2019年3月31日日曜日

盆栽の桜


吉野桜ということで、まぁ結局、ソメイヨシノなんですけど、2016年の開花後に安売りで手に入れた鉢です。

2017年の春は、まったく花芽が出ずがっかりしました。2018年春は、少しだけ花が咲きましたが、かなり寂しい感じでした。

さて、今年は・・・とりあえず、大きくなった蕾の写真です。咲いちゃうと後は散るだけみたいなところがあるので、蕾の方がこれから咲くんだというわくわく感があります。

今年は、枝ぶりからすれば、けっこうまともに蕾ができ始めています。週末の時点で、写真の蕾は開花しているので、来週前半で満開になりそう。

2019年3月30日土曜日

平成の桜


昭和でも、平成でも、たぶん次の時代でも、桜は桜。

何も変わることなく咲き続けるんだと思いますが、一か月後に天皇陛下の退位を控え、やたらと「平成最後の・・・」とセンチになりやすい今日この頃です。

都内では、すでに満開宣言とか言われていますが、この当たりではまだ七分咲きくらい。満開となるのは日曜日以降だろうという感じ。来週一杯が見頃になりそうです。

桜が咲きだすと、ふだんの光景も華やいで春を実感します。何かが終わるというよりも、何かが始まる合図のような印象の方が強いかな。

2019年3月29日金曜日

真夏の方程式 (2013)

東野圭吾原作「ガリレオ・シリーズ」から映画化第2弾として、前作(容疑者Xの献身、2008年)に続き西谷弘が監督、福山雅治主演で作られました。

美しい海が誇りの玻璃ヶ浦で、海底資源開発のための住民説明会に出席するための列車の中で、物理学者・湯川学(福山雅治)は小学生の柄崎恭平( 山﨑光)と出会います。湯川が宿としたのは、川畑一家が営む緑岩荘で、恭平は一家の親戚として夏休みを過ごすためにやってきたのです。

恭平は美しい海の中を見たいけど、泳げないし船も無いから無理といいます。湯川は、理科は嫌いと言う恭平に、真実の探求の大事なことを教えるために、ペットボトルロケットを作って飛ばし、何度も何度も実験を繰り返して、中に仕込んだ携帯電話のカメラを通して海中を見ることに成功します。

16年前に当地に移ってきた川畑家は、足の悪い父親、重治(前田吟)と母親の節子(風吹ジュン)、そして海底開発反対派の急先鋒である娘の成実 (杏)の三人暮らし。実は彼らは、絶対人には言えない秘密を抱えていたました。

元刑事だった塚原(塩見三省)も、何かを確かめるために同じ宿に宿泊していましたが、朝になると変死体となって発見されました。東京から岸谷美砂刑事(吉高由里子)が派遣され、この事件への協力を湯川に依頼します。

2013年4月期に連続ドラマとしての「ガリレオII」か終了してすぐの公開ですから、おそらく撮影開始は映画が先に作られ始めたと思います。主人公湯川の相棒は、柴咲コウ演じる内海から変更されました。ですから、吉高由里子の岸谷は、映画ではまだテレビ・シリーズのようなキャラは立っていません。

ガリレオ・シリーズは、基本的な構成は犯人が初めからほぼわかっています。この映画でも、川畑一家の秘密が深く関与していることは明白ですが、本当の犯人が誰か、そしてその殺害方法についての解明は、湯川が積極的に関与していきます。

普段はこどもが苦手な設定の湯川が、恭平とは交流し、恭平のために積極的に動くのはキャラクターとしては例外的ですが、その中で事件のカギがいろいろと提示されていく流れは、やはり原作のプロットのうまさです。

美しい海の撮影は西伊豆で行われ見所ですが、湯川の大学実験室は登場せず、今回の映画では予備知識無しだと湯川の立ち位置は理解しにくいと思います。全体としてうまくまとめ上げているのですが、家族が抱える秘密が美しい海を守ることにつながってくるとはいえ、海底資源開発の話が浮いている感は否めない。

映画第1作と違い、シリーズを見て楽しめた方が、変人湯川の意外な人間性を確認することを楽しむ映画なのかもしれません。また、ブレーク前の杏の健康美にも注目です。

2019年3月28日木曜日

湯を沸かすほどの熱い愛 (2016)

2016年の日本アカデミー賞は、作品賞は「シン・ゴジラ」に持っていかれましたが、人間が取る最優秀女優賞は、この作品の宮沢りえが獲得しました。

監督は、劇場映画監督デヴューの中野量太で、宮沢りえとは同い年。長年温めてきたストーリーを自ら脚本に起こし、「家族とは?」という大きなテーマに挑みました。タイトル、ポスターなどの写真から銭湯を舞台にした「寅さん」のようなホーム・コメディを想像したんですが・・・

幸野双葉(宮沢りえ)は、夫の一浩(オダギリジョー)と銭湯を営んで、娘で高校生の安澄(杉咲花)を育てていましたが、1年前に突然一浩が失踪し、銭湯は休業、パン屋で働き生計を立てていました。

双葉は、ある日仕事先で倒れてしまい、病院で検査を受けると末期がんで余命数カ月と診断されます。双葉は、自分が死ぬまでに、家族のみんなが抱えている問題を何とかすることを決意しました。

学校でいじめにあっていた安澄には、逃げないことを教え、自ら勇気をもって問題を克服させます。そして、子連れの探偵(駿河太郎)を雇って夫を探し出しました。一浩は、昔の女と連れ立って出ていったのですが、二人の間には鮎子(伊東蒼)という小学生のこどもがいたのです。女は二人をほったらかして、別の男と出て行ってしまいました。

鮎子ともども一浩が戻って来て、四人家族で掃除をして、銭湯を再開することができました。しかし、双葉の体調は確実に悪化しています。一浩は何か欲しいものはあるかと尋ねると、双葉は冗談めかして「前から行きたかったエジプト旅行」と言いました。

双葉は、こどもたちに真実を伝えるために、安澄と鮎子と連れ立って車で旅行にでかけます。途中で、ヒッチハイク中の拓海(松坂桃李)を乗せ、彼の生き方の相談にのりました。そして、静岡の海沿いの店に入った双葉は、店番の女性に高足ガニを注文しますが、いきなり頬を平手打ちしました。

実は、この女性は、毎年高足ガニを送ってくる酒巻君江(篠原ゆき子)で、安澄を生んだ本当の母親であることを伝えるのでした。混乱する安澄に「ちゃんと挨拶してきなさい。あなたは私の子なんだからできる」と言って送り出しました。

しばらくして安澄が戻ってくると、双葉は意識を失って倒れていました。すでに治療手段が無い双葉は、緩和ケア病棟に入院します。子連れ探偵の調査で、双葉自身も、母親から棄てられた存在であることが明かされ、その母親との面会は拒否されました。目的が無かった旅を終えた拓海は、銭湯の手伝いのするために戻ってきました。

一浩は、日に日に弱っていく双葉に、病棟の窓から下を見るように伝えます。そこには、一浩、子連れ探偵、拓海、君江、安澄、鮎子の6人で作った人間ピラミッドがありました。双葉は、「死にたくない」と心の底から思い泣き崩れるのでした。双葉の葬儀が終わって、残された新たな家族は、いろいろな思いを持って銭湯の湯につかりました。

とにかく、どんどん弱っていく宮沢りえの演技がすごい。死に直面して、これだけはやり残して死ねないという情念が溢れ、無条件に涙せずにはいられません。そして、女優として急成長中の杉咲花も素晴らしい。このキャスティングができただけでも、監督デヴュー作として中野監督は幸運すぎる。

ただし、あらすじを整理していても、わかりにくい家族構成の繋がりは複雑すぎて、少しやり過ぎの感は否めません。血の繋がりだけではない「家族の絆」、「母の愛」がテーマですが、そこへ向かって登場人物の関係を作り過ぎでリアリティはありません。

また、末期がんで余命数カ月の間にできることとしては、あまりに解決したい問題が大きすぎる。余命1年、いやせめて半年は欲しい。手がしびれてちゃんと使えないのに、娘二人と車の旅行に出るというのも、現実的ではありません。

最後の場面も、いろいろな想像ができる終わり方なんです。もちろんすべてをわかりやすくする必要はないのですが、もしかしたら普通はそんなことはしないだろうと思えるような感じで共感しずらい。

まさに、作品としてはゴジラに負け、俳優陣に救われたのは順当な結果と言えそうです。監督としては力が入り過ぎ、詰め込み過ぎた内容ですが、大枠では良く出来た映画ですし、繰り返しますが俳優の名演技により涙無しでは見られない作品です。

2019年3月27日水曜日

容疑者Xの献身 (2008)

東野圭吾原作の人気シリーズでテレビ・ドラマ化され、福山雅治の代名詞みたいに有名になったキャラクターが、天才物理学者のガリレオこと湯川学。

ガリレオ・シリーズは、基本的な形式は倒叙法。倒叙法は、犯人は初めからわかっていて、犯人の用いたトリックを明らかにしていくことに主眼が置かれています。「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」などの例を出すとわかりやすい。

この映画はドラマから派生して、ガリレオ・シリーズの長編の一つを映画化したもの。監督は、テレビドラマの関連の物ばかりを扱うフジテレビの西谷弘。

基本的にドラマから続けて作られる映画というのは、ドラマを知らないと楽しめない部分があるので、映画としての独立性が薄くスペシャルドラマで良いレベルの作品が多い。特に連続ドラマの最終回から、話の完結編は映画でみたいなこともあって、今の映画界がテレビ局の影響なしには存在していないことを思い知らされます。

ここでは、湯川学とはどんな人間なのか、そして仲間である内海、草薙との関係性については、映画の中で、ドラマを見ていない人にもわかるように最低限の情報は提供されています。しかし、連続ドラマでの湯川の決め台詞やポーズを使わず、あくまでも主役を犯人側の二人にしたところが、映画としての独立性を高めることに成功しています。

石神哲哉(堤真一)は、かつては数学の天才と呼ばれていましたが、やむをえず研究の道を離れました。今は高校の数学教師で、空虚な毎日を過ごしている、生きる屍のようでした。毎朝立ち寄って弁当を買うのは、アパートの隣人、花岡康子(松雪泰子)の店です。

ある日、元夫が康子の住まいを探し当て、金目当てに脅し、また娘に手を上げたことで争いになり、康子は元夫を絞殺してしまいます。隣からただならぬ音が聞こえてきたため、石神は様子を見に行くと、死体を前に呆然とする靖子と娘に、「私がなんとかします。私の指示通りにするように」と言うのです。

その後、空き地で死体が発見されますが、身元がわからないように顔がつぶされていたり、指紋が焼かれているにもかかわらず、被害者が乗っていたらしい自転車の指紋などから、簡単に特定されます。警察は、元妻の靖子を訪問しますが、鉄壁なアリバイがある。

警察の草薙(北村一輝)、内海(柴咲コウ)は、困ると湯川に相談。靖子が怪しいのだが、アリバイが崩せないこと、隣人が湯川の旧知の石神だったことを伝えます。湯川と石神は学生時代から、お互いを天才と認め合った仲でした。湯川は、事件の解決に乗り出すことにしました。

さすがに、謎解きの要素が強い映画ですから、これ以上のネタバレはできません。この後、天才と天才の心理戦を楽しむことになりますが、表面的に見えていない驚愕の真相もあり、最後まで緊迫感が持続します。

映画としては、原作の力に助けられている部分が大きい。つまり、キャラクターの魅力とトリックの巧妙さが、ストーリーを支えています。さすがに、映像化作品の多い作家だけのことはある。

でも、上から目線的な湯川に対して、原作にはない二人で山に登るシーンでは、唯一立場が逆転し石神の人間性を明確にして二人の関係を強調します。視覚的にもサスペンス度を強めることに成功していることは、映画ならではなのかもしれません。

そして、堤真一の演技が際立ちます。大学で准教授の地位にあり、成功した天才、湯川と比べ、石神は忘れられた存在で、自分ですら自らの存在理由を失いそうになっている。ずっと猫背で、ぼそぼそ話す、ここまでうだつの上がらない風貌の堤真一は見たことがありません。

天才湯川が真相にたどりついても、天才石神は、幾重にも柵を張り巡らし、完璧な数式で湯川に勝利します。しかし、ラストで大声を上げて泣き崩れる。堤の渾身の慟哭は、いろいろな感動を呼び起こすのです。

2019年3月26日火曜日

地下鉄に乗って (2006)

浅田次郎原作の小説の映画化で、監督は篠原哲雄。ミュージカル化もされている。

「鉄道員」のように、主人公が時間を超越する話ですが、こちらは過去に戻ることで、主人公の知らなかった家族の心情を初めて理解していくという話。

暴君の父親(大沢たかお)を持つ、昭一、真次、圭三の三兄弟。東京オリンピックを控え、地下鉄丸ノ内線の開業に賑わう新中野駅の近くに住んでいました。ある日、長男の昭一が交通事故で亡くなりますが、その時の父親の態度に腹を立てた真次は、その後母親の離婚と一緒に家を出ます。

大人になった真次(堤真一)は小さな衣料品会社の営業をしており、息子がいましたが、妻との関係はうまくいかず、同僚の軽部みち子(岡本綾)とは不倫関係にあります。

ある日、父親が倒れたと圭三から連絡を受け、地下鉄の構内で中学の恩師に出会い、真次は過去の自分を思い出しました。そして、気が付くと周りに人がいなくなり電車が走っていないことに気が付きます。

地上に出てみると、そこは東京オリンピックの数日前の新中野駅前でした。そして亡くなる直前の昭一に出会います。いつのまにか、現代に戻った真次でしたが、また地下鉄から何度も過去に戻ってしまいます。

そこには、若き日の父親の姿がありました。希望を抱いて出征していった姿。戦場で命がけで非戦闘員を逃がす姿。命からがら戦地から戻り、生きていくために闇市の親分になった姿。しかも、そこにはみち子も現れるようになるのです。

最後に二人でタイムスリップしたのは、再び新中野駅前。二人は、実の父親が違うことを知った昭一が、発作的にトラックの前に飛び出しところを目撃してしまいます。二人は近くの長い階段の上にあるアムールという名のスナックに行きました。みち子はそっと指輪をはずして、真次の上着のポケットに滑り込ませます。

アムールは真次の父親が、闇市で使っていた通り名。そして、店にいたのは、闇市の頃から父親を支えていた愛人のお時(常盤貴子)でした。お時は妊娠していました。そこへ、昭一の死を知った父親がやってきます。泣きながら悲しむ父親を見て、真次は思わず「昭一はあなたの子で幸せでした」と言うのです。

お時のお腹の子は、実はみち子でした。真次とみち子は腹違いの兄妹だったのです。送り出たみち子はお時に「おかあさんと愛する人を天秤にかけてもいいか」と尋ねます。お時は「親はこどもの幸せを願うものだ」と答えます。みち子は、お時に抱きついたまま店の前の階段を転がり落ちていき、愕然として号泣する真次の腕の中で消えていくのでした。

現代に戻った真次は、再び中学の恩師に会います。その後、地下鉄に乗るとポケットの指輪に気が付きますが、それが何なのかはわからない様子でした。亡くなる前に父を見舞うことができ、また日常に戻っていくのでした。

まず、この映画のタイムスリップについては、いつ起こっていつ終わるのかがはっきりしていないことと、時代考証が甘いので、見ていてなかなか理解しにくい。過去で父親に会うのも、おそらく意図的に時間の流れに合わせていないようで、このあたりも出征前から順番でないと話がつかみにくいところがあります。

細かいことにこだわらず気にしないという見方もあるんですが、特に最後にみち子が異母兄妹との恋愛を清算するために、過去の中で「自殺」を選択するという結末に理解・共感するための努力はもう少し作り手にあってもよかったのではないかと感じます。

明らかにみち子は母親に会う前に指輪をはずすので、早い段階で状況を理解していたはずなんですが、真次の視点で物語が進行しているので、どこで真次と異母兄妹であることを察したのかもよくわかりません。

みち子が死ぬと、現代では彼女が初めからいなかったのように話が終わるのですが、母親が転落で流産したのなら、そもそも最初から存在できない。自殺という結末が、正解なのか理解できないと、みち子に対して共感できません。

主演は堤真一で、昭和の街の光景が出てくるところは、「三丁目の夕日」シリーズを思い出します。ただ、どの時代にスリップしても、堤の格好は平成のサラリーマンなので、異邦人みたいなもの。断絶していた父親の理解を少しずつ深めていく演技は、それなりに見所があるところ。

ヒロインの岡本綾は、何かの空虚さを持っていてしだいに自分のタイムスリップの意味を理解していくという、おそらくけっこう難しい役どころですが結構好演していると思います。ただし、残念ながら、この映画の翌年に芸能界を引退しているようです。

2019年3月25日月曜日

是枝裕和 #12 三度目の殺人 (2017)

是枝監督の作品は、ある意味やっかいなんですが、これはやっかいさにかけては一番です。福山雅治、広瀬すずなどを起用し華やかな話題性があるにもかかわらず、これまでの「家族」をテーマした、さわやかな後味で終わる作品とは一線を画す法廷ミステリーみたいなものです。

重盛朋章(福山雅治)は敏腕弁護士で、依頼者とはともだちになるわけではないから深く内面を知る必要はない、そして依頼者の利益になるなら真実かどうかは二の次と考えています。私生活では、離婚調停中で中学生になった一人娘との関係も必ずしも良好ではありません。

ある時、同僚の摂津(吉田鋼太郎)から、被告人の三隅(役所広司)の証言が一転二転するため、お手上げ状態の強盗殺人事件の弁護をまかされます。実は、被告人は以前にも強盗殺人で有罪判決をうけたのですが、その時死刑にしなかった裁判官は重盛の父親(橋爪功)でした。

事件は、クビになった食品会社社長を河川敷で殴り殺し、財布を奪った上、ガソリンをまいて焼いたというもの。目撃者は無く、物的証拠も少ない、被告人本人の自白だけが決め手になっている事件でした。

重盛は、摂津、部下の川島(満島真之介)と連れ立って拘置所へ面会に向かいます。あらためて概要を確認すると、三隅は確かに自分が殺して焼いたことは間違いないと証言します。重盛は、二度目の強盗殺人だと死刑の可能性が高いため、恨みによる衝動的な殺人として無期懲役を狙う作戦を考えます。

ところが、雑誌記者の取材で三隅は、会社社長の妻斉藤由貴)から依頼されて犯した犯行であると話してしまいます。そして重盛達に、妻から「例の件をよろしく」とメールもらい、前金として50万円を受け取ったと話すのでした。重盛はメールの存在を確認し、むしろ社長の妻が主犯格の嘱託殺人の線で弁護計画を練り直すことにしました。

重盛が三隅のアパートを訪ねると、大家から女の子がよく訪ねてきて楽しそうだったと聞かされます。実は女の子は、殺された社長の高校生の娘、山中咲江(広瀬すず)でした。

咲江に接触するうちに、咲江は父親から性的暴力を受けていたこと、三隅が咲江の心の拠り所になっていたことがわかってきます。咲江は、自分の父親に対する憎しみを感じ取った三隅が、自分ために犯行を犯したというのです。そして、厳しい目で見られることは覚悟で、三隅を救うためにそれらを裁判で証言すると言います。

すでに裁判員裁判が始まっていて、更なる作戦の変更を余儀なくされた重盛は、三隅に咲江の話を確認して向かいます。ところが、三隅は、これまでで証言をひるがえし「自分は現場には行っていないし、殺人もしていない。食品偽装をしていた社長をゆすって財布をもらっただけで、メールもその件だし50万円は口止め料だった」と言い出しました。

本人が否定する以上、それを信じるしかない重盛でしたが、すでに事実認定は争わないという検察官、弁護士、裁判官の間での前提があったためどうにもできません。咲江の証言はかえって邪魔になるため、重盛は三隅を助けたかったら離さないように咲江にお願いするのでした。

判決は死刑。裁判途中での否認は根拠なく、ほとんど考慮されることはありませんでした。三隅は重盛の手を握り感謝を伝え、傍聴席の咲江には見向きもせず退廷していきました。咲江は重盛に尋ねます。「三隅は、催場では誰も本当の事は離さないと言っていた。誰を裁くかは誰が決めるんですか?」

後日、拘置所を訪ねた重盛は、三隅に「咲江が辛い証言をする必要が無くなるように、急に犯行を否認したんですか」と尋ねます。三隅は「そう思ったから、あなたは私の否認に乗ったんでしょう。いい話だ。本当なら誰かの役に立ったということ」と言い、最後の最後まで真実をはぐらかすのでした。重盛は、「あなたは・・・ただの・・・器?」と返すしかありませんでした。

全体の雰囲気を楽しむというよりは、監督のオリジナル脚本による台詞劇の要素が強く、俳優陣のがっぷり四つのぶつかり合いがすごい。笑えるところはまったくありません。

幾度登場する接見室での重盛と三隅の対話は見応えがあり、話の内容も変わっていきますが、両者の態度もどんどん変化しているところはわくわくします。二人は接見室では鏡像の関係にありますが、特に、最後でガラスに映した二人の顔が重なるところは、どっちが話しているのかわからなくなるほど同化している。

この映画は、賛否両論が巻き起こり、かなりの問題作であることは間違いない。最近は、「伏線の回収」という言葉がよく使われ、映画の中で提示された謎がすべて解き明かされないとダメと考える人が多い。そういう方には、この映画は不満しかない。しかし、この作品は、観た者の考える力を試す、イマジネーションを必要とするのです。

最後の最後まで、真実はわからないという意味では、真のミステリーとは呼べないところ。映画のテーマははっきりしていて、「人が人を裁けるのか」ということ。当然、この問いに明確な答えを出せる人はいるはずがない。下手な答えを提示する方が、むしろ嘘になる。

もともと、重盛は「真実よりも依頼者の利益」を優先する弁護士。ところが、証言を次々と変えていく三隅に会って、しだいに真実を知りたくなっていくのです。しかし、最後まで重盛にも真実がわからないまま裁判は終結し、また別の仕事へ向かって行くしかない。

これは、映画を見た観客も同じで、本当の事はいったいどこにあるのか誰もわからないし、わからないことは誰にも裁けないということだけがわかります。監督も、弁護士のモヤモヤを観客にも感じさせたいという狙いがあったようです。

この事件は、表面に現れているような、三隅による金銭目当ての強盗殺人という解釈以外に、いろいろな可能性が考えられます。社長夫人との不倫関係の清算、社長夫人からの依頼による嘱託殺人などが映画の中で示されました。そして、もう一つ咲江が事件に絡んでいる恐ろしい可能性も暗に示しています。殺人そのものは咲江が行った場合、咲江と三角が共犯で行った場合もありうる。

でも、映画のテーマが、事件の真実を見極めることではないわけですから、結局、正解は示されていない以上は、観た者が自分で判断するしかありません。また、謎として残るのは重盛の最後の台詞である「あなたは器?」と、映画の中で出てくる殺人は2度なのに「三度目」というタイトルの意味です。

器の意味は、本当によくわからない。人に対する「器」という言葉は、その人が何かを背負うものを持っている場合に使われます。三隅は、いろいろな人の負の感情を受け止める器ということなのかなと感じました。そして、三度目の「殺人」は、明らかに三隅の死刑を指している。つまり、三隅は人によって一度は死刑を回避しましたが、今回は人の裁きによって殺されるのです。また、それを望んでいたのかもしれません。

いよいよ4月に、最新作「万引き家族」のビデオが発売されます。何とか、それまでに過去の是枝作品をすべで見返すことができました。楽しみ、楽しみ。

2019年3月24日日曜日

ときどき雉


よく通りかかる場所なんですが、けっこうな頻度で雉に遭遇します。

基本的には珍しい鳥ではありませんが、市街地の一角で見かけることはあまりありません。走るのは得意ですが、飛ぶのは苦手なので、棲家はそう遠くないところにありそうです。

少し寄ると、ちょんちょんと歩いて少し離れます。どどっと寄ったら、だぁーっと走って隠れてしまいました。

またお会いした時は、正面からの写真を撮らせていただきたいと思います。

2019年3月23日土曜日

PORSHE


ポルシェは、ドイツの自動車メーカーの一つ。

一般に手に入れることができる高級車の中では、何となく別格と言う印象があるのはどうしてでしょう。

山口百恵の「Playback Part2」で、冒頭、阿木燿子の歌詞は「緑の中を走り抜けてく、真っ赤なポルシェ」と歌われました。目の前を通り過ぎていくように思いますが、実は「ばかにしないでよ」と怒っちゃう本人がハンドルを握っている。

1978年の当時、NHKは宣伝になるという理由で商品名は一切出してはいけないという方針でした。ですから、山口百恵はNHKでは「・・・真っ赤な車」と歌わされていました。そんなことも話題になり、ポルシェはスペシャル・カーというイメージを助けてたかもしれません。

個人的には、大学に入学した時、教授の一人がポルシェに乗っていたのが有名でした。学生担当だったのか、ずいぶんと偉そうだったので、よけいにそういう人が乗る車ということになっちゃった。

ポルシェのエンブレムは、何か自動車の物としては複雑です。実は、本社のあるシュトゥットガルト市(跳ね馬)とバーデン=ヴュルテンベルク州の紋章(鹿の角)を組み合わせたものだそうで、格式高いヨーロッパの中世の雰囲気を醸し出しています。

そんなポルシェですが、紆余曲折あって、今はフォルクス・ワーゲンの完全子会社になってしまいました。

実は、いつも通勤で通る近くに正規店があるんですが、一番安くて700万円くらいからですが、ポルシェらしいポルシェは一千万円以上。まぁ、自分と釣り合う車ではないので見に行く気はありませんけどね。

2019年3月22日金曜日

Retire


ついにイチローが、自ら「引退」を口にしました。

もっとも、去年、実質的には引退していたわけですから、一縷の望みを繋いでいたとはいうものの、この日本での開幕戦は事実上の引退記念試合であろうことは容易に想像できました。

「後悔などあろうはずがない」・・・でも、日本でのこの試合に一本のヒットは欲しかったでしょう。でも、本当に久しぶりの打席ですでに打てないだろうことは、本人が一番わかっていたはず。

でも、チャンスがあれば、そこへ向かって最大限の努力をし続けるのがイチロー。最後の試合は、全力の4打席ノーヒット、1三振というのもらしいのかもしれません。

日米合わせて28年間、野球選手として、アスリートとして世界中から尊敬される姿を維持したことは、本当に素晴らしい事でした。無条件に称賛し、これまでの活躍に感謝するしかありません。

でも、イチローもまだ45才。長い人生で考えれば、まだまだこれから。われわれ傍観者に見える見えないはともかく、また新たな道に進んで活躍していただけるものと思います。

ありがとう、イチロー。

そして頑張れ、元イチロー。

2019年3月21日木曜日

VOLVO


ボルボと言えば、スウェーデンの自動車メーカー。

スウェーデンにはもう一つ、SAABというメーカーがありましたが、すでに破産して消滅。ボルボが自動車の北欧ブランドとしては唯一の物になってしまいましたが、すでに中国企業に売却され、その傘下の会社になっています。

ボルボのイメージは戦車。もともと、外観こそ武骨なデザインでしたが、戦車並みの頑丈さが売りで、安全装備に関してはけっこう国産車には負けない特徴がありました。

とは言っても、それは80年代までの話。最近のものは、デザインも精錬され今風です。安全性については、今でもこだわりをもっているようです。

2019年3月20日水曜日

ちょいと気になる


何がって、大丈夫なのかと・・・

駅前に、というより駅ビルとしてパチンコ店ができてしまったセンター南。自分のクリニックがある駅前という環境としては、正直あまりウェルカムではない。

それでも、何となくテナントは埋まりつつある・・・でも、逆に言うと、ビルができて
だいぶたちましたが、いまだに空きもある。

そんなテナントの一つで、外の歩道に面した食事を提供するお店。プライバシーには配慮されているもののガラス張りなので、とりあえずお客さんがいるかいないかは見えてしまいます。

時々前を通りますが、いつも、満席とまではいかなくても、賑わっていると言うにはほど遠い。この日も昼時にも関わらず客は一人だけ。まったく客がいないことも珍しくない。

だから、大丈夫なのかと・・・大きなお世話かもしれませんけど。


2019年3月19日火曜日

広告終了


開院当初は、クリニックの認知度をいかに上げるか悩むものです。そのために、常識的に考えるのは広告。

自分も、新聞の折り込み、タウン情報誌への掲載、医療機関検索サイトへの登録などをしましまたが、一番お金がかかったのが駅の構内の看板設置。

他の広告は、少しずつやめてしまったのですが、開院以来から現在までに残っている唯一の広告媒体が駅看板です。

横浜市営地下鉄センター南駅、やたらと長いエスカレーターの上の場所。上りでは振り向かないと気が付きませんが、下りは長い時間正面に見えるため、かなり広告効果は高い。

当初は丸々一枚を使っていたんですが、正直に言うと年間百万円近くする広告料がけっこう辛い。1年くらいたってから同じビルのフロアに内科が開院することになった時に、半分を譲って使ってもらうことにしました。

隣の枠は、何度か変わりましたが、こっちは10年以上ずっとクリニックのメインの広告として続けています。

・・・が、なんと・・・

駅の改装工事が始まることになり、この広告が枠が撤去されることになりました。

しかも、なんと・・・

工事終了後も、もしも落下したらエスカレーター利用者がケガをして危険ということで、この場所の広告枠は復帰しないのだそうです。

というわけで、平成の終わりと伴に強制終了です。

駅の中の広告スペースはあらかた埋まっているので、代替えとなる場所がありません。ついに、うちのクリニックは広告らしい広告は皆無ということになります。

でも、クリニックは今でも広告については厳しい制限がありますので、本当に広告したい内容は掲示できません。そもそも、患者さんが集まる最大の要因は、やはり「口コミ」ということは動かしがたい事実だと感じています。

さすがに、今ではこの地域での認知度はそれなりにあると思いますし、この看板の役割もだいぶ無くなっていたのは間違いない。内科と共同使用になったために、辞めるにしても内科が同意しないとできない状況もありましたので、良い潮時なんだと思います。

来月のどこかで撤去されて無くなりますが、閉院と勘違いしないようにお願いします。

2019年3月18日月曜日

是枝裕和 #11 海よりもまだ深く (2016)

是枝裕和監督は、毎回いろいろな形の「家族」を描いていますが、今回登場するのは、「元家族」です。

阿部寛は「歩いても歩いても」で樹木希林と親子を演じましたが、ここでもその再演であり、役柄の名前も良多で一緒。樹木希林も、前回は「とし子」で、今回は「淑子」です(ちなみに阿部寛主演の唯一の是枝監督のテレビドラマでも役名は良多)。

人物設定や歌謡曲に絡めたタイトルも含めて、「歩いても歩いても」の続編的な作品と言えます。

篠田良多(阿部寛)は、50才になろうという年齢ですが、浮気調査はがりの興信所で働いています。若いころに書いた小説が賞を取ったため、いまだに小説家としての夢を断ち切れず、妻の響子(真木よう子)に愛想を尽かされて離婚。一人息子の真吾(吉澤太陽)に月に一度会うのだけが楽しみですが、養育費すらちゃんと払えない。

良多の父も家庭人としては落第でしたが、最近亡くなりました。一軒家に住むことが夢だった年老いた母親の淑子(樹木希林)は、数十年来住んでいる団地に一人暮らしの年金生活。良多はお金に困ると、母親のへそくりを探したりしていました。

今回の真吾との面会日にも、養育費を払えず響子に呆れられますが、良多は真吾を連れ立って母の元を訪ねます。その日は折しも台風が接近していて、天気が急変してきたため響子が迎えに来ました。

さらに天候が悪化したため、淑子は泊まっていくように強く勧めるのでした。しかたがなく、団地にとまることになった夜、響子は良多のふがいなさを指摘し、新しい恋人とのことを探偵していたことにあきれます。

淑子は、「なんで男は今を愛せないのかね。いつまでも失くした物を追いかけたり、叶わない夢見たり・・・楽しくないでしょう。幸せは何かを諦めないと手にできないものなのよ。私は海よりも深く人を愛したことはないわ。ないから生きてられるのよ、楽しくね」と良多に語ります。

響子は、淑子に「よくしてくれてありがたいけと、良多さんは家庭には向かない。でも、また会いに来ます」と言い、淑子は預かっていた真吾のへその緒を響子に渡し涙を流します。

夜半過ぎ風雨がまだ強い中、寝付けない良多と真吾は、近所の公園に出かけて土管のような遊具の中に入りました。「パパはなりたいものになれた?」と聞く真吾に、良多は「まだなれていない。大事なのは、なろうとする気持ちをもっていることだ」と答えます。

そこへ響子が迎えに来ます。「こんなはずじゃなかった。もう決めたんだから、前に進ませてよ」と言う響子に、良多は「うん、わかった・・・わかってた」と答えます。翌朝、天気が回復し三人は、普通の家族のように淑子に見送られて団地を後にするのでした。

良多の上司はリリー・フランキー、後輩は池松壮亮。姉は小林聡美、近所の質屋にミッキー・カーティス、響子の今の恋人に小澤征悦などを配し、中心となる「元家族」の四人の人間模様を浮き立たせてくれます。

今回の作品の舞台は、是枝監督が少年期に実際に過ごした清瀬市の団地でロケされ、私小説ではありませんが、自分が体験した生活の記憶みたいなものが色濃く出ているのかもしれません。

テーマは、映画の中で良多の口から出る「なりたかったものになれる大人なんていない」ということ。登場する大人は皆なりたいものに慣れなかった人たちであり、主人公をその代表として提示しているようです。

映画のメインは、団地に泊まることになった夜、それぞれが一対一で会話をしていく最後の30分間でしょう。それぞれの、相手に対する思いが交錯して、少しずつ家族が元家族になったことを清算していくのです。

是枝作品は、いつでも共感しやすい会話・行動を通じて、登場人物への感情移入をいつのまにかしてしまうのです。ですから、起承転結の大きなうねりといた劇的な展開が無くても、ドラマとしてストーリーが成立していて、見終わった後の後味の悪さがありません。

良多が主人公であり、彼の視点で映画は進行していきますが、真の主人公は母親。名演技が当たり前みたいな樹木希林の出演作の中でも、特に素敵な演技を見ることができます。

ラジオから流れてきたテレサ・テンの「別れの予感」を聞きながら、その歌詞に出てくる「海よりもまだ深く、空よりもまだ青く・・・」に合わせて「私は海よりも深く人を愛したことはないわ」と言う樹木希林の台詞はぞくぞくっとしました。海よりも深いのは「母の愛」ですよね。

2019年3月17日日曜日

交通事故


先週の月曜日、11日のことですが、いつもの出勤途中に車で通過する場所が、たくさんの警察車両で封鎖されていたため迂回を余儀なくされました。

後でわかったのですが、この日の未明、自動車単独事故があり死者が出ていたんです。

住宅街の真ん中の広めの片側一車線で、バス通りでもあり、真っすぐで見通しの良い場所です。半日くらい通行止めが続いたようで、少なからず近隣の方は困ったことだと思います。

ローカルな事件で、あまりニュース報道がされなかったので詳細はわかりませんが、16才の男子高校生4人が乗った乗用車が街路樹と電柱に衝突して1人が死亡、1人が意識不明の重体ということらしい。

少なくとも、無免許運転であることは間違いなさそうですが、それ以上は推測することは控えましょう。

単独事故だったのが唯一の救いですが、死亡したのが同乗者なら、運転していた高校生は16歳にして一生消えない十字架を背負うことになったわけです。

翌日の帰りに、事故現場を通りました。おそらく、亡くなった高校生の関係者でしょうか、泣きながら花を手向けている女性を見かけました。

自分も30年以上車の運転をしていますが、これまではけが人が出るような事故とは無縁。ですが、加害者になってしまう恐ろしさはいつでもありうるわけですから、あらためて気を引き締めてハンドルを握らないといけないと思いました。


2019年3月16日土曜日

見ぃつけたぁ


小さな交差点の一角に、樹々の陰に何やら人らしきものが・・・

見ぃつけたぁ!!

白バイの警察官ですね。

彼は勤務中。おそらく、何かの犯罪を見つけたとたんに飛び出して検挙するため待機している・・・って、まぁ交通違反でしょうから、そんな大げさなもんじゃないとは思いますが。

たぶん、一時停止不履行かなんかの違反を見張っているのかなと。取り締まられる側から、あまり見えないところにいるもんです。

よく物議をかもすことですが、見えるようにしていれば交通違反の抑止力になることは間違いないのに、隠れていたら未然に防げるものも防げないじゃないかと。

でも、確かに警察は犯罪があって初めて動けるというのは、ちょっと理解できるところがあります。

実は、健康保険の枠の中で行う医療も、病気があって初めて保険が適用できるというのが原則。インフルエンザの予防接種のように、予防的なことには保険が使えません。

そこを崩してしまうと、何でもありになっていく可能性は否定できない。

とはいえ、犯罪でも病気でも予防していくことの重要性は、しだいにその理解度が高まっていると思います。

2019年3月15日金曜日

透析中止


もう、ずいぶんと昔のことになりますが、自分の研修医の頃、勤めていた大学病院で、「塩化カリウム事件」というのが起こりました。昏睡状態の死を待つだけの患者さんの家族にこわれた医師が、患者さんを安楽死させたものです。

このような事例は医療界でも初めてのことで、病院内で何度も全職員を集めてのミーティングが行われました。この中で、医療の本質や、医療に携わる人の倫理について討論が行われました。

今では、患者さんの権利として、この時の行為の一部が合法的な行われるような、一定の仕組みと言うのがあります。しかし、それらを超えた事件が発覚しました。

体の老廃物を腎臓から尿に捨てて排泄できない状態は、腎不全あるいは尿毒症と呼ばれます。この患者さんに対して、血液を体外に引き出して機械の中を循環させて人工的に老廃物を取り除く方法が透析です。

通常、1日ごとに半日近くかけて行うので、透析を導入された患者さんの日常は大きく制限されます。また、血液を体外に取り出す場所は、何度も使っているうちに傷んで使えなくなり、最終的には、腎移植を待つしかない。

東京の病院で、透析の患者さんに「透析をしない」という選択肢を提示し、実質的に患者さんの「自殺」の手助けをしたという問題がニュースになりました。

腎機能の悪化により死を目前にしたり、透析そのものができないような状況があれば、透析中止はありと思います。

まだ日常の生活ができているうちから中止して、患者さんの様態がじわじわと悪化していくのを待つというのは、患者さんが自ら強く望んだとしても了承しかねるというのが普通です。

もし、そういう患者さんがいれば、患者さん自ら通院をしなければいいだけの話。患者さんが、自らの意思で消極的な自殺をしたいのなら、積極的な介入はできません。

少なくとも、病気やケガで困っている人を手助けして、少しでも日常に戻れるようにすることが医療の目的であることは、法律論を持ち出すまでもなく当然のことです。人が死ぬことを手助けすることが医者の仕事ではない。

今は治療の選択肢をすべて提示することが求められていますので、その中のひとつとして「治療をしない」という選択肢は存在しますが、命にかかわる場合にそれを推薦したり、患者さんが選択しても回避するように説得するべきです。

末期癌患者さんなどで、苦しまずに死を迎えられるように手助けする医療は存在しますが、これは手の施しようがないことが明らかで、ごく近い将来に死が訪れることが確定している場合。

それを拡大解釈してしまったら、何でもありになってしまいます。何も治療行為をしなければ、遠い将来死ぬかもしれない病気は他にもたくさんありますから。

2019年3月14日木曜日

是枝裕和 #EX いしぶみ (2015)

是枝裕和は、今や、世界中で記憶される映画監督となりましたが、そのキャリアのスタートはドキュメンタリー作家で、初期の監督作品でもノンフィクションを映像化する手法が独特の世界を生み出していました。

しかし、ドキュメンタリー作品については、ほとんどテレビ局での仕事で、現在一般に視聴することはできません。DVD化されて、今でも入手可能なのは、劇場公開もされた2008年の「大丈夫であるように -Cocco 終らない旅-」と、広島テレビ制作のこの作品だけです。

「いしぶみ」は、1945年8月6日、原爆によって全滅した旧制広島県立広島第二中学校1年生321名の記録です。元々は1969年に広島テレビが、松山善三の企画で広島出身の杉村春子が朗読を担当しました。

戦後70周年の節目としてリメイクされることになり、その監督に是枝裕和があたり、そして朗読はやはり広島出身である綾瀬はるかが担当しました。綾瀬はるかの周りに木箱を配して、生徒たちの遺影をプロジェクションで映し出していく演出、そして池上彰が関係者を訪ねる様子を織り交ぜて構成されています。

日本は第2次世界大戦の中で、加害者側であると同時に、唯一の原爆の被害を受けた国として認知されます。自分も含めて、ほとんどの日本人が戦争体験が無く記憶が風化していく現代では、すべての戦争の記録の重要性は増しています。この作品も、それらの記録の一つとして残していくべきものと思います。

ところで、女優・綾瀬はるかとしては、この作品は通常のフィルモグラフィに数えるものではありません。俳優としてフィクションを演技しているわけではありませんが、すでに多くの戦争関係のドキュメントに出演してきた綾瀬はるかの「仕事」の一つとしては無視できないものです。

今後も綾瀬はるかは女優業と並行して、広島出身という立場から、継続されるであろう「語り部」としての仕事も注目していきたいと思います。

2019年3月13日水曜日

是枝裕和 #10 海街ダイアリー (2015)

是枝監督作品は、ドキュメンタリー手法だったり、かなり娯楽性は高めているとはいえ社会性が提起されている作品も多くややハードルは高め。それでも、カンヌの受賞と福山雅治他の人気者を多数登用した甲斐あってか、前作の「そして父になる」は、それまでの是枝作品の興行収入を塗り替えるヒットになりました。

そうなると次回作に対する期待は否が応にも高まるわけで、作る側もそれなりにプレッシャーを感じていたことだと思います。そこで選ばれたのはマンガが原作の本作で、贅沢に4人の人気若手女優を起用して、あらためて家族を考える視点から、力を抜いた抒情性豊かな映像美を見せてくれました。

主演の綾瀬はるかは各賞を受賞し、現在のところ最も演技が高く評価された代表作と呼べるものになりました。公開当時にもブログで取り上げていますが、あらためて是枝作品として、そして綾瀬はるかフィルモグラフィーの完結編として取り上げます。

鎌倉の古びた一軒家に住む三姉妹、長女の香田幸(綾瀬はるか)、次女の香田佳乃(長澤まさみ)、三女の香田千佳(夏帆)。父親は、女を作って15年前に家を出てしまい、その後別の女性と山形で再婚していたのですが、病気で亡くなりました。

その葬儀にしかたがなく出かけて行った三人は、父の連れ子だった、異母妹にあたる浅野すず(広瀬すず)と対面します。父が亡くなり肩身が狭くなったすずに対して、幸は直感的に「鎌倉に来て、一緒に暮らさないか」と誘うのでした。そして、高校に進学するすずを加えて、四姉妹の生活が始まりました。

ストーリーは、四人の日常を、まさに日記のように綴っていくので、あらすじは大変書きにくい。どうしても知りたい方は、ネットで検索してもらうことにして、ここでは大幅に省略します。

幸は妹たちの面倒を見る長女としての責任感が強く、出ていった父を許せないし、また自分たちを放置した母親(大竹しのぶ)ともそりが合わない。でも、自分たちの家族を崩壊させた女の娘であるすずに対して、父母がいなくなった理由は違っても、その心情は理解できる。

佳乃も父は好きではなく、幸とも年が近いのでぶつかり合うことが多いけど、姉の大変さはわかっています。ふだんは、恋多き女で好きに生きているようですが、姉妹の間をつなぐ楔のような立場です。

千佳は、ほとんど父の事は覚えていない。父がどんな人だったのか知りたい気持ちがあり、自分より長く一緒に暮らしたすずがうらやましい。末っ子だったので、妹ができることは嬉しく、すずとは友達のように接しています。

そして、すずは、はじめは姉三人への遠慮がありますが、誰よりも父をよく知っていることが心の強みなのかもしれません。姉たちと少しずつ心を通わせていくうちに、張りつめた気持ちが解きほぐされ、本来の快活な性格が開放されていきます。

この四人に、多彩な人々が絡んで物語が進行していきます。大叔母(樹木希林)、近くの海猫食堂を営みこどもの頃から姉妹を知る二宮さん(風吹ジュン)、父との古い友人で山猫亭店主の福田さん(リリー・フランキー)、幸の恋人の椎名(堤真一)、佳乃の上司の坂下(加瀬亮)、千佳の勤め先のスポーツ店店長の浜田(池田貴司)、すずに好意を持つ同級生の風太(前田旺志郎)など、なかなか豪華な脇役のキャスティングも見所です。

最初にこの映画を見て、誰もが素晴らしいと思うのは、一年かけて古都鎌倉の四季をふんだんに織り込んだ映像です。撮影は、「そして父になる」から、是枝組へ参加した瀧本幹也で、もともとスティルカメラによる写真家として培ったノウハウを動画に生かした腕を監督に買われました。

そして、悪く言えば日常を描いているだけの起伏のはっきりしないストーリーにもかかわらず、この映画が素晴らしいのは、誰でも感情移入しやすい普通にいそうな四姉妹の設定であり、それを本当に自然に演じた女優さんたちの力だと思います。もちろん、それを引き出す監督の力があってことだと思います。

原作がある映画では、原作を知っている人から否定的にみられることの方が圧倒的に多いのですが、人気のある原作でハードルが高いこの作品で、是枝監督は世界観を共有しながら映画として完成された世界を作ることに成功したと思います。

実は、この映画での綾瀬はるかの、コメディを封印した大人の女性としての演技で、高倉健の最後の映画での綾瀬はるかを思い出しました。健さんの映画をできるだけ見てみようと思うと同時に、「海街」に至るまでの綾瀬はるかがどのように女優として成長したのかも知りたくなったんです。

普段から、天然的な発言が話題になり好感度を上げている綾瀬はるかですが、演じてきた役柄は様々で、言葉を話せない、目が見えない、感情が無い機械、生徒に翻弄される新米教師、天然ギャグで笑わせるなどなど・・・

テレビ・ドラマの役柄も同様ですが、「あなたへ」のあと大河ドラマ「八重の桜」で演技に磨きをかけてどんな役でもこなせる自信をつけ、そしてこの「海街」で女優としてのポジションを確立したように思いました。

2019年3月12日火曜日

あなたへ (2012)

高倉健は、2014年に83才で亡くなりました。長い健さんの俳優としてのキャリアの中で、最後の作品となったのが、長年の付き合いとなる降旗康夫監督による7年ぶりの主演作「あなたへ」でした。

「鉄道員」が、一緒に映画作成に携わってきたスタッフとの同窓会のようなところがありましたが、この映画は過去に共演してきた俳優仲間が登場すると同時に、これからの活躍が期待される若い役者と積極的に関わった作品となりました。

富山刑務所の刑務官として暮らす倉島(高倉健)は、亡くなった妻、洋子(田中裕子)からの手紙を受け取ります。洋子は死の直前に、2通の手紙を用意し、一通は倉島本人に、そしてもう一通は故郷の長崎・平戸の郵便局留めとしていたのです。

倉島への手紙には、遺骨は平戸の海に散骨してほしい、そして平戸へもう一通の手紙を取りに行くように書かれていました。倉島は、いつか二人でゆっくり旅をしようと自ら改造したキャンピングカーで、長崎に向かって二人の思い出の地を巡る旅に出発します。

岐阜で、元国語教師で妻を亡くして一人でキャンピングカーで旅をしているという杉野(ビートたけし)と出会います。杉野は、旅と放浪との違いを、「目的が有るのが旅で無いのが放浪、そして帰る場所があるのが旅」と言い、種田山頭火の歌集を倉島に渡します。

大阪では、全国の物産展を巡り歩いて弁当の実演販売をしている、明るく元気な田宮(草彅剛)に頼まれ、デパートでの仕込み・販売を手伝うことになりました。4年前から、田宮には年上の南原(佐藤浩市)という部下がいますが、南原は過去に何か秘密がありそうでした。

下関で、杉野と再会しますが、杉野は車上荒らしとして手配されていたため警察(警察官は浅野忠信)に連行されてしまいます。倉島は、富山への照会で身分がはっきりしたので、日頃から気にかけてくれる塚本(長塚京三、その妻は原田美枝子)に電話で無事を知らせます。

門司で、再び田宮と南原と飲みに出かけ、自分の旅の目的を話しました。田宮は酔ってくると、「実は妻が不倫をしているために、家に帰れないから全国を移動するこの仕事をしてる」と打ち明けてきます。南原は、平戸で散骨のための船がみつからなかったら大浦吾郎を頼るようにと、連絡先の書いたメモを渡してくれます。

郵便局の局留めの保管期限である7日目に平戸に到着した倉島は、妻からの最後の手紙を受け取りました。そこには、平戸の灯台から鳥が飛び立つ絵と「さようなら」の言葉だけがかかれいました。

ちょうど台風が接近し、海は荒れていたこともあり、漁協では船を頼むことはできませんでした。食事に入った食堂は、母の多恵子(余貴美子)と娘の奈緒子(綾瀬はるか)の二人がきりもりしていて、多恵子は倉島の持っていたメモにはっとします。倉島の事情を聞いた奈緒子は、婚約者の卓也(三浦貴大)に協力するように頼みます。

大浦吾郎(大滝修治)は卓也の祖父だったので、卓也は倉島を吾郎のもとに連れていきますが、吾郎は船を出すことを断ります。大荒れの天候となり、倉島は食堂の隅を借りて夜を過ごすことになりましたが、多恵子から夫は余計なことに手を出して失敗し、7年前に荒れた海に出た切り帰ってこないという話を聞かされます。

台風が過ぎ去った翌朝、倉島は平戸の町の古い写真館の入り口に、こどもの時の洋子の姿を見つけるのでした。そして、二通の手紙を灯台の見える丘の上から、風に乗せて飛ばしました。あらためて吾郎を訪れ船を頼むと、今度は引き受けてくれました。夜、多恵子が倉島に「あの人にみせてあげたいので、海で一緒に流し欲しい」と、奈緒子と卓也の婚礼写真を託します。

翌日、吾郎の船、卓也の操船で出港した倉島は、静かに散骨を行いました。吾郎は「久しぶりにきれいな海をみた」と言います。倉島は、平戸の郵便局で辞職願を投函すると、まだ門司で仕事していた南原を呼び出します。倉島は、洋子は「あなたにはあなたの時間が流れている」と言いたかったのだとわかったと話し、多恵子に託された写真を南原に渡すのでした。

「網走番外地(1965)」から見始めて、いよいよこの映画が健さんの最後の映画と思うと、それだけで感無量です。そこには、もう若々しくない老人の健さん(撮影時80才)がいて、それでも10才くらいは若い役を演じています。さすがに、少し無理があるように思いますが、そんなことも簡単に許容できてしまう。

かっこいい啖呵を切るわけでなく、スカっとするアクションもしないし、何かの美学を語るわけでもありません。ただ、先に行った妻の思い出を辿って、しばしば涙する老人がいるだけです。

スター、高倉健ほど、映画の中の虚像と、実生活から来るイメージのギャップが少ない俳優はいないように思います。もちろん、自ら多くを語ることはありませんでしたので、他人の評判からの推測にすぎませんが、礼を持って接するなら若かろうが新人だろうが、健さんは真摯に応対したといいます。この映画で初めて共演した俳優も、そんな健さんの最後を飾ったこの作品は、大きな意味を持っていると思います。

田中裕子とは、「夜叉」、「ホタル」に続いて3回目の共演。この映画の洋子は、「ホタル」で恋人に死なれた絶望から健さんによって勇気を与えられた知子を思い出させる役柄です。ここでも、恋人が先立ち健さんによって生を全うしました。

死を目前にした彼女から出されたクエスチョンが、この映画の主題になります。いわゆるロード・ムービーといわれる体裁をとりながら、健さんは妻の問いかけの答えを探す旅に出発し、「夜叉」で共演したビートたけし、かつての東映の仲間、三国連太郎の息子である佐藤浩市、そして何度も共演してきた大滝修治らと出会います。

それは、健さんの映画人生を少しだけ振り返る旅ということも言えそうです。少なくとも、降旗監督は心のどこかでそれを意識していたに違いありません。次の企画もあったと言いますが、監督は健さんの最後の映画になるかもしれないことを心の片隅に秘めていたと思います。

その一方で、孫のような世代の草彅剛、綾瀬はるか、三浦貴大らとも分け隔てなく対峙して、それぞれの心の隙間を感じ取っていくことができるのもいかにも健さんらしい。綾瀬はるかは同じ年に公開となった「映画 ホタルノヒカリ」とは真逆の、小さな漁村のちょっと勝気な娘を見事に演じています。

結局、妻からの謎の本当の答えはよくわかりませんでした。健さんは最後に、一定の答えを口にしていますが、それでは結局二人の生活は何だったのだろうかという気がしてしまいます。洋子は自分の生まれ故郷を見てもらうことで、健さんによって自分がいかに幸せな人生を過ごしたかを伝えようとしたのでしょう。最後のメッセージは「さようなら」ですが、そのまま「ありがとう」と読めてしまうのだと思います。

なぜか、それが健さん自身からのメッセージのように感じてしまいます。数々の心に残る役を演じてきた健さんに、そっくりそのまま「ありがとう」とお返ししたくなるのでした。

東映時代の物を除いて、ここまで見てきた高倉健主演映画で、見ていない作品はヤクザを演じる「冬の華(1976)」以外に、あと「海へ -see you-」と「四十七人の刺客」の2作品があります。見ていない理由はBluerayでの発売が無いことと、一般的な評価が低すぎるという理由からです。

「海へ -see you-」は1988年の作品で、監督は「南極物語」の蔵原惟繕で、パリ・ダカール・ラリーを舞台にしたもの。3時間の長尺で、脚本が破綻しているといわれています。

「四十七人の刺客」は1999年の作品で、監督は自分も好きな名匠市川崑。しかし、忠臣蔵を独特の視点から取り上げたことで、共演の宮沢りえ以外にはあまり評判は芳しくありません。

今後、任侠物は嫌いなので飛ばした東映物や数少ないテレビ・ドラマ出演作も含めて、鑑賞するかもしれませんが、映画人・高倉健のフィルモグラフィーをたどるのはこれで終了です。

いずれも甲乙つけがたい作品ばかりでしたが、あえて自分にとっての高倉健ベスト5を順序無しで選んでおきます。

新幹線大爆破
遥かなる山の呼び声
駅 STATION
居酒屋兆治
鉄道員 (ぽっぽや)



2019年3月11日月曜日

単騎、千里を走る (2005)

高倉健は海外の映画にもいくつか出演していますが、最初は「燃える戦場(1970年アメリカ)」、続いて「ザ・ヤクザ(1974年アメリカ)」、そして松田優作の遺作となった「ブラック・レイン(1989年アメリカ)」、さらに中日ドラゴンズ監督を演じた「ミスター・ベースボール(1993年アメリカ)」があります。いずれも主役ではありませんが、それなりの存在感を示したと評価されています。

この作品は、中国と日本の合作ですが、企画そのものは監督をした張芸謀(チャン・イーモウ)が、健さんの映画を作りたくて長年温めて来たもの。一部に日本でのシーンがありますが、そこだけは健さんを知り尽くした降旗康男が監督し、木村大作が撮影しました。健さんの主演映画としては、「ホタル」以来4年ぶりになります。

高田剛一(高倉健)は、息子の健一(中井貴一、声のみで姿は登場しない)とは、10年以上疎遠になっています。嫁の理恵(寺島しのぶ)から、健一が病気と知らされ病院を訪れますが、病室の中から「会いたくない」という健一の声を聞き、黙って引き返しました。追いかけてきた理恵は、せめて健一の仕事ぶりがわかるからと、ビデオ・テープを渡します。

ビデオは、健一が訪れた中国の伝統的な仮面劇の紹介でした。その中で健一は、中心役者となる李加民と来年再訪して、三国志の関羽にまつわる「千里走単騎」を歌ってもらうことを約束していました。高田は、健一に代わってそのことを履行しようと中国に渡ります。

しかし、李加民は喧嘩で相手をケガさせたため刑務所に入っていていることがわかります。高田は、必死に関係部署を回って頭を下げ、息子との関係を修復するために、どうしてもビデオで撮影したいとお願いします。やっとのことで、撮影ができることになりますが、李加民は遠いところにいる息子に会いたい気持ちから泣き崩れて歌うことができません。

高田は、息子の楊楊に会いに行くと、親のいない子供は村全体で育てているといい総出で出迎えてくれました。村長の許しが出たので、楊楊を連れて戻ろうとする途中で楊楊は逃げ出してしまいます。追いかけた高田は道に迷ってしまい、二人は一晩野宿をすることなりました。

翌日、村人らの捜索で助けられた高田は、父親に会う心の準備がまだできていない楊楊の気持ちを尊重して刑務所に連れていくことを諦めます。戻る途中で、理恵から健一が肝臓がんで昨夜死んだことを伝えられました。

そして、父親が自分の代わりに中国に行ったことを喜んでいたこと、せっかく見舞いに来たのに会わなかったことを後悔している手紙があると教えられました。健一は、父親だけでなく、自分もずっと仮面をかぶっていた、素顔で話をしたいと言っていました。

高田は、刑務所を再訪し、もうビデオはとらなくてよい事を伝え、李加民にこどもを連れてこれなかったことを詫び、撮ってきた写真を見せました。こどもの姿に涙した李加民は、健一にも見てもらいたいので是非撮影してくれといい、精一杯「千里走単騎」を歌って踊るのでした。

また、メインの中国の様子と日本のパートと質感の違いは、監督の違いと言ってしまえばそれまでですが、映画の中の違和感につながるかもしれません。

主人公を心情は、映画の中で少しずつ感じ取ることで感情移入していけるのですが、状況は健さんのモノローグで唐突に説明されるだけ。肝心な、主人公と息子の関係性が、せっかく中井貴一を起用しながら声だけなので薄まっています。

しかも、健さんは中国語は話せず、少しの日本語しかわからない現地ガイドと行動を伴するので、ほとんど台詞らしい台詞がありません。数少ない健さんの台詞のやり取りが、中国語に通訳され戻ってくるのももどかしい。

これらのことが、健さんの映画として、あまり振り向かれていない理由になっているのかと思います。しかし、日本でも中国でも、言葉は違っても変わらぬ親子の関係を淡々とした映像の中で表現しようとしていることは感じることができました。

2019年3月10日日曜日

是枝裕和 #9 そして父になる (2013)

第66回カンヌ国際映画祭 審査員賞を受賞した、是枝監督の劇場長編映画の9作目。カンヌ受賞だけでなく、人気者の福山雅治が父親役で主演したことも大きな話題になりました。

実際に父親になった是枝が、「父親とは?」と考えるようになり、1970年代に社会問題化した赤ちゃん取り違え事件を取材した奥野修治のドキュメント「ねじれた絆」をヒントに脚本を描きあげました。

テーマは、ずはり「家族とは」 という、基本的ですが実ははっきりと答えを出しにくい問いかけであり、これまで是枝の映画でもずっと内在してきたもの。今までは、単一の「家族」を描くことで、その様々な在り方を提示してきたのですが、ここでは二つの家族をやり過ぎなくらい対比して、映画的なインパクトを強めています。

野々宮家は、父親は良多(福山雅治)、母親はみどり(尾野真千子)、一人息子の慶多(二宮慶多)。良多は仕事に多くの時間を費やすエリート・サラリーマンで、都内の高級タワー・マンションに住み、レクサスの高級車に乗っています。みどりは専業主婦で、家の事は良多が主導権を握っている。

こども対する方針は、しつけをしっかりして、良い事悪い事をはっきりさせます。稽古事のピアノはうまく成果がでませんが、慶多は両親のために頑張る、やさしい「良い子」で、進学塾に通ったおかげで有名小学校をお受験し合格します。

斉木家は、父親は雄大(リリー・フランキー)、母親はゆかり(真木よう子)、こどもの琉晴(黄升炫)は弟と妹がいる三人兄弟。雄大は地方都市で電気店を営み、けして裕福とはいえないけれどこどもたちと遊ぶのが大好き。乗っているのは、仕事でも使う軽四輪。ゆかりは、夫にも口を出す「肝っ玉かあさん」で、弁当屋で共働き。

教育方針は、よく言えば「こどもの自主性を重視」するですが、ほとんど成り行き任せとも言えなくはない。琉晴は、元気一杯に走り回りやりたいように遊び、食べたいように食べる、ある意味「がさつな子」です。

6年間、それぞれがそれぞれの平和の中で「家族」をしていたのですが、ある日突然、産んだ病院から出生直後に取り違えが発生していたと連絡があり、DNA鑑定の結果、間違いないことが証明されました。当時の担当看護師が、生活の不満から裕福で幸せそうな野々宮に対して、あてつけとしてやってしまったことだったのです。

家族は「血の繋がり」だと考える良多は、慶多はそのままに琉晴も引き取ることを考えます。一方、雄大は、病院に対して慰謝料を気にしますが。「家族は一緒に過ごした時間」だと思っている。

何度かのお試し末、結局、こどもを交換することになりますが、慶多は兄弟のいる賑やかな生活が楽しく、何かとかまってくれる雄大とゆかりに親しんでいきますが、どこかで寂しさも感じている。一方、琉晴はきっちり育てようとする良多とはなかなか馴染めません。

みどりは、一緒に暮らすうちに「本当のわが子」に愛情が芽生えてきますが、それは慶多に対する裏切りと感じるようになっていました。良多も、かつての慶多との生活はかけがえない時間だったことに気が付きはじめます。

そして、ついに琉晴は家出して斉木家に戻ってしまいます。駆け付けた良多に、慶多は「パパなんかパパじゃない」と拒みますが、「できそこないのパパだった。ごめんな。もうこんなことを終わりにしよう」と言って抱きしめます。慶多は雄大から教わった「スパイダーマンは蜘蛛」だってことを知っていたか尋ねます。良多は「ううん、知らなかった」と返事をするのでした。

映画では、時間を優位にするような終わり方をしていますが、「血の繋がり」を否定しているわけではなく、どちらを正解とするかは観た者の判断に委ねられています。ですから、見終わって必然的に「自分は父親としてどうなんだろうか」ということを考えざるを得ないことになる。

ただし、自分を含めて大多数の家族は、血の繋がりがあり、たくさんの時間を一緒に過ごしているので、正解としてどちらかを選択することはナンセンスだと思います。つまり、どっちも正解であり、両方があることで「家族」として成立しているということ。

この映画は、両極端のような家庭を対比させることで、どちらかを選ばせようとするのはずるい。こどもを顧みなかった良多の父親は家族は「血の繋がり」が大事と言い、後妻として良多を育てた義理の母は、良多にうとまれながらも「時間」だと思っています。

実際にこういう立場になることは、想像すらできないことなので、親の目線からは答えはでない。家族の最小単位と言える夫婦は、もともと他人なので「血の繋がり」は無いわけです。

そこへこどもが入ってくると、家族の中に血縁と言う考え方が入ってくる。もしも、正解があるとするならこどもが決めることなのかもしれませんね。少なくとも、スパイダーマンは蜘蛛から生まれたわけじゃない。

ちょい役で、是枝ファミリーの井浦新、樹木希林が登場します。ファミリーといっても、血縁はありませんが、是枝作品をらしくする存在として欠かせない。そこに老婆が登場する必要があるなら、それは樹木希林でなくてはならないくらいになっています。

2019年3月9日土曜日

映画 ホタルノヒカリ (2012)

日本テレビで2007年に放送された、ひうせさとるのマンガを原作とするテレビドラマが「ホタルノヒカリ」で、はじけまくった綾瀬はるかがブレークするきっかけとなりました。

2010年に、パート2である「ホタルノヒカリ」が放送され、そしてその後日譚として映画が作成されました。テレビ版に続いて、監督は吉野洋、脚本は水橋文美江が担当しました。

雨宮蛍(綾瀬はるか)は、会社ではキレキレの「できる女」ですが、家に帰ると縁側でビールを飲みゴロゴロしているだけ、手が届かないものは数センチ先でも取らない「干物女」と呼ばれています。高野部長(藤木直人)は蛍の「できる上司」で、ひょんなことから蛍と同居することになり遂に結婚。

映画は、イタリアへ新婚旅行に行くことになり、ローマでのドタバタの末、めでたしめでたしということで、まぁ中身的にはあまりたいしたものは無く、ドラマを見ていなかった自分でも問題ありませんでした。

さすがに、綾瀬・藤木のコンビは息の合ったギャグで、大いに笑わせてくれます。コメディが得意の綾瀬はるかの役柄の中でも、ダントツに壊れたキャラクターで、これほどまでにバカができることに拍手を送るしかありません。

映画のゲストである松雪泰子の壊れっぷりもなかなかのもので、見る目が変わりました。一方、NEWSの手越祐也は今のチャラいキャラと違い、映画の中で唯一ギャグの無いまともな青年というのも面白い。

お堅いことは考えず、俳優陣のはじけっぷりとたっぷりのローマの有名観光地を楽しむ2時間です。

2019年3月8日金曜日

ホタル (2001)

お馴染みの監督・降旗、撮影・木村、そして主演・高倉健による、東映創立50周年記念作として公開された映画。しかも、もともとの企画は高倉健自らのものというのは珍しい。

昭和64年1月7日、昭和天皇が亡くなったことで、物語が動き出します。鹿児島で漁師をしていた山岡(高倉健)は、透析をしていて病弱な妻の知子(田中裕子)と、こどもはいなくても幸せに暮らしていました。そこへ、旧知の藤枝(井川比佐志)が亡くなった知らせが入ります。

山岡と藤枝は、実は終戦間際に特攻隊として出撃し、偶然に生き残ったのでした。二人の上官の金山(小澤征悦)は、二人より早く出撃し帰ってきませんでした。金山は、朝鮮の出身者で、日本人の許嫁だったのが知子でした。山岡は絶望する知子を支え、結婚したのです。

藤枝の孫が、藤枝のノートを持って山岡の元を訪ねてきました。それは、山岡にあてた手紙の下書きで、生き残ったことの苦悩を吐露し、天皇が亡くなった今こそ、再度出撃するんだという内容でした。

当時、特攻に出撃する兵隊たちの面倒を見ていた食堂のおかみ、山本富子(奈良岡朋子)は、その後も特攻に関係した人々から「お母さん」と慕われ、戦後も死んでいった者たちを弔い続け、少しでも遺品を遺族のもとに戻す努力をしていました。

富子は金山と山岡、そして知子の事情は知っていましたが、金山の遺族が韓国に存命していることを知り、体力的に自分には無理なので山岡に金山の遺品を届けて欲しいと懇願します。富子のこれまでを慰労する会が行われましたが、その席で「彼らを殺したんだ。本当の母親なら、どんなことであっても死なせるはずがない」と泣き崩れるのでした。

山岡は、知子の余命が長くないことを担当医に言われ、ついに知子を連れて韓国に行くことを決心します。韓国で、遺族から歓迎されていない雰囲気の中で、山岡は金山の最後の言葉を伝えるのでした。

私は明日、出撃して必ず成果をだす。しかし、それは日本のためではない。知子のため、そして家族のためだ。朝鮮万歳。自分のことを許してください・・・山岡は、涙を流しながら遺族に伝え、遺品を渡しました。遺族は、金山家の墓地に参ることを許してくれました。そして、二人の前を一匹の蛍が、ゆっくりと飛んでいくのでした。

タイトルの意味は、山本富子が語ったある特攻隊員の話から来ています。出撃して敵船を撃沈させ必ず帰って来ると、ある特攻隊員が言うのです。富子は、どうやって帰れるのかと尋ねると、蛍になって帰って来るんだと。彼が出撃した翌日、一匹の蛍が富子の目の前を飛んでいたということ。蛍は、死んでいった者たちの魂の化身として表現されています。

メイン・テーマは、戦争末期の特攻隊で死んでいった者と生き残った者、それぞれの葛藤です。ただし、慰労会での、富子の絶叫だけが、明確に反戦的なメッセージとして強調されていますが、全体的には「二人で一つの命」だという山岡と知子の夫婦愛を表面的には描くことで、社会性をオブラードに包んでいるように思います。

富子の実在のモデルは、1992年に亡くなっている「特攻の母」と呼ばれていた鳥濱トメさんです。彼女は特攻関連の映画には、度々登場しますが、その最初がこの映画でした。ただし、富子の口から「特攻隊員を(私が)殺した」というセリフを言わせたことは、いろいろと物議の種になりました。

そもそもトメさんが言うはずがない言葉であり、隊員が自ら死んでいったのではなく、国によって殺されたという表現は、見方によっては昭和天皇批判につながるということです。また、日本兵として死んでいった朝鮮人の問題も、今の日本と韓国との問題に無関係ではありません。これらのことについては、自分はどうこう言える立場ではありませんので、コメントは控えます。

「鉄道員」では、年取った演技をする健さんでしたが、ここでは本当に年を取ったなぁと感じました。「夜叉」以来の共演の田中裕子も、ほどよく年を重ねて、自然な壮年夫婦となっています。やたらし涙っぽくなってきた健さんですが、映画としてはメッセージ性をはっきりと打ち出しているところは評価されるポイントなのかもしれません。

2019年3月7日木曜日

あと2か月


自分は昭和生まれですから、とか・・・他人から昭和のおっさん、とか、言われてますけど、それはマイナスなイメージではなくて、どこかで昭和に対しての誇りみたいなものを感じてこそ卑下するわけではないと思うんですよね。

ただし、知っているのは戦後の高度経済成長期が中心。もっとも、その頃を実際に牽引したのは、今の70代、80代の方々で、自分は目撃者にすぎません。でも、まさに「戦争を知らないこどもたち」世代なので、日本が覇権主義のもと、軍備拡張した戦前の時代は知らないし、その時代を知っている人にはどこかでコンプレックスがあるのかもしれません。

平成人はどうなんでしょうか。平成があと2か月で終わるということで、あちこちで平成の総括が行われていますけど、一般には上り調子の戦後昭和と比べると、バブルの崩壊から低迷する時代のように言われることが多い。

そういう意味では昭和の勝ちなんですが、実際は猪突猛進の昭和が見て見ぬふりをして貯め込んだゴミのつけを平成で噴出させたみたいなところ。バブルを知らないこどもたちは、何事にも抑圧された雰囲気を感じていたとするなら、昭和人の責任は重いのかもしれません。

一方、大災害が多発して忍耐を強いられた時代ということもできるかもしれません。それらは、時代の停滞を招きましたが、同時に再興への活力を導き出したことも間違いない。また、価値観を共有する土壌も整備されました。

90年代にPCが普及し始めて、アナログから時代はデジタルに急速に移行したことは特筆すべき点です。ファジーだった価値観が、白黒はっきりするようになり、またそれを表明するネット環境が整った時代です。

ネットは距離感を無くしてしまい、世界中が一気に縮まりました。昭和は交通機関の進歩などによって、物理的に世界へ出ていく環境を作ったわけですが、平成ではデジタル信号がバーチャルに世界を結んで、グローバリゼーションが加速しました。

個人が簡単にまとめられるものではありませんけど、平成という時代が終わろうとしている今ですから、少しずつでも自分の理解を整理しておくことは無駄ではなさそうです。


2019年3月6日水曜日

4月になればPCは


気がつけば3月、しかも雛祭り終わってるし。

何か、今年も・・・というか、ほぼ平成は終了じゃないかと。

周りで、新元号になることを中心として、準備が身近に迫ってきたのが実感できるようになってきました。

レントゲン関連のサーバーなどは、ほとんど西暦で管理されているので、最悪そのままでも大きな支障はなさそうなんですが、電子カルテが一番問題。

厚労省が決めているマスターに縛られているので、いろいろなところで使われるのが、西暦と日本独自の元号が混在しているんですよね。手書きだけの時代から、何で西暦だけとかにしないのか不思議でした。

電子カルテは、個人情報の塊みたいなデータですから、システムはスタンド・アローン環境で運用されます。ということは、ネットには原則として繋げないわけで、自動でアップデートされるわけではありません。

電子カルテ本体は、メーカー・サイドで何とかするでしょうからたぶん問題ないと思いますが、OSとして使われているWindowsについてはどうなるのか。いろいろなデータ処理にMicrosoft Officeも使っていますので、これもアップデートされないと困る。

Windows updateが使えないので、いくつもあるPCを外部ドライブをつなげて全部手動でアップデートするんでしょうか。

クリニックですから、全部で10台程度で、大企業や大病院みたいなところよりたいしたことないだろうと言われるかもしれませんが、基本的に管理しているのは自分一人ですからね。

個人的なPCは好きにできますし、多少問題があっても何とかなるんですけどね。新元号が発表されるまであと3週間くらいで、まだ具体策は示されていませんが、4月になるとけっこうバタバタしそうな不安が一杯というところです。

2019年3月5日火曜日

雨鱒の川 (2004)

この映画は、長編劇場映画としては綾瀬はるかの最初の主演作品。監督はVシネマでピンク映画を主に作っていた磯村一路で、一般映画は他に「解夏」なども監督しています。

最も、映画の前半は主人公二人の子供時代の話で、綾瀬はるかが活躍するのは後の半分。しかも、聴覚障害者という難しい役どころ。

北海道の大自然で楽しく暮らす新平(須賀健太)と小百合(志田未来)。耳が聞こえず話ができない小百合は、新平の言葉だけは聞こえ、新平も小百合の言いたいことが自然と理解することができるのです。

新平の母(中谷美紀)は、夫が山で遭難して亡くなったため、女手一つで畑仕事や子育てをしていました。夫の事故の原因を作ったのは造り酒屋の小百合の父(阿部寛)でした。

新平は絵を描くのが好きで、小百合と二人で川で遊んでいるうちに雨鱒に出会います。そして、雨鱒とも心を通わせるようになり、描いた雨鱒の絵が世界的なコンクールで入賞しました。その祝いの会の帰りに、疲労がたまって体調を崩していた母が亡くなります。

新平(玉木宏)は小百合(綾瀬はるか)の父の援助で、高校を卒業後は酒蔵の手伝いを始めましたが、絵ばかり描いていて、仕事は失敗ばかり。酒蔵の将来を考える小百合の父は、幼馴染の栄蔵と小百合を結婚させ蔵を継がせるために、新平を絵が描けるという利用で東京に追い出します。

小百合の気持ちは置き去りにして、どんどん結婚の話を進める父。しかし、祖母(星百合子)は、蔵を継いでもらいたい気持ちもありますが、本当に孫の幸せを願って新平に手紙を書くのでした。東京でなかなか絵の仕事が手に付かなかった新平は、その手紙を読んで一気に絵を描きあげると、故郷に戻り結婚式が間近に迫っていた小百合を連れ出します。

追いかけてきた、父親や栄蔵に、小百合は気持ちが通じるのは新平だけだということ、そして二人は互いにつがいの雨鱒のように大事な存在であることを必死に訴えるのでした。小百合の父は、なすすべもなく二人が一緒に去っていくのを見ているしかありませんでした。

まず主として夏の北海道の大自然をふんだんにロケした映像は美しく、それだけで純粋なこどもたちのわくわくして楽し気な様子が気持ちよい。こどもたちだけで、映画を一本作ってもよかったんじゃないかと思えるくらい充実しています。

まだ20代の中谷美紀も若々しくて、男の子を元気に育てるシングル・マザーを好演しています。二人の子役も、演技達者とは言えませんが、雰囲気に溶け込んで無理なく映画の中を走り回っている。

それに比べると、大人になってからのパートはやや深みに欠ける感じかします。しかし、小百合のためと言いつつも本当は蔵の将来を何とかしたい父、蔵も心配ですが孫の幸せを願う祖母らの心情はよく描かれていて、せりふがほぼ無い綾瀬の演技もしっかりしているところが素晴らしい。

多少、嘘っぽい場面もありますが、悪い人が一人もいないので、終始おおらかな気持ちで見終えることができる映画です。

2019年3月4日月曜日

ギャラクシー街道 (2015)

もう、わかっていると思いますけど、綾瀬はるかの出演映画をずっと見ているんですが、残りはだいぶ無くなってきました…

実は、これだけはどうしても見たくなくて・・・というか、前にも何度かチャレンジして見続けられなくて挫折している作品が・・・これっ!!

三谷幸喜の監督・脚本の・・・いや、もう、これくらい評判の悪い映画は他に無いっしょ。三谷作品の中でということではなく、過去のすべての世界中の映画の中でも、ワースト・ランキングに入りそうな勢い。

好きな人にはたまらんというところがあるかもしれませんけど、自分には無理。これを最後に見たんでは、後味が悪すぎる。

というわけで、初めて最後まで見ました。

・・・なので、有名俳優さんがたくさん出てくるのだけは、三谷幸喜の人脈がすごいことはわかりました。それが、ただバラバラにほぼ笑えないえげつないギャグをしているだけ。この世界観が気に入る人って・・・

香取慎吾の傲慢で独りよがりのバーガー店主。まったくつまらない。綾瀬はるかは、その妻役ですが、これもよくわからない。その他の方々も・・・

出演していた方々は、撮影中どう思って演じていたんでしょうかね。

あ~、もうよしましょう。見なかったことにします。

2019年3月3日日曜日

映画 ひみつのアッコちゃん (2012)

言わずと知れた、赤塚不二夫原作の昭和の漫画で、自分たちの世代には「魔法使いサリー」と共に、男の子でも毎週よくテレビで見たアニメ。魔法のコンパクトを使って、少女がいろいろな人等に変身して、騒動を起こしたり解決したりするのは、夢一杯で楽しませてもらいました。

それを実写化する・・・と言っても、こども向けではなく、こどもも含む全世代を対象とした映画、しかも昭和でなく平成の現代に蘇らせるのは簡単なことではありません。荒唐無稽なファンタジーですし、大人の姿をしていても実際はこどもが主役だということを忘れてしまったら、こんなバカげたあり得ない話ということになってしまう。

ある意味、こどもの頃の素直な気持ちを持ち続けている人・・・忘れてしまったこどもの頃の記憶をたどることができる大人かどうか、見る人を測る物差しみたいな映画ではないでしょうか。

小学五年生の加賀美あつ子(吉田里琴)は、大事なコンパクトを落として鏡を割ってしまったため、鏡の墓を作ってあげました。すると鏡の精(香川照之)が現れて、魔法のコンパクトを渡されます。

「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン」と言えば、なりたいものになれる。そして「ラミパス、ラミパス、ルルルルル」と言えば元に戻る。ただし、その秘密がばれてしまうと、二度と変身はできなくなると説明されます。

大人に変身したアッコちゃんは、デパートの化粧品売り場で、赤塚化粧品の企画室で働く早瀬尚人(岡田将生)と出会います。尚人は、大人ではなかなか言えない、的を射た化粧品に対する感想を口にするアッコちゃんに興味を持ち自分の下でバイトをさせることにしました。

当然、中身は小学生なので、大人の社会のことはほとんどわからず、失敗ばかりをするアッコちゃんでしたが、あまりに素直な発想が思いがけない仕事のヒントを尚人に与えるのでした。アッコちゃんの提出した履歴書には「早稲田大学算数学部」と書いてありましたが、尚人はいつか理由を話してくれると思い気に留めませんでした。

赤塚化粧品は、自分たちの営業努力よりも、会社を怪しげな企業の鬼頭(鹿賀丈史)に明け渡そうとする保身だけを考える熱海専務(谷原章介)一派に牛耳られていました。尚人は、何とか良い化粧品を作ることで会社の伝統を守りたいと考えていたのです。

熱海専務は、株主総会で鬼頭らの事実上の乗っ取りを承認させようとして画策してきたのですが、ついに我慢できなくなったアッコちゃんは総会の壇上に上がり、「みんな小学校で教わったでしょ!! 楽してずるしちゃいけない。ちゃんと話し合いをしなくちゃだめ」と意見するのです。アッコちゃんや尚人の説得により、ぎりぎりで熱海一派の再任を防ぐことに成功しました。

鬼頭は実は某国の手先で、尚人らの研究を軍事利用しようと考えていたのですが、乗っ取りに失敗したため工場もろとも研究成果を灰に葬ろうとします。そのことを知ったアッコちゃんは工場に急行し、飼い猫のシッポナに変身して機械の奥の隅に仕掛けられた爆弾を発見します。

そこへ尚人もやってきたので、爆弾の事を知らせたいのですが、今の姿は猫。アッコちゃんは、魔法がもう使えなくなることを覚悟して「なりたいものになれ」と願うのでした。変身したのは、大人の姿。驚く尚人に爆弾を渡し、間一髪工場の破壊を阻止することができました。

その夜、大人の姿のまま元に戻れず泣いているアッコちゃんのもとに、再び鏡の精が現れ「なりたいものになれた?」と尋ねます。アッコちゃんは「本当の大人にはなれなかった」と答えます。鏡の精は「大人って何? 一生懸命働く人? 心の傷みを知る人? 自分の身を投げ出して誰かを守る人のこと? 魔法を使わなくてもアッコちゃんはもうなっているよ」と語りかけるのです。

そして最後にあと一度だけ、コンパクトで魔法を使えるようにしてくれました。アッコちゃんは、そっとコンパクトを手に取ると、「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン、私になれ!!」と願うのでした。

10年後、アッコちゃんは赤塚化粧品の就職試験を受け、尚人の面接に臨むのでした。自己紹介で、「早稲田大学算数学部、加賀美あつ子です」といい、アッコちゃんと尚人は微笑み合うのでした。

監督は「のだめカンタービレ」、「海月姫」などを手掛けた川村泰祐で、本来こども向けの漫画を、大人のためのファンタジーに作り替えました。特にこの映画で示したかったのは、最後の鏡の精の言葉だろうと思います。

ですから、唐突な感じがする工場爆破がいらないという批判的な意見もあったりしますが、株主総会の成功で終わっていたら、ただのドタバタ・コメディになっていました。アッコちゃんが、魔法が使えなくなることを承知で危機を乗り切る場面があったからこそ、大人になるということがどういうことなのか伝わるものが生まれてくるのです。

アッコちゃんの最後のお願いは、「ラミパス・・・」だとばかり思って見ていました。しかし、後戻りの「ラミパス・・・」ではなく、「自分になれ」という、前向きの姿勢を願ったことはよかったと思います。

「ホタルノヒカリ」で人気が爆発した綾瀬はるかには、それをさらに推し進めて自らコメディを演じることに成功していると思います。大人の姿をした小学生をいきいきと演じ、平成の時代のアッコちゃん像として強いインパクトを残しました。

あのマンガを今更実写化してどうなのと思って見始めたのですが、いい意味で期待を裏切られたなかなかよくできた作品に巡り合ったと思います。また、最後に、懐かしいアニメのテーマソングが流れるところもナイスでした。

2019年3月2日土曜日

万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳- (2014)

松岡圭祐原作の「死んだ人が登場しない」推理小説として人気のシリーズの実写映画化。「図書館戦争」、「GANTZ」などを手掛けた佐藤信介が監督。主演の綾瀬はるかにとっては、得意なジャンルであるライトミステリーなんですが・・・

万能鑑定士Qと名乗る凜田莉子(綾瀬はるか)は、持ち込まれる様々なものを豊富な知識を駆使して鑑定する仕事をしています。たまたま鑑定依頼から、宝石強奪事件を未然に防いだことからルーヴル美術館の臨時学芸員の試験を受けることを勧められます。凜田に興味を持った、あまり優秀とは言えない雑誌記者の小笠原(松坂桃李)は、密着取材を始め、凜田を追いかけてパリについていきました。

ルーヴル美術館所蔵の世界的な名画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」を40年ぶりに日本で公開することになったのです。そこで、確かな鑑定力を持ったスタッフを選抜するのが目的で、凜田は美術館で行われた試験に合格します。

一緒に合格になった、真の芸術の価値を愛する流泉寺美沙(初音映莉子)は、翌日ルーブルのスタッフと共に凜田の前に現れ、このあと軽井沢の合宿で学芸員としての訓練を受けることを告げます。

軽井沢での合宿では、たくさん並んだ贋作の中から本物を探す訓練が行われます。これが、精神的な重圧となり、凜田の鑑定力にも影響を及ぼし始めるのでした。ついに鑑定士としての自信を喪失した凜田は、故郷の沖縄に帰ってしまうのですが、訓練の方法のトリックに気がついた小笠原が駆け付け、凜田は再び自信を取り戻します。

実は、流泉寺美沙らは、「モナリザ」を盗み出そうとする一味。自分たちで設定した軽井沢合宿に招いて、本物を確かに鑑定できる邪魔者の凜田を精神的に追い詰め手を引かせようとしていたのでした。

凜田と小笠原は、来日した「モナリザ」の元に急行しますが、偽物とすり替えられた直後でした。凜田は、断片的な情報からその隠し場所を推理し、ついに港から持ち出される直前で本物を鑑定することに成功したのでした。

凜田の抜群の鑑定力、というか推理力の根拠となるのは膨大な知識量なんですが、映画の中では本などを見たままに映像化して記憶する力に長けていると説明されています。実際、そういう力を持った成績優秀の同級生がいたので、自分的には納得できる。

しかし、凜田がまったくわからなかったフランス語を翌日にはぺらぺら話せるというのはさすがにいかがなものか。「読める」まではありだと思いますが、「話す」はやりすぎ。タイトルに見なった「モナリザの瞳」の謎についても、凜田を潰す手段としてはあまり説得力を感じませんでした。

他にも突っ込みどころ満載の脚本で、全体的に強引にストーリーを進めている印象です。映画ですから、中心となる素材以外は簡略化することは許されると思いますが、中心さえ作りが荒いのでは見ていて辛い。

ルーヴルでのロケは映像的には素晴らしく、「ダ・ヴィンチ・コード」にも劣らないスペクタクル感がありますが、難しかったのかもしれませんけど、パリでの展開が少なすぎてもったいない。せっかくのパリで、もっと綾瀬はるかを動かしてもよかった。

綾瀬はるかは、実直過ぎるキャラのため、時々コミカルな状況を作るというのが持ち味の一つですが、この凜田莉子も本来ははまり役になりそうな感じのもの。もう少し、周囲のキャラを作り込んでくれればよかったのですが、突込みばかりでボケがいない漫才みたいになってしまったのが残念です。

2019年3月1日金曜日

坂道のカフェテラス


なんか、安っぽい昭和のアイドル歌謡曲みたいなタイトルを付けてしまいましたが・・・

まぁ、見たままなんですが、実際には昭和というにはだいぶモダン感は強くて、やっぱり平成ですよね。それも、もうすぐ過去の物になりますけどね。

雨が降っても困らないようにスティールパイプの椅子なのかなと思いますが、これが平成モダンな印象になる理由かなと。木製の椅子の方がおしゃれ感は強まるように思うのは昭和の発想かもしれません。

温かい春めいた日差しを浴びながら、午後のティータイムを過ごしたりする、おしゃれな奥様方かなんかが座っていそうな感じです。

Monsieur! un cafe, s'il vous plaît.