昨日でした、秋分の日。
暦の主な事柄は、ほぼ季語になっていますから、俳句の題材として忘れてはならない・・・なんですが、実は「秋分の日」については困った。
何がって、歳時記を見ていても、「秋分の日」あるいは「秋分」を季語として使った例句がすごく少ないんです。講談社の新日本大歳時記では、「二十四節気の一つ。昼夜の長さが同じ」という型通りの説明のあと収載された例句は一つだけ。
嶺聳ちて秋分の闇に入る 飯田龍太
飯田龍太は飯田蛇笏の息子で後を継いだ俳人ですが、「嶺」は山の頂上付近の事で、「聳つ(そばだつ)」は山のへりが角張ってそそり立っている様子のこと。秋分の日に歩いていると、山影に隠れる日の当たらないところに来た、という意味でしょうか。夏と違い、太陽が真上にこないということ。それとも、今日から夜が長くなっていくということかもしれません。父親譲りの格調高い俳句です。
角川俳句大歳時記(第4版)でも、次の二つだけ。
秋分の灯すと暗くなっていし 池田澄子
秋分やもみづりはやき岩蓮華 那須弥生
池田澄子の句は、灯りをつけると、外は思いのほか暗くなっているなぁという感じ。那須弥生という俳人については情報が見つかりません。「もみづり」は脱穀のこと。「岩蓮華」も初秋の季語で、藁などに生えてきやすい植物。脱穀したあとの藁にもう岩蓮華が出てきたということのようです。
講談社の旧版である日本大歳時記には、傍題で七十二候にある「雷声を収む」というのが出ています。秋分の頃になると雷が鳴らなくなるということでしょう。これは春分の頃の「雷声を発す」と対になっている。ただし、これの例句は見つけられませんでした。長いし、秋分と言えばその中に含まれるということでしょうか。
春分の俳句も少ないのですが、この少なさは、季語にまつわる、特に暦がらみの言葉は農耕と密接に関係したものが多く、秋分だからといって特にやらないといけないという作業があまり無いということかもしれません。
ネットでは、もう少し見つけられますが、ここはもう自分でつくるしかない。というわけで・・・
秋分におきていようかねてようか
あー、しょうもな。あえて披露するもんじゃありませんな。