口語というのは、いわゆる話し言葉。口語を制定するにあたって、細かい違いを全部同じ言い表し方に統一してしまったため、微妙なニュアンスがわかりにくくなりました。
俳句の場合は、文語を使った方が格調高くなりますが、やや古臭さもあって馴染みにくい人もいるかもしれません。現代に生きている我々としては、普段使わない文語体の言葉は敷居が高いのも事実です。
話し言葉を積極的に俳句の中に取り入れるというのは、やはりホトトギス系から分離独立した新傾向俳句の顕著にみられるようになり、使い方さえうまければ独特の妙味を生み出すものと認知されるようになりました。ただし、口語と文語の混在は、原則としてやってはいけないとされています。
どうしやうもないわたしが歩いてゐる 種田山頭火
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
例えば、これらの以前にも紹介した句は、まさに口語俳句の名句とされています。もっとも時代が戦前ですから、旧仮名使いにはなっています。
今の感覚として違和感が全く無いもので、口語俳句の定番の名句としてしばしば出てくるのが、池田澄子の作品。
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
1980年代、作者50歳頃のもの。季語は夏で「蛍」。蛍の短い一生を、蛍の気持ちになって詠んだ句です。何に生まれるかじゃんけんで決めることになって、私は負けちゃったので蛍になったのよ、という何とも切ない心情が込められています。「~たの」という女性言葉の柔らかな着地によって、印象的な余韻を残すことに成功しています。
ピーマンを切って中を明るくしてあげた 池田澄子
蓋をして浅蜊をあやめているところ 池田澄子
池田澄子は、もちろん文語調の俳句も作りますが、やはり口語の絶妙な使い方にはほれぼれします。ピーマンを切るというだけの行為なのに、「明るくする」という発想は秀逸。アサリを蒸すも、生きたまま殺していると感じるのも作者のオリジナリティ。文語で作ったら、殺伐としてしまったと思いますが、口語で表現が重くなり過ぎない効果が出ています。
一般に、口語は女流俳人の方が、無理なく雰囲気を出して使えるケースが多そうです。勝手に師と仰がせていただいている夏井いつき氏にも、口語調の良いなと感じさせる句があります。
ここでもないわここでもないわとつぶやく蝶 夏井いつき
居留守して風鈴鳴らしたりもして 夏井いつき
口語調の俳句は、短くするのが難しい。どうしても、五七五に収めるのは無理がありそうで、ある程度は柔軟に考えないとダメそうです。ただし、「今」にしっかりと寄り添える内容でないと浮き上がってしまうので、そこらのセンスを磨かないとダメ句にしかなりません。
カンバスの余白八月十五日 神野紗希
若手の女流の注目株筆頭が神野紗希。高校生が出場する俳句甲子園で2001年に優勝し、その時最優秀句に選出された句で、審査員全員を唸らせたという伝説を残したもの。
さて、本来、意識して作るものじゃないんですけど、口語俳句に挑戦してみました。
新小豆さやからポンっと飛び出した
季語は「小豆」で晩秋です。秋に実を付けた小豆(あずき)は、採れたてを新小豆(しょうず)と呼び、乾かすとさやから実が飛び出てくるそうです。口語では、漢字は少な目にして、カタカナも積極的に使うと雰囲気が出るように思います。
新小豆さやよりはじけ飛び出でし
これを文語調にするとこんな感じでしょうか。まぁ、堅苦しいことこの上ない。たぶん口語の方が、雰囲気が楽しい感じで良さそうに思います。
都会ではオリオン座しかわからない
都会に住んでいると冬になって、空を見上げて星座として確認できるのはオリオン座くらいのもの。小学生の時は、確か北斗七星、カシオペアとかの観察日記を作った覚えがあるんですけどね。句としてはまったく面白くありませんね。
まぁ、作ろうと思って作る口語俳句は、やはり難しい。言いたいことの半分も込められないという感想です。自然にできたらいいんですけど、相当に修業が必要そうです。