年末年始臨時休診のお知らせ

12月28日(水)は午前のみの診療です。  12月29日(木)~1月4日(水)は休診いたします。  ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。    

2022年9月30日金曜日

俳句の勉強 44 月百句 #61~#74


さすがに苦しくなってきました、月百句チャレンジ。

メジャーどころの月に関係する季語はだいたい使い尽くしたので、残りはほとんど聞いたことがないような言葉ばかりです。たださえ、語彙不足・知識不足のところに輪をかけて想像力そさえ湧いてこない。

作句のペースもだいぶ落ちましたが、最初に決めた立冬までという〆切は余裕でクリアできそうなので一安心。それじゃ、いきますか。

#61 沈魚月も傾く艶やかさ

季語は、月が沈もうとしている情景の意味で「月傾く」です。「沈魚(しずみうお)」は水底に棲む魚ということですが、「沈魚落雁」という四文字熟語があり、泳ぎが得意なはずの魚が沈んでしまい空を飛ぶ雁が落ちてしまうくらいの絶世の美人という意味になります。ここでは雁の代わりに月に傾いてもらいました。

#62 叢雲に白にじみたる薄月夜

「薄月」は雲に遮られて光を弱めた月の季語です。そのまんまのの句で面白味はないですね。

#63 記に薄く月読の悲喜不知なりき

季語は「月読(つくよみ)」で、天照大神の弟。単に「記」と言えば「古事記」のこと。古事記や日本書紀では、天照大神やもう一人の弟、須佐之男命についてはたくさんエピソードがありますが、月読命についてはほとんど記載がありません。

#64 居酒屋は月夜烏の庵かな

「月夜烏」は夜通し浮かれている人という意味を持った季語で、これもそのまんまの句。いくらでも類句はありそうです。

#65 幻月や酔ふて箸おく夢心地

「月の暈」と同じような、大気中の水分の影響で月が二重にみえるのを「幻月」と呼び季語になっています。月が二重に見えるようじゃ飲みすぎだと反省しているんだかいないんだか・・・

#66 万年の魅惑の光姮娥かな

月が入っていないのですが、「姮娥(こうが)」が月関連季語になります。中国の故事で、仙女の姮娥が不老不死の薬を飲んで月に逃げてカエルになったという話からきていて、俳句では月の別称として使われます。

#67 杵持つや疲れ知らずの月兎

「月の××」という季語は、文字数が中途半端に多くてとても使いにくい。開き直って、字余りにするか中七を埋め尽くすような作りになってしまいます。省ける物なら「の」を抜いてしまいます。「月の兎」はそんな季語の一つですが、まさに月の模様が兎が餅をついているように見えるということ。これは類想類句以外があったらお目にかかりたいくらいのものです。

#68 ひもすがら月の鼠は常ならむ

「月の鼠」も使いにくい季語。内容も難しくて、仏教の話です。虎に追われ井戸の中に木の根を伝って隠れたら、井戸の底には毒蛇がいて、根を二匹の鼠がかじろうとしていました。虎を罪業、鼠を昼と夜(時が過行く)、毒蛇を地獄に例えているそうです。

#69 月の桂倒れ地の果て現る

「月の桂」も中国古事に由来する季語で、月にはえている500丈、約1500mの高さがある桂の木のこと。切っても切っても生えてくるらしく、この木を切る人のことも季語で「桂男」といいます。

#70 盃の光箸立ての割り箸

「盃の光」は、月という言葉がはいっていませんが、盃に注がれた日本酒に反射する光が月に見たてられた季語。箸立てにたくさん突っ込んである割り箸が芒の代わりというところでしょうか。

#71 月の雪積もることなく路濡らし

「月の雪」は月光に照らされキラキラしている様子を雪に例えたもの。こういうのは、イメージが被りやすく、なかなか発想が飛ばないので面白いものになりません。

#72 灯に映える月の氷を踏んでみる

「月の氷」も雪とほとんど同じことをいいます。あー、面白くない。

#73 泣かれても月鏡に手は届かざる

「月鏡」は満月のこと。これは小林一茶の有名な「名月をとってくれろと泣く子かな」への相聞句です・・・ってかっこいいけど、ざっくばらんに言えばパロディ。実際は月を手に取れるわけがない。

#74 カメラ越し月の顔fオーバー

「月の顔」は月の光のことで、顔と書いて「かんばせ」と読みます。アルファベットを使うという意欲作・・・というか、月を撮影しようとするとけっこう明るいもので、スマホなんかじゃ露出(f)がオーバーしてしまいます。マニュアルで露出とシャッター速度を調整できないと無理。

2022年9月29日木曜日

俳句の鑑賞24 大正女流黎明期

 今でこそ、男性より女性の俳人の方が多いんじゃないかと思うくらいに、俳句の世界では女性が活躍していますが、俳句の原型である俳諧が男性の遊びとして広まった影響で、やっと女性俳人が活躍できる場が登場したのは大正時代になってからのことです。

正岡子規から俳句誌「ホトトギス」を継承した高濱虚子は、大正2年6月号に「自分の家族を中心に女性に俳句をつくらせたところ、なかなかのものだった」という内容の記事とともに「つつじ十句集」という記事を掲載します。

これは、俳人としての虚子の正直な気持ちというより、雑誌編集者として購読者を増やすための今後を見据えた作戦という一面は否定できないと思いますが、それまで俳句を作るというと肩身の狭い思いをさせられていた女性に大きく門を開いたという業績は賞賛されるべきものでした。この女性俳句は好評を持って迎えられ、以後婦人欄はレギュラーの企画になっていきます。


婦人欄の最初の幹事に選任され、最初の女性俳人として活躍したのが長谷川かな女(1887-1969)です。

杓子動かぬ七種粥を恐れけり 長谷川かな女

俎板の染むまで薺打ちはやす 長谷川かな女

虚子は女性が俳句を作りやすいように、台所などの身近な場所を題材に選ぶことを推奨して、「台所俳句」と呼んでいました。この二句はまさに、台所俳句です。最初は、粥が煮詰まって来て、杓子でかき混ぜられなくなったとはすごいもんだということ。次は、薺(なずな)を調理してまな板に色が染み込んだというわけで、当時として男には思いつけないような内容です。

蝶のやうに畳に居れば夕顔咲く 長谷川かな女

西鶴の女みな死ぬ夜の秋 長谷川かな女

かな女の句は全体的に素直で、「ホトトギス」系らしい客観写生句だと思いますが、「西鶴の・・・」は、ほとんど唯一の攻め込んだ句と言えそうです。

秋の蝶死はこはくなしと居士は言ふ 長谷川かな女

死を急がず曼殊沙華見れども見れども 長谷川かな女

老境に入ってからの二句。いろいろと病や不幸も経験してきたのに、静かに達観したかのような静寂の句が印象的です。

阿部みどり女(1886-1980)も「ホトトギス」の黎明期の婦人欄を支えた一人。

小波の如くに雁の遠くなる 阿部みどり女

秋の蝶山に私を置き去りぬ 阿部みどり女

曼殊沙華暗き太陽あるごとし 阿部みどり女

生くことも死もままならず卯月空 阿部みどり女

比較的心情を込めた作風が特徴です。かな女と比べて、暗い雰囲気の句が多く、同じ言葉を用いてもずいぶんと印象が変わってくるものだと思います。

そして、「ホトトギス」婦人欄黎明期を支えたもう一人が、竹下しづの女(1887-1951)です。

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉呼 竹下しづの女

しずの女の最も有名な句。「須可捨焉呼」は「すてっちまおか」と読むとしてあり、真夏の夜に乳を欲しがり泣く赤子は捨ててしまおうか、という強烈な内容ですが、でもそんなことはできるわけがないという愛情の裏返しの表現でしょう。漢文の須可捨焉呼は、正確には「すべからくすつるべきか」と読むところですが、かなりの教養が無いと使いこなせるものではありません。

処女二十歳に夏痩がなにピアノ弾け 竹下しづの女

曼殊沙華ほろびるものの美を美とし 竹下しづの女

黒き瞳と深き眼窩に銀狐 竹下しづの女

同じ時代人とは思えないほど、作風の違いが際立ちます。「台所俳句」とは対極にあるような女性としての自立が目立ち、力強い句調に息を飲むような感じがします。

彼女たちのような先達に導かれて、女流俳句はしだいに時代と共に活況を呈していくことになります。

2022年9月28日水曜日

国葬


昨日、安倍晋三氏の国葬が執り行われました。

多くの議論を引き起こし、国民の理解が得られたとはとても言い難い中で、「強行」された国葬であったと言えます。

岸田総理は、ここまで比較的安定した政権運営によって一定の支持を得られていましたが、今回の「思い付き」の国葬の決定・実行によって失ったものは少なくないようです。

岸田総理にとって、宗教団体と政治の不透明な関りに答えを出さないどころか、疑念が膨らむ一方の中、イギリスのエリザベス女王の国葬が「あるべき姿」をみせることになったのもマイナスになったと言えます。

安倍氏に対して、結果として素直に弔意を示せなくなった方も多かったことでしょうから、今後は国葬を行うためのはっきりとした基準を示すことが大事だと思います。

2022年9月27日火曜日

俳句の鑑賞 23 捨女と千代女


平安の世に広まった和歌は女性中心に嗜まれたのに対して、江戸時代になると連歌という形式で庶民、特に男性中心に発展しました。連歌の最初の「発句」のみを独立させたものが俳諧と呼ばれ、特に松尾芭蕉(1644-1694)によって短詩として文学のジャンルとして確立した・・・というのが、ごく簡単な歴史です。

主として男性のものだった俳諧ですが、ごく少数ですが女性で俳諧師として名を遺した方々もいます。芭蕉とほぼ同じ時代に生きた田ステもその一人。俳号は田捨女、一般に捨女(すてじょ)と呼ばれています。

1634年、現兵庫県丹波市の庄屋に生まれた捨女は、わずか6歳で詠んだとされる句が有名です。

雪の朝二の字二の字の下駄の跡 捨女

読んでそのままですが、雪がうっすらと積もって嬉しくてしょうがない雰囲気がしっかりと伝わります。ただし、6歳で詠めるのか? あるいは本来の捨女の作風と違うなどの疑念もあるようです。

艸よ木よ汝に示すけさの露 捨女

いつかいつかいつかと待ちしけふの月 捨女

「艸」は「くさ」と読み、草の総称、草が並んで生えている様子を意味します。もう一つは、「いつか」を三回もリピートして、名月を待ち望む気持ちが強烈に伝わります。

花や散らん耳も驚く風の音 捨女

夕立に洗いて出るや月の顔 捨女

女性らしい句。突然の強風を「耳も驚く」と表現。月を「顔」と言い、雨で洗って涼し気になるという発想。これらの感性は、男ではなかなか思いつかないもので、捨女の知性を感じさせます。結婚し二児をもうけますが、40歳で夫を亡くし、54歳で出家、1698年、65歳で死去しました。

もう一人、加賀の千代女として知られた与謝蕪村(1716-1784)と同時代の女性俳諧師がいます。加賀の国、今で言う石川県白山市で、1703年に表具師の家に生まれ、幼少のころより俳諧を嗜みました。

朝がほやつるべ取られてもらひ水 千代女

俳句史の中でも最も有名な句の一つと呼んでもいいようなくらい、誰もが知っているものです。最初は「朝顔に」としていましたが、後に「朝顔や」に推敲しています。多くの俳諧を芸術的に否定した正岡子規が、この句も俗っぽいと断じたため俳句としての評価は高いとは言えません。

ほととぎす郭公とて明にけり 千代女

エピソードとして面白い句。「郭公(かっこう)」も「ホトトギス」と読みます。芭蕉門下の俳諧師がやって来た時に、17歳の千代女が弟子入りを志願しました。その際、「ホトトギスの俳句を詠め」と試されたため、一晩中読み続けた最後の一句とされています。

世の花を丸うつつむや朧月 千代女

ともかくも風にまかせてかれ尾花 千代女

千代女の句はわかりやすい。「丸うつつむ」や「風にまかせて」などは女性らしいふんわりとした表現かと思いますが、逆に俗っぽいと評される部分なのかもしれません。

起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな 千代女?

とんぼつり今日はどこまで行ったやら 千代女?

この二つの句は、とても有名です。しかし、いかにも千代女が詠んだという雰囲気はありますが、一般には千代女の作ではないと考えられています。結婚したかについては諸説ありで、52歳で仏門に入り、72歳の時に蕪村の「玉藻集」序文を書きました。1775年、73歳で亡くなっています。

2022年9月26日月曜日

俳句の勉強 43 品詞のいろいろ

俳句作りが上手くなるためには、文語を知らないといけない。文語を知るためには文語文法を勉強すべし・・・と言うのは簡単ですが、いったいどこから手をつければいいのか。

とにかく日本語の言葉一つ一つは、文法的にはその機能から品詞と呼ばれる分類があります。どんな品詞があるのか知っているのがイロハのイ。まずはそこんとこを確認しましょう。

まず、大分類ですが、それだけで文として成立できる自立語と、単独では文にならない付属語に分けられます。付属語は自立語の後ろに接続して使われます。

自立語と付属語の両方に中分類として、語尾変化をしない、つまり活用しないものと、語尾変化をする、つまり活用する物に分かれます。

自立語の活用する物(用言と言います)には、動詞形容詞形容動詞の3つがあり、活用しない物は、名詞(体言といいます)、副詞連体詞接続詞感動詞の5つがあります。

そして、付属語には活用しない助詞と活用する助動詞があり、全部で10の品詞があります。

まず名詞。いわゆる体言は活用しない自立語で、品詞の中では唯一主語になることができる。名詞は細分類され、一般名詞、固有名詞(人名、地名、商品名など)、代名詞(人、場所、方向など)、数詞、形容名詞の5つがあります。

副詞は何かの程度、状態を表し、主として用言を修飾します。連体詞は体言を修飾するもの。接続詞は文と文をつなぐもので、感動詞は独立して詠嘆、応答などを表します。俳句では、接続詞と感動詞は基本的に使うことはありません。

活用する自立語、いわゆる用言は基本的に述語になります。ものの動作、作用、存在を表すのが動詞、形容詞や形容動詞は物の性質・状態を表し、言い切る場合に形容詞は「し」、形容動詞は「なり、たり」で終わります。

付属語で活用がある助動詞は、打消・過去・完了・受身・可能などの意味を付加します。活用しない助詞は、さらに細分類され格助詞、接続助詞、副助詞、係助詞、終助詞、間投助詞の6つがあります。


雪降れり時間の束の降るごとく
 石田波郷

この句の品詞を確認してみます。「雪」一般名詞、「降れ」動詞、「り」完了の助動詞、「時間」一般名詞、「の」助詞、「束」一般名詞、「の」助詞、「降る」動詞、「ごとし」比喩の助動詞ということになります。

これ以上続けると頭がパンクするので、ここではとにかく品詞の種類と呼び名だけ覚えることにして終わります。

2022年9月25日日曜日

俳句の勉強 42 月百句 #47~#60


何と言っても仲秋の名月が月の俳句の主役ですけど、それとは直接の関係の無い「月」もたくさんあります。それらを拾い上げていきたいと思いますが、いずれも秋の季語になります。まずは、シンプルに「月」で始めます。

#47 逆さ月一つの波紋水鏡

湖でも池でも、あるいはそこらに置いた水のたまった盥(たらい)でもいいんですが、月が逆さまに映っている。そこに、ちいさな一つの波紋が生じて水面が揺れました。小さな虫のせいかもしれませんね、くらいの感じです。

#48 若き日に獣にならん月に吠え

狼男が月に向かって吠えているでもいいんですけど、若いうちは獣のように貪欲にいろいろなことを吸収してもらいたものだと思ったということ。

#49 茜夜に月をのせたる坊主かな

これは花札の話。「月に雁」の札は、まさに仲秋の名月の満月を表した葉月(8月)の札。空が真っ黒じゃなんだかわからないと思ったのか、空は真っ赤なんですよね。下半分は黒っぽい坊主頭のような山なんですが、実はこれは芒原らしい。

#50 サンルーフこの夜ばかりはムーンなり

自動車の天井が窓になっている車・・・いわゆるサンルーフと呼ばれているオプションですが、主たる目的は太陽の光を取り込むことと、眺めをよくすること。ただし、名月の時には、月を見ることができるのが便利です。

#51 赤毒蛾螻蛄翻弄月夜哉

「月夜」という季語を使った、ちょっと攻めた句です。どこが攻めているかというと、見ての通り全部漢字だけ。「あかどくが、おけらほんろう、つきよかな」と呼んで欲しい。小学校の学芸会で「月夜のおけら」という演目がありました。赤色のタイツに身を包んだ悪役の毒蛾の役が自分。主役のオケラをいじめちゃうという話で、細かいストーリーは忘れました。赤いタイツが嫌で嫌で・・・

#52 山裾に草の浮き立つ月代や

「月代」を「さかやき」と読むと武士の丁髷のこと。ここでは「つきしろ」と読む月の季語で、月が出る頃に、東の空が明るく見えてくるという意味。

#53 夕月や淡い影追い帰路急ぐ

「夕月」は、厳密には仲秋の上弦の半月までの最初の1/4の月のことで、月の出が早いので薄明るい頃に見ることが多い月。普通に買いやすい蒲鉾の銘柄にもありましたね。光も弱いので、なおさらできる影は薄いということ。

#54 月光に金の彩色穂先揺れ

月光と言えば、月光仮面と来るのは団塊の世代。自分の場合は、忍者戦隊月光です。月の光で稲とか芒の穂先がキラキラしている様子。

#55 無垢纏う月下の艶香待ち侘びる

何か難しい事を言よるなぁ、こういうところが初心者なんですかねぇ。「月下」は「つきのした」なら秋の月の季語なんですが、最初に思いつくのが「月下美人」で、これだと晩夏の植物の季語です。この句だと、どうみても月下美人のことなので、純粋な月からはそれてしまいますが、めったに花を咲かせない白い花と月の白い光を混ぜ込んだらこうなりました。

#56 月の蝕誰が食べたか怪奇なり

「月蝕」も季語です。いついつ月蝕ありますとニュースになると、一瞬でもみたいなと思います。月が欠けてきたのは誰かが食べちゃったせいかもしれない。何て怪奇(皆既)なことよのぉ・・・

#57 月影に言霊浮かび諷詠す

季語は「月影」ですが、昭和人なら千昌夫の「月影のワルツ」を思い出します。月影と言うと、ちょっとロマンチックで、急に言霊が降りてきて素晴らしい句ができた(らいいなぁ、無理だけど)という句です。

#58 隠れたるアルデバランに月の暈

月の周囲に淡い光の輪が見える天文現象を月暈(つきがさ)、ハロー、白虹と言い、季語としては「月の暈」を使います。月暈が出来るとおうし座α星であるアルデバランが、そのハロー
の中に隠れてしまいそうになっている・・・写真をネットで見ました。

#59 落月の余韻を映す眼かな

月の入り、月没のことを季語では「月落つ」あるいは「落月」と言います。太陽の日没ほど印象的ではないのですが、眼に余韻を残すこともあるだろうということ。

#60 月さやか水せせらぐや山のやど

月が鮮やかな様子を「月さやか」と季語で表現します。都会で見るよりも、どこか山の温泉に出かけて澄んだ空気の中で見ればいっそう鮮やかです。

月百句、あと40句。まだまだ続きます。

2022年9月24日土曜日

俳句の鑑賞 22 秋分


昨日でした、秋分の日。

暦の主な事柄は、ほぼ季語になっていますから、俳句の題材として忘れてはならない・・・なんですが、実は「秋分の日」については困った。

何がって、歳時記を見ていても、「秋分の日」あるいは「秋分」を季語として使った例句がすごく少ないんです。講談社の新日本大歳時記では、「二十四節気の一つ。昼夜の長さが同じ」という型通りの説明のあと収載された例句は一つだけ。

嶺聳ちて秋分の闇に入る 飯田龍太

飯田龍太は飯田蛇笏の息子で後を継いだ俳人ですが、「嶺」は山の頂上付近の事で、「聳つ(そばだつ)」は山のへりが角張ってそそり立っている様子のこと。秋分の日に歩いていると、山影に隠れる日の当たらないところに来た、という意味でしょうか。夏と違い、太陽が真上にこないということ。それとも、今日から夜が長くなっていくということかもしれません。父親譲りの格調高い俳句です。

角川俳句大歳時記(第4版)でも、次の二つだけ。

秋分の灯すと暗くなっていし 池田澄子

秋分やもみづりはやき岩蓮華 那須弥生

池田澄子の句は、灯りをつけると、外は思いのほか暗くなっているなぁという感じ。那須弥生という俳人については情報が見つかりません。「もみづり」は脱穀のこと。「岩蓮華」も初秋の季語で、藁などに生えてきやすい植物。脱穀したあとの藁にもう岩蓮華が出てきたということのようです。

講談社の旧版である日本大歳時記には、傍題で七十二候にある「雷声を収む」というのが出ています。秋分の頃になると雷が鳴らなくなるということでしょう。これは春分の頃の「雷声を発す」と対になっている。ただし、これの例句は見つけられませんでした。長いし、秋分と言えばその中に含まれるということでしょうか。

春分の俳句も少ないのですが、この少なさは、季語にまつわる、特に暦がらみの言葉は農耕と密接に関係したものが多く、秋分だからといって特にやらないといけないという作業があまり無いということかもしれません。

ネットでは、もう少し見つけられますが、ここはもう自分でつくるしかない。というわけで・・・

秋分におきていようかねてようか

あー、しょうもな。あえて披露するもんじゃありませんな。

2022年9月23日金曜日

俳句の勉強 41 口語俳句

 口語というのは、いわゆる話し言葉。口語を制定するにあたって、細かい違いを全部同じ言い表し方に統一してしまったため、微妙なニュアンスがわかりにくくなりました。

俳句の場合は、文語を使った方が格調高くなりますが、やや古臭さもあって馴染みにくい人もいるかもしれません。現代に生きている我々としては、普段使わない文語体の言葉は敷居が高いのも事実です。

話し言葉を積極的に俳句の中に取り入れるというのは、やはりホトトギス系から分離独立した新傾向俳句の顕著にみられるようになり、使い方さえうまければ独特の妙味を生み出すものと認知されるようになりました。ただし、口語と文語の混在は、原則としてやってはいけないとされています。


どうしやうもないわたしが歩いてゐる 種田山頭火

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉

例えば、これらの以前にも紹介した句は、まさに口語俳句の名句とされています。もっとも時代が戦前ですから、旧仮名使いにはなっています。

今の感覚として違和感が全く無いもので、口語俳句の定番の名句としてしばしば出てくるのが、池田澄子の作品。

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子

1980年代、作者50歳頃のもの。季語は夏で「蛍」。蛍の短い一生を、蛍の気持ちになって詠んだ句です。何に生まれるかじゃんけんで決めることになって、私は負けちゃったので蛍になったのよ、という何とも切ない心情が込められています。「~たの」という女性言葉の柔らかな着地によって、印象的な余韻を残すことに成功しています。


ピーマンを切って中を明るくしてあげた
 池田澄子

蓋をして浅蜊をあやめているところ 池田澄子

池田澄子は、もちろん文語調の俳句も作りますが、やはり口語の絶妙な使い方にはほれぼれします。ピーマンを切るというだけの行為なのに、「明るくする」という発想は秀逸。アサリを蒸すも、生きたまま殺していると感じるのも作者のオリジナリティ。文語で作ったら、殺伐としてしまったと思いますが、口語で表現が重くなり過ぎない効果が出ています。

一般に、口語は女流俳人の方が、無理なく雰囲気を出して使えるケースが多そうです。勝手に師と仰がせていただいている夏井いつき氏にも、口語調の良いなと感じさせる句があります。

ここでもないわここでもないわとつぶやく蝶 夏井いつき

居留守して風鈴鳴らしたりもして 夏井いつき

口語調の俳句は、短くするのが難しい。どうしても、五七五に収めるのは無理がありそうで、ある程度は柔軟に考えないとダメそうです。ただし、「今」にしっかりと寄り添える内容でないと浮き上がってしまうので、そこらのセンスを磨かないとダメ句にしかなりません。

カンバスの余白八月十五日 神野紗希

若手の女流の注目株筆頭が神野紗希。高校生が出場する俳句甲子園で2001年に優勝し、その時最優秀句に選出された句で、審査員全員を唸らせたという伝説を残したもの。

さて、本来、意識して作るものじゃないんですけど、口語俳句に挑戦してみました。

新小豆さやからポンっと飛び出した

季語は「小豆」で晩秋です。秋に実を付けた小豆(あずき)は、採れたてを新小豆(しょうず)と呼び、乾かすとさやから実が飛び出てくるそうです。口語では、漢字は少な目にして、カタカナも積極的に使うと雰囲気が出るように思います。

新小豆さやよりはじけ飛び出でし

これを文語調にするとこんな感じでしょうか。まぁ、堅苦しいことこの上ない。たぶん口語の方が、雰囲気が楽しい感じで良さそうに思います。

都会ではオリオン座しかわからない

都会に住んでいると冬になって、空を見上げて星座として確認できるのはオリオン座くらいのもの。小学生の時は、確か北斗七星、カシオペアとかの観察日記を作った覚えがあるんですけどね。句としてはまったく面白くありませんね。

まぁ、作ろうと思って作る口語俳句は、やはり難しい。言いたいことの半分も込められないという感想です。自然にできたらいいんですけど、相当に修業が必要そうです。

2022年9月22日木曜日

俳句の勉強 40 ありにけり

俳句って、現代の話し言葉・・・口語で作ってもいいんですけど、意外とこれが難しい。我々凡人は、好むと好まざるに関わらず、ある程度は昔ながらの文語表現を使った方が俳句らしく仕上げることができる。となると、ある程度は文語の知識も整理しておかないといけない。

俳句の「切れ」を作り出すのに重要な働きをしている、「けり」、「や」、「かな」などは頻出の文語表現ですが、いろいろと問題含みなのが「ありにけり」です。

木枯らしの果てはありけり海の音 池西言水

言水は芭蕉と同時代の俳諧師。冬の寒々とした木枯らしにも行き付く先が海の音として聞こえるんだなぁ、という内容の句です。

ここでは「ありけり」が使われていて、一般に江戸時代には「ありにけり」という間に「に」が入る表現は無かったと考えられています(もっとも、明治に近い一茶にはいくつか登場していますが)。「あり」は「存在する」という意味の動詞で、「けり」は過去を表す助動詞で、その一つ前の動詞または名詞と連用形接続をするとされています。

いや、もう、これだけでお手上げ感バリバリなんですが、我慢してもう少し先に進みましょう。俳句では「けり」とくれば、もっぱら終止形の詠嘆の表現。


帚木に影といふものありにけり
 高浜虚子

帚木(ははきぎ)は、信濃国園原伏屋にある伝説上の木で、遠くから見れば箒を立てたように見えますが、近寄ると見えなくなるといわれています。昭和5年の虚子のこの句は、見えなくなる帚木でも、影はあるんだよなぁ、という内容。

「といふもの」とか「ありにけり」で10文字も使っているんですが、かなり曖昧な表現で凡人的には音の無駄遣いみたいに思えてしまいます。例えば「帚木は影はあり葉の摺れ聞こえ」みたいにたくさんの情報を詰め込みたくなるものです。

しかし、虚子は潔く帚木の幽玄なイメージを強調するため、よけいな言葉をバサっとそぎ落としたということ。だったら「帚木に影あり」で終わりでもいいんじゃないかとなる。ある意味、有季定型にこだわる虚子が無理矢理に五七五に引き延ばしたかのようです。実際は、この句では希薄な空虚さが見事に表現されていると評価されています。

明治になって「である」という口語が登場し、これに「けり」が付いて「でありけり」から「で」が省略され、語感をやわらかくするために完了の自動詞「ぬ」の連用形の「に」がはさまった・・・らしい。実務的には、5文字にして音数を整えるという目的もかなりあるとのことです。つまり本当の古語ではなく、なんちゃって文語ということ。

この時期の虚子は、積極的に「ありにけり」を多用し始めました。単純に「あったなぁ」というより、もっと強い詠嘆を柔らかい印象で作り出せることを発見したようです。その影響が広まって、一般化したといわれていますが、単純にこれを真似ることは、中身が薄くなることにつながる可能性を理解しておかないといけません。

秋簾日焼けしたままありにけり

練習のつもりで一句。夏に活躍する日よけの簾(すだれ)ですが、ついつい仕舞わずに秋になっても軒下にぶら下がっている状態を「秋簾」と呼び仲秋の季語になっています。日焼けしてだんだん色あせて、埃もだいぶついていますから、なかなか片付けようという気にならないのかもしれません。


2022年9月21日水曜日

俳句の勉強 39 月百句 #37~#46


基本的に俳句の世界では「月」と言えば秋。空気が澄んでより美しく見えるということですが、月は1年中空にあるので、他の季節でも月を題材にしたくなることはあります。そこで、秋以外の季節の月関連季語を集めてみました。

まずは春。この時期の満月は、やや赤みがかって、にじんだような重たい感じに見えることが多くなり、「春の月」、「春月夜」、「春満月」などの季語があります。

#37 薄紅のゆるり舞い散る春月夜

「薄紅」は、まぁ、桜ですかね。もしかしたら、梅とか桃とかでもいいんですが、月明かりに照らされてゆったりと舞う感じにしてみました。

ぼんやりとして不明瞭な状態を「朧(おぼろ)」と言い、主として雲、霞、霧などの天文現象に使われます。朧にぼやけた月を「朧月」、あるいは「淡月」です。そのような夜は「朧月夜」で、唱歌としてもよく知られた言葉です。月明かりも弱まります。

#38 朧月人の歩みも霞みけり

#39 朧夜のサティに睡魔指もつれ

朧月夜にピアノの練習。課題曲はエリック・サティの「ジムノペデイ」だったりすると、頭の中にも霞がかかってきて睡魔に襲われるかもとれません。

夏になると、夜が短いので月を眺めるチャンスは減りそうです。ただ、月の白く静かに光る様子は、一服の清涼剤と考える人が多かったようです。季語としては、「夏の月」、「月涼し」があります。また、月明かりで地面が白く見えて霜が降りたようだということで、「夏の霜」という言葉もあります。

#40 静まりて天幕照らす夏の月

#41 白玉にこし餡からみ月涼し

#42 夏の霜節電しよう野菜室

夏といえばキャンプ。都会よりも月はきれいに見えて、皆が寝静まったキャンプ場で、テントを白く照らしています。後は苦し紛れの句ですが、夏に霜というと冷蔵庫しか思いつきませんでした。

#43 びちょびちょとびちょりの間梅雨の月

梅雨の時期になって雨天が続き、雨と雨の間に一瞬の雲の切れ目に月が見えると、何か嬉しくなる。とは言ってもじめじめした空気は、必ずしも爽やかとは言い難い。

冬は、寒々と冴えた月というイメージ。「冬の月」、「寒月」、「月冴ゆる」、「月氷る」などの季語があります。

#44 筮持つ易者の震え冬の月

#45 寒月や手套はずせず懐中に

#46 冴月に吐く息曇る眼鏡かな

筮(めどき)は占いで易者が使う筮竹(ぜいちく)のこと。寒さのせいか、それとも何か物凄い占い結果が出たせいなのか、易者の手が震えている。占ってもらう側としては、ちょっと不安になりますね。寒すぎて手袋をつけたままポケットから手を出せないし、吐息で眼鏡が曇って前も見えません。

季節変われど月は月。空を見上げたら月があるという光景は、一年中それなりに人の心情を揺り動かすもの。いつでも、月の変化を敏感に感じられるようになっていたいものです。



2022年9月20日火曜日

台風14号


今回の台風14号は過去最大級と言われ、厳重な警戒をするように言われていました。

昨日九州を南から北へ縦断し、進路を東に変えて、今度は本州の日本海側を西から東へ縦断しています。3連休という方もたくさんいるとは思いますが、とてもゆっくりできなかったことでしょう。

関東は直撃ではありませんが、ドバーっと雨が降ったかと思うと、急に晴れ間が出たりを繰り返し、湿気がすごくてかなり過ごしにくかったですね。

どうも昔のように、過ぎれば天気回復、いわゆる台風一過というのは最近あまり感じなくなりました。この数年は、台風が過ぎても、ずるずると悪天候が続くような印象です。

最近では1967年に台風の年間発生数は最多の39個というのがあり、上陸数だと2004年に最多の10個という記録があります。発生時期も年末までいつまででも可能性はあるので、なかなか安心はできません。

2022年9月19日月曜日

俳句の勉強 38 子規忌


明治35年(1902年)9月19日は正岡子規の命日。

著名人の命日は、俳句では季語として残されています。正岡子規の命日は、「子規忌」あるいは「糸瓜(へちま)忌」、「獺祭(だっさい)忌」という季語になっています。

まずは子規の二人の門弟、虚子と碧梧桐の句を見てみましょう。

門葉の乱れもすこし獺祭忌 高濱虚子

天下の句見まもりおはす忌日かな 河東碧梧桐

「門葉」は血縁関係の一族という意味。そこから家臣、一門という意味合いでも使われます。虚子は、子規亡き後碧梧桐との確執が生じていますので、ちょっと意味深な感じ。一方の碧梧桐は、まさに「らしい」句で、季語無し、「おはす」という当時の尊敬語で、「皆のことを見守っておいでになる」という感じ。

「子規忌」という季語は、3音というところが俳句にしづらい。「子規の忌」という使い方をしている句もありました。また「し、き、き」とイ段の音が続くのも語感がきつく成ります。そういう意味では、子規の別名の「獺祭」とか、好きだった「糸瓜」の方が使いやすいかもしれません。

いずれにしても、忌日を詠むからには、対象となる故人に対する思いを感じさせるところが無いといけません。直接に子規と面識のあった虚子や碧梧桐と違って、「伝承」でしか知るすべがない現代人は、なかなか本質的な部分で難しいのは当たり前・・・という言い訳をしておいて、まずはボヤキ系の句を作ってみました。

子規の忌に眼明くこともなかりけり

月並みと言はれるだらふ子規忌なり

少しずつ勉強しているので、子規忌までにはましな句が作れるようになるはず・・・だったんですが、まったく開眼する気配もなく、おそらくどれをとっても月並みの言われてしまうだろうなというところ。

ちょっとでも俳句っぽくするために、文語表現を使うという姑息な技を知ったかぶりで出してみたものの、目糞鼻糞耳糞の域ですよね。

獺祭忌酒に変わりて三十年

姿消す獺祭残す裾野かな

獺祭は子規が使っていたペンネームの一つに獺祭書屋というのがあったことから。獺祭は、1990年代以来、日本酒の人気銘柄として知られています。これも子規の名前が命名のヒントになったそうです。獺祭は本来は動物のカワウソのこと。ただし、ニホンカワウソは絶滅危惧種、あるいは絶滅したとされています。1970年代末に目撃されたのが最後らしい。子規もカワウソも姿を消しましたが、その裾野はひろくひろがっています。

糸瓜忌に手元にあるのは茘枝かな

糸瓜忌や黒珈琲と三句の挙

瓜科の野菜では、糸瓜は最近はあまり見かけません。うちの冷蔵庫にあるのもゴーヤ(茘枝)だけなので、これで子規を偲びたいと思います。さて、最後はちょっと深みがある句になりました。子規の糸瓜を詠んだ絶筆三句は、執念の作品です。糸瓜そのものも当然なんですが、子規の生き様の最後のこだわりみたいなものが伝わってきます。そこで、自分のこだわりである砂糖・ミルクをいれないブラック・コーヒーを中に挟んでみました。

出来はともかく、俳句を作り楽しむ上で、正岡子規の功績は忘れることができません。少しでも子規にあやかってみたいところで、じたばたするのもトレーニングです。

2022年9月18日日曜日

終わってこそブーム


たぶん、去年くらいから・・・せいぜいここ2年くらいで、雨後の筍の如くに増えた「生食パン」の店。

港北ニュータウンにも数軒が登場しそれなりに話題になっていましたが、今年の春頃から急速な縮小傾向にあるという話が、ネットニュースなどにしばしば登場するようになりました。

センター南にあったこの店も、いつのまにかひっそりと営業を停止して、この店のホームページの店舗リストから消滅していました。

はっきり言って、この「生食パン」というものに対しては、自分は初めて耳にしてからずっと懐疑的に考えていました。

そもそも必ず「焼く」という工程が入るはずのパン作りで、「生」という言葉を使うのは嘘っぽい。一斤が1000円近い値段の「高級パン」で、しかも売り物としては多少の混ぜ物の違いはあってもも基本は一択というのは必ず飽きられるのは必至。

米中心の食事が減ったと言っても、それがパン食文化に取って代わられたわけではありません。炭水化物が全体的に避けられる傾向が強まったもので、パンの原料の小麦粉も炭水化物であることに変わりはありません。

日持ちしないパンを、それも一斤丸々買って、一回で食べきれる家はそうはありません。ましてや、毎日のように買いに来る客がいるはずもなく、たった一つの商品だけで勝負するにはあまりにも危ういと思うのが当然です。

そこに急激な店舗数の増加、原材料の高騰、コロナ渦の制限緩和による自炊減少などの社会的な要因も、業界縮小の原因に加わっている思います。

まさに、急速に拡大し「ブーム」と言える活況を呈していた業界ですが、人々の注目を集めるのが一過性であるから「ブーム」なんですよねという絵に書いたような状況です。

2022年9月17日土曜日

俳句の鑑賞 21 月を詠む


昔から風流な物、美しい物と言えば「雪月花」、あるいは「花鳥風月」という表現があるわけで、詩歌の題材として「月」はありふれたものかもしれませんが、大変重要な要素であることに間違いはない。

月に関する名句とされるものを探してみましょう。

浴して我が身となりぬ盆の月 小林一茶

盆の行事をいろいろやった夜に風呂に使って疲れが取れ、やっと自分に戻ったよという内容。お坊さんの接待とか、いろいろ気を使うことが多い一日です。

初月や影まだしまぬ地のくもり 溝口素丸

溝口素丸は江戸中期の俳人。「しまぬ」は「染みてこない」という意味なので、まだ月の明るい所が見えていないので影もできないということ。仲秋の名月を待ち焦がれている思いを詠っています。

三日月や影ほのかなる抜菜汁 河合曽良

曽良は芭蕉の弟子で、「奥の細道」の行程の大半を共にした人物。菜っ葉や大根の葉を生育を助けるためときどき間引いたものを間引菜、あるいは抜菜(ばっさい)と呼び、汁物に入れたりするそうです。

待宵や水をうごかす白き鯉 長谷川かな女

かな女は大正期の「ホトトギス」の女流最初期の一人。月光を浴びて白く光る鯉の動きで、池に映る満月まであと一夜の月がゆらゆらと揺れている情景が浮かんできます。

名月や兎のわたる諏訪の湖 与謝蕪村

諏訪湖に映る満月が、まるで兎が水面にいるかのように見えたということ。諏訪湖と言えば真冬の「御神渡り」が有名ですから、ここでは兎を神の使いに見立てたのでしょうか。

枝豆を食へば雨月の情あり 高濱虚子

雨が降って月見もできないので、枝豆でも食って寝ちまおう。食べようと思って殻を割ったら中身が無いことがあるので、空っぽのことを雨で見えない名月に例えたのかもしれません。

いざよいや五十年目の新表札 丸山佳子

丸山佳子は、2014年に106歳で亡くなった京都の俳人。名月が過ぎてほっとした時期の「十六夜」と、家の古くなった表札を取り換えた気持ちをかぶせた句です。

木曽の痩もまだなおらぬに後の月 松尾芭蕉

1か月前に木曽まで行って名月を鑑賞した時の句。まだその疲れも取れていないのに後の月の時期になってしまった。痩(やせ)と言っても辛い疲れではなく、まだ名月のすばらしさの余韻にひたっているのにというところでしょうか。

歳時記を見ながら、ちょっといいなと思ったものをいくつか選んでみましたが、とにかく膨大な量の月俳句がありますので、他にいくらでも名句とされるものがあります。これらを少しずつ吟味しながら、自分の作句にいかせたらいいんですけどね。

2022年9月16日金曜日

俳句の勉強 37 月百句 #21~#36

月に関係した季語を使って百句詠む。もたもたやっていると、どんどん時だけが過ぎていきそうなので、集中して出来不出来は二の次に(!!)どんどん作ります。

仲秋の月シリーズ、二十三夜の別名「真夜中の月」の余りものからスタート。最初からギャグみたいな句ですが・・・

#21 幽霊と隣り合わせの真夜中の月

それでは、仲秋の月齢以外の秋にまつわる月関連季語を使っていきます。特に名月と言えばお月見。これに関連したものはたくさんあります。

#22 穂先揺れ千鳥足かな月見酒

芒(すすき)と書きたいところですが、「芒」と「月見酒」で季重なりになるので、ここでは「穂先」という曖昧な表現に留めておきました。揺れてる芒は、酔っぱらっているのかなという内容です。

#23 月の宴月読興じ坏並ぶ

「月読」は、天照大神の弟、月読命(つくよみのみこと)のことで、これも季語になっています。ただし、仲秋の名月にからめると季語としては弱い感じなので使いました。月では、月読命が宴会中。目の前には坏(つき)が並んでいます。坏は古代の食べ物の器のこと。上中下の最初を全部「つき」という音を当ててみました。

#24 箸を止め硝子片手月の宿

「硝子」は「びいどろ」と呼んで、ガラスの酒器のこと。月が良く見える宿にて、月に見入ってしまう様子を詠みました。

#25 今年はズームで分かつ月の友

毎年気心の知れた友人たちと月見をしているという人もいるかもしれませんが、昨今の状況でZOOMを使ってのオンライン月見というのもあるやもしれず。

#26 一杯が二杯三杯月を待つ

#27 川面揺れ酔うているのか月見舟

名月を鑑賞する前に、どんどんお酒が進みますよね。月が出る前の飲み過ぎに注意。屋形船とかで繰り出すと風流ですが、川面に映る月はゆらゆら、ふらふらとして、月も酔っているのかもという感じ。

#28 楽焼の冷めるにまかす月見茶屋

酒無しの月見です。縁台に座り、たててもらった抹茶の入った楽焼の茶碗は、月に見とれているうちに冷めてしまいましたという内容です。

仲秋以外の秋の月もいろいろあります。まずは初秋から。名月の一か月前、旧暦の7月15日は、いわゆるお盆に当たります。十五夜で満月なので、これを「盆の月」と呼びます。

#29 盆の月牛馬より影長く伸び

陰暦の1月と7月の二十六夜は、真夜中に出てくる月を拝むという風習があります。すると阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩が現れて幸運をつかめるらしい。これを「二十六夜待」または省略して「六夜待」といいます。

#30 時の声願掛け逃す六夜待

二十六夜待をしようと月が出るのを待っていましたが、うっかり寝込んでしまい、鶏のコケコッコーで目を覚ましたという残念な話です。


晩秋では、満月の十五夜ではなく、「後の月」と呼ばれる二日前の十三夜が大事。8月の仲秋の名月と共に、これも忘れずに鑑賞しようと言われていました。ちょっと欠けているくらいが乙な物で、風流だと思われていたということ。どちらかしか見ないのは「片見月」といわれてダメらしい。「名残(なごり)の月」とも言われていました。

8月を「男名月」と言うのに対して、9月は「女名月」です。それを強調したのが「姥月(うばづき)」ですが、今ならちょっと怒られそうな表現です。空気も少しひんやりとしてきた頃になります。

#31 後の月一枚羽織り手を合わす

#32 鍵無くば開かぬ錠前片見月

#33 十三夜今日の試験も九十点

#34 大小の帰燕の影絵名残月

#35 月遅れ女名月愛おしむ

#36 更級の惑いにさすや姥月夜

言葉こそ違えても同じ月についてのことですから、細かく違いを言い換えるのは難しい。鍵と錠前は2つ揃って役に立つもの。満点の満月ではないので、惜しいところの90点。燕が去っていく頃なので、渡ってきた時とは違い親子連れなどなど。

姥と来ると、すぐに連想するのは姥捨山の伝説。食い扶持を守るため、年老いた老婆を山に捨てに行くという話はいろいろある。長野盆地の更級(さらしな)も、そういう伝説が残る場所で、平安時代の菅原孝標女による「更級日記」で有名な地。芭蕉も「更科紀行」を著しており、名月を見る場所として注目されてきました。

だいぶ苦し紛れに作っている感じになっていますが、仲秋の名月に特化した月関連はだいたい網羅したと思います。

2022年9月15日木曜日

俳句の勉強 36 月百句 #11~#20


月に関連する季語を使って百句作る・・・夏井いつき氏から出された「入門試験」だと、勝手に思い込んで挑むことにしました。とりあえずは、仲秋の期間の月齢、つまり月の満ち欠けを追っかける形でスタートして、10句で満月、十五夜まできました

今回はその続き。満月になったら、翌日は月は左から少しずつ欠け、月の出も毎日50分ほど遅れ始めます。それが「十六夜」で、そのまま「じゅうろくや」と読んでもいいのですが、ここは「いざよい」と読む。


#11 十六夜に今年はこれで良しとする

いきなりつまらん句ですけど、「昨日、中秋の名月を見忘れた~」っていう時ありますよね。翌日、あらためて空を見上げて、これを自分にとって今年の名月としようということ。さらに、翌日になると「十七夜」、「立待月(たちまちづき)」です。満月のときから1時間半くらい月の出が遅れているので、出てくるのを立って待っていることらしい。

#12 立待に言い訳無しの遅刻かな

立って待っていられるくらい遅れただけじゃん。いちいち言い訳なんかせんよ、と月が言ったとか言わないとか・・・それでも、ぱっと見にはまだまだ満月に近いかもしれません。陰暦8月18日になると「十八夜」、あるいは座って一服していると出てくるので「居待月(いまちづき)」と言います。

#13 お隣の屋根越しほのか居待月

この一日ずつの違いを詠むと言うのはかにり難しく、少しずつ月の出が遅れ、欠けてくるので明るさが減るということ。となりの家の屋根がほんのりと白々となってきたので、月が出たんだなぁと思いましたよという感じです。次は「十九夜」、「臥待月(ふしまちづき)」です。月の出はそろそろ夜9時を過ぎてきますので、もうゴロっと横になって待つ感じなので「寝待月」とも言います。

#14 臥待や捻れば水が出る如し

#15 晩酌の〆の肴は寝待月

もう開き直りです。どうせ待ってりゃ出てくるんだろ、蛇口を捻れば水が出るのと一緒だよ。もっとも、最近は蛇口はほとんどレバーですけどね。もう一つは、夕食もほぼ終わりに近づいたので、出てくる月を〆にして今夜は寝ようということ。次は「二十日月」、「更待月(ふけまちづき)」です。月の出は午後10時過ぎで夜も更けた頃ということ。

#16 更待や薄影ひそむ子の寝息

仕事を終えて遅くに家に帰ったら、こどもはもう寝ていて、薄い月明かりがさしていましたという感じ。ここまで来ると、もう月もだいぶ欠けた部分が多くなって8月22~23日に再び半月になります。満月に向かう時は「上り月」でしたが、ここでは右側だけが明るく見える「下り月」、「下弦の月」、あるいは「(下の)弓張月」」です。

#17 左手は上りで右は下り月

#18 弓張の月に合わせる楊枝かな

これもしょーもない句。普通に左手の親指の爪を見ると爪半月が上りで、右手の親指だと下り月に見えました、チャンチャン。楊枝を矢に見立てて、下の弓張月にあわせるようにかかげてみましたよ、ということです。「二十三夜」の月は、12時を過ぎて出てくるので特に「真夜中の月」という季語もあります。

#19 真夜中の月鏡に浮かぶ心

真夜中に合わせ鏡をしてのぞき込むと未来の自分が見えるなんて話があったりするので、月も鏡に見立て、月が映った部屋の鏡の間をのぞき込む・・・怖いことになるかもしれません。満月を過ぎると夜が明けても月が見えていたりしますが、特に左側だけの三日月の頃を「有明月」、あるいは「朝月」と呼びます。

#20 明星と有明月にうつうつし

眠れずに徹夜してしまったのか、やたらと早くに目が覚めてしまったのか、明け方頃に月と共に明けの明星(金星)が見えましたという句です。月齢は29.5日で一周しますので、30日は再び元に戻って「朔日ごろの月」になります。8月1日に使った「初月」は、仲秋の名月に向かっていくときにしか使いません。

仲秋の月齢編は何とか1周して、やっと20句。月百句はまだまだ続きます。

2022年9月14日水曜日

俳句の鑑賞 20 飯田蛇笏

高浜虚子と共に、大正期の「ホトトギス」を牽引した最大の俳人が飯田蛇笏です。その業績は、現在も毎年選出される蛇笏賞として称えられ続けています。

飯田蛇笏、本名飯田武治は明治18年(1885)、山梨県境川村の大地主の旧家の長男として生まれました。当時この地域は、江戸時代からの俳諧がまだまだ盛んだったため、小児期より蛇笏は俳諧に親しんだようです。

中学に進学した頃から、子規らの「ホトトギス」を読むようになり、明治33年に上京。明治38年には早稲田大学に入学し、しだいに大学の俳句会の中心人物になり、「ホトトギス」へも投句するようになります。

しかし、明治41年に高濱虚子が小説に専念するため俳壇を引退すると宣言したため、蛇笏は投句を中止してしまい、明治42年には大学を中退し山梨に帰郷するのでした。戻ってからは、「国民俳壇」などに細々と俳句を発表します。

山梨にも河東碧梧桐の新傾向俳句の波が押し寄せてきますが、蛇笏は保守的な俳句を堅持し、大正2年に虚子の俳壇復活と共に「ホトトギス」へ投句を再開し注目されるようになります。大大正5年には「ホトトギス」と並行して「雲母」の主宰となり、山梨の地で着々と名声を積み上げていきました。

戦時下に「雲母」は活動を停止しますが、戦後、四男の龍太の助けもあり再開。昭和37年、脳卒中により77歳で死去、戒名は真観院俳道椿花蛇笏居士。「雲母」は龍太に引き継がれました。

山梨に戻ってからは、自らの住まいを山廬と称し、雄大な自然に囲まれた中で、有季定型の力強い格調高い作風の俳句を作り続けました。


たましひのしづかにうつる菊見かな
 飯田蛇笏

「ホトトギス」に投句を再開した頃の句。菊は秋の季語。菊を見るということは、秋に開催される展示会に足を運んだ時のこと。じっと見つめると、自分の心の奥底までが映っているように感じたということでしょうか。もしかしたら、彼岸の時期で祖先に思いをはせていたのかもしれません。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏

代表作とされている句の一つ。風鈴は夏の季語ですが、あえて「秋の」を付けたことで、仕舞い忘れて軒下にぶら下がったままの風鈴の景色が詠まれています。くろがね・・・南部鉄の風鈴はわざわざ「鳴る」としなくても鳴るものですが、夏に涼しさを感じさせる音とは違う、秋の風情を強調するためにわざわざ鳴らしているということ。

しめかざりして谷とほき瀑の神 飯田蛇笏

「注連飾(しめかざり)」は当然新年の季語で、和歌山県那智勝浦の那智の滝を詠んだもの。落差133mの那智の滝は飛瀧神社の御神体とされ、滝に向かう入口の新しい注連飾と、近づきがたい神聖な滝までの距離を詠んでいます。

凪ぎわたる地はうす眼して冬に入る 飯田蛇笏

「冬に入る(いる)」で「立冬」の傍題。現代で11月初めで、徐々に秋の気配が弱まり、冬が近づいてくる頃です。動きがとまった大地が、冬眠に入るかのように、まだ薄目を開けているくらいという情景。

みだるるや箙のそらの雪の雁 飯田蛇笏

雁は秋の季語ですが、ここでもあえて冬の季語「雪」を付けています。箙(えびら)は猟をする時の矢を入れて腰などにぶら下げておく容器のこと。雁の視点で、たくさんの矢を箙に入れた地上の猟師が自分を狙っているため、怖くて飛び方も乱れてしまうという内容。

誰彼もあらず一天自尊の秋 飯田蛇笏

最晩年、自らを総括するような句なので、辞世の句として扱われています。誰も彼もいない、自分だけしかいない。そんな中を俳句に邁進してきて、今は秋だということでしょぅか。

2022年9月13日火曜日

俳句の鑑賞 19 種田山頭火


有季定型で花鳥諷詠を「ホトトギス」という土俵で生涯続けた高濱虚子に対して、無季非定型の自由律によって放浪の旅の中で心情を詠み続けた種田山頭火は、大正から昭和戦前の俳壇で対極にある存在と言えます。

種田山頭火、本名種田正一は、現在の山口県防府(ほうふ)市において、明治15年(1882年)に資産家の家の嫡男として生を受けました。しかし、正一が十歳のときに、母親が自宅敷地内の井戸に投身自殺してしまいます。このことは、正一が生涯の精神的な苦痛として背負っていたことは、容易に想像されます。

中学を卒業すると、上京し現早稲田大学に第一回生として入学しますが、精神的な問題のため中途退学し実家に戻り、父親と酒造りの仕事をするようになりました。明治44年、地元の文芸誌に山頭火の名前で投句を開始します。

釣瓶漏りの音断続す夜ぞ長き 種田山頭火

明治44年、山頭火ごく初期の句。上句が6音で字余りですが、おそらく「夜ぞ長き」は秋になると夜が長くなるという「夜長」の季語として使われ、ほぼ有季定型句と言えそうです。夜遅くまで井戸の水をくみ上げる音が重くのしかかって来るということだと思いますが、当然そこには自殺した母親のことが想像されます。

時代は大正となり、河東碧梧桐を師と仰ぎ、理解者であった荻原井泉水が主宰する「層雲」への投句が始まり、次第に頭角を現します。しかし、大正5年、酒造り事業は失敗し家屋敷をすべて失い、父親は出奔して行方不明。山頭火も、妻子をつれ熊本に移住し、古書店などを始めますが、なかなか軌道に乗りません。

闇の奥には火が燃えて凸凹の道 種田山頭火

大正6年、熊本に移り住んだ頃の句。写生の要素は無く、自分の心の奥底を文字にしたような句です。心の奥は闇で、様々な業火が立ち上がり、何をやってもうまくいかないという自身の境遇が盛り込まれました。

酒に溺れるようになった山頭火は、弟の自殺、自身の離婚などもあり、酒に溺れかなり自暴自棄的な行動に走るようになりますが、大正12年、熊本市内の報恩禅寺の住職、望月義庵のもとで寺男として修業します。しかし、大正15年、43歳となった山頭火は放浪の旅に出立したのです。

分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火

旅立ちの初期に詠まれた、山頭火の代表句の一つ。「分け入っても」を繰り返すことで、黙々と歩き続ける山頭火の姿が浮かび上がってきます。「青い山」は若々しさを表し、自分と比べて自然の生命力の素晴らしさを実感したのかもしれません。

網代傘をかぶり、瓢箪を腰に振ら下げ、日々の托鉢によって旅を続け、10月に生まれ故郷の山口、翌昭和2年1月に広島、山陰、そして四国に渡ります。昭和3年7月、小豆島から岡山、再び山陽・山陰を行脚。昭和4年は広島から北九州、熊本、大分。昭和5年は九州中を歩き回り、昭和6年はほぼ熊本に落ち着きますが、長くは続かず年末に再び出立。

まっすぐな道でさみしい 種田山頭火

どうしようもないわたしが歩いてゐる 種田山頭火

昭和4年、ここには季語も定型もありません。ただのつぶやきと言ってしまうこともできますが、起伏の無い平坦な田舎の道がどこまでも続いている様子が見えてきます。そんなさびしさを感じる道を、歩くことしかできない自分だと否定しているようですが、その自然の中に自分の存在があることも確信しているかのようです。

昭和7年、福岡、長崎、山口、そして郷里に其中庵(ごちゅうあん)を結庵し定住を目指しました。しかし、昭和9年春、知人墓参のため東上します。広島、神戸、京都、名古屋、木曽路、信州などを巡りました。昭和10年8月、服毒自殺未遂。12月、其中庵を出て再び東上。

昭和11年、岡山、広島、門司から船にて伊勢。名古屋、浜松、鎌倉、そして4月に東京につくと荻原井泉水を訪ね「層雲」の会合に出席。さらに伊豆、甲州、信濃、新潟、山形、仙台を経て6月には山頭火の旅の北限である平泉に到達。日本海側から7月に船で其中庵に戻ります。

ここまでを來し水を飲んで去る 種田山頭火

平泉で詠んだもの。山頭火の旅は、死に場所を求めてのものと言われています。平泉まで来たものの、まだ生きている自分。ただただ水を飲んで引き返すしかなかったことで、どこかでいまだ生に執着していることへの懺悔をにじませているのかもしれません。

その後も度々九州各地を行乞。昭和14年10月、戦時色が強まる中、四国松山に渡り、香川、徳島、高知の霊場を遍路した後、松山に戻り一草庵を結庵。「柿の会」と呼ぶ句会を度々開催し、比較的平穏な日々を送るのでした。昭和15年10月10日、句会が行われる中、山頭火は泥酔して寝込んでしまい、自身が望んでいた「コロリ往生」に相応しく翌朝亡くなっているのを発見されます。享年58歳、戒名は解脱院山頭火耕畝居士です。公表された最後の句が、「辞世の句」として、松山市内の句碑に刻まれています。

もりもりもりあがる雲へ歩む 種田山頭火



2022年9月12日月曜日

俳句の勉強 35 月百句 #1~#10


月は自転せずに地球を周囲を約29.5日周期で公転し、太陽光の当たり具合によって地上から見える部分が変化するため、これを「満ち欠け」と呼び歴史的には太陰暦に利用されています。日本では、明治5年に太陽の動きを基にした太陽暦に変更されましたので、太陰暦を旧暦(あるいは陰暦)と呼ぶようになりました。

月の満ち欠けのカウントは、月が真っ黒で見えない状態からスタートします。天文学的には新月と呼ばれ、細く見える三日月、半分見える半月、そして地球側全部が見える満月などの呼び名が一般的に使われています。

俳句の世界では単に「月」と言うと秋全体にかかる季語になります。旧暦では7月から9月が季節としては秋で、特に旧暦8月(仲秋)の月が最も美しく見えると考えられて重視されてきました。これは新暦では9月上旬から10月上旬にあたります。

旧暦8月初め、仲秋の名月に向かって真っ黒な状態の新月を「初月」あるいは「朔日(ついたち)ごろの月」と呼びます。

#1 街灯に目を細める初月夜

月明かりがまったく無いので、街灯が妙に眩しいという感じを詠みました。翌日になると、右半分にほんの少し輪郭が見えてきて、「二日月」あるいは「繊月(せんげつ)」と呼ばれます。

#2 二日月一本釣りの糸垂れる

細く見える円弧を釣り針に例えてみました。3日目になると、やっと視認できるようになり「三日月」となります。ここで、混乱するのは、季語ではこの月を「新月」と呼ぶところ。「眉書月」、「若月」、「月の剣」などの表現もあります。

#3 三日月や叶う願いは二三寸

月に向かって願い事をするというのはよくある話ですが、まだまだ見えている部分がわずかなので、小さなことしか叶わないという内容。続いて「四日月」、「五日月」というのもありますが、違いが出しにくい。7~8日になると、右半分が見える「半月」となり、見えるところが増えて来たので「上り月」、「上弦の月」、あるいは「(上の)弓張月」とも言います。

#4 体重計無慈悲な数字上り月

#5 半月よりこぼれ落ちし星雫

もう違いを表現するのが辛くなってきました。どんどん体重が増えて、これ以上にはなりたくないという数字の半分くらいになってきた。気を取り直して、月のお椀を半分傾けたので、中の星の雫が零れ落ちてしまったという感じ。十日になると、半月からさらに左側に膨らんできて「十日月」になります。

#6 アンパンや焼いて膨らむ十日月

タコ焼きでもよかったんですが、アンパンの方が少しはましかなくらいのものです。そして14日になると、かなり満月に近づいてきますが、いよいよ明日を楽しみにしているという意味で「待宵」です。「十四夜月」、「小望月」ともいいます。

#7 待宵の並べた団子一つ減り

前の晩から月見のために用意していた団子が、気が付いたら一個減っている。誰かが味見で食べたな、というだけ。そして、いよいよ満月になるわけで、単に「名月」と言えばこの日に特化した表現。「十五夜」、「中秋節」、「望月」、「芋名月」、「今宵の月」、「三五夜」、「端正の月」、「良夜」などいろいろ。

#8 名月や偉大な一歩静かなり

せっかくの名月なのにたいしたことを思いつかなかったんですが、一番たくさん月の表面が見えているにもかかわらず、初めて月面着陸を成功させたアポロ11号の着陸地点は裏側の静かの海と呼ばれる場所で見えないんですよね。人類にとって偉大な一歩は、音のしない静かなものでした。

旧暦8月15日が、必ずしも天気が良いとは限らない。残念ながら、雲に覆わてしまい見えないという場合は「無月」、「月の雲」と呼び、さらに雨まで降っていると「雨月」、「月の雨」になります。

#9 幻に振り回されし雨月かな

#10 風神も雷神に下りし無月かな

上田秋成が著したとされる江戸時代の読本「雨月物語」は、1953年に映画化され溝口健二監督の代表作であり、世界からもトップ10にはいる名作映画と評価されています。幻に翻弄される主人公のことを詠みました。もう一つは、風神と雷神はお互いを補完する対等の立場だと思いますが、風神の力が弱くて雲を吹き飛ばせなかったので、月が隠れてしまいましたという感じ。

2022年9月11日日曜日

俳句の勉強 34 月百句に挑戦


2022年は9月10日が仲秋の名月でした。天候が心配されましたが、午後8時頃には近くの住宅の上にくっきりと見えてきて、綺麗な満月を鑑賞できました。

古今、月はいろいろな芸術のテーマとして格好の題材であり、俳句も例外ではありません。

名月や池をめぐりて夜もすがら 松尾芭蕉

夏井いつき氏は、以前「月の歳時記」という本を出していますが、この中で月に関連した季語を整理しています。また、これを基にして自身のYouTubeチャンネルで、最近あらためて解説をしています。

とにかく月と言っても、あまりにたくさんの月が出てきて、驚き混乱します。何となく思っていた言葉が違う意味だったりします。夏井氏は、これらの月の季語を使って、俳句を100句作ることを推奨しています。

たった一句を作るのでさえ、生みの苦しみで、やっとできても「何だかなぁ」続きの身としては、百という数字に慄いてしまいます。しかも、全部に月の季語を入れるとは、あまりにもハードルが高層ビル状態。

夏井氏のよく使う表現に「俳句は筋トレ」というのがあって、とにかく作れば作るほど、鑑賞すればするほどにうまくなるということらしい。勝手に夏井氏に弟子入りしたからには、何とかこのハードルをまず超えて見せるというのは、夏井氏の「いつき組」に正式に入ったと公言できるようになるためのテストのようなもの・・・かもしれません。

というわけで、月百句、挑戦します!!

で、取り掛かることを決意しましたが、とりあえずルールとしては、期限は暦で秋の間とします。11月7日が立冬ですから、11月6日まで。長すぎ? まぁ、勘弁してください。

次に基本の約束として、月という漢字が含まれるか月に関係した季語が必ず含まれること。形式はこだわらない。字余り字足らず、句またがりもOKとします。内容は、詩的でなくても・・・少なくとも季語の微妙なニュアンスの違いは含まれることとします。

それじゃあ、いってみよう!!

2022年9月10日土曜日

女王エリザベスⅡ世


9月8日、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)の女王、エリザベスⅡ世が逝去されました。

現在のイギリス王室、ウィンザー朝にて1952年に女王に即位して以来、70年7か月の長きにわたり、まさにイギリスの顔として大きな存在感を保持してきました。

亡くなる二日前には、新しい首相を任命したとのニュースが流れたばかりでしたので、急な話に驚かされました。

自分が物心ついた時から、ずっと女王の地位にあった方。外国の事でもあり、いつまでも続くような普遍的な空気のようなものに感じていました。

しかし、96歳という高齢であることからすれば、この日がいつ来ても不思議はなかったのかもしれません。

中世からの王国のイメージを持った最後の女王であり、現代の様々な変化の中で多くの苦悩も垣間見えた人生であったのかもしれません。

ただただご冥福をお祈り申し上げます。合掌

2022年9月9日金曜日

俳句の鑑賞 18 昭和の虚子


ビジネスマンとしての高濱虚子は、ホトトギスを一大俳句企業に押し上げるため、大正12年に鎌倉から都心の丸の内に事務所を移転します。その成果は、多くの大学出身の都市型インテリや財界人が集まることになり、ホトトギスは隆盛を極めるのでした。

しかし、「花鳥諷詠」に固執する虚子に対して、ホトトギス内部から写生よりも文芸としての叙情的なリアリティが重視する「新興俳句」が生まれてきます。その先頭を走ったのが、都会型ホトトギスで育った水原秋櫻子や山口誓子でした。彼らはホトトギスと並行して「馬酔木(あしび)」句会を創設していましたが、昭和6年秋櫻子はついに虚子の元を独立し、強力な対抗勢力になっていきます。

それでも、巨大な力を持ったホトトギスはびくともせず、日本はしだいに軍国化していく時代に入っていきました。新興俳句を実践する俳人の中で、特に京大関係者は反戦的な俳句を多く発表していたため当局の弾圧を受け、事実上、戦時下に新興俳句運動は消滅していきました。

戦後、実質的なホトトギスの運営を長男の年尾に任せ、虚子は悠々自適ともいえる生活を送ります。昭和34年4月1日に脳幹部出血を発症し、4月8日に85歳で死去。墓所は鎌倉の寿福院、戒名は虚子庵高吟椿寿居士です。

われの星燃えてをるなり星月夜 高濱虚子

昭和6年。ホトトギスの主力達が離反していった時代ですが、空を見上げて、自分の星はしっかり燃えていて、新月の夜でも地上を照らしているという、ものすごい自信が現れた力強い句になっています。必ずしも客観写生とは言い難いようですが、この時期の虚子のみなぎる力を象徴しているということ。

川を見るバナナの皮は手より落ち 高濱虚子

昭和9年。一読すると客観写生句であり、しかも人事の内容。食べ終わったバナナの皮を投げ捨てるではなく、滑り落ちてしまうところに、世相に対する不安が含有していそうというところが、陰に隠れた主観の妙味で、川と皮の対比も技巧的です。

雪山に虹立ちたらば渡り来よ 高濱虚子

昭和16年に23歳で虚子門下に加わった女流、森田愛子は、20歳で結核を発症し、鎌倉で療養生活をしていました。昭和17年に実家のある福井県に疎開した愛子に贈られた句。昭和18年、愛子を見舞った際、汽車の窓から虹が見えたことから始まった二人の最初の相聞句。昭和22年3月28日、死を目前にした愛子は、虚子に俳句を電報を打ちます。

虹消えてすでに無けれどある如し 森田愛子

4月1日、森田愛子死去。4月2日、虚子の弔電は次のような物でした。

虹の橋渡り遊ぶも意のままに 高濱虚子

すでに老境にあった虚子でしたが、愛子に対する艶のようなものを感じる話です。虚子は「虹」と題し小説として愛子との交流を書き上げていますが、これについては川端康成が絶賛していました。

去年今年貫く棒の如きもの 高濱虚子

昭和25年、新年を迎えるにあたって詠まれた、虚子の代表句の一つ。「去年今年」は「こぞことし」と読む新年の季語。句の中には直接目で見える物は一つもない、大変抽象的な内容で、虚子の達観した宇宙・自然・人間・時間などが凝縮していかのようです。

その日まで普通に過ごし急死した虚子には、辞世の句は無いようです。脳出血を発症する2日前、河東碧梧桐の理解者だった大谷句佛の17回忌にて詠まれたものが虚子最後の句とされています。

獨り句を推敲をして遅き日を 高濱虚子


2022年9月8日木曜日

俳句の鑑賞 17 明治・大正の虚子


間違いなく正岡子規以後の俳壇で、最も強力に権威を持ち、ほぼすべての俳人に大きな影響を与えたのは高濱虚子です。すでに何度となく登場していますが、もう少し詳しく人物を深堀してみたいと思います。

子規生前には、後継を任すと言われたもののそれを断ったことがある虚子でしたが、子規が亡くなると、「ホトトギス」を引き継ぎ、自らの創作活動は俳句よりも小説に重きを置き、編集者として成功を収めます。虚子の功績の一つは、それまで一定の職業俳人の句を載せるだけだった俳句誌に雑詠欄を設けたことです。

一般読者が投句できることにしたことで、さらに読者が雑誌を購入することにつながり、販売数を大幅に引き上げたのです。これは間口が拡大して俳句人口を増やすことにつながりました。

明治43年(1910年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。ライバル河東碧梧桐らの新傾向俳句が、人々の注目を集めるようになったきたことにいら立ちを隠せない虚子は、大正2年、再び俳句を中心に活動する宣言をします。

春風や闘志いだきて丘に立つ 高濱虚子

大正2年、虚子の俳句復活宣言の決意表明の句です。客観写生、花鳥諷詠を表に押し出した虚子にしては、自分の心情がダイレクトに表出しました。

虚子の次なる功績は、女流俳句に注目したことです。明治まで俳句はどちらかというと男性が詠むものという意識があり、女流は肩身の狭い思いをしていました。虚子は女流専用の句会を開催し、彼女たちが疎まれないように家の中のことでも俳句は読めるように「台所俳句」という言葉を使って教育したのです。

提灯に落花の風の見ゆるかな 高濱虚子

「春風や・・・」と同じ頃の句ですが、こちらは落ち着いた雰囲気。提灯に透けて見える落ちていく花によって、見えないはずの風の流れが視覚として表現された句です。

大空に又わき出でし小鳥かな 高濱虚子

大正5年、小鳥狩りを見物に行ったときの句。追われてたくさんの小鳥が一斉に森から飛び出し、また戻りを繰り返すさまを「又わき出でし」と表現したところが面白いと思います。

白牡丹といふといへども紅ほのか 高濱虚子

大正14年。白牡丹とは言っても、よく見るとわずかながら紅が入っている。確かにそうなのかもしれないと納得してしまいます。有季定型を重視する虚子としては、中句の字余りというのも珍しい。

正岡子規は、俳諧から文学としての俳句へブラシュアップしたわけですが、必ずしも世間に広く認知される行動は十分とは言えませんでした(実際、動けなかったわけですから当然ですが)。それに対して、虚子は俳句の裾野をいっきに拡大したということ。「客観写生」や「花鳥諷詠」というのも、ある意味一般の人にわかりやすいようにするためのキャッチコピーとして機能させたのかもしれません。

2022年9月7日水曜日

俳句の勉強 33 花鳥諷詠


「花鳥風月」という言葉がありますが、英語でいうと「 beauties of nature」ということになって、直接的でだいぶ味気ない感じになってしまう。一般には、美しい自然の風景や、それを重んじる風流を意味します。

古くからある言葉ですが、現代でもなおスピッツやレミオロメンなどが歌のタイトルに使ったりする、強いロマンチシズムを内包した魅力的な言葉です。

「花鳥諷詠」は、高濱虚子による造語で、俳句に対する根本理念として使われる言葉。「花鳥」は花鳥風月を省略したもので、「諷詠」は歌句を作ったり、吟じることの意味。

虚子自身の説明によると、「花鳥風月を諷詠すること。四季の移り変わりによる自然界の現象、およびそれに伴う人事の動きを俳句にする」ということになります。そして、特に新しい概念ではなく、これまでに作られた俳句が行ってきたことを、あらためて言葉にしただけと説明しています。

しかし、客観写生が広く受け入れられたのと違い、花鳥諷詠は「花鳥風月」を土台にした言葉であったため、人間の営みが含まれないとの誤解を招きやすく、批判的な意見も散見され、特にもともと虚子を師としていた水原秋櫻子は「人も含めるのであれば万象諷詠」とすべきと述べています。

確かに花鳥は花鳥風月の省略とした時点で、自然の美に特化する言葉であり、自然界と人事は切り離されていると考えるのが普通だと思いますので、適切な表現とは言い難い(怒られると思いますけど)。極論が許されるならば、虚子の主張は「花鳥風月を表す季語が最も大事で、それさえあればあとは自然でも人事でもかまわない」ということなんでしょうか。

80歳になった虚子自身が花鳥諷詠を読み込んだ句を紹介します。

明易や花鳥諷詠南無阿弥陀 高濱虚子

「明易い」は夏の夜が短く夜が早くに明けるという意味の季語で、ここでは「あけやすや」と読みます。虚子は、ここでは人生が短いという意味を込めているようです。花鳥諷詠、つまり俳句を詠むことは念仏を唱えるみたいな信仰みたいなものだということ。

虚子は亡くなるまで「花鳥諷詠」を使い続け、「ホトトギス」およびその系列の俳句結社では、客観写生と共に最重要理念とされています。もっとも、ホトトギスと直接関係が無くても、特に意識せずに「俳句とはそういうもんだ」と認めているんだと思います。

2022年9月6日火曜日

俳句の勉強 32 客観写生

客観写生とは、高濱虚子が俳句を作る時の基本として提唱したことばです。

もともとは、画家の中村不折と交流した正岡子規が、見たままを精密に描く絵画の「写生」技法を俳句に取り入れたことから始まります。子規は、「理想を詠みあげると誰でも考えつくところだいたい同じで類想になるが、写生なら自然界の様々な変化をとらえることでき深みが増す(病床六尺)」と述べています。

子規の薫陶を受けた虚子は、俳句における写生を守り、「客観写生」という考え方に昇華し生涯説き続けました。

主観を直接述べては押し付けられる感じがし味わいと余韻が無い。その感情を客観的に述べて、その後ろに主観をにじませることが句の深みを増すことにつながる、ということ。客観の中に新しい物を発見することが写生であり、新しい発見の感動そのものを文字にするのではなく、感動を起こしたものを具象化・単純化することが大事と説明しています。

従って、初心者は、できるだけ見たままを詠むことが大事で、慣れてくると客観の中に主観がしっかりと溶け込んでくることになり、実際に多くの俳人が育ったことは紛れもない事実です。その一方で、客観視することばかりに力が注がれ、平板な句から抜け出せないということもあるので注意が必要です。

現代においても、ホトトギス系(虚子系列)の俳人でなくても、客観写生は広く受け入れられており、有季定型の作句をする時の基本として守るべきルールとなっています。つまり、主として主観的な感情表現は17文字の中に含めないということ。


例えば、目の前のチューリップを観察しているとします。

眼前のチューリップ美しき

まさに写生ですが、チューリップを見ての句ならば、眼前にあることも当然なので無駄な文字ですし、美しいという主観表現はチューリップがあれば誰でも思うことなので必要がありません。

このチューリップが咲いたばかりなのであれば、「固き花びら」のような表現を入れたいし、その場合は「一直線に突き進む若さ」のような感情も呼び起こします。散りかけならば「花びら落ちる」という言い方もあり、年を重ねた悲哀がにじむかもしれません。

「美しき」と自分の感情をそのまま文字にするのではなく、何が美しく感じたのかを詠むことが重要。真っ赤な色かもしれませんし、青空との対比でかんじたことかもしれません。またミツバチが寄ってきたことが注意を引いたことだってあるかもしれない。


チューリップ固き花びら蜂が舞い

「固き」にまだまだ主観がまざっていますので、さらに推敲します。固いと思うのは、花びらが立っていて艶があるということ。また、蜂が実際に踊るわけではなく、擬人化で舞っているように見えたということ。

チューリップ蜂が寄りたる艶花唇

「花びら」の類語には「花弁」や「花唇」があります。ここまで来ると、だいぶ俳句らしくなったように思います。ただし、「チューリップ」と「蜂」がどちらも春の季語なので、季重なりの問題が残っている。

チューリップ蜜で誘いし艶花唇

蜜で誘うと言えば、蜂のことだとわかりそうです。もしかしたら自分もどこかで誘われているかもしれません。これがどれほどのものかはわかりませんが、少なくとも客観写生を実践する例題としてはまぁまぁかなと思います。

2022年9月5日月曜日

俳句の勉強 31 芸術で苦心

俳句が上手になるためには、やはり他人からの評価というものが必要。自分だけで満足してもいいんですけど、それじゃあできた俳句が良い物なのか悪い物なのか、いつまでもわからない。

そこで、夏井いつき氏を頼りにしているわけで、夏井氏は結社に入らず、持たず、独自の「俳句集団」と呼ぶ垣根の低いグループを作って活動しています。インターネットを活用した、自由な投句できる環境は大変ありがたい。

他にはテレビ番組として「NHK俳句」があります。よく名前を聞く俳人の先生方が登場して、いろいろな解説をしてくれるので楽しめます。投句は無料、インターネットが使えますが、取り上げてもらえる確率はかなり低そうです。

でも、これにも挑戦してみる価値があります。そこで、比較的若手の堀本裕樹さんの兼題に挑戦します。兼題というとたいてい季語なので、そのまま使うのが基本。堀本さんの兼題はちょっと変わっていて、テーマが出されます。今回、出されたのは「芸術」です。

芸術というと、絵画、音楽、文学、芝居、映画、舞踏・・・いゃあ、いろいろありますよね。こういう場合が、けっこう大変。何をメインにするかで、出来やすさ、その内容はいろいろです。

さてさて、芸術の中で自分の得意分野と言うと、音楽か映画かなぁ。でも、映画はおウチでビデオ派なので、あまりネタになりそうもない。音楽も同じで、自分で演奏するわけじゃありません。もっとも、それを言い出したらどれでも一緒。

そこで、一番俳句になりそうなのは・・・絵画。誰でも知っていそうなのは、いわゆる印象派、代表的な画家は日本でも人気のあるルノアールでしょうか。ルノアールは、秋の代表的な花である菊を何点か描いています。

File:Pierre-Auguste Renoir - Bouquet de Chrysanthèmes.jpg

花瓶あふれるルノアルや秋の色

花瓶からあふれんばかりの菊が見事で、まさに季語である「秋の色」を象徴する空気感を醸し出しています。「秋の色」を上句に用いると、いきなり抽象的で映像が浮かんでこないため、季語としての力が弱まってしまうと思い、下句に使いました。

ルノアールは、「ルノアル」と使う例があり、文字数を節約できます。問題は、7-5-5という非定型、上中が句またがりになってしまっているところ。

ルノアルや花瓶あふれる秋の色

順番を入れ替えると定型に収まりますが、ルノアルから始めて「や」で切ると、すぐに想像するのは、どちらかというと人物画ではないかと思います。そして季語の「秋の色」も弱くなりそうなので、どうもピンとこない。

ルノアルの花瓶あふれる秋の色

「や」を「の」に代えただけですが、これだと「ルノアールの何だろう?」と中句に期待をつなぐ感じで、切れは弱くなりますが一物仕立てとしての連続性が強くなるように思います。

最初のは、思った通りの言葉を順番に並べたわけですが、花瓶からあふれているのがルノアールになっている感じ。推敲後は秋の色があふれているので、まさに「絵を見て一句」になっている感じです。やはり句またがりは、どうしても必然性があると確信できる場合以外では避けた方が良いということになりそうです。

2022年9月4日日曜日

俳句の鑑賞 16 河東碧梧桐


明治6年(1873年)2月26日、愛媛県松山市に生まれた河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は、中学の同級だった高浜虚子と共に、正岡子規に弟子入りし、子規の絶筆三句を書き留める時も枕元で補助をしました。

おしろいの首筋寒し梅二月 河東碧梧桐

明治32年の句。芸子か花街の女性か、首筋のおしろいの白さが際立ち、梅との取り合わせが気品を漂わせるところが良さそうです。この頃は、字余りなども果敢に取り入れていましたが、このような有季定型でも句作りの才能を発揮しています。

しかし、生前子規が危惧していた通り、子規が亡くなった翌年には虚子との関係が決裂する決定的な出来事が起こります。

碧梧桐の句「温泉の宿に馬の子飼えり蝉の声」に対して、虚子が「馬の子」と「蝉の声」が不調和だと公に批判しました。しかも、自分ならこうするという添削句まで出してきたため、碧梧桐は「調和とかよりも、実景を飾ることなく詠んだもの」と反論します。以後、両者の反目は明らかなものになってしまいました。

楠の芽に日のさし風光るかな 河東碧梧桐

明治37年の句。碧梧桐の句は、しだいに定型に縛られず、また感じたことを素直に盛り込む傾向が強くなりました。それらを、自身では「新傾向俳句」と呼び仲間を増やすため、明治39年から明治44年にかけて、二度の全国行脚の旅を行います。その行程は随筆として「三千里」、「続・三千里」としてまとめられました。

相撲乗せし便船のなど時化となり 河東碧梧桐

明治43年の句。何で(など)こんな時化(しけ)の時に、重たい相撲取りたちが乗った船に乗り合わせてしまったのであろうか、という内容で、もはや五七五も季語(相撲が季語ではありますがかなり弱い)も関係ない、まさに自由律俳句になっています。碧梧桐は、「無中心論」による俳句と位置づけています。

今までの俳句は「花」とくれば「綺麗」、「秋」とくれば「寂しい」のような一定の心情に集まっていく(中心がある)ものだったが、それが類想・類句につながり平凡にものとなる。それらの制約から解放され、自然本来の姿を忠実に見つめ直すというのが、碧梧桐の無中心論です。

松葉牡丹のむき出しな茎がよれて倒れて 河東碧梧桐

大正12年9月1日、関東大震災の直後に詠まれた句。大正に入って、自由律が続き口語調になったため、音数が長いものが増えています。それでも、震災直後、いかにも俳人らしく松葉牡丹に注目しています。

昭和になると、漢字で表す言葉に当て字的なフリガナをあてる「ルビ俳句」が登場しました。碧梧桐は、この流れに乗って作句を続けます。

金襴帯かゝやくをあやに解きつ巻き巻き解きつ 河東碧梧桐

金襴は金糸を織り交ぜた豪華な布ですが、ここでは普通は「きんらんおび」と読む「金襴帯」にわざわざ「テリ」と読むようにルビが降られていて、このような方法は強い批判にさらされることになりました。

昭和8年、還暦を迎えた碧梧桐は俳壇からの引退を表明し、昭和12年、腸チフスにより2月1日に永眠しました。書家としても名を成した碧梧桐でしたが、俳人としては革新性は認められても、残念ながら必ずしも正当な評価は得られなかったようです。

虚子から手向けられた追悼句

たとふれば独楽のはぢける如くなり 高浜虚子

2022年9月3日土曜日

俳句の鑑賞 15 虚子と碧梧桐

明治の俳句が子規一人で成立していたわけではなく、江戸時代から続く宗匠を師と仰ぐ俳諧系列の俳人も存在しました。しかし、子規には特定の師は存在せず、主として新聞と自らが関与する「ホトトギス」に俳句や評論を発表することで、江戸からのシステムに挑んだと言えそうです。それは、維新後の新しい日本の形にもマッチして歓迎されたということ。

子規と同時代の新しい俳人として、最も重要な人物は「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉です。子規よりやや年長ですが、同じように早世しました。

春の日の巡礼蝶に似たるかな 尾崎紅葉

春の暖かな日差しの中、巡礼者が蝶のようにゆらりと歩いている。さすがに小説家ですから、ロマンティストな一面が俳句に顕著に出ているように思います。それに比べ、子規の俳句は泥臭く感じますが、より庶民的に受け入れやすいのかもしれません。

明治35年9月19日、正岡子規没。では、その後の俳句界はどうなったのか。もちろん、俄かに俳句史を語るほどの力量は有りませんので、ざっと知ることができた大まかな流れに沿って、名句鑑賞を続けていきたいと思います。

子規の門下生と呼べる人たちは大勢いましたが、子規の遺産はほぼ高濱虚子と河東碧梧桐の二人によって継承されたと言えます。

明治6年、河東秉五郎(かわひがしへいごろう)は、子規と同じく愛媛県松山市に生まれました。そして翌明治7年に、同じく松山で高濱清が生まれます。二人は明治21年、中学校で同級となり知り合います。明治22年、野球を通じて帰省していた子規と二人は初めて出会いました。明治24年、子規の門下に入り、二人は付かず離れずで研鑽を積み上げていきます。高濱は本名をもじった「虚子」という俳号を子規よりもらいます。

子規の紹介する目的で友人の柳原極堂が明治30年に創刊した「ほとゝぎす」は、1年で経営が行き詰まっていました。子規に頼まれた虚子は、明治31年に「ホトトギス」として再建して成功します。一方の碧梧桐は、子規と強い関係がある新聞「日本」の俳句選者を引き受けます。

子規は生前、「碧梧桐は冷やかなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐の人間を見るは猶無心の草木を見るが如く、虚子の草木を見るは猶有上の人間を見るが如し」と評し、二人の異なる趣が対立することを危惧していました。

実際、子規亡き後、親友であったはずの二人は決裂します。「ホトトギス」を継承した虚子は、子規の保守的な部分をより強調していくことになり、碧梧桐は子規の革新部分を受け継いだ形で、しだいに新傾向俳句に走り俳句革新運動の中心人物となっていくのです。


俳句を始めたばかりの明治24年春の二人の句を鑑賞してみます。

朧夜や我も驚く案山子かな 高濱虚子

続々と梅に後継ぐ桃杏 河東碧梧桐

虚子の句では、「朧夜」は春の季語、「案山子」は秋の季語です。案山子は年中あるので、季重なりはしょうがないのですが、この時はそこまで技巧的なことは考えていないのかなと思います。また「我も驚く」と直接心情を書くのはもったいない。一方の碧梧桐は、確信犯的に季語である春の「梅」と「桃」、夏の「杏」をたたみかけてきます。ただし、子規によって「梅散りても桃と杏の後備へ」と添削されています。

すでにこのごく初期の句作りで、二人の嗜好の違いが見え隠れしているのが興味深い。続いて明治29年春、だいぶ経験を積んだ二人の句です。

朧夜や空に消行く鞭の音 高濱虚子

赤い椿白い椿とおちにけり 河東碧梧桐

虚子は同じ「朧夜」から始まる句を選んでみました。さすがに、句に深みが増しています。碧梧桐の句は、初期の傑作とされているもので、子規が「印象明瞭。まるで絵画をみているよう」と大絶賛したもの。意欲的な字余りに挑んでいます。次は明治33年冬の句です。

遠山に月の当りたる枯野かな 高濱虚子

木枯や谷中の道を塔の下 河東碧梧桐

「遠山・・・」は初期の虚子の代表作とされています。ダイナミックな視点移動によって、情景が浮かび上がってきます。一方の碧梧桐は、このタイミングとしてはあまりパッとしない。当時谷中には五重塔があったそうですが、冬の寒さは伝わってきますが、あまり面白みは感じません。

子規のもとにいる間は基本的に成長過程であり、二人とも切磋琢磨して、抜きつ抜かれつの技量なのかなと思いました。もちろん、素人からすればはるかに優れた着眼点と構成力が見て取れます。後年の円熟の作品より、このような初期の作品の方が勉強になるのかもしれませんね。

2022年9月2日金曜日

俳句の鑑賞 14 子規絶筆三句

「病牀六尺」、死の間際まで書き続けられた子規の代表的な随筆。牀は床の本字で、「病牀」とは「病床」、つまり畳一枚分の世界が寝たきりの子規のすべてということ。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」と書き出します。

悲壮な現実と楽しみを夢想する内容は、死を目前としつつもなお子規の生来の陽気な面が顔をだしています。その一方で、「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」と記しています。


子規には、絶筆三句と呼ばれるものがあります。明治35年、ほとんどまともに起き上がることさえままならない状態の子規は、9月18日午前11時頃、妹の律と河東碧梧桐に手伝ってもらいながら、「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」と書き記し、その左に「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」、右に「をととひのへちまの水も取らざりき」と加えます。


書き終えると目を閉じた子規は、そのまま翌日、19日の午前1時頃に息を引き取りました。まさに辞世の句であり、絶筆となったこの三句は9月21日の新聞「日本」の一面に掲載されたのでした。


当時は、糸瓜(へちま)の絞り汁は咳止め・痰切りの薬として利用されていました。特に仲秋の名月の晩に採取したものは、ことのほか薬効があると言われていたようです。

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規

季語は「糸瓜」ならば初秋・植物となりますが、しばしば議論されるのは「糸瓜咲て(へちまさいて)」となると「糸瓜の花」のことになり季語としては晩夏・植物ではないかということ。しかし、書かれた状況を考えれば、この句の切羽詰まった状況を伝えることにはどうでもよいように思えます。

上句は6文字の字余りの取り合わせで、上句に季語を含んでいるにもかかわらず、下句の「佛(仏)かな」の強烈なメッセージが印象的。糸瓜は花を咲かせて元気であるのに、その糸瓜水の効果も無く、痰が絡んでしょうがない自分は、すでに仏・・・つまり死人も同然であるということ。

痰一斗糸瓜の水も間にあはず 正岡子規

季語は「糸瓜」で、有季定型で上句で名詞体言止めで切れがありますが、上中下にかけて内容は一貫しているので一物仕立てと考えてよいのではないでしょうか。

一斗は18リットルですから、実際にそんなには出ませんが、ものすごく大量の痰を出るということ。痰の量があまりに多いため、糸瓜水がいくらあっても足りることが無いという内容です。

をととひのへちまの水も取らざりき 正岡子規

季語は「糸瓜の水取る」で仲秋・人事です。ただし、季語の「取る」を否定して「取らざりき」として用いています。有季定型・一物仕立てで、仮名が多くなったのは、筆を持つ手に力が無くなってきたからでしょうか。

これらの句を詠んだ9月18日の二日前は、まさに仲秋の名月でした。一番効くはずの一昨日の糸瓜水を取り忘れたことを後悔しているのか、すでにそれも無駄な物だと達観しているのか。

いずれも、自分を冷静に見つめる子規の姿が浮かび上がってきます。しかし、三句とも糸瓜にからむところは、糸瓜水を命の拠り所としていたのかと思います。悲壮感は少なく、自分の命が尽きることを悟りきっているものの、どこかに無念さがにじみ出ているようです。

子規の俳句は、心情とした「写生」が反映され、比較的わかりやすい。また、推敲の過程をたくさん公開していることもあり、俳句の改革者としての功績は認められても、作品そのものは駄句が多いとしばしば評されるようです。しかし、少なくとも子規に限っては、彼の人生そのものを知った上で鑑賞すべきものであり、作句するときに示唆に富んだものだと感じました。

全部は無理でも、できるだけ機会があるたびに子規の俳句を拾い上げていくことは忘れないようにしたいと思います。


2022年9月1日木曜日

俳句の鑑賞 13 病牀の子規

正岡子規の三大随筆と呼ばれている著作があります。

墨汁一滴 明治34年1月16日~7月2日 新聞「日本」連載
仰臥漫録 明治34年9月2日~明治35年7月29日
病牀六尺 明治35年5月5日~9月17日 新聞「日本」連載

これらはほとんど寝たきり状態になった子規が、ほぼ毎日、少しずつ書き留めたエッセイのようなもの。ただし、「墨汁一滴」と「病牀六尺」が、新聞の読者に読まれることを前提にしているのに対して、「仰臥漫録」は私的に描き続けていた日記であり、日々の「病人」の記録で公開は考えていなかったもの。

新聞連載は自分の病気の状態についての文章だけでなく、俳句の論評、新聞や友人などから見聞きした世間の話についての感想なども含まれ、自分を主観的に、ある時は客観的に見つめています。そして、当然、死期が近づくにつれ、重苦しさはどんどん増していくようです。

仰臥漫録は、その日に食べたもの(それにしても旺盛な食欲にはあきれますが)、飲んだ薬、来客、率直な気持ちとかの記録で、文章というより項目の羅列が多い。しかし、その分病人のリアルな心情があふれています。

特に注目されるのが10月13日の記述。妹は風呂に行き、母を電報を打たせるために出かけさせ、庵に一人きりになった子規は、硯箱の横にあった小刀と千枚通しを見入ります。隣の間には剃刀があるのは知っているが取りに行くことはできず、小刀と錐では死ねなくはないが、「病苦でさえ堪えきれぬに、この上死にそこのうてはと思うのが恐ろしい・・・(中略)・・・考えて居る内にしゃくりあげて泣き出した。その内母は帰って来られた」と書き、小刀と錐の絵を添えているのです。


これらの著書のところどころに、思いついた俳句がたくさん書きとめられています。当然、吟行にでかけるどころか、ほぼ畳一枚分の病床から動けない子規は、作句の材料にしたのは庵の庭や、室内の置物、そして自らの病苦や想像力などしかありません。

「仰臥漫録」開始早々の明治34年9月、子規の興味は糸瓜に注がれます。子規庵の庭には、棚が作られ去痰剤、あるいは食用として利用するために糸瓜などの瓜科がたくさん栽培されていました。「庭前の景は棚に取付いてぶら下りたるもの 夕顔二、三本 瓢二、三本 糸瓜四、五本 夕顔とも瓢ともつかぬ巾着形のもの四つ五つ」と記し、まつわる句をたくさん詠んでいます。

夕顔の棚に糸瓜も下がりけり 正岡子規

夕顔と糸瓜残暑と新涼と 正岡子規

そして、もう一つ、庭に植えてある鶏頭も子規お気に入りの句材です。

鶏頭のまだいとけなき野分かな 正岡子規

鶏頭や今年の秋もたのもしき 正岡子規

明治35年になると、月日の記載が飛び飛びになり、俳句も減ってきますが、題材も直接見るものではなく、いろいろと想像を巡らせたものが多くなりました。

蒲公英やボールころげて通りけり 正岡子規

「ボールがタンポポを避けて転がっていくようだ」ということですが、実は正岡子規の幼少時の名前、升(のぼる)です。ベースボールが好きだった子規は、「の・ぼーる」から「野球」という翻訳を思いついたそうです。ボールに自分を重ねているのかもしれません。

9月17日、「病牀六尺」の最後の記事に書かれていたのは短歌でした。子規は、俳句だけでなく短歌の改革者としても認められています。

俳病の 夢みるならん ほととぎす
                拷問などに 誰がかけたか 正岡子規