムはあきらかに俳句のそれとはどこか違う。


では山頭火の代表作はどうでしょうか。まずは定型句から。

霧島は霧にかくれて赤とんぼ 種田山頭火

続いて、自由律。

夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ 種田山頭火

酔うてこほろぎと寝ていたよ 種田山頭火

どうしようもないわたしが歩いている 種田山頭火

定型句として作られたものは、それはそれで良句なんでしょうけど、それと比べて自由律の響きの面白さは格別です。制約は無いとは言っても、やはりどこかに俳句らしい「想像をかきたてる何か」が詰まっていて、散文とも川柳とも違う雰囲気があります。

これはどんな分野の芸術にも言えることだと思いますが、何らかの感動を他人に与える時、それなりの共通に認識できる方法論みたいなものがしだいに出来上がっていくものです。それによって、芸術を作る側としては提示するのに便利ですし、鑑賞する側も理解しやすくなります。

ところが、そのような仕組み(あるいは制約)が完成すると、それを窮屈に感じてそこからから解放され、もっと自由に表現したいと思う作り手が登場します。社会の中にも、保守と革新が存在するのと同じです。

ただし、基本となる原則を理解した上で、それを崩すから新たに感動する物を生み出せるわけで、最初からやってたらただの「がらくた」に過ぎません。山頭火もしっかり定型句の技術を学んだからこそ、自由律で評価されているのだと思います。