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2022年9月4日日曜日

俳句の鑑賞 16 河東碧梧桐


明治6年(1873年)2月26日、愛媛県松山市に生まれた河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は、中学の同級だった高浜虚子と共に、正岡子規に弟子入りし、子規の絶筆三句を書き留める時も枕元で補助をしました。

おしろいの首筋寒し梅二月 河東碧梧桐

明治32年の句。芸子か花街の女性か、首筋のおしろいの白さが際立ち、梅との取り合わせが気品を漂わせるところが良さそうです。この頃は、字余りなども果敢に取り入れていましたが、このような有季定型でも句作りの才能を発揮しています。

しかし、生前子規が危惧していた通り、子規が亡くなった翌年には虚子との関係が決裂する決定的な出来事が起こります。

碧梧桐の句「温泉の宿に馬の子飼えり蝉の声」に対して、虚子が「馬の子」と「蝉の声」が不調和だと公に批判しました。しかも、自分ならこうするという添削句まで出してきたため、碧梧桐は「調和とかよりも、実景を飾ることなく詠んだもの」と反論します。以後、両者の反目は明らかなものになってしまいました。

楠の芽に日のさし風光るかな 河東碧梧桐

明治37年の句。碧梧桐の句は、しだいに定型に縛られず、また感じたことを素直に盛り込む傾向が強くなりました。それらを、自身では「新傾向俳句」と呼び仲間を増やすため、明治39年から明治44年にかけて、二度の全国行脚の旅を行います。その行程は随筆として「三千里」、「続・三千里」としてまとめられました。

相撲乗せし便船のなど時化となり 河東碧梧桐

明治43年の句。何で(など)こんな時化(しけ)の時に、重たい相撲取りたちが乗った船に乗り合わせてしまったのであろうか、という内容で、もはや五七五も季語(相撲が季語ではありますがかなり弱い)も関係ない、まさに自由律俳句になっています。碧梧桐は、「無中心論」による俳句と位置づけています。

今までの俳句は「花」とくれば「綺麗」、「秋」とくれば「寂しい」のような一定の心情に集まっていく(中心がある)ものだったが、それが類想・類句につながり平凡にものとなる。それらの制約から解放され、自然本来の姿を忠実に見つめ直すというのが、碧梧桐の無中心論です。

松葉牡丹のむき出しな茎がよれて倒れて 河東碧梧桐

大正12年9月1日、関東大震災の直後に詠まれた句。大正に入って、自由律が続き口語調になったため、音数が長いものが増えています。それでも、震災直後、いかにも俳人らしく松葉牡丹に注目しています。

昭和になると、漢字で表す言葉に当て字的なフリガナをあてる「ルビ俳句」が登場しました。碧梧桐は、この流れに乗って作句を続けます。

金襴帯かゝやくをあやに解きつ巻き巻き解きつ 河東碧梧桐

金襴は金糸を織り交ぜた豪華な布ですが、ここでは普通は「きんらんおび」と読む「金襴帯」にわざわざ「テリ」と読むようにルビが降られていて、このような方法は強い批判にさらされることになりました。

昭和8年、還暦を迎えた碧梧桐は俳壇からの引退を表明し、昭和12年、腸チフスにより2月1日に永眠しました。書家としても名を成した碧梧桐でしたが、俳人としては革新性は認められても、残念ながら必ずしも正当な評価は得られなかったようです。

虚子から手向けられた追悼句

たとふれば独楽のはぢける如くなり 高浜虚子