2022年9月8日木曜日

俳句の鑑賞 17 明治・大正の虚子


間違いなく正岡子規以後の俳壇で、最も強力に権威を持ち、ほぼすべての俳人に大きな影響を与えたのは高濱虚子です。すでに何度となく登場していますが、もう少し詳しく人物を深堀してみたいと思います。

子規生前には、後継を任すと言われたもののそれを断ったことがある虚子でしたが、子規が亡くなると、「ホトトギス」を引き継ぎ、自らの創作活動は俳句よりも小説に重きを置き、編集者として成功を収めます。虚子の功績の一つは、それまで一定の職業俳人の句を載せるだけだった俳句誌に雑詠欄を設けたことです。

一般読者が投句できることにしたことで、さらに読者が雑誌を購入することにつながり、販売数を大幅に引き上げたのです。これは間口が拡大して俳句人口を増やすことにつながりました。

明治43年(1910年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。ライバル河東碧梧桐らの新傾向俳句が、人々の注目を集めるようになったきたことにいら立ちを隠せない虚子は、大正2年、再び俳句を中心に活動する宣言をします。

春風や闘志いだきて丘に立つ 高濱虚子

大正2年、虚子の俳句復活宣言の決意表明の句です。客観写生、花鳥諷詠を表に押し出した虚子にしては、自分の心情がダイレクトに表出しました。

虚子の次なる功績は、女流俳句に注目したことです。明治まで俳句はどちらかというと男性が詠むものという意識があり、女流は肩身の狭い思いをしていました。虚子は女流専用の句会を開催し、彼女たちが疎まれないように家の中のことでも俳句は読めるように「台所俳句」という言葉を使って教育したのです。

提灯に落花の風の見ゆるかな 高濱虚子

「春風や・・・」と同じ頃の句ですが、こちらは落ち着いた雰囲気。提灯に透けて見える落ちていく花によって、見えないはずの風の流れが視覚として表現された句です。

大空に又わき出でし小鳥かな 高濱虚子

大正5年、小鳥狩りを見物に行ったときの句。追われてたくさんの小鳥が一斉に森から飛び出し、また戻りを繰り返すさまを「又わき出でし」と表現したところが面白いと思います。

白牡丹といふといへども紅ほのか 高濱虚子

大正14年。白牡丹とは言っても、よく見るとわずかながら紅が入っている。確かにそうなのかもしれないと納得してしまいます。有季定型を重視する虚子としては、中句の字余りというのも珍しい。

正岡子規は、俳諧から文学としての俳句へブラシュアップしたわけですが、必ずしも世間に広く認知される行動は十分とは言えませんでした(実際、動けなかったわけですから当然ですが)。それに対して、虚子は俳句の裾野をいっきに拡大したということ。「客観写生」や「花鳥諷詠」というのも、ある意味一般の人にわかりやすいようにするためのキャッチコピーとして機能させたのかもしれません。