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2022年9月29日木曜日

俳句の鑑賞24 大正女流黎明期

 今でこそ、男性より女性の俳人の方が多いんじゃないかと思うくらいに、俳句の世界では女性が活躍していますが、俳句の原型である俳諧が男性の遊びとして広まった影響で、やっと女性俳人が活躍できる場が登場したのは大正時代になってからのことです。

正岡子規から俳句誌「ホトトギス」を継承した高濱虚子は、大正2年6月号に「自分の家族を中心に女性に俳句をつくらせたところ、なかなかのものだった」という内容の記事とともに「つつじ十句集」という記事を掲載します。

これは、俳人としての虚子の正直な気持ちというより、雑誌編集者として購読者を増やすための今後を見据えた作戦という一面は否定できないと思いますが、それまで俳句を作るというと肩身の狭い思いをさせられていた女性に大きく門を開いたという業績は賞賛されるべきものでした。この女性俳句は好評を持って迎えられ、以後婦人欄はレギュラーの企画になっていきます。


婦人欄の最初の幹事に選任され、最初の女性俳人として活躍したのが長谷川かな女(1887-1969)です。

杓子動かぬ七種粥を恐れけり 長谷川かな女

俎板の染むまで薺打ちはやす 長谷川かな女

虚子は女性が俳句を作りやすいように、台所などの身近な場所を題材に選ぶことを推奨して、「台所俳句」と呼んでいました。この二句はまさに、台所俳句です。最初は、粥が煮詰まって来て、杓子でかき混ぜられなくなったとはすごいもんだということ。次は、薺(なずな)を調理してまな板に色が染み込んだというわけで、当時として男には思いつけないような内容です。

蝶のやうに畳に居れば夕顔咲く 長谷川かな女

西鶴の女みな死ぬ夜の秋 長谷川かな女

かな女の句は全体的に素直で、「ホトトギス」系らしい客観写生句だと思いますが、「西鶴の・・・」は、ほとんど唯一の攻め込んだ句と言えそうです。

秋の蝶死はこはくなしと居士は言ふ 長谷川かな女

死を急がず曼殊沙華見れども見れども 長谷川かな女

老境に入ってからの二句。いろいろと病や不幸も経験してきたのに、静かに達観したかのような静寂の句が印象的です。

阿部みどり女(1886-1980)も「ホトトギス」の黎明期の婦人欄を支えた一人。

小波の如くに雁の遠くなる 阿部みどり女

秋の蝶山に私を置き去りぬ 阿部みどり女

曼殊沙華暗き太陽あるごとし 阿部みどり女

生くことも死もままならず卯月空 阿部みどり女

比較的心情を込めた作風が特徴です。かな女と比べて、暗い雰囲気の句が多く、同じ言葉を用いてもずいぶんと印象が変わってくるものだと思います。

そして、「ホトトギス」婦人欄黎明期を支えたもう一人が、竹下しづの女(1887-1951)です。

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉呼 竹下しづの女

しずの女の最も有名な句。「須可捨焉呼」は「すてっちまおか」と読むとしてあり、真夏の夜に乳を欲しがり泣く赤子は捨ててしまおうか、という強烈な内容ですが、でもそんなことはできるわけがないという愛情の裏返しの表現でしょう。漢文の須可捨焉呼は、正確には「すべからくすつるべきか」と読むところですが、かなりの教養が無いと使いこなせるものではありません。

処女二十歳に夏痩がなにピアノ弾け 竹下しづの女

曼殊沙華ほろびるものの美を美とし 竹下しづの女

黒き瞳と深き眼窩に銀狐 竹下しづの女

同じ時代人とは思えないほど、作風の違いが際立ちます。「台所俳句」とは対極にあるような女性としての自立が目立ち、力強い句調に息を飲むような感じがします。

彼女たちのような先達に導かれて、女流俳句はしだいに時代と共に活況を呈していくことになります。