2021年8月31日火曜日

自宅居酒屋 #39 ラム・チョップ


今回も洋風居酒屋メニュー。

いっけん面倒に思うかもしれませんが、材料さえあれば、これも超簡単レシピ。

骨付きラム肉を見つけたら買って帰る。

塩コショウして、少し寝かせておきます。たいてい専用のスパイス入り塩コショウが付属しているので、これを使わない手はない。

あとは、オーブンで200゜で30分くらい火を通すだけ。

食べる。うまい。要ビール。以上。

2021年8月30日月曜日

アナイアレイション -全滅領域- (2018)

ナタリー・ポートマンの最新のSF主演映画がこれ。ナタリー・ポートマンはハーバード大学卒業の才媛で、身長160cmは欧米人に混ざると小柄でこどもっぽいイメージ。とはいっても、もう今年で40歳ということで、この映画でもかなり大人の女性になりました。


映画の原作はジェフ・ヴァンダミアが2014年に発表した小説「全滅領域」で、「サザン・リーチ」シリーズとなる3部作の1作目。企画段階では残りが出版されていなかったため、ある程度映画として独自の解釈をしてストーリーを完結しているようです。監督は2015年の「エクス・マキナ」で一躍注目されるようになったアレックス・ガーランド。

大学で生物学を教えるレナ(ナタリー・ポートマン)の夫ケインは、軍の秘密任務に就いて行方不明となって1年たっていました。ある日、いきなりケインが家に帰ってきますが、記憶はほとんど無い。ケインは、急に体調を悪くし救急車を呼んで搬送する途中で、二人は軍によってサザンリーチにある研究施設に強制的に連行されてしまいます。

心理学者のヴェントレス(ジェニファー・ジェイソン・リー)の説明によると、3年前に岬の灯台に何かの光が落ちてきて、以来次第に周辺地域にこのシマーと呼ばれるようになった不思議な光が拡大しているというのです。何度も送り込まれた調査隊は、誰一人として戻ってこず、最初の生還者がケインですが、今や多臓器不全で重体です。

ケインを救うにはシマーの中に行くしかないと考えたレナは、数日後に予定されているヴェントレスの女性だけの調査隊に参加を志願します。メンバーは、救急隊員のアニャ・ソレンセン(ジーナ・ロドリゲス)、物理学者のジョシー・ラデック(テッサ・トンプソン)、地形学者のキャシー・シェパード(ツヴァ・ノヴォトニー)です。

シマーの中に進んだ5人は、携帯した食料の減り具合から数日はたっているのに、寝て起きると昨夜までの記憶が思い出せないのでした。外界との通信手段は一切機能せず、コンパスも頼りになりません。

そして、奥に行くと、動物・植物の変異が強くなっていることがわかりました。シマーの拡大で廃棄された基地では前回の調査隊が残したビデオがあり、そこにはケインが別の隊員の腹部をナイフで割くと、中でうごめく物体が映っており、施設内でその隊員と思われる変異した遺体を発見します。

夜になって巨大な動物が襲ってきてシェパードが連れ去られ、先に進むと食い殺されたような変わり果てた姿を発見します。アニャは、レナのかけていたロケットの中にケインの写真を発見し、混乱して3人を縛り上げました。しかし、また熊のような動物が襲ってきてアニャは嚙み殺されます。ヴェントレスは自分がわからなくなる前に灯台にたどり着くと言って、暗いうちに一人で出ていきました。

翌朝、ジョシーは「ヴェントレスは事実を、あなたは戦いを求めている。私はどちらもいらない」と言って人間の姿の木に変容してしまいます。一人、灯台にたどり着いたレナは、「俺は誰だ」と言いながらケインが白リン弾で自害すると同時に、それを見守ったもう一人のケインが移っているろビデオを発見するのでした。奥にはヴェントレスが・・・


何で? どうして? の連続で、真実は最後までよくわからない映画。意図的に説明しないようにしているのかもしれませんが、わからないことだけで観終わってもスッキリした気分とはだいぶかけ離れています。これは、映画の中で、救出されたレナがいろいろと質問される映像が断片的に何度も出てくるのですが、レナの答えもほぼ「わからない」だけです。

ただ、間違いなさそうなことは、レナがシマーの中に行くのはケインを助けるためではなかったということ。危険が大きすぎるこの任務に参加したケインは、自己破壊を望んでいた・・・簡単に言えば、レナの浮気に気が付いて消えてしまうことを望んだということ。そしてレナは、そんなケインに対する贖罪の気持ちから志願したのだということです。

全編にわたり、幻想的な美しい背景であり、美しいオブジェが随所に見られ、特殊効果の凄さと美術担当の努力はひしひしと伝わってきます。批評家からの評判は悪くないのですが、一般向けしにくいと考えた制作したパラマウントは映画の配給権をNetflixに売却したといういわくつきで、確かに好き嫌いが分かれるところかなと思います。

2021年8月29日日曜日

V・フォー・ヴェンデッタ (2006)

突然ですが、英語で「ナイス・ガイ (nice guy)」とか言いますよね。ガイというのは、「奴」という意味で使われますが、これは16世紀のイギリスに実在したガイ・フォークスという人物が由来で、国王暗殺のための火薬陰謀事件と犯人の一人とされています。逮捕された11月5日は、今でも記念日としてガイ・フォークス・ナイトと呼ばれています。

この記念日の式典で18世紀から、ガイ・フォークスの顔を模した仮面が使われるようになり、現在でも社会的な抗議運動のシンボルとして知られています。特に、ハッカー集団アノニマスのメンバーが、顔を隠すためにしばしば使用しているのが有名です。

話は変わりますが、ナタリー・ポートマンと言えば、リュック・ベンソンの「レオン」でデヴューし、「ブラック・スワン(2010)」でアカデミー主演女優賞に輝きました。でも、一般に知られるようになったのは「スター・ウォーズ」のアミダラ役からで、意外とSF映画との相性は悪くない。というわけで、「スター・ウォーズ」の仕事が一段落して出演したのがこの映画。

もともとはDCコミックの成人向け作品が原作。タイトルは「Vは復讐のV」という意味。製作・脚本は「マトリックス」シリーズのウォシャウスキー兄弟で、監督は「マトリックス」で助監督だったジェームズ・マクティーグ。近未来のイギリス・・・ここも独裁的な政治により市民が抑圧されていて、自由と解放に立ち上がる人々のディストピア・ストーリーです。

第三次世界大戦の後アメリカを植民地としたイギリスは、国中に蔓延したウイルス感染症を撲滅したサトラーが独裁者として、自由を大きく制限した社会となっていました。夜間外出禁止令の中、国営放送局に勤めるイヴィ(ナタリー・ポートマン)は、デートのために外出したところを秘密警察に見つかりますが、ガイ・フォークスのマスクを付けた謎の男Vに助けられ、彼が裁判所を爆破するのを間近に目撃します。それは、まさに11月5日のことでした。

監視カメラの映像からフィンチ警視は、両親が収容所で亡くなっているイヴィの身元を割り出し放送局に向かいます。しかし、Vが爆薬を持ち込んで放送局を占拠し、犯行声明と共に、政府に対して異を唱えたいものは、来年の11月5日に国会議事堂に集まるように話す映像を流すのです。

イヴィは成り行きでVと行動を共にすることになってしまいます。Vは、政府にとっても重要な役目を担っているプロパガンダ番組に出演するプロセロ、英国国教会のリリアン司教、検視官のサリッジ医師らを次々に殺害していきます。

フィンチ警視は、サリッジの日記から、彼らが今では記録がほとんど削除された強制収容所の関係者であったこと、反体制運動をした人々は、収容所でウイルスについての人体実験によりことごとく死亡しVは唯一の生存者であること、かつてのウイルス蔓延と収束は、権力を掌握するためのサトラーの自作自演であったことを知ります。

過激化するVの元を去ったイヴィは、上司のディートリッヒに匿われますが、ディートリッヒがVに触発されて反サトラーの番組を作ったことで、公安のクリーディに粛清されました。その場から逃げたイヴィは逮捕され、「Vの居場所を言えば命は助ける」と言われ拷問されます。

イヴィは、独房の隙間に見つけた処刑された女性の自由を切望する手紙を拠り所に、耐え抜き最終的な質問にも「NO」と答えます。実はこの拷問を仕組んだのはVであり、イヴィを恐怖から解放することが目的でした。Vはクリーディを襲い、サトラーに信用されず捨てられるのが嫌ならサトラーの身柄を引き渡すよう脅迫します。

11月5日まで数週間に迫り、Vはガイ・フォークス・マスクを国中に送り付け、次第に混乱が始まりました。そして、マスクをつけていた少女を警察が射殺したことから暴動へ発展します。そして、前夜、再びVを訪ねたイヴィは、この後は君たち新しい世代に託すと国会議事堂への爆弾を搭載した地下鉄の発車を頼まれます。

サトラーを捕えたクリーディは、Vの目の前でサトラーを射殺し、Vも多数の銃弾を浴びますが反撃され倒されます。しかし、Vはイヴィのもとに戻ったところで力尽き、5日になった鐘と共に、イヴィは彼の遺体と爆弾を載せた地下鉄を発車させるのでした。

近未来というよりは、冷戦時代に本当に第三次世界大戦が起こっていた場合のパラレル・ワールドを描いたものという方が正しいかもしれません。ただし、最初に書いたガイ・フォークスの逸話を知らないと、映画の中では冒頭で知っている人はわかる程度に紹介されているだけなので、なんだかよくわからない状態になってしまうのは惜しい。

マトリックス組によるアクションも多少はありますが、どちらかというと全体主義的な強権政治に対する批判的なダーク・スリラーという風合いが強調されているようです。原作のコミックは、鉄の女、マーガレット・サッチャー時代に発表されています。

ナタリー・ポートマンは、拷問の前に丸刈りにされてしまうのを承知の上で出演を希望したらしい。それだけの覚悟を十分に伝えられる熱演だと思いますが、この後のウェス・アンダーソン監督の「ダージリン急行(2007)」で超短髪の理由がわかりました。

仮面の男Vは、最初から最後まで素顔は見せません。よくぞ、こんな役を引き受けた俳優がいるもんだと思いますが、演じたのは「マトリックス」のエージェント・スミス役のヒューゴ・ウィーヴィングとわっかって納得。実は最初、別の俳優で撮影が始まったのですが、ストレスで降板しちゃったらしい。それでも、一切表情が無い仮面なのに、演技になっているところは感心します。

最後でラスボスのはずのサトラーがいとも簡単に、しかもV以外の人物に殺されるのは、ちょっと肩透かし気味な感じですが、それなりにまとめきった内容で、まぁまぁ楽しめました。

2021年8月28日土曜日

トロン・レガシー (2010)

元祖「トロン」から28年、何とその続編が制作されたました。このため1982年の第1作は「トロン・オリジナル」との別名で呼ばれるようになりました。

監督はジョセフ・コシンスキー。この後「オブビリオン」を監督し、さらに今年は「トップ・ガン」の続編「マーヴェリック」が控えています。

前作でエンコム社のトップについたフリン(ジェフ・ブリッジス)と盟友アラン(ブルース・ボックスライトナー)。さらに会社を大きくしたにもかかわらず、フリンは7年後、息子のサムを残して謎の失踪をします。

さらに20年が経って、アランは、サム(ギャレット・ヘドランド)にフリンからメッセージが来たと伝え、かつてフリンが経営していたゲーム・センターの鍵を渡しました。サムはゲームセンターで、フリンの研究設備を発見し、システムを起動します。その結果、デジタル化レーザーによってサムはコンピュータの世界「グリッド」に移動してしまうのでした。

ただちにサムははぐれプログラム狩りにより捕獲され、戦闘ゲームをさせられます。何とかしのいだサムは、グリッドのリーダー、まるで若かったころのフリンにそっくりなクルーのもとに連れ出されます。クルーは自らサムを処刑するためグリッド・ゲームを行いますが、突然現れたクオラ(オリヴィア・ワイルド)に助けられます。

クオラはサムを、クルーから身を隠している本物のフリンのもとに連れていきます。フリンは、グリッドの世界に頻繁に入り込んで、この世界を完璧な物にするためにクルーというプログラムを書いたのです。そこへ自然発生したのがアイソと呼プログラムで、フリンはアイソこそが世界を変えるものと考えますが、クルーは不完全と判断しアイソを虐殺しフリンすら排除しようとしたのです。

クオラはフリンに助けられた最後のアイソでした。サムとフリン、そしてクオラは何とか現世界へのポータルから脱出を図ろうとしますが、クルーがその前に立ちふさがります。フリンは自らクルーを抑え込み消滅し、サムとクオラをポータルに送り込みます。現実世界に戻ったサムはバイクにクオラを乗せて、まだ見たことが無い日の出を見せるのでした。

・・・ってな話で、前作と比べて格段とCG技術が進歩したことはよくわかる仕上がりです。ストーリーとしても悪くはないとは思います・・・が、正直、プログラムにあまりに人格が形成されすぎているところがややピンとこない。

CGも壮大なグリッドの世界の景色などを見せてくれて、それはそれで壮観ですけど、かえってデジタルの世界という観点からは何か別物という印象です。コンピュータの中の0か1のデジタルの世界は、安っぽいかもしれませんが前作の方がしっくりきました。

だいいち、プログラムであるクオラが現実世界にやってきて、そのまま人間の姿というのはどうなのという感じもしますし、突っ込み所は山ほどあります。どこかの異次元の世界に飛ばされてしまったという話なら、違和感はあまりない。

若いジェフ・ブリッジスであるクルーは、顔は完全CGのはめ込みだそうですが、よくぞここまでできるもんだと感心します。ただし、逆に言えば、そこまで嘘を真実らしく見せられると、やはり何でもありみたいなもので、もう俳優さんそのものが不要かと思ってしまう。CG技術は、さりげなく使ってくれた方が映画としての面白みがあると思うのは古い人間だということでしょうかね。

2021年8月27日金曜日

トロン (1982)

公開当時・・・って、もう40年前ですか。う~ん、時が経つのは恐ろしい。リアルタイムには、なんだかずいぶんとぶっ飛んだ世界の話だなと思っただけで、ちょっと変わったSF映画の一つくらいの印象でした。

何故かというと、まだ身近にコンピュータがなかったから。何しろNECのパソコンPC-8000で、一般人でもコンピュータなるものをいじるようになったのは、この映画の数年後からです。作ったのがミッキーのディズニー、監督はスティーブン・リズバーカーという人で、映画界的には「トロン」関連の仕事だけしている。

当時最も話題になったのは、世界初のCGを映画に持ち込んだということ。とは言っても、96分間の映画のうち降るCGは15分程度で、後は基本的にアニメーションです。アニメーションでも、CGよりも当然手間はかかったでしょうけど、出来栄えは今のCGとほとんど変わりません。

そういうトピックを度外視しても、バーチャル・リアリティの先駆的な作品ですし、コンピュータに支配される一種のディストピアを描いている点では、かなり時代を先取りした先見の明がある内容の映画といえそうです。

エンコム社の筆頭重役デリンジャー(デビッド・ワーナー)は、自身が作ったオペレーティング・システムであるMCP(マスター・コントロール・プログラム)によって、様々な会社のデータを不正ハッキングして取得し、どんどん地位を強固にしていました。

フリン(ジェフ・ブリッジス)は、エンコムの優秀なプログラマーで、爆発的ヒットになりエンコムが大きくなるきっかけとなったゲームをプログラムしたのですがデリンジャーに盗まれ、今や場末のゲーム・センターを経営しつつ、何とかデリンジャーの不正の証拠をつかもうとエンコムにハッキングを繰り返しています。

MCPの世界では、不要になったプログラムやハッキングしてきて捕獲したプログラムを消去するだけでなく、闘牛のように戦わせて見せしめにするゲームが行われているのです。情報量が肥大化して増長したMCPはしだいに、デリンジャーすら言うとおりにしないと数々の不正を暴くと脅迫するようになっていました。

現役のプログラマーのアラン(ブルース・ボックスライトナー)は、MCPを含む多くのコンピュータを監視して不正を摘発するトロンと呼ぶプログラムを作っていました。アランと研究員であり、ガールフレンドのローラ(シンディ・モーガン)は、フリンと共にMCPの不正を発見することにします。

外部からでは無理なので、フリンは二人の協力によって社内からMCPにアクセスします。あわてたMCPは、研究中の物質を分子レベルでデジタル化するレーザーを起動し、フリンをMCPの内部データとして取り込んでしまうのでした。

戦闘ゲームでアランの作ったトロンと出会ったフリンは協力して、MCPに戦いを挑みます。トロンは、外界のアランと交信し、MCP破壊プログラムを受け取ります。MCPの中枢に何とかたどりついて、ついにMCPを破壊することに成功します。フリンのデジタル・データはアナログに復元され、デリンジャーの不正の証拠も取得したフリンは新たなエンコムの経営者になりました。

かなり、簡素化した線と面の世界は、アニメーションでも、CGでもあまり差がわかりません。もっともそれが本来のデジタルの世界ですから、このシンプルさはいかにもコンピューターの中という感じがします。すでにバグという概念も含まれていることには驚きます。

主演のジェフ・ブリッジスは、クリント・イーストウッドの「サンダーボルト(1974)」で、イーストウッドのやんちゃな弟分として日本で知られるようになった人。この映画の前に話題作の「天国の門(1980)」に出演しましたが、あと一歩活躍しきれない感じ。ここでも、ブリッジスが演じているのはタイトルのトロンではありません。

まぁ、40年前ということを考えれば、それなりによくできた映画で、新たなSF映画の土台の先駆者として一定の評価はされるべき作品だと思いました。

2021年8月26日木曜日

自宅居酒屋 #38 トマトのカプレーゼ


今回は洋風居酒屋。

これも食材さえあれば簡単。

カプレーゼはイタリア南部、カプリ島のサラダという意味で、正式にはインサラータ・カプレーゼと言います。

美味しそうなトマトとモッツェレラ・チーズを見つけたら、薄くスライスして並べるだけです。

ドレッシングは、オリーブオイルに塩と胡椒、レモン汁(無ければお酢)、できればバジル・ペーストなどなど・・・

上にバジルの葉をみじん切りにしてパラパラとすれば雰囲気は完璧。今回はオニオン・スライスを下敷きにしています。

ワインのお供にどうぞ。


2021年8月25日水曜日

鏡 (1975)

すでに諸外国からも認められる存在になった、旧ソビエト連邦のアンドレイ・タルコフスキー監督の5作目であり、自伝的な内容は過去と現代を自由に行き来することで難解さを増したものになっています。

ネット社会の今日でも旧ソビエト連邦にいた時間が長いタルコフスキーの情報は多いとは言えません。また、いくつかの評論は、タルコフスキーの画一化した年譜を紹介するだけで、タルコフスキ個人的な紹介はほとんど見つけられません。

できるだけ先入観なしに鑑賞したいものですが、この映画ではタルコフスキーの生い立ちと強い関連性があるといわれている・・・にもかかわらず、その生い立ちについの議論がされず、それを確かめる情報もごく限られたものしかないのは不思議です。

父親であるウクライナで有名な詩人、アルセニー・タルコフスキーと、母親であるマリヤ・イワーノブナ・ヴィシュニャコーヴァの子として1932年4月4日にアンドレイは生まれました。両親とも文学大学の出身です。父親のアルセニーは、アンドレイの幼少期(3歳頃)に家を出てしまったため、印刷工場に勤める母親の手によって育てられ、作曲家に成りたいと思う少年でした。

生まれ育った場所は、ヴォルガ川流域のザブラジェと呼ばれる町、育ったのはモスクワ川流域のイグナーチェヴォ村となっていますが、ロシアは地名がしばしば変わりますしよくわからない。モスクワの東北約400km弱、ヴォルガ川岸のユリエヴェツの川をはさんだ対岸にあるザブラジエという小さな町が見つかりますが、Google Mapで確認してみると、高そうな建物は教会くらいで、民家はまばらで畑に囲まれた農村という趣です。

映画大学の仲間であったイルマ・タルコフスカヤと結婚し、1964年にラリサ・キジロワと再婚しています。ラリサは女優として、後期作品の助監督としてタルコフスキーの映画を支えました。

映画の冒頭は、吃音症の青年が女医の治療を受けているシーンから始まります。女医は精神的な緊張を別のことに移したあと、「僕は話せます、と言って」というと、青年はすらすらと「僕は話せます」と話したとたんに、黒地にシンプルな白い文字でタイトル(鏡)が示されます。

のどかの田園風景の中、煙草を吸いながら木の柵に腰掛けた女。主人公アレクセイのナレーションがかぶさってきて、やって来るのは父親くらい・・・だか、父はもう戻らない、と語ります。遠くから近づいてきた男は医者(タルコフスキーの映画ではお馴染みになったアナトーリー・ソロニーツィン)だと言い道を尋ね、「木は動かない。人が動き回るのは自然を信じていないからだ」と語り去っていきますが、突然強い風が吹き、周囲全体の草が大きく揺れ、タルコフスキー自身による父アレクセイの詩が朗読されます。

納屋から激しい炎があがり、鏡にふたりのこどもがそれを見ているところが映っています。女はたらいで髪の毛を洗い垂れた髪の毛が揺れる(まるで貞子!)、髪の毛を拭いていると部屋中に水が滴り落ちて空間が崩れていきます。髪の毛を拭いていた女はいつの間にか老女になっています。ここまで約20分間は、おそらくアレクセイの回想、または夢であり、女はアレクセイ(監督自身の投影)の母親。

母親マリヤからの電話でアレクセイは目を覚まします。アレクセイは、父が出ていった年、納屋が燃えた年を聞きます。母親の用件は、印刷所で一緒だったリーザが今朝亡くなったという知らせでした。ここから印刷所でのマリヤとリーザの仕事が回想され、リーザはマリヤにドフトエフスキーの「悪霊」の登場人物のように夫やこどもを支配しようとして不幸にしたと言われます。再びアレクセイの詩が朗読されます。

離婚した妻ナタリアとの会話。若い頃のマリヤとナタリアを一人二役で演じるのはマルガリータ・テレホワ。君は母に似ているというアレクセイに対して、ナタリアは、「だから別れたのね。息子のイグナートはあなたに似て怖いわ。お母さんと和解しなさい」と言い、スペイン内戦のニュース映画映像が挿入されます。

ここからはイグナートとアレクセイの少年時代が交錯する映像が続きます。二人を演じるのもイグナート・ダニルツェフ一人なのでややこしい。ニュース映像は、ナチスの終焉、原子爆弾投下、中国文化大革命などが続きます。

アレクセイはイグナートに「父さんと暮らそう」と言ってみますが、必要ないと断られてしまいます。戦争中はマリヤとアレクセイは、モスクワから以前の田舎の家に疎開しました。隣家を訪れたマリヤは、生活費のためイヤリングを買ってもらいますが、お礼にあげる鶏の首を自分ではねてと頼まれますが気分が悪くなります。

聞こえてくるのはバッハのヨハネ受難曲の冒頭コーラス。「主よ」を繰り返す中で、若かったころの両親がこれから作るこどもは男がいいか、女がいいかと話している。次にまだこどものアレクセイと妹を、年老いた母が手を引いて歩いていくのでした。

全編にわたって、カラーだったり白黒だったりが混在し、説明がないままにいろいろな人物が登場します。また、母と妻、小児期の自分と今の自分のこどもを同じ役者が演じ、どこが現代でどこが過去なのかとてもわかりにくい。明確なストーリーは無いので、あらすじを書くことすら困難です。

大人になったアレクセイは、この映画の中でセリフとしての声は何度も登場しますが、その姿は一度も現さない。一方のこどものアレクセイとアレクセイの息子イグナートは、セリフはほとんどなくひたすら母親を見つめるような視線を画面にのこしています。

しかし、一つ一つのシーンが絵画のように美しく、ニュース映像の挿入により、ロシアの詩的な美しさと揺れ動いた現代史が、この映画の中に封じ込められていることがわかります。こどもを守りたいだけの母親は、裏を返すと束縛につながる。それを嫌った息子は、母親と疎遠になりますが、自分もまた父親と同じように妻とこどもを置き去りにしてしまいました。

タルコフスキーの映画の特徴は、水・土・火・空気という4つの要素の映像化にあるということが言われています。この映画は、まさにそれらをタルコフスキーの記憶の断片を元に完璧なまでに視覚化してみせたものなんだろうと感じます。難しく考えだせばキリが無いし、またその答えも見つけられない作品です。ただし、そこにタルコフスキー映画の本質があるのだとすれば、見る者にとって踏み絵のような作品なのかもしれません。

 

2021年8月24日火曜日

惑星ソラリス (1972)

SF映画のBEST3を選べと言われたら、もちろん主観的な好みの問題ですからいろいろな意見はあってもいいわけですが、「2001年宇宙の旅」、「ブレード・ランナー」を外す人はほとんどいない。そして3番目に何を選ぶかは意見が分かれるところですが、「惑星ソラリス」は有力候補の一つです。

旧ソビエト連邦の国営映画制作会社であったモス・フィルムは、第二次世界大戦前から連邦が崩壊する1991年まで、連邦政府の厳しい検閲のもとに映画作りが行われていたと言われています。スタジオから製作開始許可が下りるのに最初の苦労があり、始まってもいつでも作業経過はチェックされていました。映画が完成しても、最終的に国家映画委員会による検閲が待っています。

アンドレイ・タルコフスキー監督にとっても、自身の映画作りは検閲との闘いであったことは容易に想像できます。特に第3作目となった「アンドレイ・ルブリョフ」では、宗教的テーマであったため1967年完成にもかかわらず、検閲に通るようにシーンを削除した版が一般に公開されたのは1971年でした。

つまり、この間タルコフスキーは仕事をさせてもらえなかったということ。そして「アンドレイ・ルブリョフ」の公開が許可されると同時に、満を持して取りかかったのが「惑星ソラリス」でした。

ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの1961年の小説「ソラリス(ソラリスの陽のもとに)」を原作としていますが、映画独自の解釈が目立つ内容にタルコフスキーと原作者とレムが罵り合いの喧嘩をしたというのは有名。それでも1972年のカンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞により、タルコフスキーの名前を世界中に知らしめる記念碑的な作品となりました。

ただの小川であり、ただの水草がたなびているだけ。ただの川岸の雑草にもかかわらず、いきなり最初に見せられる光景の美しさはいったい何だろう。霧が漂うその場所にたたずむのは、鮮やかな青いジャケットを着た心理学者クリス・ケルヴィン(ドナタス・バニオニス)です。急な雷鳴と雨の中、クリスは濡れるにまかせていました。

かつて惑星ソラリスの調査隊の行方不明者を捜索に向かったバートン飛行士は、クリスに彼の委員会での報告ビデオを見せます。バートンはソラリスの海が沸き立ち、粘着質の霧が機体を包み、海には赤ん坊が裸で立っていたという話をしますが、委員会は信用せず幻覚だと決めつけてしまいます。

クリスは明朝、ソラリスに向けて出発することになっていたのです。彼は、ソラリス研究の終了の可否を決定する任務のため、非道徳的であってもソラリスの海に放射線を浴びせるぐらいの思い切った変化を起こさないと意味が無いと考えている。バートンは目撃した赤ん坊が、行方不明者の生まれたばかりのこどもに似ていたことを伝えます。

惑星ソラリスは、その表面のほとんどが海に覆われており、海そのものが特殊な頭脳であり、惑星全体が生命体と考えられていました。現在、ソラリスの軌道上にある宇宙ステーションにいるのは、生物学者サルトリウス、電子工学の専門家スナウト、生理学者ギバリャンの三人。クリスは到着するなり、散乱したステーション内に不信を抱き、スナウトからギバリャンは錯乱して自殺し、サルトリウスは実験室に閉じこもったきりだと聞かされます。

ギバリャンが自殺前に残したビデオ・メッセージには女性が一緒に映っており、サルトリウスの部屋にもこどものような誰かがいます。そして、クリスにも、いつのまにか部屋の中に、自殺した妻ハリー(ナタリア・ボンダルチュク)が現れました。混乱したクリスは、ハリーを探査用宇宙船に乗せて射出します。

ところが、いつのまにか再びハリーはそばにいて、クリスも存在を受け入れてしまうのでした。スタウトは、これらの現象は海に大量の放射線を放射してから始まり、ソラリスの海は我々の記憶の一部を物質化するのだと説明します。サルトリウスはニュートリノを安定化させて実像化していると考えていました。

記憶の断片から形成されたハリーは、自らの記憶は曖昧です。クリスの良心から生まれた自分が本物のハリーでは無いことを知っていて、彼女のことを教えてほしいといいます。クリスは、喧嘩して家を飛び出したこと、戻ったらハリーは毒を飲んで死んでいたことを話します。

ハリーは発作的に液体酸素を飲んで、凍って死んでしまう。しかし、スナウトがもうじき生き返ると言う通り、蘇生したハリーにクリスは、科学を捨ててここで一緒に暮らそうと言います。体調を崩したクリスは何人ものハリーや母親の幻覚みるのですが、気が付くとハリーはいない。

ハリーの希望で、スナウトがクリスの脳波を海に送ったためクリスの苦しみを理解した海がハリーを消したのでした。ソラリスの海には島ができていて、クリスは島にある実家に戻り、父親に許しを請うのでした。

確かにSF映画と言える、宇宙での不思議な現象についての話なんですが、ステーションのセットを除くと、衣装も含めて未来的な部分はほとんどありません。もっとも、バートンが自分の過去から現在までの時の経過を示す都会の中の高速道路を走り続ける長いシーンは、当時としては十分に未来的だったかもしれません。実は、これは日本の首都高速で撮影されたもので、タルコフスキーもご満悦だったらしい。

登場人物は少なくて、中心となるのは地上では両親、バートン、そして宇宙ステーションではクリス、ハリー、スナウト、サルトリウスの4人だけ。サルトリウスは「アンドレイ・ルブリョフ」で主役を張ったアナトリー・ソロニーツィンが演じています。

彼らの中での会話劇というには、あまりに少ない台詞によってこの不思議なストーリーが進行します。しかし、考えてみれば、通常の生活でいちいち物事を説明しながら会話することはないし、ましてや家族の間では暗黙の了解は山ほどあります。

タルコフスキーは、そこをいろいろなイメージによって見る者の想像力をかきたてるわけで、そのための道具として「水」、「鏡」、「土」、「空気(浮遊)」などをいたるところで使っているようです。また、夢やビデオを利用して過去と現在を行き来したり、長回しのシーンの多用による視覚的な連続性なども我々が考える時間を与えてくれる効果があるかもしれません。

しばしば、西側の「2001年宇宙の旅(1968)」に対する東側からの返答という評価を見受けますが、確かにSF映画を作る以上はそれ以上に物を作れと言う上からのプレッシャーはあったかもしれない。観客の無限の思考力を試される点では共通点を見出せますが、根底にあるテーマは違います。「2001年」が科学の先にある人間性を描いているとするなら、「ソラリス」は科学のもとでの人間性に焦点を当てているようです。

もともと科学のもとでは客観論者であったクリスは、「自分が自殺に追いやった」と信じているハリーの出現により、ハリーを出現させた自分の良心、つまり隠していた贖罪の心を認めます。ハリーもそういうクリスを、人間的と認めるようになり、自分の存在がクリスを苦しめていることを自覚し自ら消滅する道を選ぶのです。

そして、ただの美しい光景と思っていたクリスの実家は、ラストで美しいソラリスの海に浮かぶ島の一つにすぎなかったことに衝撃を受けるとともに、何故かは説明できませんがそのことを素直に受け入れてしまえる流れを作ったところは、タルコフスキーの映画作家としての力量の凄さなんだろうと思います。

2021年8月23日月曜日

横浜市の市長は誰だ!?


昨日、8月22日は横浜市長選挙の投票日でした。朝、近くの地区センターの投票所に行って、投票をすませました。

今回の選挙は珍しく(!!)争点がありました。新型コロナ問題は当然のことながら、やはりカジノを含む統合リゾート施設建設(IR)問題が一番関心を集めたポイントであることは間違いありません。

現職の林文子氏は、前回選挙においてはIR問題には積極的な姿勢を示していなかった(ので投票しました)にもかかわらず、かなり強気でIR誘致を推進する動きを見せていました。であれば、横浜市民全体に今一度信を問う必要がある。

問題はIR反対を旗頭にした立候補者たちですが、市長選挙としては立候補者が多すぎて、しかもある程度の実績を持つ方も数人いることから、票割れによる再選挙の可能性も指摘されていました。

ところが、午後8時に投票が締め切られると、速攻で山中氏の当選確実が報道されてびっくりです。最終結果は午前1時29分で確定し公表されています。

山中 竹春(48) 506,392
小此木八郎(56) 325,947
林 文子 (75) 196,926
田中 康夫(65) 194,713
松沢 成文(63) 162,206
福田 峰之(57)  62,455
太田 正孝(75)  39,802
坪倉 良和(70)  19,113

全150万票のうち1/3を山中氏が獲得し当選を決定しました。IR反対を早くから表明したこと、医師であることからコロナ渦に対する効果的な対策を期待する部分が大きかったのだろうと考えますが、政治家としてはまったくの素人ですから、私たち横浜市民としては大きなリスクも同時に背負う覚悟が必要かもしれません。

IR賛成派は林氏と福田氏の二人で、合わせて25万票。思ったよりも賛成する人は少ない。市議会もこの結果を無視してIR誘致を推進することは難しいと思います。

思ったより票を伸ばせなかったのは、菅首相自ら応援した小此木氏。何しろ菅首相の地元を含む選挙で、これだけ差を付けられて敗れるということは、国政与党のショックも大きいでしょぅ。やはり、IR推進の菅首相のもとから急に反対をうたって立候補したことは、市民から疑いの眼で見られて当然で、事前に反対活動の実績がまったくなかったのは致命的。

得票率は50%ほどになったので、昨今の選挙としては注目度が高かった方だといえそうです。ただ、やはりネット社会での投票の仕組みをきちんと整備してもらいたいという気持ちは残ります。もっと投票率を上げて、多くの意見が反映できることが理想。もっとも、大きな政党ほど、支持政党が無い人々の票が増えると困るんでしょうね。

2021年8月22日日曜日

ゴースト・イン・ザ・シェル (2017)

スカヨハついでと言ったら失礼ですが、もう一つ北野武主演、桃井かおり助演のSF作を見ちゃいました・・・というのは冗談で、マニアが大好きな日本のSFマンガ、「攻殻機動隊」をハリウッドが実写化した話題作。監督は「スノーホワイト」のルパート・サンダース。

士郎正宗の1989年のマンガが元で、1995年に押井守がアニメ映画化したものが大ヒットして、一気に国内外に知名度を広げました。正直に言うと、この原作マンガも押井守の映画もまったく見たことがありません。なんですが、「攻殻機動隊」のファンにはこのハリウッド実写版は違和感があって、いろいろと突っ込み所があるらしい。そういうところで、元を知らないので、日本調を取り入れたSFサイバー・パンク・アクション映画として見ることができると言うものです。

電脳社会が高度に発達した近未来。人は体のほとんどをロボット=義体にして、あらゆるネットワークでつながっています。サイバー・テロ犯罪を取り締まる公安9課は、荒巻(北野武)をトップに、脳以外はすべてロボットの少佐(スカーレット・ヨハンソン)を中心に活動していました。少佐の義体化は、ロボット技術を推進するハンカ社で、オウレイ博士(ジュリエット・ビノシュ)のもとで行われたのです。

ハンカ社と組んだら破滅だと言う謎の男、クゼは2571計画の極秘情報を求めてハンカ社の研究員を次から次へと襲います。公安9課はクゼを追い、少佐はついにクゼを発見しますが、逆に2571計画で失敗作として捨てられたのが自分で、少佐は最初の成功例として彼らに都合の良い偽物の記憶を刷り込まれていると教えられます。

少佐はハンカ社に捕獲され、余計な知恵をつけたとして重役のカッターによって廃棄されそうになる。しかし、オウレイ博士は、少佐の本当の記憶を渡し逃がします。本当の記憶に従って、少佐はスラムのアパートで独り暮らしのハイリ(桃井かおり)に会います。

ハイリの娘、素子はこの電脳化した社会を嫌い仲間と逃げましたが、ある日役人が素子の遺灰を届けに来たと話します。ハイリは少佐に、「見つめる目が素子に似ている。あなたは誰?」と聞くのでした。

廃墟にやって来た少佐は、恋人のヒデオと共にハンカ社の実験用人間狩りにあったことを思い出します。そこへ、クゼ・・・ヒデオが現れ、「素子、一緒に戦おう」と言うのですが、カッターの操る多脚戦車はすぐそこに迫っていました!!

という話なんですが、北野武が話すのは日本語。桃井さんは英語です。北野武は、どう見てもアウトレージになっちゃう。どうせハリウッド版なんだから、そこはこだわらずにアメリカ人の俳優でよかったんじゃないかと思ってしまう。

桃井さんは少佐の自分探しの鍵となる重要な役回りで、それなりにいいんですけど、やっぱり娘がスカヨハじゃどうもピンと来ない。このあたりは、原作へのリスペクトと割り切るしかないようです。

スカーレット・ヨハンセンは、白い攻殻スーツを着ていると、遠目には全裸っぽくてエロいのですが、それほどナイスバディじゃないので(ゴメン!)かえって太って見えてしまうのがもったいない。黒い防弾アーマーを着ている方がスタイリッシュかもしれません。

全編に渡ってCGてんこ盛りなので、俳優がワイヤー・アクションで体を張ってアクションをしても、どうせ作り物みたいな感じがしてしまいます。特殊撮影は本来気が付かないくらいに使われているから効果的なんですが、CGの時代になってどんどん見せるようになって嘘が嘘を重ねているようなところがあります。

というわけで、原作によいしょしないで、まったくアメリカナイズした話に作り替えてたらもう少し評価が上がったかもしれないですね。

2021年8月21日土曜日

アンダー・ザ・スキン 種の捕食 (2013)

弦楽器の神経質な不協和音が響くなか、遠くに見える小さな光にゆっくりと近づいているのか、それとも光が大きくなっているのか、なんて思っていると急激に強い光に変わる。ドーナッツ状の物体が現れ、何かが中心の穴に接続していくと、意味のない断続的な女性の声がしてきます。円形の物はさらに眼球の虹彩に変化し、タイトルの「UNDER THE SKIN」がシンプルに表示されます。この冒頭のシークエンスだけでも、不思議感満載です。

一転して、夜。川沿いの道をバイクの光が動いています。バイクは停まっている白いバンのところで停車し、ライダーは川の土手を降りていったかと思うと、女性の死体を担いで戻ってきて、バンの中に放り込む。バンの中は真っ白な空間で、裸の女(スカーレット・ヨハンセン)が、死体から服を脱がせて身につけます。

女はバンを走らせ、、何人か通りがかりの男性に道を尋ねます。一人住まいの自営の男を見つけると声をかけ廃屋に連れ込みます。その中は真っ黒な闇に包まれた空間。服を脱ぎながら進む女を、男が服を脱ぎながらゆっくり追うと、男はしだいに黒い床の中に沈み込んで消えていきました。

女は海岸で海から上がってきたキャンプをしているという男に声をかけますが、ちょうどその時溺れている夫婦がいて男は助けに行きますが、彼も溺れてしまいます。女は倒れている男を石で殴りつけバンに引きづりこむ。バイクのライダーが男のキャンプ道具を片付けます。

クラブに現れた女は、一人きりだという男を誘う。この男もまた黒い闇に沈んでいく。闇の中に浮かぶ男の前方には海にいた男が漂っています。海にいた男は、急激に中身が吸い出されたようにしぼみ皮だけになってしまい、赤い液体状のものが流れ去っていきました。

ライダーが現れ、女の周囲を回って何かを入念にチェックして去っていきます。次に女が声をかけたのは、腫瘍で顔が変形している男でした。女性と付き合ったことが無いという男もまた黒い闇に沈んでいくのですが、その後、女は鏡に写っている自分を見つめる。そして沈んだはずの男は裸のまま廃屋の外に出ていくのです。しかし、ライダーがやってきて男を回収していきます。

霧の深い山道でバンを捨てた女はレストランでケーキを注文しますが、吐き出してしまいます。逆に、バス停で男に声をかけられ男の家に泊めてもらい、女は姿見の鏡に写る自分の裸体をしげしげと眺めます。そして4人になったライダーは、様々な方向に走り去っていく。女は男とベッドを共にするが、途中で飛び起きて自分の股間を確認するのです。

森林を彷徨う女に作業員の男が声をかけます。男は女を追いかけてきて捕まえ強引に服を脱がそうとする。しかし争っているうちに、女の肌が服のようにはがれて男は愕然として逃げ出します。女はウエットスーツを脱ぐように敗れた皮膚を脱ぐ、下から真っ黒な皮膚が現れます。戻ってきた男はガソリンをかけ火をつけ、女は燃え尽きます。

・・・というわけで、超異色のSFスリラーで、この年の話題をかなりさらったのは、スカーレット・ヨハンソンのヌード・シーンがあるから・・・だけではありません。監督はジョナサン・グレイザーで、2004年にはニコール・キッドマンを起用した「記憶の棘」という話題作を作った、主としてPVやCMの仕事をしている人。

ミッシェル・フェイバーという人が書いた原作小説があるので、エイリアンが人間を食用に捕獲している話だとわかりますが、映画では台詞らしい台詞は皆無なので、男を誘うヨハンセンと沈んでいく男をひたすらスタイリッシュな映像で見せられるだけ。とはいえ、毎回少しずつ趣向を変えてくるので、なかなか興味深く見続けることができます。

しかし、しだいに女は人間に対する情のようなものが芽生えてくるところが、この映画のすべてと言ってもよさそうです。ライダーは女の仲間であり、仕事をする環境を整え、ちゃんと捕獲しているかの監視役です。ライダー役は、イギリスでは有名なプロのライダーの方で俳優ではありません。同情という感情が芽生えるきっかけとなる顔の変形した男は、実際に病気がある人でメイクではありません。

その他の街中のシーンなども、演技ではなくドキュメンタリー的な撮影による物らしく、現実感を膨らませる役割をしています。音楽もほとんど無く、聞こえてもひたすら不協和感だけというのもなかなか思い切ったことをする監督です。

ヨハンセンのヌードが目的、あるいは「伏線の回収」と称してやたらと説明を求める方にはおそらく退屈な映画です。しかし、映画にイマジネーションの余地を残すことに期待するむきには平均点以上の出来となったのかもしれません。

ちなみに日本語版は高価なので、安いアメリカ版で視聴しました。会話はスコットランド訛りの強いもので、ほぼヒアリングできませんでしたけど、本当に大した台詞はないのでこれでも十分という感じです。

2021年8月20日金曜日

調子づく

カントリーマウムのチョコまみれ・・・どうも地味にヒットしたらしい。

不二家さんのお菓子。

それじゃ、ってんで、もう一つの不二家の代表的なお菓子であるホームパイもチョコだらけにしてしまいました。

でも、気が付いたら、このシリーズ・・・増殖していた。


もう、こうなると、いちいち紹介する気にならない。

どれでも気になるものをどうぞ。どれをとっても・・・カロリー高いぞぉ~

2021年8月19日木曜日

アンドレイ・ルブリョフ (1967)

アンドレイ・ルブリョフは、ロシアの著名なイコン画家です。と言っても、相当美術史に造詣が無いとわからない。イコンとは、聖書に出てくる人物や出来事のこと。ルブリョフは14世紀後半から15世紀初頭の人物とされ、ロシア正教会の修道士であり、現在は聖人として扱われています。

アンドレイ・タルコフスキーがこのイコン画家の生涯に着目して映画が完成したのは1966年ですが、当初の予算も途中で大幅に削減されたとはいえ、約3時間25分の大作でした。そこからモス・フィルム(国営)のスタジオ審査があり、続いてソビエト連邦国家による検閲により、非愛国的として多くのダメ出しがなされました。

そのため国内よりも海外で先に高い評価を受け、1969年のカンヌ映画祭で国際映画批評家賞を受賞。タルコフスキーは検閲の要請に屈し、1971年にやっと編集し直された186分版として国内で公開が許可されました。

10世紀の末にキリスト教(東方正教会)を国教と定め、ルブリョフが生きた時代のロシアは、東側のモンゴル(チンギス・ハンのこどもの時代)との間で政治的な軋轢があり、しだいにロシア帝国の前身ともいえるモスクワ大公国を形成していった時代。当然、ルブリョフについて詳細な記録が残されているわけではありません。映画は時系列に沿って細かい副題がついて分割されています。前2作と違って、ストーリーは抽象的で難解です。

第1部 プロローグ
熱気球を準備した男が、聖堂の上から空に飛び立つ。地表に見える人々を俯瞰しつつ、気球は上下してついに墜落する。その傍らで、一頭の馬が横に倒れ起き上がり去っていく。

旅芸人 1400年
アンドレイ・ルブリョフ(アナトリー・ソロニーツィン)、ダニール、キリールの3人の修道僧はイコン画家としてモスクワに向かっていました。途中、雨宿りのため通りがかりの小屋に入ると、男が貴族を笑い者にする歌と踊りを披露していました。そこへ兵士たちがやってきて男は連れ去られます。

フェオファン・グレク 1405年
3人はモスクワでの生活を始め、キリールは有名なイコン画家フェオファン・グレクの仕事場を訪れる。フェオファンはルブリョフの仲間だと知って、評判が伝わっていると言いますが、キリールは「絵はうまいが恐れの念が足りない。信仰が浅い」と話します。

キリールは助手に誘われますが、滞在している修道院に迎えに来て直接名前を指名すれば承諾すると言います。しかしやって来た使者が指名したのはルブリョフでした。ダニールは羨みますが、キリールは怒り仲間を侮辱したため修道院を追放されてしまいます。

アンドレイの苦悩 1407年
フェオファンは、「民衆は無知であり、それは自ら招いたものだ。私は神に仕え絵を描く」と言うのに対して、ルブリョフは民衆を擁護し彼らのために描くことを語ります。雪の積もった景色の中、町を抜け小高い丘の上でキリストの磔を再現する幻想シーンが続きます。

祭日 1408年
小舟で川を行くルブリョフらの一行は、休憩のため陸に上がります。そこで、裸で松明を持ち何かの儀式をしている異教徒の集団を目撃します。見つかったルブリョフは縛り付けられますが、裸の女の一人に助けられます。翌朝、異教徒狩りがあり、昨夜の女がルブリョフらの乗った船の横を泳いで逃げていくのでした。

最後の審判 1408年
大公の依頼である大聖堂の「最後の晩餐」の壁画を、暗いイメージを払拭できないルプリョフは描くことができないでいました。弟子の何人かは、そんなルブリョフに愛想をつかして出て行ってしまう。大公とその弟は反目していて、彼らは弟のところに向かったため、追いかけてきた大公の部下に目をえぐられてしまうのでした。

いまだ壁画のヒントを掴めないルブリョフが弟子に聖書を読ませていると、女の佯狂者(ようきょうしゃ、卑しい身なりだがキリストの真理を理解する聖人)が雨を避けて大聖堂に入ってきました。彼女をみたルブリョフは、ついに描きたいものがわかり喜ぶのです。

第2部 襲来 1408年
大公の弟が、タタール(モンゴル人、韃靼人)と組んで町を襲いました。彼らは残虐の限りを尽くし、大聖堂にも乱入してきます。ルブリョフは佯狂の女を助けようとして兵士を殺してしまいます。廃墟と化し死者が打ち捨てられた大聖堂の中で、ルブリョフはフェオファンの幻に、人殺しの罪を償うために筆を捨て話すことを自ら禁じますと語ります。

沈黙 1412年
ルブリョフは佯狂の女と共にモスクワの修道院に戻っていました。そこへ、ボロボロになったキリールが修道院にやってきて、聖書を15回書き写すことで許されます。タタール兵が修道院にやってきて、佯狂の女は彼らと一緒に去ってしまいます。

鐘 1423年
大公が教会に新しい鐘を寄進することになり、ボリースカは、鐘作りの名匠の亡くなった父から秘伝を伝えられてたと嘘をつきます。ボリースカは他の鐘職人からバカにされながらも、型を作るための最良の粘土を探すのです。ルブリョフは、精一杯虚勢を張って仕事をするボリースカを黙って見守ります。

キリールは、ルブリョフが筆を断ったと聞いて喜んだ時もあるが、自分は何も残せない、お前は絵を描くべきだと説得します。そして鐘が完成し、仮の鐘楼に引き上げられました。大公や大勢の客人が見守る中で、見事な鐘の音が鳴り響くのでした。倒れこんで泣きじゃくるボリースカを抱きながら。ルブリョフは沈黙の誓いを捨て、「お前は鐘を作り、私はイコンを描く。共に進もう」と言うのでした。

エピローグ
ここまでは白黒でしたが、ここからカラーとなり、ルブリョフが残した作品群を近接撮影で映し出していきます。そして最後に川辺にたたずむ4頭の馬のシーンとなり終了します。

タルコフスキーが描こうとしたのは、もちろんアンドレイ・ルブリョフという後世に名を遺す偉大なイコン画家の半生であることは間違いないのですが、単なる伝記映画を作る意図は微塵もなく、むしろルブリョフを題材にして15世紀初めのロシアの雰囲気を映像化することにありそうです。

そこにはロシアで発展を遂げた、ヨーロッパ諸国のキリスト教(カトリック、プロテスタント)と一線を画する東方正教会における信仰心が主題の一つになっています。イコンを描くための信仰に自信が無いルブリョフは、苦悩し、過ちを犯したことで罪を背負います。しかし、一途に鐘を作るボリースカらを見ているうちに、もう一度自らの信仰に自信をもてるようになっていく。

タルコフスキーは、ここでシーンを構成する要素として、水と土に重点を置いていて、時に場面転換のきっかけとして、時に時間の流れの表現として、いろいろな形で登場します。そして、会話中心のシーンでの長回しのカメラワークは、タルコフスキーの好む手法だと言うことがタルコフスキー初心者にも理解できました。ここでもカメラがゆっくり左右に動く時に、俳優が移動して空白ができないようにするところがいくつかありました。

いわゆる芸術的文芸映画の常として、一から十まで説明してはいません。見る者にある程度の忍耐を強いるところは否定できませんが、いつの間にか物語の世界に興味が湧いてきて、3時間という長い映画でも集中することができました。

テレビ用に半分にカットされた版もあるようですが、もともとの205分版も実は完全版としてメディアが手に入りますし、実はネットで視聴可能です。主として、暴力的なシーンや裸のシーンが削られているようですが、タルコフスキーは自ら186分版をもって最終版としています。

2021年8月18日水曜日

僕の村は戦場だった (1962)

戦争映画の名作を探していると、必ず出くわすタイトルの一つがこれ。この前、戦争映画を見続けていた時に、この作品は史実に基づいたものでない(フィクション)ことと、ソビエト製でちょっと敷居が高いことから飛ばしていました。

ところが、これがアンドレイ・タルコフスキーの監督作品となると、黙って通り過ぎるわけにはいかなくなりました。タルコフスキーにとっては、30歳にして初の長編作で、白黒ですがベネチア国際映画祭金獅子賞、サンフランシスコ国際映画祭監督賞を受賞しています。

1959年発表のベストセラー小説、ウラジーミル・ボゴモーロフの短篇「イワン」の映画化で、原題を直訳すれば「イワンの少年時代」です。第二次世界大戦の最中、独ソ戦のさなかに両親と妹を失ったイワンが、少年ながらかたくなに偵察任務に身を投じる内容です。

冒頭、白黒ながら美しい自然の中で、なかなかの美少年であるイワン(ニコライ・ブルリャーエフ)が幸せに過ごしているところから始まります。しかし、それは彼の思い出であり、水車小屋で目を覚ましたイワンは沼地を渡り、鉄条網をくぐりソビエト軍前線基地にたどり着くのでした。

ガリツェフ上級中尉はずぶ濡れの少年に質問をしますが、イワンは「ボンダレフが来たとグリャズノフ中佐に連絡して」としか言わない。半信半疑で電話をしてみると、中佐は「ホーリン大尉を迎えを出すから大事にしろ」と答えます。

中佐のもとに戻ったイワンは、自分が偵察してきたドイツ軍の情報を渡しますが、中佐は危険な仕事を進んでするイワンを、何とか学校に戻し教育を受けさせてあげたいと持っています。しかし、ドイツ軍に対する憎しみからイワンは頑なに学校行きを拒否するのでした。

ドイツ軍の攻撃が勢いを増してきて、ホーリンとガリツェフはイワンを川の対岸の敵陣に偵察に送り込むことになります。川を渡ったところで、イワンは夜の森の中に消えていきました。そして、それがイワンの姿をみた最後でした。そして、戦争が終わって、ベルリンでガリツェフは処刑者名簿の中に、前を強い眼光で睨みつけるイワンの写真を発見するのでした。

最前線を舞台にしていながら、積極的な戦闘シーンは無い映画で、度々発射される曳光弾、基地が爆撃されるところ、川を渡る船が機関銃で狙われるところ、川辺にドイツの墜落した戦闘機の残骸があることくらいが、戦争中であることを示しています。

イワンは夢の中ではとてもこどもらしく楽し気にしているのに対して、現実の厳しい世界では薄汚れて痩せこけて、そして何もしないのは役立たずだと言い放つ。その対比によって、戦争が及ぼす悲劇を描き出しています。

カメラは動かずに俳優を大きく移動させることで場面転換をはかったり、タルコフスキーの特徴である鏡を使ったり、水面のイメージによって、イワンの心の表と裏をあらわしています。台詞を排した動きの少ないシーンや長回しの映像も、逆に緊張感を強めていく効果があります。

また、ホーリン大尉は美人の看護中尉のサーシャに手を出そうとするシーンが興味深い。白樺林という美しい背景の中で比較的長い時間を使うこのシーンは、血生臭い戦争とも、主人公であるイワンの境遇ともほぼ無関係と言ってもいい部分で、検閲の厳しかったソ連でおそらく最も問題視されたことは容易に想像できます。

それでもこの長いシーンを映画の半ばにはずさなかったのは、戦争によって焼け焦げた木、そして希望のないイワンの未来を象徴するかのような川辺の暗闇の中の木々と白樺の美しさとのコントラストを鮮明にすることにあることは間違いない。

表向きにはドイツの悪行によりソビエトの少年に降りかかった悲劇を通して反戦を訴えているのですが、タルコフスキーにとってはソビエトもロシアも関係なくより美しい物に対する憧憬が主題にあったと思います。そういう意味で、それのでのメディアのパッケージはイワンの顔が中心でしたか、最新のブルーレイ、DVDのパッケージが白樺林にデザインされたのは象徴的かもしれません。

2021年8月17日火曜日

ローラーとバイオリン (1960)

SF映画の系譜は、ほぼ「メトロポリス(1927年、フリッツ・ラング監督)」に始まり、「2001年宇宙の旅(1968年、スタンリー・キューブリック監督)」にて頂点に達するという評価は不動のものになっています。

ランキングはいろいろなところから出されていますが。主観的な評価を元にしているので多少の変動はあってもそんなに違うものではありません。社会派の人間ドラマともなれば、ランキング上位の名だたる名作を押しのけて新作が入り込むことはなかなか難しい。

ただし、SF映画の面白いところは、社会の変化、技術革新、そして映画製作手法の変化によって新しい物でもランキング上位に食い込むことが比較的容易な点にあります。昔なら考えもしなかったテーマが見つかると、かなりの高評価を得ることはしばしばある。

とは言っても、不朽の名作という名声に輝く作品はいくつかあって、「惑星ソラリス」というタイトルもランキングから外れることがありません。この映画は、あらすじだけ読むと宇宙物としては善悪の対決のような話ではなく、旧ソビエト連邦製ということもあって、あまり面白くはないだろうと勝手に決めつけて、実はずっと未見のまま放置していました。

最近、あらためて映像作家としての映画監督に注目してタイトルを探していて、「サクリファイス」という映画に行き当たり、その監督が「惑星ソラリス」のアンドレイ・タルコフスキーだと知りました。また、SF映画のランキングでも「ストーカー」というタイトルを必ずと言っていいほど目にしますが、これもタルコフスキーの監督作品。

タルコフスキーのことをいろいろネット検索していくと、只者では無いことが今更のようにわかり、これは一つ、全作品をしっかり見てみようという気になりました。

アンドレイ・タルコフスキーは、1932年4月4日、旧ソビエト連邦(現ロシア、イヴァノヴォ州)生まれ。父親はウクライナの著名な詩人であったアルセニー・タルコフスキーで、アンドレイが幼い頃に出ていったため、アンドレイはほぼ貧しい母子家庭で育ちました。

当時のソビエトに多かったアメリカかぶれの不良に育ちますが、1954年に奇跡的に国立映画大学に入学し頭角を現します。3年生で仲間と共同で制作したヘミングウェイ原作の短編「殺人者」は、ネットで英語字幕付きで視聴可能です。

1960年、アルベール・ラモリス監督のフランス短編映画「赤い風船」をヒントに、卒業制作として作られた短編「ローラーとバイオリン」がニューヨーク国際学生映画コンクールで優勝し、ソビエトの新鋭として西側にも認知されました。この45分程度の処女作で、若さ故のとんがった感性だけではない、タルコフスキーの映像作家としての卓越した才能を感じ取ることかできます。

ストーリーは単純で、5歳からバイオリンを習っている7歳のサーシャは、近所の悪ガキ共から「音楽家」とからかわれています。整地作業でローラーを操作する若者セルゲイと仲良くなりバイオリンを弾いて聞かせ、一緒に映画を見に行く約束をします。しかし、母親はサーシャが映画館に行くことを許さず、サーシャは幻想の中でセルゲイの運転するローラーに追いついて乗せてもらうのでした、というもの。

タルコフスキー初心者でも、見ていて注意を最初にひかれるのは、サーシャが町のショーウィンドウに飾ってある鏡を見つめる時の万華鏡のような光景です。町の日常的な出来事ですが、サーシャの感受性の高さや、仲間外れにされている疎外感のようなものが見て取れます。続いて面白いのは、水の使い方。道路の水たまりに反射する光景や、水滴が落ちて波紋が広がる様子は繰り返し使われていて、鏡より一層幻想的な雰囲気を醸し出しているようです。

セルゲイは労働者であり、仲間の女性からからかわれるようなことがあっても、冷静に受け流す大人です。実は、女性の高飛車な態度は好意を持っていることの裏返しの表現であり、サーシャがセルゲイにバイオリンを聞かせようとすると、小石を投げて水たまりに波紋ができる。サーシャとセルゲイが仲良くしていることが、彼女を嫉妬させたことが表現されています。

冒頭では、バイオリンのレッスンの順番を待っているサーシャは、隣の女の子に持っていたリンゴをあげますが、サーシャがレッスンの部屋に入ると女の子はサーシャが座っていた椅子にリンゴを戻します。サーシャはレッスンがうまくいがず、がっかりして部屋を出てくるとそのまま去っていきましたが、カメラは食べられたリンゴのアップを捉えるのです。

これらのシーンが、いかにも大人は大人らしい、こどもはこどもらしい男女の関係性が対比されることで、サーシャとセルゲイの置かれた環境や現在の生活なども端的に表現されているように思いました。

台詞に頼らず、視覚的に物語を作り上げるところは、まさに映画という土俵で映像作家として自らを確立していく第一歩であろうし、少なくともタルコフスキーはこの処女作でその点において成功した作品を残したと言えそうです。

2021年8月16日月曜日

ボディ・スナッチャー / 恐怖の街 (1956)

ジャック・フィニイの小説「盗まれた街(1955年)」はSFホラーの元祖みたいな話であり、これまでになんと4回も映画化されています。その最初が、B級映画の巨匠、ドン・シーゲルが監督した1956年のこの作品であり、低予算で特別な仕掛けもほとんどありませんが、いまだに最高傑作とされています。

ストーリーは比較的単純。精神科の医師マイルズ・ベネル(ケヴィン・マッカーシー)は、数週間ぶりに学会から戻ってくると、街の人々から「自分の家族がおかしい」という話を聞きます。姿は一緒で、会話にもおかしいところは無いのですが、感情が無いという。

初めはノイローゼだろうと思っていたマイルズでしたが、しだいにその人数が増え、友人の家で巨大なさやえんどうのような殻の中から友人そっくりの生物が生まれてくるのを発見します。

おそらく宇宙からの侵略者が、住民なり替わって街を占拠し始めていると考えたマイルズは、恋人のベッキー・ドリスコル(ダナ・ウィンター)と街からの脱出を図ります。しかし多くの偽住民に追われ炭鉱に逃げ込みます。

逃亡に疲労したベッキーを残して付近を偵察したマイルスは、戻ってベッキーにキスをした・・・それはすでにベッキーではなかったのです。マイルズは街道に走り出て、次から次へと走って来る車に「次はあなただ!!」と叫ぶしかありませんでした。

・・・で終わるのがシーゲルの意図だったんですが、スタジオがバッド・エンドはダメと言うので、しかたがなくちょっとだけ希望が持てる終わり方のエピローグが追加されました。

シーゲルは、限られた予算の中で宇宙人が侵略する理由とか方法論についてはほとんど省略し、細かい説明はほとんどありません。その分、どんどん知人が入れ替わっていく恐怖に焦点をあてて、無駄な時間を排してスピーディにストーリーを進めていきます。

このあたりはシーゲルの独壇場で、B級とは言え観客を一気に映画の中に引き込む術はさすがです。このスピード感が、最終的に恋人も乗っ取られた絶望感をより強く描き出すことにつながっているようです。

2回目の映画化は1978年で、フィリップ・カウフマン監督、ドナルド・サザーランド主演で、より「何故?」を説明した内容。3回目は1993年で、監督はアベル・フェラーラ。4回目は2007年で「インベージョン」とタイトルを変え、オリヴァー・ヒルシュビーゲルが監督しています。主役はニコール・キッドマンとダニエル・クレイグで、スペース・シャトルに付着していた宇宙ウイルスが原因としています。

2021年8月15日日曜日

終戦の日


1945年8月15日、第二次世界大戦において侵略戦争をしかけた日本は、天皇陛下自らの言葉によって敗戦を認め連合国軍に対して降伏を公表しました。

今日、それから76回目の終戦の日を迎えますが、自分たちの世代は、戦争はおろか敗戦による困窮した人々の生活も知らないで、高度経済成長期と呼ばれる戦後日本が最も活気のある時期に育ちました。

残念なことに、日本の戦後教育では日本の戦争責任については曖昧なまま昭和を終えてしまったという感じがしています。ですから、戦争について何かを語る資格は無いに等しいのかもしれません。

しかし、同じ敗戦国であるドイツ・イタリアなどが積極的に戦争責任を明確にしてきたのと比べて、日本が批判される機会は平成から令和になっても衰えることが無いという現実は直視する必要がありそうです。

広島・長崎が象徴するような核兵器に対する反対していく姿勢は重要ですが、「国のため」という名目で戦った兵隊の方々や犠牲になった民間人を追悼するだけの記念日にしてはいけないのだともいます。

戦争そのものの責任を明確にすることは今でも重要であり、時がたつほど困難になっていきます。それが日本に足りないうちは、日本の戦後は終わらないのだと思います(・・・なんてな)。

2021年8月14日土曜日

パシフィック・リム アップライジング (2018)

怪獣ファンのウルトラ世代とロボット・ファンのガンダム&エヴァ世代のためにあるような前作から、10年後を描く続編です。しかも、今回は最終決戦の場が東京と富士山というから、少なくとも日本人には受けないわけがない。

と、言いたいところですが、世界的には「続編に傑作無し」みたいな結果に終わっているのが正直なところ。前作の監督をしたギレルモ・デル・トロは製作に周り、今作は主としてテレビで制作・監督・脚本を手掛けているスティープン・S・デナイトという人が監督です。

前作のヒロイン、森マコ(菊地凛子)は現役パイロットは引退してイェーガー部隊のトップ。今回の主役は、マコを姉さんと呼ぶ亡きペントコスト司令官の息子、ジェイク(ジョン・ボイエガ)。ジェイクは一時、パイロットとして入隊していたものの、父を乗り越えられず追放になり、街で小悪党みたいに生活していました。

ジェイクは、かつての怪獣との戦いで荒れ果てた町の一角で、拾い集めた部品で自分で小型イェーガーを作り上げてしまった十代のアマーラ・ナマーニ(ケイリー・スピーニー)と知り合います。二人は逮捕されますが、マコの手配でジェイクは訓練教官、アマーラは訓練生として軍に入ります。

前作で登場した凸凹コンビの科学者、ニュートン(チャーリー・デイ)とゴットリーブ(バーン・ゴーマン)。前作では怪獣の脳と精神合体(ドリフト)して重要な情報を引き出しました。ゴトリーブはイェーガーにロケット・エンジンを装着し空を飛ぶ研究中。ニュートンは中国のシャオ産業に雇われ、やり手の女社長リーウェンのもとで、無人イェーガーを開発しました。

シドニーでの無人イェーガーを採用するかの会議にむかったマコは、突然現れた正体不明のイェーガーによって乗っていたヘリコプターが襲われます。ジェイクは昔からの仲間のネイサン・ランバート(スコット・イーストウッド)と共にイェーガーに搭乗して護衛についていましたが、ヘリは撃墜されマコを守ることができませんでした。

マコが残した最後のメッセージから、ジェイクとネイサンはシベリアの旧イェーガー工場に向かい、正体不明機を発見し勝利します。しかし、驚いたことにコックピットには人ではなく怪獣の脳があったのです。実は怪獣の脳と精神合体したニュートンが完全に精神を操られていて、シャオ産業のすべての無人イェーガーには怪獣の脳が搭載されていたのです。

配備された無人イェーガーは、人による遠隔操作を受け付けず、各地で人類に対して攻撃を開始し、怪獣の出入り口である海底の裂け目を開放してしまいます。リーウェンが、何とか無人機のコントロールを取り戻すまでに、3体の怪獣が裂け目を通り越し、東京に向かい始めます。怪獣たちの最終目標は富士山を噴火させ、その刺激により環太平洋の活火山をすべての噴火により地球上を有毒ガスで覆うことだとわかります。

ジェイクとネイサン、そしてアマーラの訓練生は破壊を免れた4機のイェーガーにロケットを装備して東京に向けて発射されました。彼らは最初は優勢に怪獣を攻撃していましたが、不利になってくると何と3体が合体して巨大怪獣となりイェーガーを蹴散らして富士山に向かうのでした!!

昭和おやじには「鉄人28号」が途中から背中にロケットを装備したのを思い出しました。また怪獣が合体して巨大化するのも、「ゴレンジャー」シリーズどではお馴染みのパターンと似ていて、どんどん日本人的には馴染みのあるものが増えた感じがします。

今回は、怪獣の脅威が無くなって10年たっているのに、正規のイェーガー部隊が存続していることにずっと違和感が残ります。断続的な危機が続いているような説明は無いので、最初のうちはイェーガー同士の力比べの話みたいな印象です。ニュートンの秘密が暴露されてからは、なるほどと思うのですが、あらかじめ予見されていた話ではありません。

リーウェイは何か闇がある武器商人みたいな登場の仕方なんですが、途中からすごくい人になってパイロットたちを助ける中心人物になっちゃうのも、気持ち的にはついていけないところ。ちなみに訓練生のなかにリョウイチという日本人がいて、演じるのは新田真剣佑です。台詞はほとんどなく、映るシーンも少ないのでボーっと見ていると気が付きません。

何か文句ばかり書いているようですが、またもや若い頃のクリント・イーストウッドに激似の息子、スコットが出てくるのは何か嬉しいところですし、あまり深く考えずに見れればそれなりに楽しめる出来かなと思います。最後は「そっちから来なくていい。次はこっちから行く」という台詞で終わるところは、次作も考えているのかもしれませんね。


2021年8月13日金曜日

パシフィック・リム (2013)

日本発祥の「怪獣」をハリウッドが映画にしたらこうなった!! っていう感じで、難しい映画もいいですが、単純にワクワク・ドキドキするかっこいい映画も悪くない。次から次に襲って来る怪獣に、人類はパイロット搭乗の巨大ロボット - それは、ほとんど進化したガンダム - で対抗するというお話。監督は今やハリウッドで押しも押されぬヒット・メイカーとなったギレルモ・デル・トロ。彼のジャパニーズ・カルチャー愛が炸裂しています。

太平洋の海溝の奥に裂け目ができて、そこから怪獣が現れるという事態に、世界のいくつもの都市が壊滅する騒ぎになります。最初は成す術もなかった人類ですが、国やイデオロギーを超えて協力し、人間がパイロットとして搭乗する巨大ロボット、イェーガーを使って徐々に挽回し始めました。

第一世代のイェーガーは一人乗りの形態でしたが、神経回路と精神的に同期するドリフトによって操作するためパイロットへの負担が大きすぎるため、第二世代以降は二人で操縦するように設計が変更されました。ある日、ローリー・ベケット(チャーリー・ハナム)は兄と二人でイェーガーで怪獣に立ち向かい、何とか倒したものの兄を失います。精神がつながった状態での兄の死は、ローリーに大きなトラウマになりました。

怪獣が進化してより強大になりイェーガーが劣勢になってきたため、巨大な防護壁の建設に力を入れることになりイェーガー計画は中止。ペントコスト司令官(イドリス・エルバ)は、香港に集められた残ったイェーガーを整備し、来るべき戦いに向けて準備していました。ペントコストは第一世代イェーガー乗りで、その原動力である原子炉の影響で被爆し重病に侵されています。

ペントコストの信頼する優秀な部下の一人で、東京の戦いでペントコストに助けられた森マコ(菊地凛子、幼少期: 芦田愛菜)は、ローリーと組んでイェーガーに搭乗しますが、訓練で怪獣に襲われた過去の記憶のトラウマから暴走してしまいます。しかし、香港に2体同時に怪獣が出現し、他のイェーガーの危機にローリーとマコのペアが活躍し仲間からも信頼を勝ち得るのでした。

怪獣が出現する頻度が早くなり、しかも複数体が同時に出現するため、最終決戦の作戦が始まります。ペントコスト自ら搭乗したイェーガーは搭載した核兵器によって裂け目を破壊しようという計画でしたが、待ち構えていた数匹の怪獣によって自ら自爆するのです。残されたローリーは裂け目に飛び込み、自分たちのイェーガーの動力源である原子炉をメルトタウンさせようとするのでした!!

そりゃ、まぁ、突っ込み所はたくさんあるとは思います。何しろ、ロボットの操縦もそんなに難しい方法を取らなくてもリモート・コントロールでいいんじゃないかから始まって、核兵器だってミサイルがたくさんあるだろうにとか・・・

でも、人間が中で操縦するからドラマになって面白いわけですし、二人のパイロットが精神をリンクさせるところにストーリーのふくらみがるので日本人の感覚としては良しとします。何しろ、主役のイェーガーを操縦する一人が菊地凛子さんですから、それだけでもかなり評価の点数は高くなります。ところどころに、日本語の台詞が混ざるのも何か楽しい。

映画タイトルが出るまでの導入部は16分半もあって、この話の基本的な設定がしっかり説明され、かつ出し惜しみすることなく怪獣対イェーガーの戦闘も描かれれているので、このマンガ的な話にすっと入っていける効果があります。また、何故怪獣が襲って来るのかという理由についてもそれなりの説明がなされていて大変良心的です。

2021年8月12日木曜日

デューン/ 砂の惑星 (1984)

数々のマニアックな映画を作り「カルトの帝王」の名を欲しいままにする映画監督、デヴィッド・リンチ。監督デヴュー作の「イレイサー・ヘッド(1976)」、続く「エレファント・マン(1980)」、「ブルー・ベルベット(1986)」、「マルホランド・ドライブ(2001)」など思い出す作品は多い。またTV用に作られた「ツイン・ピークス(1990-91)」も大きな話題を呼びました。

「デューン / 砂の惑星」は、リンチのフィルモグラフィーの中で特異な存在とされています。と言うのも、そもそもリンチ自身が失敗作と認め、自分のキャリアから抹殺したいと考えているからです。なんでそうなったか一言で言うと、最終編集権が無かったためスタジオとの衝突により意図したとおりに完成できなかったから。

原作はフランク・ハーバートが1965年から1985年にかけて、全6作を執筆した「砂の惑星 (Dune)」シリーズの第1部です。そもそも超大な複雑な原作なのでリンチ自身、最低4時間必要と思っていたのに、2時間17分に収めようと言うのがそもそも無理。

これも有名な話ですが、1975年にカルトの奇才、アレハンドロ・ホドロフスキーが映画化を試みて撮影開始直前までプリプロダクションが進行したものの、上映時間10時間ではどこの映画会社も話に乗らず断念しています。

今回は映画界の神話とも呼ばれ数々のヒット作を手掛けた大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスが発起人ですから、費用についての心配はありませんが、そのかわり映画内容に対する干渉はものすごい。評判が上がって来たとは言え、まだ若手と言えるリンチごときが対抗できる相手ではありません。

ストーリーをはしょりまくったため、ほとんど原作のあらすじ状態で、原作を知らない者にとっては見ても何が何だかわからない。話題性があって何かすごいんだろうとは思うけど、結局何だったのだろうと言う結果に終わる・・・からこそ、カルト好きにはたまらんという評価もあったりします。

10年後にテレビ放映するにあたり、使われなかったフィルムと説明的なシーンを加えて3時間9分にした長尺版が作られました。これにはリンチ自身はまったく関与していなくて、監督名としてクレジットされることを拒否したため、監督がアラン・スミシーとクレジットされました。アラン・スミシーは架空の人物で、ハリウッドの慣例でトラブル対策に使われるもの。

そんなわけで、この映画を原作を知らずに見るには、それなりの知識と覚悟が必要そうです。とにかくハーバートの書いた基本的な世界観を知ることから始めましょう。

時は60世紀。機械に任せて、悠々自適な生活を送っていた人類は弱体化し、機械を操る者の奴隷と化していました。機械に対して反乱(ブレトリアン・ジハード)を起こした人類は、精神力の強化・進化に迫られます。そのための訓練所は二つあり、優れた人間を産む道女を教育するベネ・ゲセリットと純粋数学の力で支配する宇宙ギルドでした。彼らにとって最も重要な物質はスパイスです。

ベネ・ゲセリックの修道女は「魔女」と呼ばれ、スパイスによって驚異的な知覚能力を身につけ、その中心人物は教母と呼ばれます。そしてクイサッツ・ハデラッハと呼ぶ人類の記憶を保持し未来を予見できる超能力者を生み出すため、長年に渡って積極的に主だった血統との婚姻を行っています。

一方の、スペースギルドは宇宙空間を捻じ曲げ、同じくスパイスの力で瞬時に惑星間を移動でき宇宙経済を牛耳っていました。ギルドの中で、特にこの特殊能力に長けたナビゲーター(航海士)は、大量のスパイス接種により異形の形に変容していました。

スパイスとはメランジと呼ばれる香料で、これを採取できるのは荒れ果てた砂漠の惑星であるアラキス星のみでした。メランジはアラキスに生息する数百メートルもある巨大な砂虫(サンドワーム)が成長過程で産出する一種の麻薬です。

メランジは、長寿の秘薬であると同時に意識を強大にする超能力に関わる物で、ベネ・ゲセリットにとってもギルドにとっても自分たちの能力を維持するために不可欠でした。メランジを制することは宇宙を支配することにつながるのです。

アラキスには時折巨大な宇宙船ですら破壊する「コリオンの嵐」が吹き荒れますが、その岩場には砂漠の民フレメンが細々と暮らしていて、メランジの自然接種により目が青く輝いています。フレメンは水を大事にし、特に砂虫から精製される「生命(いのち)の水」は、選ばれた人だけが特殊能力を覚醒できる特別な物とされています。彼らは、いつか自分たちをこの苦しい場所から救い出してくれる救世主が現れることを信じていました。

100世紀になると、カイテイン星を拠点とする皇帝シャダム4世が宇宙を封建制度により支配するようになります。皇帝の支配下の領主の二大勢力が、カラダン星のアトレイデス公爵家とギエディ・プライム星のハルコネン男爵家でした。

メランジ採掘を任されていたのは乱暴なハルコネン男爵でしたが、人望のあるアトレイデス公爵に脅威を感じていた皇帝は、公爵家の領地を水と緑が溢れるカラダンからアラキスに変更し、ハルコネン家と争わせることで全宇宙を掌握する陰謀をめぐらせるところから映画は始まります。

皇帝(ホセ・ファーラー)の陰謀を察知した宇宙ギルドは、メランジ産出への影響を危惧して皇帝にナビゲーターを派遣し説明を求めました。皇帝は力をつけてきた公爵に対し、ハルコネンを支援して倒すことを説明しますが、ナビゲーターは公爵の息子、ポール・アトレイデス(カイル・マクラクラン)を抹殺することを要求します。

公爵家の当主、レト・アトレイデス(ユルゲン・プロホノフ)とベネ・ゲセリットの道女だったジェシカ(フランチェスカ・アニス)との間に生まれたのがポールで、公爵家に仕える者たちからも認められる存在でした。

ふだん皇帝と共にいる教母モヒアム(シアン・フィリップス)は、狙われるポールを試すためにジェシカに会いに来ます。教母は女子を産めばハルコネンに嫁がせ共存できたのにとジェシカを責めますが、ポールの精神力の強さを知り彼こそがクイサッツ・ハデラッハかもしれないと考えるのでした。

公爵はアラキスに到着しますが、早々に不穏な空気が漂います。信頼していた医師のユエが男爵に寝返ったため、ジェシカとポールは砂虫の餌にするため砂漠に連れ出されます。ハルコネン男爵(ケネス・マクミラン)は、甥のフェイド(スティング)、ラバン(ポール・L・スミス)と共に公爵軍を壊滅させレトを亡き者にします。

ポールは、相手の心を操るヴォイスの術を使い敵を攪乱しジェシカと共に敵の手を逃れ、砂虫に襲われ逃げ込んだ岩山でフレメンと出会います。フレメンの中には、ポールの夢に度々出てきた少女チャニ(ショーン・ヤング)もいました。フレメンの民にも彼らの年老いた教母がいましたが、ジェシカに生命の水を飲ませることで知識を伝えて終わると息を引き取ります。そして、ジェシカはポールの妹となるアリアを早産します。

ポールはモアディブと名乗り、フレメンに戦う術を教え、何と砂虫すら乗りこなし、いつの間にかポールの目は青く輝いていました。ポールとフレメンは香料採掘場を次々に破壊し、2年間で香料生産はストップするまで追い詰めます。ギルドは、皇帝にすぐ鎮圧するように迫ります。

ある日、ポールは今まで見えていた未来が見えなくなりました。ポールは、今まで試した男はすべて命を落としているという生命の水を飲む決意をします。そして、彼はその試練を乗り越えて真のクイサッツ・ハデラッハとして覚醒するのでした。アラキス鎮圧に乗り込んだ皇帝の大軍を壊滅させ、一滴たりとも無かった雨をアラキスの地に降らせるのでした。

ということで、この文章の前半が無かったら、なんのこっちゃというストーリーなんですが、確かに映画では話が飛び飛びで、前後の続きかよくわからない。これでも、原作の第一部だけの話ですから、どんだけ長いのかということ。確かに一本の映画にまとめようというのは無謀な話で、ホドロフスキーが10時間で計画したというのはあながちホラじゃありません。ホドロフスキーは自分が断念した映画が、リンチにより完成したことを悔しがりましたが、映画を見てあまりの出来の悪さに喜んだという話。

それでも、ここに書き出した最低限の予備知識くらいがあれば、それなりに楽しめる。TV用長尺版は、カットされた部分を修復することで劇場公開版よりは格段にわかりやすい・・・のですが、だから良いというわけでもない。確かに何でそうなるのかの説明になっているところもありますが、ただ冗漫なところもあり、長くしてもわかりにくさは残ります。

すでに「スター・ウォーズ」で見事な特撮を見せられた後ですから、この映画の視覚効果についてはやや残念なところがあります。セットや衣装、各種小道具はかなり凝っていて、そちらに予算をつぎ込んだのかもしれません。

カイル・マクラクランはこの映画がデヴューですが、リンチに気に入られて次作の「ブルー・ベルベット」でも主演しました。ポールと恋仲になるチャニを演じたショーン・ヤングは「ブレード・ランナー」でブレイクした後ですが、スーリーに絡む要素はあまりなくてもったいない感じです。

異色のスティングの怪演は面白いところですが、見るべきところは最後の数分間だけ。チャニの父親役で名優マックス・フォン・シドーが出演していますが、こちらも役としての重要性が伝わらない。

レト・アトレイデスは「Uボート」で名を上げたユルゲン・プロホノフで、これはさすがに前半の大事な展開に関わっています。ただし、長尺版と比べると長めのシーンではけっこうカットされていて、劇場版だとなんでそのセリフなのかよくわからないところが目立ちます。

結局、リンチ監督の意図とは関係なくスタジオが決められた時間に収めるために、相当無理な編集をしたんだろうなというのが容易に想像できる。これじゃ、自分の映画として認めたくないという気持ちも当然だろうと思います。

そんなわけでSF映画としては高評価のランキングには登場することはありませんが、デヴィッド・リンチ監督のある意味重要な作品であり、SF小説として外すことができない題材を用いていることから、一度は見ておいた方が良い作品だと言えそうです。

これだけ苦労する原作ですが、2000年と2003年にTVミニシリーズとして約8時間全6話で制作されています。さらに今年の秋に、劇場用映画として新たなリメイク作が公開予定になっています。監督は「ブレード・ランナー2049」のドゥニ・ヴィルヌーヴで、2時間半になる予定。しかも、2部作の構想なので、続編も合わせれば4時間以上になるようなので期待できます。

2021年8月11日水曜日

ザ・フライ (1986)

1958年の「ハエ男の恐怖」をデイヴィッド・クローネンバーグが監督しリメイクしたもの。

クローネンバーグというと、すぐに思い出されるのはこの作品以外は「スキャナーズ(1981)」、「ヴィデオドローム(1983)」で、いずれもちょっとキモイ系SFで、いわゆるカルト映画と呼ばれる好きな人にはたまらんというもの。

そういう意味では、CGによる何でもあり以前のアナログの特殊視覚効果が全盛期の80年代に最も活躍した監督ですが、以後は時に話題性は提供するものの、あまり自分の記憶に残る仕事はありません。

若くしてノーベル賞の候補に上がるほどの天才科学者、セス・ブランドル(ジェフ・ゴールドブラム)は、パーティで知り合った雑誌記者のヴェロニカ・クエイフ(ジーナ・デイヴィス)に開発中の片方のテレポッドからコンピュータを介して隣のテレポッドへ物質を転送できる装置を見せます。しかし、生物の転送にはいまだ成功していませんでした。

ヴェロニカの何気ない言葉にヒントを得て、改良を重ねるうちに、二人は愛し合うようになります。そして、ついにヒヒの転送に成功したセスは、自らがポッドに入ってみるのですが、その時一匹の蠅がポットに入り込んでいることに気が付きませんでした。

転送は成功したものの、蠅をも取り込んでしまったセスは少しずつ隊長の異変が出現します。体力が上昇し、物凄く雄弁になり、転送によって不純物が濾過されて自分の真のポテンシャルが引き出されたとヴェロニカに説明しました。

しかし、体調の異変はさらに続き外見も崩れていき、セスは転送記録から蠅の遺伝子が融合してしたまったことに気が付きます。一方、ヴェロニカは蠅の遺伝子を含むセスの子を妊娠したことがわかり堕胎することにします。どんどん蠅化していくセスは、病院からヴェロニカを連れ出します。

ヴェロニカの元の恋人で今でもヴェロニカを付け回す雑誌編集者のステイシス・ボランズ(ジョン・ゲッツ)は、ショットガンを用意してセスの研究所に乗り込みますが、消化液で手足を溶かされます。

セスは完全に昆虫化し、妊娠しているヴェロニカをポットに入れ自分との融合を試みますが、直前にステイシスがヴェロニカのポッドの連結ケーブルを撃ち抜いたため、セスはポッドとの融合を起こすのでした。転送先から出てきたセスは、ヴェロニカが構えたショットガンの銃口をじぶんに向け引き金を引かせるのでした。

SFスリラーとしては高評価ですし、クローネンバーグの代表作と言える映画ですが、同じようなグロテスクなクリーチャーを得意とするジョン・カーペンターとはだいぶテイストが違う。怖がらせるだけでなく、ある種の嫌悪感を抱かせるところは否定できないでしょう。

もっとも、元が蠅男ですから気持ち良く仕上げようが無いわけですが、そう何度も見返したくなる話じゃありません。今では大御所になったジェフ・ゴールドブラムが、大きな目で熱演しているんですが、どこまでが本人の演技なのかはよくわからない。おそらく変身していく途中からは別人がメイクで演じているようですし、最後は完全に人形です。

やっとパソコンが一般にも使われるようになったばかりの時代ですが、映画に登場する装置を制御するコンピュータは、当時はずいふんとかっこいいなと思った記憶があります。テレポッドも小型の宇宙船のようで、特殊メイクだけでなくこれらのガジェットにもかなり力が入っているのがわかります。

ヴェロニカが出産したセスのこどもはどうなったかって? 3年後に続編の「ザ・フライ2 二世誕生」が作られましたが、クローネンバーグはまったく関与せず、映画としてはほぼ無かったことにしましょうという評価になっています。蠅が大好きな人だけどうぞ。

2021年8月10日火曜日

1984 (1984)

人々が考える最も素晴らしい世界は、16世紀にトマス・モアによってユートピア(理想郷)と呼ばれ、対比することで現実社会を批判するものでした。19世紀半ばに、産業革命後の機械的な社会を批判するために、より非人間的になる未来像をユートピアの反意語としてディストピア(反理想郷)と呼ぶようになります。

H.G.ウェルズはディストピア文学の先陣ですが、もう一人、全体主義を痛烈に皮肉った「動物農場」で知られるジョージ・オーウェルも、ディストピア作家として記憶されます。オーウェルの、そしてディストピア文学の代表作とされるのが、1949年に発表された「1984年」で、1956年に最初の映画化がなされましたが、比較的ハッピー・エンドに改変したことで批判が多い。

イギリス人のマイケル・ラドフォードが、彼の初監督作品として選んだ題材が、この「1984年」のリメイクであり、まさに1984年に合わせて公開されました。この小説の映像化作品の決定版として高い評価を得ていると同時に、近未来を描くディストピア映画の代表作とされました。

ただし、複雑なプロットの上に成り立つ長編なので、2時間前後で映画化するのはかなり難しい。基本的に原作を読んでいることが前提にあるようなところがあり、映画は原作を視覚的に理解するためのものという感じ。ですから、あらかじめ、ある程度の予備知識を整理しておく必要がありそうです。

舞台となるのは、オーウェルが原作を執筆した1947~1949年を現在として、数年後に第三次世界大戦と呼ばれる核戦争が勃発し、世界はオセアニア(南北アメリカ大陸、アフリカ大陸の南半分、オーストラリア)、ユーラシア(ヨーロッパと旧ソビエト連邦)、イースタシア(イラク、イラン、チベット、モンゴル、中国、日本など)の一党独裁体制下の三大国に再編成された25年後の近未来です。アフリカ大陸北半分、中東、インド、東南アジアは紛争地域として人が居住しない場所とされています。

どの国でも、人々はテレスクリーンと呼ばれるモニターで監視されると同時に、様々な情報を提供され思想統制されています。大国間では戦争が継続的に行われているものの、支配地域を拡大するためではなく、労働階級を戦争で消費することで支配階級の権力維持が真の目的です。

オセアニアを率いるのは正体が不明のビッグ・ブラザーで、「戦争は平和なり」、「自由は隷従なり」、「無知は力なり」をスローガンとするイングソックと呼ばれる表向きは社会主義の一種をイデオロギーとしています。かつてはビッグ・ブラザーと共同指導者であったエマニュエル・ゴールドスタインは反政府運動に転じ、今では「人民の敵」と呼ばれ、人々は毎日彼が映し出されるテレスクリーンに対して二分間憎悪を行っています。

政府は、軍を統括する平和省、配給を行う豊富省、思想統制をする真理省、警察権を有する愛情省の4部門から成り立ち、ごく少数の黒いオーバーオールを着用する党内局員が特権階級として支配し、青いオーバーオールを着用する党外局員が官僚として実務に当たります。人口の85%に当たる、プロレと呼ばれる被支配階級の労働者は戦争・生産ために飼育されているに近い状況にあります。

オセアニアのロンドンに住むウィンストン・スミス(ジョン・ハート)は、日課の二分間憎悪をした後、真理省でいつもの仕事 - 過去の新聞などの記録の改竄作業をこなし、自宅に戻るとテレスクリーンの死角に隠し持つノートに日々の雑感を書き記していました。それは、考えることという禁止された行為でした。

ウィンストンは、知り合った若い娘、ジュリア(スザンナ・ハミルトン)と恋に落ちます。しかし、男女の関係はイングソックに対する忠誠心を鈍らせるものであり、人工授精によって子を作ることで、家族という概念も否定されています。ウィンストンは、ノートを買った古道具屋のチャリントン(シリル・キューザック)に頼み、店の二階の空き部屋を密会の場所に使わせてもらいます。

ある日、党内局員のオブライエン(リチャード・バートン)は、ウィンストンに声をかけ仕事ぶりを誉めます。オブライエンのオフィースを訪れたウィントンは、無駄な言葉をどんどん省いた党の意に沿った新しい使用できる言葉の辞典を渡されますが、実は中身は裏切り者されるゴールドスタインが書いた社会の真実を著した禁書で、ウィンストンはこの社会の欺瞞を知ることになるのです。

しかし、チャリントンは実は思考警察の一員で、彼の通報によりウィンストンとジュリアは逮捕されました。オブライエンは、ウィンストンの反応を確かめるために本を渡したのです。そして、オブライエン自らの手で、拷問による思想再教育が行われます。当初は抵抗していたウィンストンですが、苦痛と恐怖に支配され自我が崩壊しもビッグ・ブラザーへの愛情だけを持つ人格に変容してしまうのでした。

やはり、何も知らずにこの映画を見ると、なんだか陰鬱な気持ちになるだけ。しかし、ベースとなる社会構造を理解していると、権力の維持のために何が必要なのかがするどく描かれているのがわかります。そして、それは人間の個を潰すだけではなくいかにうまく利用するかということ。

さすがにジョン・ハートはこの手の鬱積した人物の演技については凄みがあって、見ていて恐ろしくなるくらいです。また名優リチャード・バートンによる、じわじわとウィンストンの信念を破壊していく様はさすがです。バートンにとっては、これが遺作となりました。

この原作のいろいろなカルチャーに対する影響力は絶大で、例えばテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」はほとんど同じような世界観を持っています。他にも強力な統制下にある近未来を舞台にした映画、舞台、小説などのほとんどがインスパイアされていると言っても過言ではないかもとれません。

この映画の全体主義による国民のコントロールは、21世紀の現代でも現実になってきています。いたるところに設置された監視カメラ、個々が持ち歩くようなったスマートホンによる行動監視はまさにその例にあてはまる。さらに言えば、まさにそのものズバリという国がすぐ近くにありそうですし、もはやフィクションと言ってはいられません。

日本での初公開時は、俳優の下半身にぼかしが入れられなかった最初の映画という話題ばかりが先行してしまいましたし、現在ほどは現実になりそうな怖さを感じて鑑賞する人はいなかったかもしれません。

2021年8月9日月曜日

TOKYO 2020 ~ 閉幕


昨日、東京オリンピックは全競技を終了し、夜には閉幕式が行われました。もちろん、この後パラリンピックが始まるわけですが、一定の区切りと言って良いでしょう。

コロナ渦という、まったく前例のない向かい風の中で、実施の是非を含めていろいろな問題をはらんだ大会でした。ただし、出場するアスリートの皆さんには何の責任も無いことで、いろいろと通常では無いプレッシャーを感じたことでしょう。

金メダル 27
銀メダル 14
銅メダル 17

全部で58個のメダル獲得は、日本としては過去最大。

コロナ渦の中、前回リオとほぼ同じ205の国と地域から11000人のアスリートが参加しました。競技種目が30ほど増えたという関係もありますが、主催国として胸を張れる結果だったことは間違いない。

と同時に、この成果は、次の2024年のパリ大会へのハードルをあげました。

日本だけでなく、世界中から出場した選手の皆さんに拍手を送りたいと思いました。そして、大会運営の実務をこなしたスタッフ、ボランティアの方々もご苦労様でした。

ただし、日本政府、東京都、国際オリンピック委員会、日本オリンピック委員会、そして組織委員会などの方々には多くの反省点があるはずですし、終わったから良しとする、時がたてば国民は忘れるだろうみたいなことにだけはして欲しくない。

そして、コロナ感染者が激増している状況に、オリンピックが影響したのかしないのかも、科学的根拠をもって検証してもらいたいと思います。



2021年8月8日日曜日

横浜市長選挙


横浜市長選挙が、本日公示されます。以下の方々が立候補の意思を表明しています。

太田正孝氏 (75) 市会議員
福田峰之氏 (57) 前衆議院議員
坪倉良和氏 (70)水産仲卸業
小此木八郎氏 (56)前国家公安委員長
山中竹春氏 (48)元横浜市大教授
田中康夫氏 (65)元長野県知事
林文子氏 (75) 現職
松沢成文氏 (63)参議院議員

立候補予定でしたが、公示前に立候補をしないと表明したのは次の二人。
藤村晃子氏 (48) 日本動物虐待防止協会代表理事
候補者乱立による票の分散を危惧
郷原信郎氏 (66) 弁護士
別の二人の立候補予定者に対する不信感があり、当選させない「落選運動」に専念

確かに立候補者が多すぎの感は否めない。表割れになると、現職の林氏が有利になるかもしれません。しかし、個人的な意見として、今回の大きな争点であるIR誘致に反対の立場として、なかば強引にIRを進める林氏には大きな失望をしていますし(前回IR無しという前提で当選したはず)、再選による長期政権は避けるべきと考えます。

カジノを含む統合リゾートというのは、横浜市の財源を潤し一般市民への還元がある・・・ということはまず期待できないと思っています。ほとんど、関連業者の利益に結び付くだけで、大多数の市民にとってはメリットがあるとは思えない。

林氏以外でIRに賛成を表明しているのは、横浜市議から国政に進出し衆議院議員になった福田氏。しかし、2017年の選挙で東京に地盤を移し落選。今更、横浜に口出せる立場じゃないはず。

小此木氏は、IR誘致を進めたい菅総理大臣のもとにいた人物であり、最近になって急にIR反対を掲げて立候補を表明しました。裏切り者のはずなのに菅総理大臣が支援を表明するというのは、かなり裏の裏がありそうと勘繰りたくなる。前回の市長選挙の林氏のように当選したら手の平返す可能性が無きにしも非ず。

IR反対の山中氏は公衆衛生学という医学の中では、医者というより数学者的な領域を専門としている方で、立候補するとなったら急にスキャンダル的なネタがメディアに登場してきました。それだけ、IR賛成派が恐れる存在ということなんでしょうか。松沢氏もIR反対ですが、最近のインタネット広告の下品なくらい垂れ流しにはうんざりします。某ニュース・サイトでは、時には一面に8か所くらい出てきていました。

IR問題以外にも、神奈川新聞によれば、中学校給食、水道料金、上瀬谷の米軍基地跡地、ふるさと納税による市税流出などが争点として挙げられています。国政選挙に比べて、市民に伝わってくる候補者の情報が少ないのですが、8月22日の投票日まで注意深く立候補者の意見に耳を傾けたいと思います。

2021年8月7日土曜日

真っ赤なオクラ


これは初めて見ました。最初、なんか熟しすぎたとか、病気とかの異常かと思いました。

お隣から、珍しいものができたよといただいたものなんですが、実はこれ、ちゃんとした元々赤く成長する「赤オクラ」とか「紅オクラ」と呼ばれるもの。

基本的には普通の緑色のオクラと変わらないらしいのですが、調理に当たっては加熱すると赤い色が抜けて緑色になってしまうので、赤さをいかすのなら生で食べることが勧められています。

ただし、表面の毛が多めで全体に固いので、薄くスライスするのがいい。赤いキャベツや赤い玉ねぎと同じで、サラダのアクセントに使う感じでしょうか。

この赤い色はポリフェノールの一種であるアントシアニン。抗酸化作用で体にいいと言われ、ベリー、茄子、紫蘇なども含まれています。

へぇ~、へぇ~、へぇ~・・・(ふるっ!!)


2021年8月6日金曜日

網の目のマスクメロン


最初からあのような模様が出てくるのが普通だと思ってました、けっこう最近まで。

でも、違う。あれはメロン農家の方の努力の賜物であって、綺麗な細かい網目状の模様を作るには相当熟練の腕が必要らしい。

一言で言えば、あれの網の目の模様はメロンの皮が傷ついてできたかさぶた。

メロンの実は最初は縦に成長して、途中から皮が固くなり始めると同時に、横に膨らみ始めます。この時皮にひびがはいる。

このひびを埋めるために、メロンはスベリンと呼ばれるコルク状の物質を分泌します。つまり、これが「かさぶた」みたいな物。

水やりが多いとこのかさぶたが太くなってしまいます。皮にひびが入りだすタイミングを見定めて、水やりを中止してひびを細かく発生させるのがなかなか難しい。

だから、網の目の模様が均一で細かいほど高級ということになるんですね。もっとも、味が大事なのは言うまでもありません。

2021年8月5日木曜日

ダーク・スター (1974)

奇才ジョン・カーペンター監督の長編第1作。「エイリアン」の脚本家として知られるダン・オバノンと二人三脚で制作した低予算の自主製作的な映画。かなり脱力系の宇宙SF物ですが、いわゆる「カルト」化して根強い人気がある。

宇宙船ダーク・スターは、宇宙に人類が住める環境を整備するために、不安定惑星を排除する使命をおびて航行していました。邪魔な惑星を発見すると、自立型のコンピュータを搭載した爆弾を投下します。

船長はワープの際に何かの事故で無くなったらしく、ドゥリトルが指揮を執り、ひょうきん者のボイラーと、エイリアンを船内でペットにしているピンバック(ダン・オバノンが演じています)、一人でいるのが好きなタルヴィーの4人だけ。

前半では、彼らの何とも言えないボケーっとした日常が描かれます。しかし、機器の故障で爆弾20号が暴走。格納庫から出て、ダークスターから切り離されない状況で爆発体制に入ってしまう。ドゥリトルは船外に出て爆弾20号を説得します。

一度は格納庫に戻った爆弾20号でしたが、やはり一度感知した爆破命令を実行することが使命だとして、ついにスイッチが入りボイラー、ピッンバックと共に船体は粉々に吹っ飛んでしまう。船外にいたドゥーリトルは、船の残骸の板をサーフボードに見立てて宇宙空間をライドしていくのでした。

・・・と、まぁ、内容的にはそれほど面白いものではありません。自ら思考能力を持つコンピュータの反乱というテーマはあるんですが、深く掘り下げているとは言えません。もともと45分程度の南カリフォルニア大学映画学科の仲間が集まって作った物。

劇場公開するため、80分間に引き延ばす際にかなりコミカルなシーンが追加されたようです。はっきり言って、この部分が「ツボにはまる」人もいるかもしれませんが、全体の展開が間延びしてしまう結果になり、主軸となるストーリーにもほぼ無関係。

ピンバックとエイリアン(見た目にも大きなビーチボール!!)の追いかけっこは、やたらと長く稚拙な特撮を度外視しても飽きます。死んだはずの船長の遺体?が、保存されていてドゥリトルが、爆弾20号の暴走を止める相談をするのも、唐突で意味が伝わりにくい。

とりあえず、閉塞した管理社会からサーフィンで脱出した解放感みたいものが最後に漂う終わり方はまずまずというところですが、その先に生命を灯すことはできません。

2021年8月4日水曜日

TOKYO2020 ~ オリンピック精神


オリンピックがたけなわで、日程の半分くらいまで進行しています。

前半は好調の日本も、後半になるとメダルが期待できる競技が少なくなりますが、そこばかりを気にせず選手の一人一人の頑張りを期待したいものです。

1964年の東京オリンピックの当時は、オリンピックに出場できるのはアマチュアに限られていました。スポーツをすることで生計を立てている、プロフェッショナルと呼ばれる人は参加できなかった。

従って、オリンピックはアマチュア・スポーツの祭典という認識が正しかったのですが、いつのころからかプロも参加できるようになった。これは純粋にスポーツを競うのに、プロもアマもないというアスリート側からの意見もあったかもしれませんが、やはり一番の理由は人気のある選手を集めてスポンサーを増やしたい国際オリンピック委員会(IOC)の意向が強い。

プロとアマが混在するのはハンディがあると思われますが、例えばテニス、ゴルフ、野球のようなプロが活躍している種目では、実質的にアマチュアは締め出されている。それがいいのかどうかも議論されるべきポイントかもしれません。

1980年から20年にわたるIOCにおける長期政権を築いたサラマンチ氏が、オリンピックを商業化し拡大した最大の立役者であり、一方で巨大権益の温床として貶めた悪人ともいわれています。

オリンピックは各競技の真の王者を決める戦いというイメージでしたが、サラマンチ体制の時代に各競技はれぞれの「ワールド・カップ」を実施するようになり、実質的なNO.1を決める場としてはオリンピックは機能しなくなってきたと言わざるを得ない。

またスポーツの場に政治を持ち込むことはタブーとされていますが、今大会でも政治色をうかがわすパフォーマンスは競技場の内外で起こっています。それが自国内の問題であっても、他国に対しての問題であっても、利権にまみれたIOCにはそれを批判して制御する力は無いようです。

今回の東京大会では、コロナ渦というかつて経験したことが無い世界的な厄災の中で行われていますが、それが今後のオリンピックのあり方、つまりオリンピック精神を真剣に考え直すスタートになるのかもしれません。

2021年8月3日火曜日

タイム・マシン 80万年後の世界へ (1960)

H.G.ウェルズ原作古典SF小説、「タイム・マシン」が書かれたのは1895年のこと。ウェルズにとっては最初の長編小説であり、近代SFの元祖みたいな話。これを「宇宙戦争(1953)」などの50年代SF映画の巨匠、ジョージ・パルが、映画的アクション部分を膨らませて映画化しました。


1899年の大晦日、発明家のジョージ(ロッド・テイラー)は友人4人を招き、タイムマシンの発明に成功したことをミニチュアで見せますが、誰もトリックだと信じません。何故そこまで時間にこだわるのかと尋ねられ、ジョージは今の現実の世界が嫌で未来に希望を持っていると説明するのでした。

彼らを1月5日にあらためて夕食に招待しますが、時間を過ぎて現れたのはケガをして服はボロボロ、疲れ果てた様子のジョージでした。彼は、人が乗れるサイズのタイムマシンで時間旅行をして見てきたことを話し始めます。

時代を進んでいくと、第一次世界大戦があり、第二次世界大戦では空襲を受け、そして60年代には核戦争が勃発していました。核兵器の爆発を避けるため、スイッチを急いで操作したため、ジョージはいっきに80万年後に移動します。

そこは、若い男女が楽しく野原で過ごす楽園のような場所でしたが、実は最終的に世界の文明を滅ぼす戦争の結果、地下に生き延びたモーロックが、地上に残ったイーロイを家畜として飼育している世界でした。タイムマシンはモーロックに奪われ、収穫されたイーロイの美しい娘、ウィーナ(イヴェット・ミミュー)を助けるために、ジョージはモーロックの地下世界に向かいます。

モーロックを撃退しウィーナを助け出しましたが、ジョージはモーロックの残党に襲われそうになりマシンを始動し現代に戻ってきたのです。ジョージは話し終わって、未来でも友情を持ち続けてくれていたフィルビー(アラン・ヤング)にお別れを言います。不審に思ったフィルビーが戻ると、ジョージとマシンは消えていました。

登場するタイムマシンはいかにも19世紀然としていて、骨董品のようです。しかし、(映画が作られた時代からしても)変にモダンな機械ではないところがロマンを感じます。自分の時代に希望を持てずに未来を目指した主人公は、必ずしもより美しい未来を見つけることはできていません。

それでもウィーナと、彼女の時代を良くしていくことを選択する結末・・・のようですが、原作ではウィーナは死んでしまい、ジョージも時の流れの中に消えてしまう。本来は、戦争に向かう人類を非難し、弱肉強食の社会に警笛を鳴らすことがウェルズの本心だったのかもしれません。

映画としては、当然特殊撮影は今の目からは幼稚ですが、街の風景、天体の動きなどを様々な撮影法を導入し、怪獣映画ではお馴染みのミニチュアの爆破シーンなどを混ぜて、当時としてはそれなりに頑張っている感じです。

小学生の頃にテレビで見てすごいと思ってい以来ですが、古典的SF映画として十分に今も通用する傑作だと思いました。ちなみに、舞台となる802701年というのは、これまでに映画の中で描かれた時代としては最も遠い未来です。2002年にウェルズの孫が監督してリメイク作が作られていますが、さらに原作からは脚色された内容のようです。

2021年8月2日月曜日

Windows11 β


先頃MicrosoftからWindows10の次期バージョンとして、Windows11が秋に公開されるというアナウンスがありました。

2015年にWindows10が発表され、それまでのメジャー・チェンジごとにOSを買い直してインストールし直すというやり方がなくなり、ネットワークからアップデート・ファイルを随時入れ直す方式に変更され、Windows10は、ユーザーは気が付かないところでどんどん新しくなっていました。

MicrospftはWindowsのバージョンとしては、10が最後になるとしていたのですが、数か月前から次期アップデートでは名称がWindows11になるらしいと噂が盛り上がっていたのです。これは、重要な変更点が多々含まれるため、もはや10のままでは不自然ということらしい。

数日前に、開発者用初期バージョンから一歩進んでパブリック用β版が登場したとのニュースを見たばかりでしたが、今日、パソコンによく見かける「まもなく再起動の時間です」が現れ、素直に再起動したら・・・なんと!! Windows11になってしまいました。

実はごく初期からWindows Insider Programに参加していて、過去にもβテスターに参加したことがあるんです(Windows2000の頃)。すっかり忘れていましたが、Windows Updateから自動的にアップデータがインストールされたということらしい。

さて、まずスタート画面ですが、今まで片側に寄っていた日時が真ん中に移動しています。PINをいれるところは白から黒に変更されていました。そして、デスクトップが・・・噂通り、タスクバーの真ん中にスタート・メニューのアイコンとタスクバーにピン留めしたソフトウェアのアイコンが並んでいます。アイコンは平面的から再び立体感があるものに変更されています。

バージョンを確認してみると、Windows 11 Home 21H2 Build 22000.100 となっています。確かに最新版です。開いたWindowの角は丸くなって、アイコンと合わせて全体の見た目は優しい印象になりました。

さしあたって、よく使うソフトウェアについては、おそらく普通に動作しそうですので、特に心配はない。一般のごく普通のユーザーにとっては、あまり問題にはならないように思います。

ただし、スタートメニューが困った。今まではよく使うものはピン留めと言って、アイコンを並べて置けたのですが、新しいスタートメニューは、いきなり絶対に使うことが無いと断言できるMicrosoftのユーティリティだけが並んでいる。今までのメニューを受け継いでくれればいいのに、また一から組見直しは面倒だなぁ。

・・・とか思いながらも、これでしばらくは遊べると喜んでいるのでした。



2021年8月1日日曜日

トランス・ワールド (2011)

これもあえて分類すると、時空を超えた出会いがテーマなのでSF映画の範疇に入ります。そして、やはりアイデア一発勝負で、限られた人数(ほぼ3人、全部だと8人)で、ほとんど山小屋と周囲の雑木林だけで撮影された低予算映画。監督はジャック・ヘラーという人ですが、ほとんど情報が無い。

それでも、脚本が良いいうことだと思いますが、少しずつ不思議が溜まっていって、タイム・ワープという不思議現象を利用して、その謎が解明していく流れは自然です。大作感はありませんが、なかなか良く出来た作品です。ちなみに原題は「Enter Nowhere」で、「トランス・ワールド」はまったくの邦題。

冒頭、一組のジョディとケヴィンのアベックが店に拳銃強盗に入り、店主に「金庫の中の物は気に入らないよ」と言われ、ジョディは引き金を引いてしまう。一転して、夫のアダムと共にドライブ中のサマンサは、ガス欠になったためアダムが助けを探して車を離れて戻ってこないため、林の中を歩いていると小屋をみつけました。

小屋にはトムという青年が先にいて、彼もまた車が故障したためにこの小屋で3日間雨露をしのいでいたのです。翌朝、小屋にたどり着いたのはジョディでした。彼らは、小屋を出ても意図せず再び小屋の前に戻ってしまい、どうにもこの場から離れることができません。

話をしてみると、3人ともまったく別々の場所からここに来たことがわかり、さらに今は、サマンサは1962年、ジョディは1984年、そしてトムは2011年だと言うのでした。そして、近くに防空壕を発見し、この場所を示すポーランドの地図を発見します。

夜、銃を持ったドイツ兵のハンスが現れ、三人は拘束されます。ハンスは、サマンサとジョディが持っていたペンダントが自分のものと同じだったため取り乱しました。そして、ハンスはサマンサの父で「今日」この近くで空爆によって死ぬことになっていることがわかる。サマンサは娘を産むと同時に死んでしまい、その娘がジョディであること、ジョディは強盗殺人で死刑になる前に刑務所でトムを産むことがわかりました。

彼らは、自分たちの不幸な運命を変えるために、ハンスを死なせないようにするしかないと考えますが、それは逆に自分たちの未来の存在を消してしまうことになるかもしれないのです・・・

トムがなかなかのイケメンで、なんか見たことがある顔だなぁと思っていて、途中でクリント・イーストウッドの若いころにそっくりだと気が付きました。あれ、そういえば、この俳優さんの名前は・・・スコット・イーストウッド、息子じゃないですか。そりゃ、似てるはずだ。

サマンサ役はキャサリン・ウォーターストン。ポール・トーマス・アンダーソン監督の「インヒアレント・ヴァイス」で有名になり、最近は「ファンタスティック・ビースト」、「エイリアン・コヴェナント」にも出演。ジョディ役はサラ・パクストンで、ほぼB級要員。

最終的に全員が集まるのは1940年頃のポーランド、異なる未来から集まってきた父であり、祖父であり、そして曾祖父を助けようとする。「ターミネーター」でも、自分の祖先を助けますが、その結果はいろいろ。未来が変わってしまうのか、そのことを含めて時間が進んでいくのか、考えだすとこんがらがってしまうこと請け合いです。

この映画では、あまり小難しいことは抜きにして、それなりのハッピーエンド的なまとめ方をしています。それが本当なのかは時間旅行ができないうちはわからないのですが、少なくとも見終わって嫌な気持ちにはならずにすみます。